88、天秤の傾く朝
自治都市ボーダー南区の中心にそびえ立つ、商業の神を祀るグレースビス教会。
その佇まいは、清貧や祈りといった神聖な言葉からひどく遠かった。外壁は純白の大理石で覆われ、朝日を反射して傲慢なほどの輝きを放っている。巨大な尖塔の先端には黄金の天秤が掲げられ、「信仰の重さは寄付の貨幣で量れ」と無言で説いているようだった。
「神聖な場所でクーデターの密談とは、皮肉が効いていて素晴らしい舞台設定じゃないですか」
わたしは教会正面を囲む高い鉄柵の陰に身を隠しながら、冷ややかに呟いた。
「感心している場合じゃないわ。見ての通り、周囲はもうソウギュの私兵で固められている」
アリアさんが、修復されたばかりの愛剣の柄に手をかけたまま、入口を顎でしゃくる。
視線の先には、神官のローブこそ纏っているものの、その下に分厚い革鎧を着込み、懐に刃物を忍ばせているのが一目でわかる屈強な男たちが、等間隔に配置されていた。表向きは会合衆の緊急警備。けれど実態は、完全にソウギュ・ハーバーダの私兵部隊だ。
「どうします? 監査院の権限で正面突破しますか。それとも、わたしが壁を粉砕して新しい入口を作りましょうか」
「最終手段にして。無関係な神官や一般市民を巻き込むわけにはいかないわ」
アリアさんは一度だけ短く息を吐き、低い声で指示した。
「ベルロウ、ノッピーニオ。門番を静かに落として。騒ぎは起こさないで」
返事はない。けれど二人は、影が形を持ったみたいに鉄柵を越えた。
ベルロウさんが猫科特有のしなやかな跳躍で門番の背後に着地し、そのまま首に腕を絡めて頸動脈を的確に圧迫する。男は悲鳴を上げる暇もなく、糸の切れた人形みたいに崩れ落ちた。
同時にノッピーニオさんも、別の門番の懐に潜り込み、巨大な掌で口元を塞いだまま地面へ押し倒して意識を刈り取る。
打撃音も金属音もない。ただ静寂の中で、二人の男が音もなく沈んでいった。
「道は開いたわ。行くわよ」
重厚な木扉を押し開けて中へ入ると、そこには想像を超える広さの礼拝堂が広がっていた。壁面を埋める極彩色のステンドグラスには、商業の神が人々に富を授ける姿が描かれている。
円形の巨大な空間の中央には、三十六人の商人が座るための豪華な議席がすり鉢状に並び、その中心には証言台が据えられていた。
わたしたちは入口脇の列柱の影に身を寄せた。議場の声ははっきり届くが、こちらの顔までは見えない絶妙な位置だ。
証言台に立たされていたのは、筆頭商人ソーク・イマウェル。病み上がりの老人そのものといった青白い顔で背を丸め、周囲から浴びせられる糾弾に耐える孤独な老人を完璧に演じている。
そして、そのソークを高い議席から見下ろしていたのが、豪華な絹の衣を纏った男――反ソーク派の筆頭、両替商オージ屋の主人、ソウギュ・ハーバーダだった。勝利を確信した顔で、議場全体を煽っている。
「皆様、これこそが歴史の真実です! 我が自治都市ボーダーの誇りを踏みにじり、未来を他都市に売り渡した卑劣なる裏切り。その証拠が、今ここに明らかとなりました!」
ソウギュは、右手の古びた羊皮紙の束を高く掲げた。
それは間違いなく、わたしとアリアさんが古い工房の壁の奥から見つけ出した、三十年前の川の付け替え工事に関する密約書だった。
「この密約書に記された署名こそが、現在なお筆頭商人を名乗るイマウェル一族の罪の証です! 彼は己の利益のために港を潰し、この街の経済を三十年にわたって停滞させた! このような売国奴に、街の命運を預け続けるわけにはいきません!」
声の張り、間の取り方、視線の配り方。見事なものだった。劇場なら喝采が飛んでいる。けれど、裏を知っているわたしの目には、三文芝居の悪役が正義の顔を貼りつけているようにしか見えない。
「ソークの狸親父も大したものですね。完全に追い詰められた哀れな老人を演じ切ってる」
「相手に手札を出し切らせ、退路を断ったところで反撃する。彼の戦術だ」
統はいつも通りの無表情で、議場を見下ろしていた。
「だが、ソウギュの方も弾劾だけで終える気はないらしい」
その言葉を証明するみたいに、ソウギュは懐から真新しい羊皮紙を取り出して見せた。
「この売国奴を追放するだけでは、我らが街の再生は成し得ません! 三十年の遅れを取り戻すには、より強大な後ろ盾が必要なのです!」
議場にざわめきが走る。
「私はすでに、王都の貴族院と極秘裏に交渉を進めてまいりました。この新たな条約に署名すれば、王都の正規軍がボーダーに駐留し、絶対の安全を保障してくれます! さらに中央の莫大な資本が流入し、我が街の技術は王国全土で独占的に運用される! これは千載一遇の飛躍の機会なのです!」
一瞬、議場の空気が凍った。
王都軍を入れる。
つまり、自治都市ボーダーがボーダーでなくなるということだ。
さすがに商人たちの顔色が変わった。金の匂いには敏感な連中でも、街そのものを差し出す話には怯むらしい。
「馬鹿なことを言うな、ソウギュ!」
一人の年配商人が立ち上がる。
「王都の軍隊を入れれば、我々の商売は中央の貴族どもに握られるだけだ! それは街の売却ではないか!」
だが、ソウギュは余裕の笑みを崩さない。
「売却ではありません。賢明なる“合流”です。……それに、すでにこの議場は私の意志に賛同する者たちで固められています。署名を拒むというのであれば、皆様がこの教会を無事に出られる保証はいたしかねますが」
ソウギュが右手を掲げた、その瞬間だった。
二階のバルコニーに、武装した男たちが一斉に姿を現した。弓を引き絞り、眼下の商人たちに狙いを定める。さらに一階の出入口からも、剣を抜いた私兵たちが次々と雪崩れ込んできた。
完全な武力制圧。
逆らう者はここで殺し、条約に署名させる。
ずいぶん品のない最終手段だ。
「出番ね」
アリアさんが、マタに打ち直されたばかりの剣を鞘から引き抜く。
「ボーダーの自治権を巡る内部抗争に監査院は口を出せない。でも、王都の腐敗貴族と結託し、私兵を使って条約を強要するなら話は別よ。これは明確な反逆行為だわ」
そのまま彼女は列柱の影から堂々と歩み出ると、議場全体に向けて高らかに宣言した。
「そこまでよ、ソウギュ・ハーバーダ! 王国監査院の権限において、貴方の不当な武力行使と裏取引を告発する!」
商人たちがどよめく。
けれどソウギュは眉ひとつ動かさず、アリアさんを見下ろして冷笑した。
「監査院だと? 笑わせるな。貴様らはソークの雇った偽物か、不法侵入の暗殺者だろう。構わん、その不審者どもを排除しろ!」
号令と同時に、私兵たちが一斉に襲いかかった。
アリアさん、ベルロウさん、ノッピーニオさんの三人は、息の合った連携で押し寄せる敵を迎え撃つ。マタの打った剣は凄まじい切れ味を発揮し、敵の防具を紙みたいに裂いていった。
朝日を透かす極彩色のステンドグラスの下で、剣戟の音と商人たちの悲鳴が交錯し始める。
「統。アリアさんたちの援護をお願い。絶対に死人は出させないで」
わたしは隣の七千歳児にそう言いながら、サコッシュの中から例のポンコツ魔道具を取り出した。
東区の『青の歯車』で買った、光学迷彩兼・容姿偽装の試作品――『テクマク手鏡』だ。
「お前はどうするつもりだ」
統が、飛来した矢を片手で払いながら問う。
「決まってるでしょ」
わたしは手鏡を握り直し、口元だけで笑った。
「大道具の裏から舞台に上がって、主役の小道具をすり替えるのよ」




