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旅する不死者は昼も歩く ――死ぬのは二回で十分だ。三度目の人生は、七千歳(ショタ姿)の保護者と行く、最強吸血鬼の旅!――  作者: 真野真名
第六章 自治都市ボーダー編

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87、誇り高き偏屈鍛冶




 太陽が昇る前の、空がまだ白みかけてもいない時間帯に叩き起こされるなんて、吸血鬼のポリシーの重大な反逆だと思う。


「……アリアさん。いくらなんでも、早すぎませんか。まだ夜明け前ですよ。健全な市民は深い眠りの底で美しい夢を見ている時間です。わたしの脳細胞も現在、絶賛活動停止中です」


 冷たい夜気が石畳を吹き抜けるボーダーの路地を、わたしは大欠伸を堪えながら歩いていた。


 口を開くたびに白い息が漏れ、それが周囲の暗闇に溶けて消えていく。


「文句を言わないの。昨日の劇場での立ち回りで、私の愛剣は見るも無惨な姿になってしまったのよ。このままでは、今日これから起こるであろう決定的な修羅場に対応できないわ」


 アリアさんは、自身の腰に提げた鞘を軽く叩きながら、疲労と焦燥の入り混じった声で答えた。


 昨日の劇団『青き風車』の初日公演。

 わたしたちの制圧劇によって、事態は収拾された。


 しかし、狂信的な暗殺者の放つ異常な連撃を捌き続けたアリアさんの細身の剣は、限界を超えていたらしい。宿に戻って確認したその刃は、まるで子供が描いた不規則な山脈のように、無数の刃こぼれを起こしていた。


「だからといって、どうしてわたしとすばるまで道連れにするんですか。武器の修理なら、一人で鍛冶屋に行けばいいじゃないですか」


「あの偏屈なドワーフの親父が、素直に私の剣を直してくれると思う? リベットの紹介状を持っていたあなたたちが一緒でなければ、扉すら開けてくれない確率が高いわ。それに、ソウギュの奴がいつ刺客を放ってくるかわからない状況で、戦力を分散させるのは下策よ」


 正論による完全な制圧。

 わたしは抵抗を諦め、大欠伸を噛み殺しながら、北区の職人街へと続く長い坂道を登り続けた。


 隣を歩く統は、睡眠欲という概念すら超越しているのか、深夜だろうが早朝だろうが完全に同じ無表情を維持し、周囲の建物の魔力的な防壁構造を無言で観察し続けている。この七千歳児の精神構造は、常に一定の温度で稼働し続ける冷蔵庫のようだ。


 やがて、目的の場所である『鍛冶工房マタ』の前に辿り着いた。


 周囲の工房がまだ深い静寂に包まれている中、ガラクタの山に埋もれたその建物だけが、不気味なほどの存在感を放っている。


 アリアさんが遠慮なく木製の扉を叩く。激しい打撃音が、早朝の冷たい空気を切り裂いた。


 数分の沈黙の後。


 扉が乱暴な勢いで内側から引き開けられ、濃厚な酒の匂いと鉄の錆の匂いが混ざり合った空気が吹き出してきた。


「……こんな朝っぱらから、何の冗談だ。俺の工房は、夜逃げの手伝いも早朝の人生相談も受け付けていないぞ」


 現れたのは、目を血走らせ、見事な髭に無数の酒の滴をつけたドワーフ族のマタであった。手には飲みかけの巨大な木製ジョッキが握られており、完全に二日酔い、あるいはまだ酔いが回っている状態であることが一目で理解できる。


「マタさん。夜明け前に申し訳ないわ。でも、急を要するの。私の剣を、今すぐ打ち直してちょうだい」


 アリアさんは前置きを一切省き、腰の鞘から無惨に刃こぼれした細身の剣を引き抜き、マタの目の前に差し出した。


 マタは極めて不機嫌な顔で、その剣を一瞥した。


「ふざけるな。俺が以前言った言葉を忘れたのか。俺は選ばれた達人が扱う究極の芸術品しか造らない。お前たちのような冒険者崩れのなまくらを研ぎ直すような、三流の研ぎ師の真似事をする気は毛頭ない。帰って寝ろ」


 マタは木製ジョッキの中身を一息に飲み干し、扉を閉めようとした。

 だが、アリアさんは引き下がらなかった。彼女は扉の隙間に硬いブーツの先をねじ込み、剣の刃先をマタの鼻先まで近づけた。


「いいから、よく見なさい。この刃の傷跡を」


 その低く、凄みのある声に押されたのか、マタは渋々といった様子で剣の刀身に視線を落とした。

 彼の血走った目が、刃こぼれの一つ一つを順番に追っていく。


 その直後。マタの顔から、酔いの名残と不機嫌な表情が、まるで波が引くように完全に消え去った。

 彼は木製ジョッキを地面に放り投げ、太く無骨な指先で、剣の刃こぼれをなぞり始めた。


「……おい、嬢ちゃん。この傷。ただ魔獣の硬い甲殻を叩き切ってできた破損じゃないな」

 マタの声のトーンが、酔っ払いのそれから、極めて専門的な職人のそれへと変貌している。


「ええ。対人戦闘の跡よ」


「それも、ただの斬り合いではない。この刃の中央部分にある深い削れ。これは、相手の重い一撃を、自分の腕の力だけで受け止めた跡だ。普通なら回避するはずの軌道で、あえて刃を盾にして受け止めている。……背後に、絶対に守らなければならない誰かがいたな」


 マタの指摘に、アリアさんは無言で頷いた。


 昨日、客席の最前列でソーク・イマウェルに向けられた凶刃を、彼女が身を挺して弾き落とした瞬間の傷である。


 マタはさらに剣先の方の傷を指差した。


「そしてこの剣先。不自然な角度で細かい欠けが連続している。これは、相手が隠し持っていた投擲武器か何かを、極限の反応速度で連続して叩き落とした跡だ。少しでも躊躇すれば自分が死ぬ状況で、一切の恐怖を捨てて踏み込まなければ、こんな傷はつかない。……嬢ちゃん、お前、本物の戦士だな」


 先日の、自傷兵器の蛇腹剣を自慢していた狂気の発明家とは別人のような、静かで熱い眼光がそこにあった。


「素人のなまくらの面倒を見る気はない。だが」


 マタはアリアさんの手から剣を恭しく受け取った。


「本物の戦士が、命を懸けて誰かを守り抜いた誇り高き刃。それを打ち直すのは、鍛冶師にとって最大の誉れだ。中へ入れ。俺の最高の技術を見せてやる」


 マタは踵を返し、薄暗い工房の奥へと歩き出した。


 わたしたちは顔を見合わせ、その背中について中へと足を踏み入れた。

 工房の最奥部には、巨大な溶鉱炉と金床が鎮座していた。

 マタが炉に魔力を注ぎ込み、特殊な燃料を焚べると、瞬く間に工房の温度が急上昇し始めた。皮膚の表面を直接炙られるような、暴力的とも言える熱気が空間を支配する。


 マタは上半身の衣服を脱ぎ捨て、分厚い革のエプロンだけを身につけた。彼の筋肉の塊のような肉体が、炉の赤い光に照らし出される。


 彼はアリアさんの剣の柄を外し、刀身だけを炉の灼熱の中へと突っ込んだ。金属が熱を吸収し、色を変えていく。


「見事な集中力だ。周囲の雑音を完全に遮断し、金属の原子配列の変化のみに全意識を向けている。彼の作る武器が実用性を無視しているのは、技術が足りないからではない。技術が過剰すぎるゆえの暴走だったというわけか」


 統が、燃え盛る炉の前で静かに分析の言葉を漏らした。


 やがて、マタは真っ赤に染まった刀身を金床の上に取り出し、巨大な鉄の槌を振り上げた。

 重厚な金属の衝突音が、工房内に響き渡る。


 それは無軌道な暴力ではなく、極めて精緻に計算された破壊と創造のリズムであった。打撃のたびに、オレンジ色の火の粉が暗闇を舞い、酸化した鉄の匂いが空気を満たしていく。


 歪んだ刀身が叩き伸ばされ、欠けた部分には新たな鋼が融合されていく。一振りの剣が、マタの手によって新たな生命を吹き込まれていく過程は、神聖な儀式を思わせる凄みがあった。

 熱気と打撃音の中で、マタは槌を振るいながら、ぽつりぽつりと話し始めた。


「ソークの狸親父が、昨日劇場で本物の暗殺者に狙われたという噂は、夜のうちにこの職人街にも回ってきていた。……助けたのは、あんたたちだったんだな」


「ええ。私たちの職務だからね」


 アリアさんが、炉の熱に顔をしかめながら答えた。


「そうか。あの親父は、強引で、底意地が悪くて、自分の目的のためなら平気で他人を出し抜く最低の商人だ」


 マタの言葉は辛辣であったが、槌を振るうリズムに乱れはない。


「だがな。この街の職人たちの中で、あいつを本気で憎んでいる奴は一人もいない。世間がどれだけあいつを悪党だと罵ろうが、俺たちは知っているからだ」


 金属を打つ音が、一度だけ大きく跳ねた。


「あの狸親父が、俺たち職人の研究を誰よりも支援し、誰にも理解されないような馬鹿げた発明に莫大な資金を流し続けてくれた恩人だということをな」


 マタの告白は、昨日リクローズの口から聞いたソークの真意を、別の角度から完全に裏付けるものであった。


「三十年前。ボーダーの港が潰され、大型船が入ってこなくなった時、街の経済は死にかけた。俺たち職人も、作るものを売る相手がいなくなり、多くの工房が廃業へと追い込まれた。だが、ソークの奴は、自腹を切って俺たちの技術を買い支えたのだ」


 マタは、刀身を再び炉の火に翳し、温度を確かめる。


「奴は言った。『今は耐える時だ。だが、技術の火だけは絶やしてはならない。いずれこの街に外部からの脅威が迫った時、お前たちの造り出す常識外れの武器が、ボーダーを守る最強の盾になる』とな」


 蛇腹剣も、自傷兵器に見えたあの数々の発明も、すべてこのための布石だったのだ。

 売国奴の汚名を被りながら、彼は誰よりもこの街の自治と、職人たちの誇りを守ろうとしていた。


「だから、俺はあいつが死ぬのは困る。あんなひねくれた親父でも、この街には絶対に必要な男だ。……あんたが昨日、あいつの命を救ってくれたことに、ボーダーの職人の一人として感謝する」


 マタの言葉には、不器用だが真っ直ぐな誠意が込められていた。


 人間の真価というものは、表向きの肩書きや世間の評価ではなく、こういう裏路地の職人の言葉の中にこそ隠されているのだと、わたしは静かに感動を覚えていた。


「さあ、仕上げだ」


 マタは刀身を特殊な油の中へと滑り込ませた。激しい煙が立ち昇り、急激な温度変化によって金属が極限まで引き締められる。

 煙が晴れた後、マタは布で刀身を丁寧に拭き上げ、柄を装着して、アリアさんへと差し出した。


 アリアさんが受け取ったその剣は、刃こぼれが直っているだけではなかった。

 鏡のように研ぎ澄まされた刃は、工房の薄明かりを吸い込んで鋭く輝き、刀身の中心には以前にはなかった美しい波紋が浮かび上がっている。


 アリアさんが軽く素振りをすると、空気を切り裂く音が、以前よりも遥かに澄んだ高音へと変化していた。


「素晴らしいわ。以前よりも重量バランスが最適化されて、剣先が吸い込まれるように目標へ向かっていく。強度も申し分ない」


 アリアさんの顔に、戦士としての悦びの笑みが浮かんだ。


「俺の技術を甘く見るな。その剣は、生半可な鎧なら紙のように叩き斬る。これでもう、暗殺者の安い刃物に遅れを取ることはないだろう」


 マタは額の汗を拭い、得意絶頂の表情を見せた。


「ありがとう、マタさん。これで、どんな修羅場でも切り抜けられるわ」


 アリアさんが深々と頭を下げる。


 わたしたちが工房を後にする頃には、東の空が白み始め、自治都市ボーダーに新しい朝が訪れようとしていた。



 冷たい朝の空気を深く吸い込んでいると、街の空を切り裂くようにして、一羽の鳥が猛烈な速度でこちらへ向かって飛んでくるのが見えた。冒険者ギルドの伝書鳥だ。


 伝書鳥は、わたしたちの数メートル手前で急激に減速し、そのままアリアさんの足元へ落下するように不時着した。そして、使命を全うしたというように白目を剥いて完全に気絶した。


 過酷な労働環境に胸を痛めつつ、アリアさんは鳥の脚から小さなカプセルを回収し、中の暗号文を取り出した。

 先日、王都のウイロウ侯爵宛てに飛ばした、反ソーク派の筆頭であるソウギュ・ハーバーダの身辺調査の報告書がようやく届いたみたい。


 アリアさんは特殊な解読用の魔道具のレンズを通して、その暗号文を目で追っていく。


 数秒後。彼女の顔から、新しい剣を手に入れた喜びが完全に消え去り、極寒の吹雪のような冷たさが張り付いた。


「……最悪の報告よ」


 アリアさんは、手紙を強く握りしめながら、低く押し殺した声で言った。


「ソウギュの資金の動きと、王都の貴族たちとの間で交わされた極秘の通信記録が判明したわ。奴が単に筆頭商人の座を狙っているだけなら、ただの派閥争いで済んだ。でも、奴の目的はもっと破滅的だった」


「破滅的って、まさか」


 わたしが問いかけると、アリアさんは深刻な顔で頷いた。


「ソウギュは、王都の軍部と通じている。現在の筆頭商人であるソークを『三十年前の売国奴』として糾弾し、失脚させる。そして自分が街のトップに立った直後、街の治安維持と再生を名目に、王都の正規軍をこのボーダーに駐留させるという密約を交わしているのよ」


「それって、つまり」


「街の自治権の完全なる返上よ。王都の貴族たちは、ソウギュに永代の支配者の地位を保証する代わりに、この街の莫大な資産と、マタたちのような職人の魔道具技術をすべて軍事目的で接収するつもりよ。ソウギュは、自分の地位と引き換えに、ボーダーという都市そのものを王都に売り払う気なのよ」


 真の売国奴は、ソークではなくソウギュの方だった。


 自らの権力欲のために、数百年続いた街の誇りと独立を、安値で叩き売る。三十年前にソークの父親たちが血を吐く思いで守り抜いた防壁を、内側から破壊しようとしているのだ。


「奴は今日、動くはずよ。昨日の暗殺に失敗した以上、残された手は政治的な直接対決しかない。そして、奴はその決戦の場を、自分たちの派閥の息がかかった場所に移したわ」


 アリアさんが、報告書の最後の一行を読み上げた。


「今日の午前。南の商業の神、グレースビス教会。そこに、三十六人の会合衆が緊急招集されている。ソウギュはそこで、例の三十年前の密約書を暴露し、一気にクーデターを完遂するつもりよ」


 評定所という公の議場ではなく、宗教的な不可侵の特権を持つ教会での密室裁判。


 完全に逃げ場を塞いだ状態での、一方的な弾劾。


 ソーク・イマウェルは、その場に呼び出され、市民の知らないところで断罪されるのだ。


「随分と手回しがいいことだ。相手のホームグラウンドで、証拠を突きつけられての裁判。正攻法では勝ち目はないな」


 統が、客観的な事実だけを冷淡に述べる。


 しかし、わたしはサコッシュの中にあるポンコツ手鏡の存在を確かめながら、不敵な笑みを浮かべた。


「正攻法で勝てないなら、盤面を丸ごとひっくり返せばいいのよ。昨日わたしが舞台の上でやったみたいにね」


「本気なの。相手は教会という密室に、昨日のような私兵部隊を山ほど隠し持っているはずよ。正面から突入すれば、ただの殺し合いになるわ」


 アリアさんが警告するが、わたしの決意は揺るがない。


「だからこそ、最高の見せ場じゃないですか。真の悪党の仮面を剥ぎ取り、この腐った脚本の結末を、極上の喜劇に書き換えてやるのよ」


 夜が明け、ボーダーの街を朝日が照らし始める。


 しかし、この街が迎える今日という一日は、決して平和なものではない。

 三十年の嘘と泥が交錯する、最後の決戦の幕が、今まさに上がろうとしていた。


 わたしは、腹の底から湧き上がる奇妙な高揚感を感じながら、決戦の舞台である南の教会へと足を踏み出すのだった。




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