86、泥を被った筆頭商人
【ソーク・イマウェルのターン】
北区の職人街の裏手にひっそりと佇む、表向きは廃倉庫として登録されている隠れ家。
その奥深く、外部の喧騒を完全に遮断した一室で、ソークは深い肘掛け椅子に身を沈めていた。
「……まったく。心臓が冷え切るかと思ったぞ、ソーク殿。あの銀髪の密偵が飛び出してくるのがあと一瞬でも遅ければ、今頃貴方の喉笛には風穴が空き、私は貴方の葬儀の手配に奔走していたはずだ」
部屋の対面に置かれた粗末な木椅子に腰を下ろした大男が、深い安堵と苛立ちの混じったため息を吐き出した。
海産物問屋「トト屋」の主人、リクローズ・サウザン。太い指先で白磁のティーカップをつまむその姿は、やはり海賊の親玉にしか見えない。
「そう怒るな、リクローズ。私とて、あの劇団の役者があそこまでの狂気を飼い慣らしているとは予想外だった。まさか、観客の目の前で、隠し持った短剣を真っ向から投擲してくるとはな。ソウギュの奴め、私が思っていた以上に切羽詰まっていたらしい」
ソークは、顔色を悪く見せるために首元に塗っていた特殊な白粉を布で拭き取りながら、低く笑った。
「それにしても、相変わらず君の淹れる茶は絶品だな。死の淵を覗き込んだ直後の強張った神経を、見事に中和してくれる」
ソークの手元にも、リクローズが持ち込んだテンペタ・フロップス産の高級茶葉で淹れられた紅茶が湯気を立てている。
ベルガモットの華やかな香りと、深い琥珀色の液体。それを一口喉の奥へ流し込むと、冷え切っていた胃の腑からじんわりとした熱が広がり、疲労した脳細胞に活力が戻ってくるのを感じた。
「あの冒険者に扮した密偵たちや、得体の知れない子供たちが客席に潜んでいなければ、どうなっていたことか」
リクローズはティーカップを静かにソーサーへと戻し、鋭い視線をソークに向けた。
「すべては、貴方が2週間前に打った大芝居から始まったことだ。……ソウギュを焦らせるためとはいえ、毒殺未遂の被害者を演じ、彼をここまで追い詰める必要があったのかね?」
2週間前。
ソークは評定所の壇上で、自ら用意した違法魔道具「仮死の首輪」を起動させ、致死量の毒を盛られた悲劇の権力者として倒れた。
あれは完璧な出来栄えの自作自演であった。一命を取り留め、生死の境を彷徨った(と偽装した)筆頭商人に対し、市民はこぞって同情を寄せた。結果として、犯人扱いされた反対派の商人たちは街中から非難を浴び、反ソーク派の筆頭であるソウギュ・ハーバーダは、政治的に完全に孤立し、後がなくなった。
「必要だったのだよ。ソウギュは慎重な男だ。私が健康なままでは、決定的な隙を見せようとはしない。だから私は、彼に『今すぐ私を排除しなければ、完全に政治的敗北を喫する』と思わせる必要があった」
ソークはカップを置き、静かに語った。
「毒殺騒動から2週間。『奇跡的な回復を遂げた筆頭商人の、公務復帰を祝う芸術振興の観劇』。ソウギュは、この千載一遇のチャンスに飛びついた。私が無防備に客席に座るこの日を狙い、自分の手駒である劇団の暗殺部隊に、事故を装った確実な排除を命じたのだ。彼をそこまで焦らせ、隠し持っていた牙を公の場に引きずり出すためには、あの毒殺の自作自演という『撒き餌』がどうしても必要だったのだ」
「その結果が、今日のあの凶刃か。綱渡りにも程がある。……だが、貴方の目論見通り、ソウギュの放った暗殺部隊は公の場で捕縛され、テロリストとしての烙印を押された。ソウギュの直接の関与は見出せなかったが、これで奴の手足は完全に捥がれたはずだ」
リクローズの言葉に、ソークは首を横に振った。
「いや、ソウギュはまだ終わっていない。暗殺という物理的な手段を絶たれた奴は、ついに自らの手を汚し、この街の喉元を王都の貴族に差し出す最終手段に出るだろう」
ソークの言葉に、部屋の空気が一段と重くなった。
ソウギュ・ハーバーダの真の目的。それは、単なる筆頭商人の座を奪うことではない。
彼は、この自治都市ボーダーの独立と引き換えに、王都の腐敗貴族たちと裏取引を交わしているのだ。王都からの軍隊の駐留を受け入れ、街の魔道具技術や工業の利権を中央に売り渡す。その見返りとして、彼自身がこの街の永代の支配者としての地位を保証される。
それは、ボーダーという都市が数百年かけて築き上げてきた「自治」という誇りを、二束三文の金貨で売り飛ばす、真の売国行為であった。
「……皮肉なものだな」
リクローズが、空になったティーカップを見つめながら呟いた。
「三十年前。貴方の父親と、先代の会合衆たちが、この街を守るためにどれほどの泥を被ったのか。その真実を知らぬ若造が、今になって本物の売国に手を染めようとしているとは」
三十年前の、川の付け替え工事。
現在、ソークの反対派が「ソークの一族がシンドアから賄賂を受け取って街の貿易機能を破壊した」と糾弾している、あの歴史的な事件。
それこそが、この街が抱える最大の闇であり、そして最大の「防衛策」であった。
あの頃のボーダーは、対外貿易の拠点として、過剰な富と技術を蓄積しすぎていた。
その異常なまでの繁栄は、王都の権力者たちや、軍拡を目論むタイクーン公爵のような外部の脅威にとって、格好の標的でしかなかったのだ。
『このままでは、遠からず王国の正規軍が介入してくる。一度軍を入れられれば、我々の自治は終わりだ』
先代の筆頭商人であったソークの父たちが下した決断は、狂気とも言える「自衛のための自傷行為」であった。
意図的に川の付け替え工事を行い、大型の商船が入港できないように港を潰す。街の経済を意図的に衰退させることで、王都からの過剰な注目を逸らし、軍事介入の口実を奪い去ったのだ。
市民の怒りを一身に受ける覚悟で、ソークの父は自ら「賄賂を受け取り、街を売った裏切り者」という汚名を選んだ。
黄金を隠すためには、川を泥で濁す必要がある。
彼らは街の自治と技術を守るため、自らの名誉を泥沼へと沈めたのだ。
「私は、父の背負った泥をそのまま引き継いだに過ぎない。強欲で冷徹な独裁者。その仮面を被り続けることで、この街は外部からの干渉を受けず、自治を保ってきた」
ソークは己の両手を見つめ、静かに言葉を続けた。
「その間に、私は裏でマタやギヤのような職人たちに資金を流し続けた。彼らが造り出す一見すると無用なガラクタの数々。あれこそが、いざ王都の軍隊が牙を剥いてきた時にこの街を守る、強固な防壁となるのだからな」
「だが、ソウギュはついにその『泥』を掘り返した。貴方がわざと壁の奥に放置しておいた、あの三十年前の密約書をな」
改修工事中の工房の壁から古い文書が発見され、それがソウギュの手に渡ったという情報は、すでにソークの耳にも入っていた。
そして、明日。
「ソウギュは、明日の朝、南の『グレースビス教会』に三十六人の会合衆を緊急招集した。評定所という公の議場ではなく、自分たちの派閥の息がかかった宗教施設を舞台に選んだのは、もはや正規の手続きを無視してでも私を失脚させる腹積もりだからだ」
三十年前の売国行為の証拠を突きつけられれば、ソークは市民の怒りによって権力の座から引きずり下ろされる。空白となった権力の座にソウギュが座り、王都の軍隊を招き入れる。それが奴の描いた最終章のシナリオだ。
「明日の教会での評定は、言葉通りの戦場になるぞ。貴方はどう動くつもりだ。このまま真実を隠し通し、裁きを受けるつもりか」
リクローズの問いかけに対し、ソークは深く椅子に背を預け、天井の木目を見つめた。
「裁きを受けるのは私ではない。ボーダーの未来を、目先の利益と己の保身のために本当に売り渡そうとしている真の裏切り者だ」
ソークの瞳の奥に、商人としての冷徹な計算と、この街の指導者としての揺るぎない覚悟が静かに燃え上がった。
「ソウギュは、自分が盤面を支配していると思い込んでいる。だが、奴は致命的な誤算をしているのだ。王都の密偵たち、そしてあの規格外の姉弟。彼らというイレギュラーな要素を、完全に計算から除外しているということをな」
監査院の猟犬たちは、すでにソウギュと王都の腐敗貴族との裏取引の証拠を掴んでいるはずだ。
彼らが明日の教会の議場に乱入してこないはずがない。
「私はただ、盤面の中央で悪役としての最後の演技を全うするだけだ。役者が揃い、幕が上がり、そして真の悪党が白日の下に晒されるその瞬間までな」
ソークは再びティーカップに手を伸ばし、冷めかけた紅茶を口に含んだ。
いつもより深く感じる苦味が、妙に心地よかった。
自治都市ボーダーの三十年分の嘘と泥が、すべて洗い流される日は近い。
ソークは誇り高き商人として、自らの命をチップとして賭ける、最後の大勝負のテーブルへ向かう準備を整えていたのである。




