85、これが劇場型犯罪?
舞台上の事故。
役者の手が滑り、小道具が客席に飛び込んでしまったという悲劇的なアクシデント。
それが、彼らの描いた暗殺のシナリオだった。
空気を切り裂き、回転しながら飛翔する短剣。
観客が悲鳴を上げる暇すら与えない速度。
ソークの隣に座るソウギュの口元が、勝利を確信してわずかに歪んだ。
だが、その凶刃がソークの喉元に突き刺さる直前。
客席の前方、暗がりとなっていた通路の影から、一条の銀光が跳ね上がった。
金属同士が激突する、鋭く冷たい音。
ソークの眉間から数センチ手前の空間で、飛来した短剣は弾き飛ばされ、無力な鉄の塊となって床に転がった。
「舞台の上から物を投げるのは、マナー違反というものよ」
静まり返った劇場の中に、よく通る凛とした声が響く。
通路に立っていたのは、王国監査院の密偵、アリアさんだった。
彼女の右手には、鞘から抜かれたばかりの細身の剣が握られている。刃こぼれ一つないその剣先が、舞台上の狂気を見据えていた。
客席は一瞬の沈黙の後、爆発的な歓声に包まれた。
「おおっ、見ろ。客席の通路を使った乱入劇だ」
「なんと斬新な演出。観客を巻き込む前衛的な舞台装置か。素晴らしい」
最前列に座る恰幅の良い商人が、身を乗り出して拍手を送っている。
なんと彼らは、目の前で行われた本物の暗殺劇を、劇団が用意した「3D体験型のサプライズ演出」だと完全に勘違いしてしまったのだ。人間の想像力と現実逃避のメカニズムは、時に喜劇を通り越して狂気すら感じさせる。
「な……貴様、何者だ」
暗殺の失敗を悟った親玉の男が、驚愕と憎悪の入り混じった顔でアリアさんを睨みつけた。
「名乗るほどの者じゃないわ。ただの、舞台の清掃係よ」
アリアさんの言葉を合図に、客席の両側から二つの影が猛烈な速度で舞台へと躍り出た。
獣人のベルロウさんは、猫科の獣特有の滞空時間の長い跳躍で舞台の縁を飛び越え、両手に構えた双剣で、周囲を固めていた用心棒役の暗殺者たちを瞬時に牽制した。
同時に、長身のノッピーニオさんが舞台の階段を大股で駆け上がり、背後から短剣を抜こうとした別の暗殺者の腕を無言で掴み上げた。抵抗しようとする暗殺者の腕の関節が、ノッピーニオさんによって容易く外される。
苦悶の叫びが舞台上に響いたが、観客はそれすらも「迫真の演技」として熱烈な拍手を送っている。
「監査院の権限において、貴様らを国家転覆を企てたテロリストとして拘束する」
アリアさんが、冷厳な声で宣告する。
しかし、リーダーらしき男は降伏するどころか、狂気に満ちた笑い声を上げた。
「国家転覆だと。笑わせるな、王都の猟犬どもが。我らが目指すのは、この腐りきったボーダーの浄化だ。過去の過ちを隠蔽し、未来を売り渡す老害を排除することこそが、真の正義なのだ」
男は衣装の裏から曲刀を引き抜いた。
迷いはない。
狂信者の目をむき出しにしてアリアさんへと斬りかかった。
単なる金で雇われた殺し屋ではない。その目には、報酬ではなく信念の狂気があった。自らの命すら羽虫のように使い捨てる覚悟を持った男だ。
二人の剣戟が交差する。
男の動きは常軌を逸していた。防御を完全に捨て、相打ち覚悟でアリアさんの急所のみを狙い続ける。
「邪魔をするなら、貴様らも新時代の礎となれ」
アリアさんは卓越した剣技で攻撃を捌いているが、相手の命知らずの特攻にわずかに足並みを乱された。
男はアリアさんの剣を曲刀で強引に絡め取ると、空いた左手から、さらなる隠し武器である三枚の毒刃をソークに向けて投擲しようと腕を振りかぶった。
アリアさんの体勢は崩れており、間に合わない。
ベルロウさんとノッピーニオさんも、他の暗殺者たちを抑え込んでおり手が離せない。
それなら――
出番を終えた女優が再登壇するのはルール違反かもしれないが、あの痛い狂信者の独壇場をこれ以上許すわけにはいかない。
「統、ちょっとだけ手伝ってくる」
「舞台装置を壊すなよ」
「善処するわ」
統の冷淡な許可を得て、わたしは足元にあった大道具に目をつけた。
それは、食堂のセットの一部として置かれていた、純木製の巨大な丸太の樽であった。中身は空だが、大人が抱えてようやく持ち上がるほどの重量がある。
わたしの強化された身体能力を右足のつま先に集中させ、その重い樽に向かって、サッカーのフリーキックの要領で躊躇なく足を振り抜いた。
空気を圧縮するような重い衝撃。
巨大な樽は、物理法則を完全に無視した速度で舞台の床を滑空し、投擲動作に入っていた親玉の男の真横から、まるで走る馬車のように激突した。
男は毒刃を放つどころか、声を発する暇すらなく真横に吹き飛ばされ、舞台の書き割りを突き破って奥の壁に激突し、そのまま崩れ落ちた。
完全なる沈黙。
観客たちも、あまりの衝撃的な「演出」に言葉を失い、静まり返っている。
「……ちょっとやりすぎたかしら。ごめんなさい、美術スタッフさん」
わたしが舞台袖で小さく手を合わせていると、崩れた書き割りの前で、アリアさんが額の汗を拭いながら深々と息を吐き出した。
「まったく、美味しいところだけ持っていくんだから。でも、助かったわ」
彼女の呟きは、客席には届かない。
ものの数分で、舞台上の脅威は完全に排除された。
狂信的な男も完全に意識を失い、残りの暗殺者たちもノッピーニオさんによって無言のまま手際よく縛り上げられていく。
その光景を見て、ようやく状況が「演出ではない」と気づき始めたのか、客席の一部がざわつき始めた。
その不穏な空気を断ち切ったのは、VIP席に座っていたソウギュ・ハーバーダだった。
「お、おお……なんという恐ろしい。ソーク殿、ご無事で何よりです。まさか、芸術の舞台にこのような過激派の暴徒が紛れ込んでいようとは。この劇団の責任者はどこだ、早急に処罰しなければならん」
ソウギュは、白々しいにも程がある驚きと怒りの表情を顔に貼り付け、隣のソークを気遣う素振りを見せた。
自らの手駒である狂信者が失敗したと悟るや否や、即座に切り捨てて自らの関与を否定する腹積もりだろう。見事なまでのトカゲの尻尾切りである。
ソーク・イマウェルは、ソウギュのその白々しい芝居を、深く暗い目で見つめ返した。
「ええ、ソウギュ殿。本当に恐ろしいことです。私の命を狙い、狂った大義を叫ぶ輩が、これほど身近に潜んでいたとは。……ですが、監査院の優秀な方々のおかげで命拾いをしました。これで、街の膿を出すための調査も、さらに進むことでしょう」
ソークの言葉には、表面上の感謝とは裏腹に、確かな牽制と反撃の意志が込められていた。
毒を盛られたふりをして暗殺者を誘い出し、監査院の介入を計算に入れていたのは、他でもない彼自身なのだから。
狸と狐の化かし合い。
あるいは、泥沼の権力闘争の新たな幕開け。
わたしは舞台袖の暗がりから、二人の権力者が交わす視線の応酬を眺めながら、深い疲労感を覚えた。
「どいつもこいつ、腹の中にどれだけの真っ黒なものを飼っているのかしらね」
わたしが呆れたように呟くと、統は淡々とした声で結論を述べた。
「人間の本質は嘘と隠蔽だ。彼らは自分が生き残るためならば、手駒の狂気すら利用し、どれほど見え透いた芝居であっても演じ切る。お前の無表情な食事の演技よりも、よほどタチが悪い」
「わたしの至高の芸術表現と一緒にしないでよね」
わたしは反論したが、統の言う通り、この街の闇はわたしの想像以上に深く、そして狂気を孕んでいるようだった。
暗殺未遂劇は防がれた。
しかし、三十年前の川の付け替え工事に関する売国の証拠、そしてボーダーという街の未来を巡る商人たちの争いは、まだ終わっていない。
劇場に響く衛兵の足音が近づいてくる。
わたしはサコッシュの中の手鏡の重みを感じながら、次に誰が舞台に立つことになるのかを考えていた。




