84、絶品! 料亭マルマンの味
舞台の袖という空間は、埃と緊張と汗の匂いが層をなして堆積している。
照明の強烈な熱が漏れ伝わり、役者たちの張り詰めた呼吸が交錯する中、わたしは手鏡型の魔道具を握りしめ、出番の瞬間を待っていた。
手鏡から発せられた魔力の光が顔を覆い、わたしの顔面は魚嫌いの女優のそれへと上書きされた。問題はここからである。表情筋を大きく動かせば、顔のパーツが福笑いのようにスライドし、観客席に一生モノのトラウマを植え付けることになる。
わたしは奥歯を軽く噛み合わせ、顔面の筋肉を完全に凍結させた。心は熱く、顔は冷たく。まさに能面の境地である。
舞台上では、故郷に帰還した冒険者一行が、昔馴染みの食堂の扉を開けるシーンが進行していた。大げさな身振り手振りと、よく通る声が劇場内に響き渡る。
『おお、親父さん。久しぶりだな。故郷の味が恋しくて帰ってきたぜ』
『おや、お前さんたち。よく無事で戻った。さあ、今日は特別だ。港で上がった最高の海の幸を振る舞ってやろう』
セリフと共に、上手にいる主役の剣士と、魚嫌いの女優に強い照明が当てられる。
直後、計算された演出による一瞬の暗転。
視界が黒く塗りつぶされたわずかな秒数の間に、わたしは息を止め、女優と立ち位置を交代した。
衣装の裾を翻し、木製の丸椅子に腰を下ろす。姿勢を正し、両手を膝の上に置いたところで、再び照明が舞台中央を照らし出した。
光の海に浮かび上がる舞台。
そして、食堂の店主役が恭しく運んできた巨大な木盆が、わたしの目の前に置かれた。
(来た……!)
わたしの内なる食欲が、歓喜の産声を上げた。
料亭マルマン全面協力による、本物の特上海鮮フルコースである。
分厚く切られた白身魚の刺身は照明を反射して艶やかに輝き、濃厚な琥珀色をした雲丹の小鉢、そして堂々たる存在感を放つ鯛の兜煮が、湯気と共に圧倒的な海の香りを立ち昇らせている。
舞台の小道具という枠を完全に逸脱した、美食の暴力。
わたしは手元に置かれた箸を取り、まずは白身魚の刺身を口に運んだ。
舌の上に触れた瞬間、上質な脂の甘みと、引き締まった身の弾力が脳髄を直撃する。美味い。ダイスロープの市場で食べた海鮮丼も最高だったが、料亭の仕事が施された刺身は、また別次元の完成度を誇っていた。
しかし、わたしは表情を変えることが許されない。
どれほど心が歓喜の舞を踊ろうとも、顔の筋肉を大きく動かしてはならないのだ。
わたしは無表情のまま咀嚼し、嚥下した。
そして、箸を動かす速度をわずかに上げ、次の獲物である雲丹へと向かう。
客席からは、奇妙な静寂が漂い始めていた。
それもそのはずである。故郷の味に感動して涙を流すはずの女性剣士が、完全に感情を失った能面のような顔のまま、凄まじい速度で海鮮料理を胃袋に流し込んでいるのだ。
喜びの表情はない。ただ、首の角度をわずかに前に傾け、瞳の奥に狂気にも似た光を宿し、ひたすらに魚を喰らっている。
(美味しい。最高。でも顔は動かせない。なら、この圧倒的な旨さに対する敬意は、食事のペースと姿勢で表現するしかない)
わたしは背筋を極限まで伸ばし、一口ごとに目をわずかに閉じ、そして再びカッと見開くという動作を繰り返した。
無表情のまま、鯛の兜煮の骨の髄までしゃぶり尽くす。
その異様なまでの執念と、食事に対する求道者のような姿勢は、観客の目にどのように映ったのだろうか。
客席の最前列で、誰かが小さく呟くのが聞こえた。
『見ろ……あの張り詰めた横顔。長きにわたる過酷な旅路で、どれほどの飢えと死の恐怖を味わってきたというのだ。感情を表に出すことすら忘れてしまった彼女が、故郷の味を前にして、己の生存を確認するように命を食らっている。なんと……なんと凄絶な演技だ』
別の客もそれに同調する。
『ああ。安っぽい涙など不要だ。あの微動だにしない顔の奥で、彼女の魂は故郷の海を抱きしめて号泣しているのだ。これぞ真実の芝居……!』
客席から、すすり泣くような気配が広がり始めた。
まさかの好意的な誤解である。
わたしは心中でガッツポーズを決めながら、最後の一口である焼き魚の身を平らげた。
木盆の上は、見事なまでに骨しか残っていない。
店主役の役者が、一瞬だけ台本を忘れたような顔をしてから、セリフを取り戻す。
『お前さん、本当に生きて帰ってきてくれたんだな』
わたしはゆっくりと箸を置き、無表情のまま深く、ただ深く一礼をした。
客席から、万雷の拍手が巻き起こる。
再び暗転。
わたしは素早く立ち上がり、待機していた女優と体をすり替えるように舞台袖へ滑り込んだ。
任務完了。料亭マルマンの極上海鮮フルコース、見事に完食である。
わたしはサコッシュの奥で手鏡の魔力供給を切り、本来の顔に戻ってから、安堵の息を長く吐き出した。顔の筋肉を思い切り動かし、長時間の強張りをほぐす。
「……無駄に高度な芸術的評価を獲得していたな。人間の解釈の多様性には驚かされる」
舞台袖の薄暗がりで待機していた統が、腕を組んだまま冷ややかな評価を下した。
「結果オーライよ。これでわたしの仕事は終わったわ。あとは、あの連中がどう動くかね」
わたしは舞台袖の幕の隙間から、客席の最前列――特別席の様子を観察した。
そこには、二人の有力者の姿があった。
一人は、数日前の評定所で毒を盛られて倒れたはずの筆頭商人、ソーク・イマウェル。彼は病み上がりを装い、顔色を悪く見せる化粧を施しているが、わたしの目には彼が健康体そのものであることがはっきりと見て取れる。
そしてその隣に座っているのが、両替商オージ屋の主人であり、反ソーク派の筆頭、ソウギュ・ハーバーダだ。
ソウギュは、ソークの体調を気遣うような素振りを見せながら、時折舞台上へと鋭い視線を投げている。
その目は、芝居を楽しむ観客のそれではなかった。獲物が罠にかかる瞬間を待つ、狩人の静けさがあった。
舞台上の進行は、いよいよクライマックスへと向かっていた。
平和な食堂に、悪徳な借金取りに雇われた用心棒たちが押し入ってくる。
冒険者一行と用心棒たちの間で、激しい口論から武器を交えた立ち回りへと発展する。
大げさな太刀筋、交差する木剣。
しかし、わたしの目は、用心棒役の男たちの足運びが、先日の稽古の時よりもさらに低く、殺意に満ちたものに変わっているのを見逃さなかった。
彼らは舞台の前面、客席に最も近い位置へと徐々に移動していく。
立ち回りの熱が高まる中、一人の用心棒役が、主役の剣士の攻撃を大げさに弾き返されたふりをして、大きく体勢を崩した。
その手には、いつの間にか木剣ではなく、照明の光を鈍く反射する本物の短剣が握られている。
男は体勢を崩した勢いを完全に利用し、客席の最前列に座るソーク・イマウェルの胸元を目掛けて、その凶刃を投擲した。




