55、王都の憂鬱と狸の腹芸
【2026/5月改訂】
旅というものは、終わってしまえば「いい思い出だった」と雑にまとめられる。だが、その最中にいるあいだは、大抵ただの苦行だ。
本来なら十五日はかかる道のりを、馬を潰す勢いで飛ばして九日で走りきったともなれば、なおさらだった。
王都ダイベイドア。
この国の心臓部。権力と金が集まり、ついでにドブの匂いまで濃くなる巨大都市だ。
その城壁が見えたとき、アリアの胸に湧いたのは感動ではなかった。やっと馬から降りられる、という切実な安堵だけだ。
「……着いたわね」
馬上で呻くように言うと、隣を進む獣人のベルロウが死んだ魚みたいな目でうなずいた。自慢の猫耳も、今日はぺたりと寝ている。
「ああ。あと一日遅れてたら、あーしの尻は四つに割れてたかも」
「四つなら安定して座れそうだな」
軽口とも呼べない軽口を返したノッピーニオは、そのまま無言で首を回した。三人とも、疲労の色をごまかす余裕すらない。
急いだ理由は一つだった。
証拠は鮮度が命。腐らせる前に、然るべき場所へ届けなければならない。
オーミの街で掴んだ、代官所とエチゴヤ商会の癒着を示す証拠の数々。
そして、あの規格外の「姉弟」に関する報告。
どちらも放っておけば、どこかの都合で握り潰される匂いがした。
三人が向かったのは、王城の裏手にひっそりと建つ石造りの建物――王国監査院だった。
国の不正を暴く機関、というのが表向きの顔だ。
けれどアリアには、貴族たちの喉元に手をかけて力加減を調整するための場所にしか見えなかった。
通された部屋は、無駄に天井が高かった。壁には歴代監査官の肖像画がずらりと並び、誰も彼も、他人の秘密を墓場まで抱えていそうな目をしている。
その中央、執務机の向こうに座る男は、肖像画の面々よりさらに食えなさそうだった。
ロー・ウイロウ侯爵。
王国監査院大監察。
きっちり撫でつけた白髪。鼻眼鏡の奥の細い目は、相手の顔を見るより先に、懐具合と余命を値踏みしていそうだ。世間では「王国の良心」と呼ばれているが、アリアに言わせれば、王国の腹黒である。
「やあ、アリアくん。随分と早かったね。顔色が悪いようだが、旅の疲れかな? それとも、何か悪いものでも食べたかね」
ウイロウ侯爵は書類から目を上げないまま言った。上等な布のようになめらかな声だったが、触れればよく切れそうでもあった。
「悪いものを食べたのは、私じゃなくてオーミの街ですよ、閣下」
アリアは革袋から分厚い書類束を取り出し、机の上に置いた。乾いた音がやけに大きく響く。
「これが、代官クアンサマ・オーダインとエチゴヤ商会の証拠です。全部、本物です」
侯爵は眉一つ動かさず、束のいちばん上を手に取った。
帳簿の写し。
角印のある密約書。
裏オークションの競売目録の抜粋。
そして、それらの物証がどこに保管されているかを記した走り書き。
紙をめくる音だけが、静かな部屋に続いた。妙に乾いたその音を聞いていると、裁きの判決書に署名する音でも聞かされている気分になる。
「……ふむ。筆跡比較まで揃えてある。短期間で、よくここまで集めたものだね」
「協力者が優秀でしたので」
アリアはそう答えた。
その協力者が、夜中の代官所に忍び込み、警備を無力化し、金庫の中身を丸ごとさらってきた子どもたちだとは、さすがに書類にも口にも出していない。
「その協力者についての報告も読んだよ」
侯爵の視線が別紙へ移る。
『協力者は二名。姉弟を名乗るが、戸籍なし。戦闘力・潜入能力ともに極めて高い。魔術の行使痕跡は特異であり、既存の体系に属さない。思想は王国寄りではなく、是々非々で動く。利用価値はあるが、制御不能の可能性大』
要するに、使いどころを誤れば味方ごと吹き飛ばしかねない、ということだ。
「……興味深い。特にこの筆跡比較の紙だ」
侯爵は、報告資料の一枚をつまみ上げた。指先で感触を確かめるように撫でる。
「均一すぎる。滑らかすぎる。王宮の文書用紙でも、ここまで整ったものは見ない。内容より先に、こちらの出所を知りたくなるくらいだ」
まず紙に食いつくあたり、やはりただ者ではない。
「彼らは異国の出身だと言っていました。東方の島国だと」
「東方か……」
侯爵はそこで深追いせず、紙を机に戻した。
「それで、君はこの証拠をもって、直ちにオーダイン男爵を断罪すべきだと考えているわけだね」
「当然です。人身売買に手を染め、領民を食い物にしている。怨嗟の声は、もう限界ですよ」
自分でも少し語気が強くなったのがわかった。
だが、抑える気にもなれなかった。
侯爵は鼻眼鏡を外すと、柔らかな布でゆっくりとレンズを拭いた。
それだけで、嫌な予感がした。年長者が若者に現実を教える前の、あのいやらしい間だ。
「アリアくん。正義というものはね、切り分けた菓子のように、誰にでも同じだけ配れるものではないのだよ」
眼鏡をかけ直した侯爵が、ようやくまっすぐアリアを見た。
「結論から言おう。エチゴヤ商会は即刻処理する。この資料を根拠に、脱税、横領、禁制品取引……まあ、使いやすい罪状をいくつか並べて資産を没収し、解体させる」
「代官は?」
「クアンサマ・オーダイン男爵については、保留だ」
一瞬、喉の奥が熱くなった。
「……保留? これだけ揃っていて?」
「揃っているからこそ、だよ」
侯爵の声音は変わらない。むしろ柔らかいくらいだった。
「彼には少々、扱いの面倒な事情がある」
「事情、ですか」
「血筋だ」
短い一語だった。
アリアが黙ると、侯爵は一度だけ視線を外した。
「本来なら、あの男は辺境の代官風情で終わる立場ではなかった。……いや、その言い方は正しくないな」
そこで口を閉ざす。
言いすぎたとでもいうように、指先で机を軽く叩いた。
「いずれにせよ、下手に表へ引きずり出せば、余計な連中が騒ぐ。誰かが“まだ担げる”と思い出してしまうかもしれない。だからこそ、ああいう男は薄汚れたまま飼い殺しにしておくのがいちばん都合がいい。汚れれば汚れるほど、旗印としての価値は失われる」
反論したかった。
そんな理屈で見逃される側がどれだけいるのか、と。
けれど怒鳴ったところで、この男の腹の内は一つも崩れない。アリアは奥歯を噛み、息だけを細く吐いた。
「では、オーミの民はその“都合”のために耐えろと?」
「そうは言っていない。エチゴヤを潰せば、男の手足は一本もがれる。金が止まれば、今まで通りには動けない。それに――」
侯爵の目が細くなる。
「君の報告にある転移案件。異世界からの来訪者、未知の技術。こちらは国家機密級だ。オーダインがそこに触れていたとなれば、表向きの裁きに乗せるわけにはいかない。裏で片づけるしかない」
結局、国にとって都合の悪い真実は、正義の名では裁かれない。
そういうことだった。
アリアは長く息を吐いた。ここで食い下がっても、狸親父の腹芸に巻かれるだけだ。
「……わかりました。エチゴヤだけでも潰せるなら、無駄足ではなかったと思うことにします」
「賢明だね。報酬は弾ませよう」
侯爵はにこりと笑った。
その笑みを見ていると、金貨にまで裏表があるような気がしてくる。
「ああ、それと」
侯爵は書類を整えながら、ついでのように言った。
「オーミ周辺には密偵を増やしておく。裏市場の監視、競売情報の追跡、代官所の出入りの確認。君の“協力者”たちが残した火種が、妙な燃え方をしないようにね」
仕事はここまでだ、と遠回しに告げられたのだとわかった。
監査院を出るころには、空は黄昏に沈みかけていた。王都の西空が赤く染まり、その上をカラスが鳴きながら横切っていく。
「……やってらんないわね」
思わずこぼすと、ベルロウが大きくあくびをした。
「まあ、予想通りだろ。エチゴヤが潰れるだけでも上出来だ。あいつら、やりすぎたんだよ」
「そうね」
アリアは肩を回し、こわばった首を鳴らした。
「今日は飲むわよ。ノッピーニオも付き合いなさい。今夜くらい、経費で酔わせてもらうんだから」
ノッピーニオは、やれやれという顔で肩をすくめる。
アリアは歩き出した。
王都の夜は長い。せめて今夜くらいは、政治の腐った匂いを酒で薄めないとやっていられない。
けれど、その夜が静かに終わるはずもなかった。
オーミで出会ったあの協力者たちは、もっと大きな火種を、もう別の場所に運び込んでいる。
そしてたぶん、その後始末もまた、




