56、古都からの報告書
【2026/5月改訂】
それから数日後。
アリアは、まだ二日酔いの抜けない頭を抱えながら、再び王国監査院の門をくぐっていた。
今朝、宿に届いた一通の書状。「至急、出頭されたし」とだけ書かれた、心臓に悪い一行。読んだ瞬間、頭痛が一段ひどくなった気がしたものだ。
部屋に通されると、大監察のウイロウ侯爵は前回と寸分違わぬ姿勢で執務机に座っていた。
この数日、まさか一度も席を立っていないのではないか――そんな冗談が浮かぶほどだ。
違いはただ一つ。机の上の書類束が、前回より明らかに分厚くなっていた。
「……何の御用ですか、閣下。あいにく今、私は猛烈に頭が痛いんですが」
不機嫌を隠さずに言うと、侯爵は楽しげに目を細めた。
「それはすまないね。だが、君にとっても無関係ではない知らせが入ってね」
侯爵は、一枚の報告書をアリアの手元に滑らせた。
差出人の名を見て、アリアは少し眉を寄せた。
リヴィエール侯爵。
古都テンペタ・フロップスを治める所司代だ。
「……テンペタで、何かあったんですか」
返事を待たず、アリアは紙に目を落とした。
>古都における大規模な組織犯罪の摘発。
>ロンリコ・ブランコ男爵、バウンス商会、セシール修道院による児童誘拐および違法魔道具製造の罪により、関係者全員を拘束。
>地下工場を閉鎖し、被害者を保護。
短い箇条書きだった。
短いからこそ、ぞっとした。
「……ロンリコ男爵? あの男が?」
アリアは紙から顔を上げた。
ロンリコ男爵といえば、中央政界にも蔦を伸ばしている古狸だ。普通に手を出していい相手ではない。それが、一夜で根こそぎ刈り取られたというのか。
「読み進めたまえ」
侯爵の声は穏やかだったが、楽しんでいる気配があった。
悪い予感の角度が少しだけ深くなる。
>事件解決の糸口となったのは、外部からの協力者による情報提供と、実力行使による制圧であった。
>協力者は二名。姉と弟を名乗る子供。
紙を持つ指先が、わずかに冷えた。
「……まさか」
「そのまさかだよ」
侯爵は苦笑した。
「特徴が一致している。君が報告してきた“オーミの協力者”とね。彼らはオーミを発ったあと、テンペタへ流れたらしい」
報告書には、まだ続きがあった。
>オークション会場において、男爵が起動させた“未完成の戦略兵器”を、協力者が所持していた“古代の遺物”を用いて無力化。
>その際、時計塔から大規模な発光現象(夜空に絵を描くがごとき光)が発生し、市民の多くがこれを目撃。
アリアは無言で息を吐いた。
夜空に絵を描く光。
言葉にすればただの幻想だ。けれど、あの姉弟がやったと言われれば、納得してしまえる自分が嫌だった。
ドレミとスバル。
あの二人が、また、やったのだ。
「興味深いのは、最後の追記だ」
侯爵が指先で示したのは、報告書の末尾だった。
アリアは視線を落とし――そこで、はっきりと指の動きを止めた。
>リヴィエール侯爵自身の証言によれば、当夜の行動はある種の“神託”によるものであるという。
>寝室にて何者かと相対したとの記憶はあるものの、その姿・声・名・言葉のいずれも明瞭ではなく、ただ「圧倒的な畏怖」と「絶対的な命令」のみが残存している。
>詳細は不明なれど、状況より見て当該協力者の関与が強く疑われる。
冗談みたいだった。
けれど、冗談で書ける文書ではなかった。
一国の侯爵の寝室に、誰の目にも留まらず入り込み、本人の記憶を曖昧にしたまま軍を動かさせた者がいる。
考えるまでもなく、それはスバルだった。
あの、見た目だけは十歳児の弟の方だ。
アリアの背筋が、ようやく遅れて寒くなった。
精神への直接介入であれ、別の何かであれ――一歩間違えば、リヴィエール侯爵は今ごろ廃人になっていたかもしれない。彼らは、それをわかってやっている節がある。それが一番嫌だった。
しばらく、口を開けなかった。
その沈黙を、アリアは咳払いで強引にごまかした。
「……あの子たち、加減って言葉を知らないんですかね」
軽口のつもりだった。
声が少しだけ硬かったことに、自分でも気がついた。
「彼らは、我々の見取り図の外にいる」
侯爵の口元から笑みが消えていた。
「オーミの段階では、まだ“出来のいい協力者”の範囲だった。だがテンペタは違う。一領主を意のままに動かし、用途不明の遺物で戦略兵器を黙らせ、空に絵を描く。……これは、一個人が持っていてよい力ではない」
侯爵はゆっくりと立ち上がり、窓際へ歩いた。
眼下には、王都の屋根並みが穏やかに広がっている。
その平和な眺めを、たった二人で壊し得る存在。
しばし窓の外を見つめたあと、侯爵は背を向けたまま言った。
「アリアくん。君に新たな任を与える」
振り向いた目は、もう細められていなかった。
「彼らを、追ってくれ」
「……追う?」
「捕縛しろとは言わない。今の我々の駒では、彼らを無傷で押さえることはできまい。下手に逆撫ですれば、それこそ王都ごと業火に晒される。だから、監視だ」
侯爵は机に戻り、一枚の地図を広げた。
テンペタから西へ伸びる街道。その指先が止まった先には、海風の匂いが立ちのぼってきそうな港町の名があった。
「彼らがどこへ向かい、何を望み、何のためにあの“力”を振るっているのか。背後にあるのが信念なのか、気まぐれなのか、別の何かなのか。それを見極めてほしい。接触は最小限に。だが、決して見失わぬように」
要するに、見張り役だ。
いつ爆ぜるとも知れない火薬庫の影に、自分の影を貼り付けて歩けという話だった。
「……断ったら?」
「断る?」
侯爵はうっすらと笑った。
「報酬は倍にしよう。それでも足りなければ三倍でもいい。――それに、今回のことで、君自身、彼らから目が離せなくなったのではないかね」
痛いところを突かれた、と素直に思った。
あの異質な紙。
見たこともない素材。
平気な顔で空に絵を描いてしまう感覚。
そしてスバルという子供の、底の見えない静けさ。
冒険者の血、と言うほどかっこいいものではない。ただの好奇心だ。それでも、湧いてしまったものは仕方ない。
ふと、別のものも見えた気がした。
侯爵の細めた目の奥にある、もう一枚。
彼は今、未知の脅威を警戒している顔をしている。けれど同時に、その脅威を自分の管理下に置く道筋を、もう何本か思い描いている顔でもあった。
この狸は、敵対も保護もしていない。
ただ、線を引きに行こうとしている。
「……はぁ。わかりましたよ」
アリアは前髪をかき上げた。
「やればいいんでしょう、やれば。放っておいたら本当に、国の二つや三つ、知らないうちに地図から消えそうですしね」
「期待しているよ」
侯爵は満足げに頷いた。
そして、ひと呼吸置いてから、ごく軽い調子で付け加えた。
「ああ、それと。何か気づいたことがあれば、まずは私に知らせてくれ。彼らに関する報告は……他の誰にでもなく、私のもとへ」
ほんの一言。
しかしその一言が、この任務の本当の輪郭を、わずかに照らした気がした。
アリアは黙って一礼し、部屋を出た。
外は、嘘みたいに晴れていた。
昼の光が、二日酔いの目に容赦なく刺さってくる。
胸の中はまるで逆で、薄い雲のような不安が広がっていた。
これから自分が追うのは、単なる事件でも犯罪者でもない。気まぐれで、強大で、そしてどうしようもなく目を離せない、災害めいた二人だ。
それなのに。
頬の内側を、自分でも気づかぬうちに、少し噛んでいた。
「……ベルロウ。ノッピーニオ」
声が、思ったより前のめりに出てしまう。
「準備しな。また旅だ。今度はだいぶ長くなるかもしれない」
頭痛はもう、どこかへ吹き飛んでいた。
代わりに胸の真ん中に灯っているのは、嫌な予感と、それと同じだけの高揚だった。
たぶんこれは、ただの追跡ではない。
もっと厄介で、もっと面白くて、たぶんどこかで命を擦り減らす種類の旅になる。
アリアは西の空へ視線を投げた。
潮の匂いを孕んだ風が、王都の路地を一筋抜けていった気がした。
その向こうのどこかで、あの姉弟は今日も、誰かの常識を一つ二つ、軽く踏み越えている。




