35、遺されたもの、託されたもの
ログハウスの扉を閉めた瞬間、外の世界の分厚い夜が、嘘みたいに遠のいた。
木の匂い。乾いた空気。
火も入れていないのに、肌に馴染む温度がそこにある。
「ふぅ……帰ってきた、って感じがするねぇ」
「ここは、そういう用途で用意してある」
統の言い方は相変わらず淡々としているけれど、それでも「用意した」という言葉だけが、妙に耳に残った。
わたしたちは黙々と机の上に“戦利品”を広げていく。
帳簿。書き付け。封書。代官所の角印が押された仰々しい文書。
そして――ディルクたちの遺品と、“フィーネの”バッグ。
量が、多い。
ひとつひとつは紙切れだったり、布切れだったりして、重さなんて無いに等しい。
なのに、並べれば並べるほど、物理法則を無視して、空気が重くなっていく。
「……多すぎる」
思わず、口をついて出た。
「氷山の一角だ」
統は紙片をめくりながら、感情のない声で言う。
「記録に残っているだけで、この量だ。残っていない分は、さらに多いだろう」
帳簿の中身は、驚くほどシンプルだった。
事務的、と言い換えてもいい。
日付。
品目。
数量。
金額。
言葉は“完璧”に分かるようになったけど、文字はまだ怪しい。
統が声に出して読んでくれる。
ちびっ子に読み聞かせされてるみたいで、おねーちゃんとしては、なかなか不本意だ。
次は文字を習得せねば。
絵本とか、ないかな。
……いや、グソックの腕でも落として血をもらっておくべきだったか。
でもあいつの記憶とか、絶対に見たくない。
そんな益体もない現実逃避をしている間も、統の声は淡々と事実を積み上げていく。
事務的な読み上げの中に、ときどき、不穏な単語が混ざる。
“処理”。
“廃棄”。
“移送不可”。
「……これ、人だよね」
「ああ」
怒りよりも先に、理解してしまった自分が、少し怖かった。
人間をモノとして扱う、その流儀が、あまりにも徹底されていたからだ。
「エチゴヤと代官所、ズブズブの関係だね」
「役割分担だ。金の流れをエチゴヤが作り、代官所がそこに合法性を付与する」
深いため息が漏れる。
全部、知ってしまった。
もう「知らなかった頃」には戻れない。
そして、机の端に置かれた木箱。
中に入っているのは――画面が蜘蛛の巣状にひび割れた、スマートフォン。
「……これも、見る?」
一瞬の間。
「見るべきだ。だが、扱いは慎重に」
統が取り出したのは、見覚えのある長方形の物体。
モバイルバッテリーだった。
「……それ、どこから」
「持っていた」
「いつから」
「必要になる可能性があった」
はいはい、いつも通り。
有能なメイドの「こんなこともあろうかと」と、猫型ロボットの「もう、しょうがないなぁ」は、きっと同じ系譜に属している。
ケーブルを繋ぐ。
一瞬の静寂。
やがて、画面が弱々しく灯った。
ひび割れたガラスの向こうに、知らない誰かの指紋が、白く浮き上がって見える。
「ロック、解除できる?」
「できる」
罠解除の魔道具が、パチリと小さな音を立てる。
中身は、整理されていなかった。
というより――途中で、放り出された感じだった。
プロフィール。
西脇 翔子。
年齢は、わたしより少し上。
写真に写るのは、少し疲れた笑顔の二十代の女性。
日記アプリ。短い動画。音声メモ。
更新間隔はバラバラで、切迫感が滲んでいる。
最初の記録は、やけにハイテンションだった。
『……たぶん、異世界転移ってやつ? 笑えないけど、今のところ生存確認ヨシ』
軽い。
軽すぎる。
その軽さが、無理をして自分を鼓舞している証拠に見えて、少し痛々しい。
……そういえば、わたしも最初は、こんな感じだった。
「なんとかなる」って思い込まなきゃ、足がすくんで動けなかったから。
村の日常。
身振り手振りでのやり取り。
見慣れない風景。
わたしも、フィーネさんたちと、こんなふうに過ごしていた。
やがて舞台は街へ移る。
オーミの街だろう。
路地や建物を、意味もなく撮り続けた映像。
獣人の子供たちの写真が多い。
……この人、たぶん、ケモナーさんだ。
街の食べ物が美味しいとか、
手回し充電で毎晩腕が疲れるとか、
ティッシュが切れたのが地味に辛いとか。
そんな日常の断片が、飛び飛びに続く。
そして、また日付が飛ぶ。
『宿のおばちゃん、優しい。でも、夜は絶対に外に出るなって何度も言われた』
動画。
昼の市場。鮮やかな果物。人々の笑い声。
カメラは、何度も背後を振り返る。
……誰も、映っていないのに。
『獣人の人、目を合わせてくれない。嫌われてるっていうより……見ないようにしてる?』
別の音声。
足音。
布の擦れる音。
『……ついてきてる? いや、気のせいだよね。考えすぎ、考えすぎ』
自分に言い聞かせる声が、少し震えている。
日付が飛ぶ。
『仕事、手伝うことになった。条件は、悪くない』
“条件”という言葉が、耳に引っかかる。
夕暮れの路地裏。
低いカメラ位置。
映像がブレて、止まる。
『代官所の名前、出た』
『理由は聞くなって言われた』
そこから、文字の記録は消える。
残るのは、音だけ。
『……ここ、思ってたのと違う』
『獣人の人、謝ってた。「すまない」って』
ノイズ。
『……これ、たぶん』
途切れる。
最後の音声は、ほんの数秒。
『――やば、マジで』
息を呑む音。
遠ざかる足音。
『待って、違う、違うんです――』
鈍い音。
布の擦れる音。
遠くの叫び声。
それで、終わりだった。
再生が終わっても、統は口を開かなかった。
わたしも、何も言えなかった。
ログハウスの空気が、止まったみたいだった。
「……証拠には、ならないね」
いつもの調子で言った。
声がちゃんと出たのが、自分でも意外だった。
「ならない」
統は即答する。
「この世界では、動画そのものが異質すぎる」
わたしはスマホを強く握った。
割れた画面が、手のひらに食い込む。
「でもさ」
軽く。
軽く言う。
「この人……ちゃんと生きようとしてたよね」
「ああ」
余計な感傷を混ぜず、統は肯定した。
「だから、これはアリアには渡さない」
「帳簿と書き付けは渡す。それは社会的な武器になる」
「うん」
「だがこれは……お前が背負うものだ」
背負う。
ずしりと重い言葉。
でも、不思議と投げ出したいとは思わなかった。
彼女が見た景色も、感じた恐怖も、無念も――無かったことにはできない。
わたしはスマホを、そっと机の端に置いた。
まるで、持ち主がそこに置いたみたいに。
「……ちゃんと覚えておく」
怒りは、胸の奥に沈める。
表に出したら、きっと壊してしまうから。
統は、それ以上何も言わなかった。
ログハウスの中で、静かに積み上がる証拠の山。
その横で、ひび割れたスマホは、何も言わずに沈黙していた。
胸の奥で、“深い心臓”が、
ゆっくりと、それでも確かに、
怒りを押し留める音を刻んでいた。




