34、名を残さない恐怖
【2026/5月改訂】
代官所を離れてからしばらく、わたしたちは一度も後ろを振り返らなかった。
たぶん、振り返ったら最後、あそこに置いてきたものをもう一回見たくなる気がしたからだ。
見たところで、いいものなんて何ひとつ残ってないのに。
街外れの暗がりまで来て、ようやく足を止める。
夜風が容赦なく冷たかった。さっきまで張っていた緊張が、今さら皮膚に戻ってくる感じがする。
「……追手は?」
わたしが聞くと、統は小さく首を振った。
「ない。今は混乱の方が勝っている」
「そっか……」
少し黙って、それから、ぽろっと名前が出た。
「グソック……どうしてるかな」
言ってから、自分でちょっと驚く。
心配してるわけじゃない。もちろん同情でもない。
ただ、あのあとを想像してしまっただけだ。
人って、そういうところだけ無駄に頭が回る。
「彼は今、何もできない」
統は相変わらず淡々としていた。
「恐怖は、命令より強い」
「あー……それ、わかる気がする」
怒鳴られるより、理由のわからない沈黙の方が嫌なやつだ。
***
その頃、代官所の中では、灯りが増やされていた。
クアンサマ・オーダイン男爵の怒鳴り声。
衛兵の足音。
使用人の慌ただしい気配。
さっきまでの静けさが嘘みたいに崩れている。
グソック・オーダインは、自分の部屋に閉じこもっていた。
灯りを増やし、扉を何度も確かめ、背後を振り返る。
それでも落ち着かない。
「み、見られた……」
誰に、と聞かれても答えられない。
顔が出てこない。名前もない。声も曖昧だ。
あるのはただ、“何かが来た”という感覚だけだった。
それが消えない。
父に報告すべきだ、と頭ではわかっている。
でも同時に、もっと嫌な考えが喉元に張りついていた。
証明できるのか。
誰が信じる。
そして――口にした瞬間、本当に起きたこととして固まってしまうのではないか。
そこでようやく、グソックは理解した。
自分を守っていたのは、兵でも地位でも金でもなかった。
何も起きていないこと。
それが、いちばん大きな壁だったのだ。
その夜、代官所ではいくつかの書類が“確認のため”に動かされた。
いくつかは、そのまま保管場所が曖昧になった。
侵入者の名を口にした者はいない。
口にできなかった、という方が近かった。
***
――街外れ。
「……殺さなくて、よかったのかな」
ぽつりと呟く。
誰かに聞かせるためじゃなく、自分で自分に確かめるみたいに。
「後悔しているか?」
統が聞く。
「……してない」
即答だった。
自分でも、少し意外なくらいに。
「なら、それが答えだ」
「もうちょっと何か言い方ないの」
「迷う理由がない」
相変わらず、ぶれない。
腕の中には、遺品の重みがある。
それとフィーネさんのバッグ――もう気持ちの上では、自分の物って感じがしない――だけは、自分の手で持っていたかった。
軽くはない。
でも、不思議と邪魔でもなかった。
放り出しちゃいけない重さ、ってこういうのを言うのかもしれない。
「ねえ、統」
「なんだ」
「わたし……あの人たちみたいには、なりたくない」
統はほんの少しだけ考えた。
本当に、ほんの少しだけ。
「なら、もう違う」
その答えが、胸の奥にすとんと落ちた。
夜の向こうに、ログハウスの影が見えてくる。
帰る場所。
ひと息つける場所。
ぐちゃぐちゃになった頭を少しだけ整理できる場所。
オーミの街で終わったのは、直接ぶつかったところまでだ。
たぶん、本当の意味ではまだ終わっていない。
でも、その先まで全部をわたしたちがやるのは、なんか違う気もした。
ここから先は、この街で生きている人たちが決めることでもある。
わたしたちは、また歩き出す。
名前を残さない恐怖を、背中に置いたまま。
胸の奥で、“深い心臓”がゆっくり、でも確かに、生きてる音を刻んでいた。




