26、真祖様
【2026/5月改訂】
統が背後から、座り込んでいるわたしの肩に手を置いた。
その手は冷たいのに、不思議と体の震えを少しずつ吸い取っていくみたいだった。
「七色、大丈夫だ。回復はしている。焦ることはない」
短い言葉なのに、全身の力がふっと抜けた。
真っ白になりかけていた頭を、統の声だけが地面まで引き戻してくれる。
……統の声だけは、ちゃんと届く。
焚き火の弾ける音も、湿った土の匂いも、血に混じる薬草の苦い臭いも、どこか薄い膜の向こうみたいに遠かった。
岩の裂け目を使った隠れ家は、入口寄りの前室と、布で仕切られた奥の寝床に分かれていた。
わたしたちは前室の小さな焚き火を囲むように、アリアさん、長身の男の人――ノッポさん、獣人の女性――ネコミミさん、統、わたしの順で車座になっていた。
奥の仕切りの向こうには、ゲルトさんが寝かされている。治療道具も、そっちにまとめてあるらしい。
前室にも血と薬草の匂いは流れてきていて、火のぬくもりと混ざると、余計に嫌な感じがした。
森の夜気は重く、吐く息が白く見えるくらい冷えている。
「この子たちに聞かせていいのか?」
焚き火越しに、ノッポさんがアリアさんを見る。
火に照らされた顔は硬くて、疲れと怒りがそのまま線になって刻まれてるみたいだった。
「スバルとドレミは当事者だよ。それに、見た目よりずっと“大人”」
「……わかった。アリアがそう言うなら」
ノッポさんは小さくうなずいた。
ゲルトさんに気を取られていて、さっきはちゃんと見ていなかった。
ネコミミさんは獣人の女の人で、火を拾う目が妙に艶っぽい。見た目は猫っぽいのに、空気はぜんぜん柔らかくない。
そのネコミミさんが口を開いた。
「じゃ、あーしが代官屋敷で見てきたこと、順に話す」
声は少し高い。でも、その奥にずっと消えない怒りが残っていた。
「屋敷に捕まってた二人は、“少女について”しつこく問い詰められてた」
「少女……?」
喉がきゅっと狭くなる。
胸の深いところで、あの別の心臓がひとつ跳ねた気がした。
「変わった服装の、見慣れない旅人の少女。荷車の焚き火の近くにいた、って話をグソックが親父にしたらしい」
わたしだ。
心臓がどくんと鳴った。
背中に冷たい水を流されたみたいに、肌が粟立つ。
(……やっぱり、わたしの……)
「グソックとは?」
統が口を挟んだ。
ぶつ切りで、不安の流れを止めるみたいに。
「グソックは代官クアンサマ・オーダインの息子。甘やかされて育った、どうしようもない馬鹿息子だよ。街でも村でも問題ばっか起こしてる」
軽蔑を隠す気のない言い方だった。
「そのクアンサマ・オーダインってのが、十年前から代官になった奴だな」
アリアさんが引き継ぐ。
「そう。オーダイン男爵。オーミみたいな街を任せるには格が足りない。少なくとも、もっと力のある家が座る場所だよ。でも、なぜかあいつが来た。たいして有能でもないくせに、自分は切れ者だと思ってる節がある」
焚き火がぱちりと弾けた。
皮肉が、その火の音と一緒に夜へ散る。
「なるほど。すまない、話の腰を折った」
「いや、ほんとに子どもか? あんた」
「だから言ったでしょ。見た目より大人だって」
「大人すぎるだろ……まあいい」
ネコミミさんは小さく息を吐いて、話を戻した。
「子どもの前で細かくは言わないけどさ。ありゃ尋問じゃなくて拷問だ。聞いてた内容は、少女の正体と行方。あと、異国のバッグや珍しい道具の入手先。二人は、少女が何者か知らない、バッグは預かり物だとしか言わなかった」
焚き火の影が揺れる。
その揺れが、胸の奥にも黒い波みたいに広がった。
「……じゃあ、やっぱり原因は……」
声が、自分でもびっくりするくらい弱かった。
わたしのせいだ。
バッグなんて持ってきたから。
フィーネさんたちと関わったから。
わたしが──
「七色のせいではない」
統の声が重なった。
「暴力を選んだのは代官側だ」
短いのに、強かった。
焚き火が統の横顔を照らし、揺れる影がわたしのところまで伸びてくる。
その影が、変にあたたかく感じて、涙がにじんだ。
「……でも……」
胸が痛い。
息が詰まる。
その詰まったままの呼吸ごと、言葉が飛び出した。
「二人を助けないと! フィーネは捕まってなかったのね!? でも、ゲルトさんみたいに怪我してないといいけど……!」
急に声を張ったせいで、三人が一瞬だけ固まった。
「えっと、お嬢さんは何を言ってるんだ?」
ノッポさんが困った顔をする。
そりゃそうだ。わたし、思いっきり日本語で叫んでる。
「何をって、そんな状態ならすぐ助けないと──」
「二人を助けたい。そして、金髪のフィーネという女性は捕まっていなかったのか、だな」
統がすぐ訳してくれた。
そこでようやく、自分が完全に日本語モードだったことに気づく。
「そ、そうです。ふたり……助けたいです」
必死で言い直す。
ノッポさんが、申し訳なさそうに目を伏せた。
「すまない。無理だ。その二人は、もう……処刑された」
その瞬間、視界から音も色もすっと消えた。
(……わたしが……?)
違う。
バッグの価値だけの話じゃない。
わたしに関わったせいで、二人が死んだ。
その痛さが、まっすぐ胸に落ちた。
二人は命を失って、ゲルトさんは腕を失った。
胸の奥が締めつけられて、喉の奥で何かが崩れる音がした気がした。
(もう、これ以上……失えない)
(フィーネさんだけでも……)
「フィーネ……フィーネは……?」
絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
ネコミミさんが静かに首を振る。
「それらしい女は見てない。捕まってたのは二人。人族とドワーフだけだ」
「じゃ、じゃあ今すぐ探しに──」
立ち上がろうとして、足がもつれた。
統の手が肩を押さえる。
「仲間が動いている。闇雲に動くより、ここで情報を待つ方がいい。それに──」
ノッポさんが少し言いよどむ。
焚き火の影が顔に縞を作って、その迷いを見せた。
「……代官がその女性を探している様子がない。追跡の指示が出ているのは、ゲルトと少女――君だけだ」
「え……」
胸がひやりと冷えた。
誰かに肩を掴まれたみたいな圧が、全身に回る。
「そう。もう捕まえてるか、あるいは……捕まえる必要がないか」
焚き火がぱちりと鳴った。
その小さな音が、フィーネさんの“今”を、残酷なくらいはっきり突きつけてくる。
息を吸うのも忘れた。
闇が、また少し濃くなった気がした。
沈黙の中で、先に口を開いたのはネコミミさんだった。
「……ここらで一回、休憩入れよう。ドレミちゃん、顔色が悪すぎる」
優しさというより判断だった。
こういう場で何人も見てきた人の言い方だ。
わたしは反射で首を振る。
「だ、大丈夫……。話、続けて……。まだ、聞かなきゃいけないこと、あるです……」
胸の奥は痛いのに、言葉だけが前へ走る。
止まれない焦りが、わたしの中で暴れていた。
ネコミミさんは眉を寄せたけど、アリアさんが手を上げて止めた。
「よし。一旦、身体の方の休憩ね。ドレミ、頭使いすぎ。お茶いれてくる」
アリアさんは立ち上がって、水筒と荷袋を確かめる。
「ついでにゲルトの様子も見てくる。……さっき、呼吸がちょっと強くなった気がしたし」
焚き火の明かりから離れ、奥の仕切りの向こうへ消える背中を見ていると、胸の奥がまたざわついた。
(ゲルトさん……)
少しして、布の向こうからアリアさんの声がした。
「ちょっと来て。二人とも」
驚きと、少しの安堵が混じった声だった。
わたしは弾かれたみたいに立ち上がる。
足がもつれて転びそうになって、統が支えてくれた。
「七色、深呼吸」
「……うん」
二度、三度。
呼吸を整えてから、仕切りの向こうへ入る。
奥の寝床は前室よりずっと暗かった。
血と薬草の匂いが濃く、冷えた空気が肌に張りつく。
その中央で。
「ゲルトさん……!」
布の上に寝かされたゲルトさんのまぶたが、わずかに開いていた。
曇った琥珀色の目が、ゆっくりこちらを向く。
胸が大きく跳ねた。
「……ド……レミ……」
声になりきらない声。
でも、確かにわたしの名前だった。
アリアさんが言う。
「気がついたんだよ。ほんの少しだけね。ドレミが来てるって聞かせたら……会いたいって」
ゲルトさんの喉が震えて、何度も言葉を作ろうとしている。
わたしは膝をつき、その手をそっと握った。
「ゲルトさん……! 生きてて、よかった……!」
「……ドレミ?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がぶわっと熱くなった。
「ゲルト……ごめんね……!」
涙があふれて、止まらない。
「雰囲気、変わったか……? それに、匂いも……いや……」
ゲルトさんがそこまで言って、視線を統に移した瞬間、全身が一気にこわばった。
「──っ……そ、そちらのお方は……!」
「スバル。わたしの弟……その、あのあと助けてもらったの」
もう妹設定の細かい綻びを気にしている余裕なんてなかった。
そのときのわたしは、本気でそう思っていた。
けど、ゲルトさんが次の言葉をこぼした瞬間、そんなことは全部吹き飛んだ。
「し……真祖様……」




