25、深い心臓
【2026/5月改訂】
──闇が、黒い。
いや、黒いっていうか、もうなんか質が違う。
地球の夜とは別物だ。
二つの太陽が沈んだあとに落ちてくる闇は、ただ暗いだけじゃない。墨汁をそのまま空にぶちまけたみたいに光を吸って、目の奥にまでべったり張りついてくる。
足元の土はひんやりしてるし、湿った夜風が肌をなでるたびに、体温がじわじわ持っていかれる。
なのに、胸の奥にあるものは、それよりもっと冷たかった。
先頭を歩くのはアリアさん。
その後ろを、わたしと統がついていく。
土の匂い。濡れた枝の匂い。夜の湿気。
ふだんなら「まあ森ってこんなもんだよね」で流すようなものが、今日はやたら引っかかる。
思わず足が止まった。
(……聞こえる)
耳鳴りじゃない。風でもない。
虫が葉っぱの上を渡る音。
高いところでじっとしてる鳥の、胸が小さく動く気配。
その先を歩くアリアさんの鼓動まで、ただの音じゃなくて、ちゃんと“拍”として頭に入ってくる。
そして──
少し離れた場所で、草をかき分ける音。
その奥で、鉄がこすれる音。
どっちから聞こえたのか。どれくらい遠いのか。何人なのか。
考えるより先に、わかってしまった。
(三人……いや)
その瞬間、胸のずっと奥で、ず……っと低い振動が鳴った。
(なにこれ)
心臓が変だ。
胸に手を当てても違う。いつもの鼓動じゃない。
皮膚の下でも、内臓のあたりでもない。
もっと深いところ。触れられない場所で、もう一つ何かが勝手に脈を打ってるみたいだった。
「七色、止まるな」
肩に置かれた統の手は冷たい。
なのに、その冷たさに触れた瞬間、耳の奥のざわざわが少しだけ引いた。
……なんなの。落ち着くのが普通に悔しい。
「ごめん。ちょっと、変な感じがして」
アリアさんが足を止めて振り返る。
星明かりに金髪がうっすら浮いて見えた。
その目が、まっすぐこっちを見た。
やさしさゼロ。完全に“見る側”の目だ。冒険者の査定ってたぶんこういうやつ。
「ドレミ、さっきから変だよ。耳がいいの? 気配にも先に反応してるし」
うわ、ばれてる。
この人、やっぱり鋭い。
とっさに口を開く。
「……気のせい、かも」
「夜目が利くだけだ。異常ではない」
わたしが余計なことを言い足す前に、統が上からぴしゃっと閉めた。
アリアさんはしばらくわたしを見ていた。
何か言いたそうだったけど、結局なにも言わない。
その“いったん保留”が、逆にめちゃくちゃ怖い。
喉がじわっと乾いた。
それから少し歩いたところで、また胸の奥がざわついた。
「……統」
声をひそめて袖を引く。
自分の指先がちょっと震えてるの、ちゃんとわかった。嫌な自覚だ。
「なんだ」
「来る。こっちに……三人」
「四人だ」
即訂正。
この人ほんとそういうとこ容赦ない。
でも、そのぶれなさが変に安心する。
むしろ「そうだね七色、三人だね」とか言われた方が今は怖い。
わたしたちが止まった気配で、アリアさんが振り返った。
「どうしたの?」
「四人、近づいている。まだこちらに気づいたわけではなさそうだ」
統がそう言うと、アリアさんの眉がぴくっと動いた。
「……なんで人数までわかるの」
「慣れだ。今は進め」
早い。短い。終わり。
統の会話、ほんとにドア閉まる音みたいだなってたまに思う。
アリアさんは半分あきれたみたいに息を吐いた。
「慣れって、そんな雑に片づける?」
「片づくだろ」
「片づかないから聞いてるんだけど」
小声なのに空気がちょっとぴりっとする。
わたしは口を開きかけて、やめた。
今ここで変なこと言うと、絶対よくない。
それくらいには、胸の奥で鳴ってるもう一つの拍動が嫌な感じだった。
アリアさんは少しだけ振り返って、低く言った。
「……あんたら、本当に何者?」
答えられない。
というか、わたしもわりと知りたい。
けど今それを言う空気じゃない。
静かな沈黙だけが、三人のあいだに落ちた。
四人の気配は、いつのまにか別の方向へそれていった。
でも安心はできない。森の空気はむしろどんどん濃くなって、湿った土の匂いが鼻にまとわりついてくる。
三人で木々の間を進みながら、アリアさんがぽつりと口を開いた。
「ここ最近、オーミのまわりは妙に慌ただしいんだ。代官も商会も、裏を嗅ぎ回られるのをすごく嫌がってる」
「裏を……?」
「オーミって流通の要みたいな街だからね。もともと利権も多かった。でも十年くらい前に代官が変わってから、露骨になった。最近はもう、隠しきれてない感じ」
「その代官が原因なのか」
「たぶんね。権力と金が、よくない形でくっついたんでしょ」
声は軽い。
でも、軽く言ってるだけで、たぶん普通に嫌ってる。
「王国もさすがに調べ始めたみたい。私たちみたいなのにまで仕事が回ってくるくらいには」
「お前もか」
統が短く言う。
少しだけ声が硬い。
アリアさんは肩をすくめた。
「冒険者だからね。依頼があれば動く。あんたたちの知り合いの件も、その流れで引っかかっただけ」
「……そうか」
「そっちも詮索しないでよ。私もしないから」
「賢明だ」
短いやりとりだった。
でも、なんとなくわかった。
この人は全部は見せない。
見せないけど、見捨てる人でもない。
そういう感じだ。
森の奥に、小さな岩の裂け目があった。
その前に布が張ってあって、外から見たらただの岩陰にしか見えない。
アリアさんが合図すると、布の向こうで気配が動いた。
──近い。
そこで初めて気づく。
さっきまであれだけ聞こえてたのに、この二人の気配はうまく拾えなかった。
隠すのが上手すぎる。
「遅いぞ」
低い声。
布の陰から出てきた人が、周囲を警戒したまま言った。
「オーミの兵が森に入ってる。村にも衛兵隊が回されたようだ」
「知ってる。村の方は、身をもって体験してきたからね」
「そうか。よく出られたな。で、獣人の知り合いかもしれないっていうのが、その子らか?」
「そう。無事に連れてこられた」
その会話を聞いてるあいだ、胸の奥がずっと落ち着かなかった。
「あの……」
わたしが言いかけるより先に、アリアさんがうなずく。
「わかってる。獣人の様子だろ」
奥にいたもう一人が答えた。
「意識が戻ることはある。だが、まだ混濁している。何度もうなされて、『少女を……仲間を……』と言っていた」
その瞬間、胸がぎゅっと縮んだ。
……わたしを?
唇を噛む。
アリアさんが少しだけ口元をゆるめた。
「顔、見せてやりなよ。たぶんずっと探してたんだろ」
足が勝手に前に出た。
わたしを探してた頃は、まだみんな無事だったはずだ。
統は、馬車で去っていった四人を見たって言ってた。
なのに、どうしてこんなことになった。
盗賊?
いや、でもそれなら村に衛兵が来る理由がわからない。
もしかして。
もしかして、わたしたちのせいで。
嫌な想像が頭の中をぐるぐる回る。
胸の奥の拍動まで、それに合わせるみたいにざわついた。
布の奥へ入る。
そこで最初に鼻をついたのは、血と薬草の匂いだった。
重ねた布の上で、獣人の男が浅く息をしている。
右腕が、肩口から先ごと失われていた。
膝から力が抜けた。
その場に座り込んだ瞬間、視界がぐらっと傾く。世界の輪郭が一瞬だけ溶けたみたいに、うまく焦点が合わなかった。
「……イヌミミさん……」
自分でも引くくらい小さい声しか出なかった。
喉が震える。息もうまく吸えない。
肩口には何重にも布が巻かれている。血は止まってるみたいだった。でも、毛並みは乾いた血で固まってて、顔色は土みたいに悪い。
呼吸も浅い。今にも切れそうなくらい弱い。
そのときだった。
胸の奥の、あの深い場所で、拍動がひとつ強く跳ねた。
とくん。
怒りとも、悲しみとも違う。
もっと底の方に沈んでる、名前のつけようがない何か。
「“イヌミミさん”? ああ、こいつの名前はゲルトっていうらしい」
アリアさんの声が、ちょっと遠く聞こえた。
ゲルト。
聞き覚えはあった。たぶん名前なんだろうなとは思ってた。でも、ちゃんと確かめる暇なんてなかった。
ドワーフの人は名乗ってくれた。
でも発音が難しくて、わたしは曖昧に笑ってごまかした。
馬の人は愛想がなさすぎた。
名前を聞ける空気ですらなかった。
フィーネさんは──
そこで思考が止まる。
優しかった。
言葉がちゃんと通じない相手にも、あの人はちゃんと手を差し出してくれた。あの街道脇で拾ってもらわなかったら、わたしは統と会うこともなかったかもしれない。
感謝してもしきれない人たちだ。
その一人が、今こうして目の前で横たわっている。
他の人たちは。
フィーネさんは。
ドワーフさんは。
騎乗の人は。
胸が痛い。
冷たい空気を吸うたびに、肺の奥がひりっとする。
「ゲルトさんは……ずっとこのままなんですか」
声がかすれた。
それでも、なんとか絞り出した。
「意識が戻るときはある」
答えたのは、奥にいた仲間の人だった。
「だが、しばらくは厳しいだろう。これでも少しずつ持ち直してはいる」
「薬は……?」
「傷薬は使ってある。断面が荒れていないぶん、処置はしやすかった。出血もどうにか止められた」
意味はわかる。
わかるけど、そんな言葉で軽くなる傷じゃない。
視線が勝手にゲルトさんの肩口へ行く。
そこには右腕が、もうない。
もしかして。
統なら、なんとかできるんじゃないか。
わたしを助けてくれたみたいに。
あのときみたいに、どうにもならないものを、どうにかしてしまうんじゃないか。
振り返って、統を見る。
統は黙っていた。
無表情のまま、ゲルトさんを見下ろしている。
冷たい目じゃない。
突き放してる顔でもない。
ただ、静かに何かを測ってるみたいな目だった。
(統……)
お願い、って言葉が喉まで上がる。
でも声になる前に、胸の奥の深い場所がまた脈を打った。
とくん。
まるで、わたしの願いより先に動くみたいに。
まるで、わたしの中の何かが、もう別の答えを知ってるみたいに。




