25、深い心臓
──闇が、黒い。
地球の夜とは種類が違う。
二つの太陽が沈んだあとに落ちてくる闇は、色そのものが濃い。墨汁を流し込んだみたいに光を吸って、目の奥までべったり貼りつく。
足元の土は冷えて、湿った夜風が肌を撫でるたび、体温がじわじわ奪われていく。
なのに、わたしの胸の奥には、それよりずっと冷たいものが居座ってた。
先頭はアリアさん。
その後ろを、わたしと統が続く。
土の匂い、濡れた枝の匂い、夜の冷気。
普段なら「まあ森ってこんな感じ」くらいでスルーするものが──
(……聞こえる……)
思わず足が止まった。
耳鳴りじゃない。風でもない。
虫の脚が葉っぱの筋を横切る音。高いところで休んでる鳥の、胸がふくらむ呼吸の音。
アリアさんの心臓の脈が、ただの“音”じゃなくて“テンポ”として理解できる。
そして──
(草を掻き分ける音……鉄がこすれる音……遠いけど……)
音の方向も距離も、人数まで。わかってしまう。
胸の奥で、別の心臓が動き出したみたいに、ズズッ……と低い振動が体の内側に響いた。
(心臓が……変。深いところで鳴ってる……)
手を当てても触れられない。
皮膚の裏じゃなくて、臓腑よりもっと奥。さらに奥。
そこに、もう一つ“拍動”が生まれてるみたいな錯覚。
「七色、止まるな」
統が肩に手を置いた瞬間、耳の奥のざわつきがすっと弱まった。
冷たい指先なのに、変に落ち着くのが悔しい。
(……統の声だけ、近くて安心する……)
「ごめん。ちょっと……変な感じがして」
アリアさんが足を止めて振り返る。
月明かりの代わりに星が照らす金髪が、うっすら光る。
その目が、わたしを射抜く。
甘さゼロ。冒険者の“査定”の視線。
「ドレミ、さっきから動きが妙だよ。耳がいいの? 気配にも先に気づくし」
しまった。
この人、勘が鋭いの忘れてた。
わたしはとっさに笑ってごまかす。
「えー、たまたまでござるです」
「夜目が利くだけだ。異常ではない」
統が即、上から蓋をした。
わたしが余計な言い訳を足す前に、ぴしゃり。
アリアさんはじっとわたしを見て──
何か言いかけたけど、飲み込んだ。
その“保留”が、逆に怖い。
喉がカラカラになる。
***
しばらく歩いたところで、また足が止まった。
「統……」
息を潜めたまま、統の袖を引く。
指先が少し震えてるの、ちゃんと自分でわかった。
「なんだ? ……あぁ、気づいたのか」
「うん。三人、こっち向かってる」
「正確には四人だ」
統の声が、びっくりするくらい淡々としてる。
この状況すら誤差扱いなの、逆に安心感あるんだけど。
わたしが止まったせいで、アリアさんが振り返った。
「どうしたの?」
統は眉ひとつ動かさずに言う。
「四人、近づいてる。こちらが見つかったわけではなさそうだ」
「なんで人数まで? それにドレミちゃんも気づいたってこと?」
「慣れだ」
統が即答。
アリアさんの眉がぴくりと跳ねる。
「ちょ……慣れって。二人とも、どんな生活してたのよ」
「カンチョーの連続的な?」
一瞬、アリアさんの顔が“理解に迷った顔”になる。
「……それね。二度目だし、もう驚かないわ。緊張よ。カンチョーじゃなく、き・ん・ちょ・う」
発音の違いだったらしい。
わざわざ直してくれるの、地味にありがたい。こういうの、今後も生きるし。
アリアさんは小さく息を吐いた。
「……あんたら、本当に何者?」
統もわたしも返せない。
返す必要もない、って空気だけが静かに流れた。
***
その四人の気配は、どこかでそれたみたいだ。今はもうわからない。
危険なら統がなんとかしてくれるでしょ。
見た目ちびっ子だけど、七千年の安心感がある。
森の空気がまた濃くなって、湿った土の匂いが鼻にまとわりついた。
三人で木々の間を進んでいると、アリアさんがぽつりと話し出した。
「ここ最近、オーミの周りは妙に慌ただしいんだよ。代官も商会も、裏で何か嗅ぎ回られるのを嫌がって」
「嗅ぎ回られるのを……?」
「オーミは流通の要みたいな街だからね。利権も絡むし、後ろ暗いところは少なからずあった。でも十年くらい前に代官が変わってから、それが加速してさ。今じゃ、ごたつきが表に出てきたって感じ」
「その代官が原因なのか?」
「権力と金が、おかしな形でくっついちゃったんだろうね」
アリアさんの声が、ほんの少しだけ冷える。
嫌悪と諦めと、仕事柄の苛立ち。いろんな感情が混じってるのに、言い方は軽い。
本心を見せない癖なんだろうな。
「えーっと、代官の首を付け替えるばよいではないか」
「え? ああ……簡単に更迭できない理由があるんだろうね。さすがに近頃は目に余るらしくて、王国も調査に動いてるみたいだよ」
「お前もか」
統の口調が少し強まる。
アリアさんは目を細めた。
「冒険者だからね。依頼があればなんでもする。あんた達の知り合いの件も、仕事の流れでたまたま関わったって感じ」
「たまたまね……まあ、お互い詮索はしない方がいい。長生きの秘訣だ」
「そうだね。気をつけるよ。まだ食ってない美味いもんもあるし」
アリアさんの軽口に、返ってくる空気は重い。
そのギャップが、緊張を余計に濃くする。
でも、その軽さの下に──
誰かを守る覚悟があるのも、なんとなく伝わってきた。
***
森の奥。小さな岩の裂け目に布が張られて、小屋みたいになってる場所があった。
そこに、アリアさんの仲間が二人、潜んでいた。
気配の消し方が異常に上手い。
すぐ近くにいたのに、全然気づかなかった。わたしの“聞こえる”が、ここでは通じないのが悔しい。
「遅いぞ。オーミの兵が森に入り込んでる。村にも衛兵隊が派遣されたようだ」
「知ってるよ。村の方はこの身で体験してきたからね」
「そうか。よく出られたな。で、獣人の知り合いかもっていうのが、その子らか?」
「そう。無事連れ出せた」
その会話の間、わたしの胸はずっと早鐘みたいだった。
「あのー……」
「わかってる。獣人の様子だろ」
「意識は混濁してる。何度もうなされて『少女を……仲間を……』と言っていた」
その瞬間、胸がぎゅっと締まった。
……わたしを?
唇を噛んだら、アリアさんが小さく笑う。
「顔見せてやんな。あんたらのこと探してたんだろ」
足が勝手に前に出た。
わたしを探してた頃は、みんな無事だったはず。
統が馬車で去った四人を確認したって言ってたし。
なのに、どうして追われることに?
盗賊?
でもそれなら、衛兵隊が村に来た理由がわかんない。
もしかして、わたしたちが盗賊扱い?
想像がぐるぐる回って、心臓の奥がざわざわする。
奥へ案内されて、見えたのは──
血に染まった布の上で、かすかに息をしている獣人の男。
右腕が、肩から先──根元から綺麗に消えていた。
膝が抜けて、その場に座り込んだ。
世界がぐにゃりと傾いたみたいで、焦点が合わない。
「……イヌミミさん……」
声にならない声が漏れる。喉が震える。
そのとき、胸の奥でその“あの深い心臓”が、とくんと跳ねた。
怒りでも悲しみでもない。
言葉にできない衝動。人の感情よりもっと底に沈んだ、別の何か。
「“イヌミミさん”? ああ、こいつの名前はゲルトって言うらしい」
ゲルト。
聞き覚えはある。
たぶん名前だろうなとは思ってたけど、ちゃんと確かめる機会がなかった。
ドワーフの人は名乗ってくれた。でも発音が難しくて、曖昧に笑って逃げた。
馬の人は愛想ゼロだった。笑ったら負けとか思ってそう。名前は当然知らない。
フィーネさん……無事かな。
言葉が通じないのに親身になってくれた。優しくて、あったかくて。
あの街道脇で拾ってもらわなかったら、統と出会うこともなかった。
感謝しても、し足りない人たち。
そのゲルトさんが腕を失って、わたしの目の前で横たわっている。
呼吸が浅い。体温も低い。
毛並みは乾いた血で固まってる。
他の人の消息は不明。
胸が苦しくて、息を吸うのもつらい。
「ゲルトさんはずっと寝たまま?」
「意識の戻る時はあるがな。しばらくはこの状態だろう。これでも回復はしているようだ」
「ポーション的なものは?」
「ポーション? 回復薬か。噂では聞いたことはあるが、実物は見たことないな。効く傷薬は使ってある。鋭い刃物で斬られたから、傷口はきれいだ」
……きれい。
そんな言葉で片付けられるわけないのに。
もしかして、統なら治せる?
わたしを救ってくれたみたいに。
わたしは振り返って、統を見上げた。
統は黙ったまま、無表情でゲルトさんを見下ろしている。
冷たい目じゃない。ただ、何かを静かに計算してるような目。
(統……お願い……)
言葉にする前から、喉が震えた。




