18、消えた少女と残ったバッグ
【2026/5月改訂】
フィーネ視点
──四日前。
少女が森の闇へ吸い込まれるように走り去った瞬間、フィーネの胸の奥で何かが冷たく折れた。
待って、と叫びたかった。
けれど声は喉で引っかかり、音にならない。
矢をつがえている場合ではなかった。
もっと近くにいれば。もっと早く動いていれば。
そんな後悔が頭を埋めそうになる。
だが、戦場にいる身体はそれを許さなかった。
フィーネは地面を転がったまま身体を捻り、迫る狼もどきへ二の矢を放つ。
喉を貫いた手応えを感じるより先に、もう立ち上がっていた。
耳鳴りがする。
視界が揺れる。
足が、重い。
それでも背中を押したのは、痛いほどの焦りだった。
(あの子を、また一人にした……!)
「フィーネ! 戻れ!」
ローデリヒの怒声が飛ぶ。
戻るつもりはなかった。
今すぐ追わなければ、もう二度と会えない。そんな確信にも似た焦りが、胸を締めつける。
「ディルク、カバー!」
「任せい!」
ディルクのハンマーが地を打ち、衝撃で数匹が体勢を崩す。
その隙をゲルトが駆け抜け、喉元へ鋭い斬撃を刻んでいく。
押し返している。
戦況だけ見れば、そうだった。
けれど森の奥から吹いてきた風は、もう少女の気配を運んではこなかった。
戦いが終わった時、フィーネの心はひどく静かだった。
冷えた空洞みたいに、何も入っていない。
「……ドレミ……」
初めて、その名を口にした。
返事はなかった。
それから四日間。
一行は少女の痕跡を探し続けた。
倒木の陰。枯れ葉の下。獣道の奥。
ディルクは足跡を読み、ローデリヒは馬を走らせ、ゲルトは鼻を利かせて森を駆けた。
フィーネも歩き続けた。
ろくに眠れていないせいで足は震え、それでも止まれなかった。
名前もろくに知らない。
言葉だって通じなかった。
それでも、あの怯えた目を思い出すだけで胸が痛んだ。
頼るように見上げてきたこと。
こちらの仕草を見て、少しだけ笑ってくれたこと。
言葉がなくても、伝わるものがあった気がしたこと。
その全部が、今になって喉を締めつける。
「……フィーネ。もう潮時だ」
ローデリヒの声は低かった。
フィーネは返事をしない。
朝霧の森を見つめたまま、足を止めない。
湿った空気の向こうに、今もどこかであの小さな背中が揺れた気がした。
「依頼に間に合わなくなる。ここで足を止めれば、俺たちも終わる」
「わかってる……そんなこと……」
でも、と続けたかった。
けれど言葉にならない。
わかっていた。
探せば探すほど、少女が生きている可能性は薄くなる。
狼の群れの中を逃げた子どもが、四日も無事でいられる保証などない。
それでも、諦められなかった。
「もう少しだけ……お願い」
「フィーネ」
ローデリヒの手が肩に置かれる。
その重みが、妙に温かくて痛かった。
「……戻るぞ」
抵抗はできなかった。
少女のバッグを胸に抱いたまま、フィーネは小さく頷く。
その瞬間、何かが喉の奥で崩れ落ちた。
森を離れたあとも、疲労は一行にまとわりついていた。
馬車が軋むたび、フィーネは膝の上のバッグを抱え直す。
ドレミが残していったショルダーバッグ。
あの子がずっと肩に掛けていたものだ。
ローデリヒが横目でそれを見て、ため息をつく。
「……そんなに抱かなくても、中身は逃げないぞ」
「……わかってる。でも、これ……あの子の匂いがするのよ。汗と、少しだけ甘い匂い」
「匂い、か。俺には金属っぽい匂いしかしないな」
フィーネは少しだけ笑った。
探している間は、一度も笑えなかったのに。
「ねえ、ローデリヒ。これ、触ってみて」
バッグの布地を差し出すと、ローデリヒは指先でつまみ、眉をひそめた。
「……布じゃないな。革でもない。金属……にしては柔らかい」
「織ってあるみたいなのよね。でも、どうやってこんな糸を作ったのかしら」
「こんな細く均一なもの、職人が何人いても無理だろ」
前の御者台から、ディルクが身を乗り出した。
「無理じゃ無理じゃ。魔道工房でも気が遠くなるわい。見てみい、その縫い目。均一で、間隔も揃っとる。しかも丈夫じゃ」
「これが……文明の暴力……」
「違いないわい!」
ディルクが満足げにうなずく。
そのやり取りに、フィーネはまた少しだけ笑った。
昼過ぎ。
風通しのいい馬車の中で、フィーネはバッグの中身を一つずつ取り出した。
まず目についたのは、本だった。
表紙は硬くなめらかで、中の紙は妙に白い。文字は黒く、整いすぎるほど整っている。
「……きれいすぎる」
そう呟いてページをめくる。
中には見たことのない建物や器具の図が並んでいた。線は細く均一で、人の手で描いたというより、何か別の仕組みで写し取ったみたいだった。
「どこの国の文字でもないな」
ローデリヒが言う。
「それでも、この子にとっては大事な本だったのかもしれないわね」
そう言いながら本を閉じる。
読めなくても、それを大切にしていたことは分かる気がした。
次に出てきたのは細い棒だった。
ゲルトが匂いを嗅ぎ、目を細める。
「インクの匂いがする」
「これで書いてたのかしら」
フィーネが木片に試してみると、先端が滑るように走り、細い黒線が残った。
「……嘘でしょ。筆も、壺もいらないの?」
「魔力は感じねぇ」
ゲルトが低く言う。
「作りだけでこんなことができるのかよ……」
ディルクが呆れたように呻く。
文明の暴力。
さっきの言葉が、今度は本気で胸に落ちた。
さらに奥から、水筒が出てきた。
銀色の筒。継ぎ目は驚くほど滑らかで、ひねるとするりと蓋が外れる。
ディルクの目が変わった。
「これじゃ、これ……昨日も見たが、何度見てもおかしい!」
「ただの容れ物でしょ?」
ローデリヒが首をかしげる。
「ただの容れ物がこんな精度しとるか! 継ぎ目も、螺旋も、全部狂いがない。鍛冶屋が泣くわ!」
フィーネは苦笑しながら、その水筒を撫でた。
ドレミはこれを抱えるみたいに持っていた気がする。
そして最後に、バッグの底から小さな包みを見つけた。
羊羹スティックが一本だけ残っている。
「……これ、甘いものよね」
鼻を寄せると、やわらかな甘い匂いがした。
「食べ物を置いていくなんて……よっぽど混乱してたのね」
その言葉が、自分の胸に返ってくる。
どれほど怖かったのか。
どれほど急いで逃げたのか。
フィーネは包みを握ったまま、しばらく動けなかった。
「なあ、フィーネ」
ローデリヒの声が落ちる。
「お前、自分を責めてるだろ」
図星だった。
フィーネは答えられないまま、バッグを胸に抱き寄せる。
「私……あの子の手を、ちゃんと掴んでいれば……」
「戦場でそれは無理だ」
ローデリヒがきっぱりと言った。
「責めるな。ここに残った物が、あいつがいた証拠だ」
「……わかってる。でも……」
わかっていても、追いつかない。
ゲルトが静かに鼻を鳴らした。
「フィーネ。お前、匂いが変わってる」
「……何よ」
「悲しみの匂いだ」
「……うるさいわね」
笑おうとした声は、少し震えた。
バッグの中身はどれも奇妙で、理解しがたくて、この世界のものではなかった。
けれどフィーネにとっては、それ以上に、ドレミが確かにここにいた証だった。
フィーネはバッグの口を閉じる。
そしてもう一度だけ、それを胸に抱いた。
まだ、手放せなかった。




