19、商都オーミの代官とエチゴヤ
【2026/5月改訂】
商都オーミ。
交易の中心地らしく、大通りは人と荷車で埋まり、香辛料の匂いと鍛冶場の音が絶えず入り混じっていた。
その喧騒の中を進んできた馬車は、やがて大きな建物の前で止まった。
磨かれた石柱。重たそうな扉。屋根には船を模したエチゴヤ商会の紋章。
見上げたローデリヒが、低く鼻を鳴らす。
「気取ってやがる」
案内されて中へ入った瞬間、フィーネは空気の変化を感じた。
静かだ。
静かなのに、見られている。
商会員たちは整然と並び、笑みを浮かべている。
けれど、その目だけが妙に忙しかった。荷、人、装備、身なり――値踏みするように次々と動いている。
「ようこそ、お疲れさまでした」
接客役らしい男が丁寧に一礼した。
「契約品の確認はすぐに行わせていただきます。ただ、担当がまだ戻っておりませんで……少々お待ちいただくことになるかと」
その視線が、ふとフィーネの抱えたバッグに止まる。
一瞬だけ、男の笑みが固まった。
「……失礼。その鞄は、どちらで?」
フィーネは反射的に一歩退き、バッグを腕の内側へ引いた。
「旅の途中で預かったものよ。依頼とは関係ないわ」
「なるほど」
男は笑みを崩さない。
だが、その目だけが布地の織り目をなめるように追っていた。
「珍しい品に見えましたもので。差し支えなければ、少しだけ拝見を――」
「必要ない」
ローデリヒが間に入る。
男はそこで初めて、ローデリヒたちの装備を見た。手練れだと気づいたらしい。口元の角度がわずかに変わった。
「失礼しました。ただ、当商会には鑑定に長けた者もおります。もし価値の分からぬ品なら、適正な評価ができるかと」
その時、別の商会員の目が、水筒へ向いた。
「……おい」
低い声だった。
「それも、見せていただけませんか」
フィーネの背筋が冷たくなる。
あの目だ。魔獣を前にした時とは違う。もっと粘り気のある、奪うための目だった。
「あの子の物なの」
フィーネはバッグを抱き直す。
「勝手に触らないで」
その一言で、周囲の空気がわずかに張り詰めた。
奥から、ゆっくりと太った男が歩いてくる。
金の指輪をいくつも嵌めた手。腹の出た体。だが目だけは油の膜みたいにぎらついていた。
商会長だった。
「失礼をいたしましたな、お嬢さん」
声は柔らかい。
柔らかいのに、妙に耳に残る。
「大切な品だというなら、無理にとは申しません。ただ、そうした品こそ、相応しい環境で保管されるべきものでもある」
「何が言いたいの?」
フィーネが睨むと、男は穏やかな笑みのまま肩をすくめた。
「簡単な話です。その品は、個人が旅の途中で持ち歩くには惜しい、ということですよ」
ゲルトの耳がぴくりと立つ。
ディルクの目も細くなった。ローデリヒは一歩も引かない。
商会長は構わず続ける。
「ここは商都。珍品奇品は、正しく価値を見極め、然るべき場所に収めてこそ生きる。そういう土地でしてな」
「つまり、渡せってこと?」
「おや、そこまで露骨なことは申しません。ただ――」
商会長の目が笑わなくなった。
「価値ある品には、価値ある持ち手が必要だ、というだけの話です」
短い沈黙が落ちた。
ローデリヒが低い声で言う。
「依頼の確認だけ済ませろ。こっちは品評会に来たんじゃねえ」
「これは失礼」
商会長はすぐに笑みに戻った。
「では本日はここまでに。契約品の確認が済み次第、改めて使いを出しましょう」
丁寧すぎるほど丁寧に頭を下げる。
だが、フィーネにはもう分かっていた。
この男は諦めていない。
諦める気など、最初からない。
商会を出てからもしばらく、フィーネは何も言えなかった。
バッグを抱えた腕だけが、じわじわと強ばっている。
「……エチゴヤの連中、目が腐っとったぞ」
ディルクが吐き捨てる。
「同感だ」
ローデリヒも振り返らずに言う。
「金じゃなくて、欲そのものを見てる目だった」
ゲルトが低く唸った。
「獲物を前にした匂いがした」
フィーネは歩きながら、腕の中の重みを確かめた。
ドレミを守れなかった。
そのうえ、あの子の残した物まで狙われている。
「……渡さない」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
夕焼けが赤かった。
妙に赤くて、嫌な色だった。
***
フィーネたちが去るのを見届けると、商会長は笑みを消した。
重い扉が閉まる。
室内に残った商会員たちも、もう愛想笑いを浮かべてはいなかった。
「どう見る」
商会長の短い問いに、鑑定係が息を詰めたまま答える。
「布地は未知の素材。水筒は加工精度が異常です。周辺諸国どころか、王都の工房でも再現は困難かと」
「つまり?」
「……王宮が欲しがります。軍も。あれ一つで、いくつもの扉が開くかと」
商会長は黙って指輪を撫でた。
金で買える珍品ではない。
市場価値という言葉で片づけられる段階を越えている。
独占できれば、商売の道具では済まない。政治に手が届く。
「持ち主は?」
「少女の遺品だと」
「遺品、か」
商会長は鼻で笑った。
「ならなおさら、あの娘が抱えている理由は感傷しかない。感傷は、価値の管理には向かん」
鑑定係は何も言わない。
言えない。
「拾い物と言っていたな。なら出所などいくらでも濁せる」
商会長の目が細くなる。
「詐取でも、窃盗でも、横流しでもいい。名目は何でも構わん。大事なのは、こちらが先に正義の顔をすることだ」
「……代官に、ですか」
「当然だ」
商会長は即答した。
「法は、使える者が使うものだ」
部屋の空気が一段冷えた。
「相手は腕が立つ。正面から奪うな。罪人にして取り上げろ。品は押収品、我々は協力者――それが一番きれいだ」
きれい、という言葉に、誰も笑わなかった。
***
その夜。
オーミ代官の屋敷では、まだ灯りが消えていなかった。
代官室の扉が閉まり、エチゴヤの商会長が深々と頭を下げる。
「夜分に失礼いたします、代官殿」
「エチゴヤか。急ぎとは珍しいな」
「少々、厄介な荷が入りまして」
商会長は懐から一枚の写し絵を取り出し、机上に置いた。
描かれているのは水筒の輪郭だけだ。それでも異様な精度が伝わる程度には整っていた。
代官の目が細くなる。
「……これは、本物か」
「現物はございません。ですが、見た限りではこの通り。継ぎ目はほとんどなく、螺旋も狂いがない。魔力の気配もありませんでした」
「魔道具ではないのか」
「だからこそ、です」
商会長は静かに言った。
「誰の手にあるべき品か、考えるまでもないかと」
代官は写し絵を見たまま、指で机を叩く。
「持っているのは?」
「旅商人まがいの小さな運搬業者です。価値も分からず抱え込んでおります」
「……危ういな」
その言葉に、商会長はすぐ乗った。
「ええ。出所も不明。盗品、横領品、あるいは禁制品の可能性すらある」
「なるほど」
代官は椅子に深くもたれた。
「では、捕縛の名目は立つ」
商会長は一礼する。
「証拠品として押収できれば、それで十分です」
「十分、か」
代官の口元がゆがむ。
「その証拠品のうち、一つは私に回せ。帳簿に載らぬ形でな」
「もちろんでございます」
「抵抗した場合は?」
商会長は迷わなかった。
「やむを得ません」
その一言で、必要な意味は足りた。
代官は短く笑い、杯を取った。
「商人というのは、つくづく強欲だな」
「お褒めにあずかり光栄です」
酒が注がれる。
書類が引き寄せられる。
代官は判を取り、何の感慨もなく紙に押した。
それだけで十分だった。
夜のうちに数人の役人が呼ばれ、別室で命を受ける。
宿の位置。相手の人数。押収対象。
声は低く、手際は妙に良かった。
そのころフィーネたちは、まだ何も知らずに眠っていた。
外ではもう、朝を待たずに靴音が動き始めていた。




