105、届かなかった追跡
荷車が動き出してから、どれくらい経ったのか。
わたしには分からなかった。
ただ、窓の外を見ていると、遠くの路地を曲がっていった荷車の影が、いつまでも頭から離れなかった。
アリアさんの走り書きには、「追う」とだけ書かれている。
だからこそ、わたしは待つしかなかった。
「……本当に待つの?」
窓辺から振り返ると、統はベッドの端に腰掛けたまま、こちらを見ていた。
「待つ」
「わたしなら追いつけるかもしれないよ」
「追いついて、どうする」
「……」
返事に詰まった。
統はそれを見て、淡々と続ける。
「荷車を止めるか。中身を見るか。開けて、子どもが出てきたら、お前はその場で全員を倒すか」
「ぐっ……」
「仮に倒せたとしても、逃げた連中は翌朝には別の顔で動く。証拠がなければ、衛兵は我々を捕らえるだろう」
「分かってるわよ」
「なら、待てる」
「それが一番むかつくの」
思わず唇を尖らせると、統は少しだけ首を傾けた。
「理屈が正しいからか」
「そう。わたしだって、頭では全部分かってるのよ。でも、目の前で荷車が子どもを運んでるかもしれないのに、部屋で座ってろって言われると、納得できない」
「納得する必要はない」
「え?」
「必要なのは、失敗しないことだ」
その言葉に、わたしは黙った。
腹が立つ。腹は立つのだけれど、反論できない。
ここは、わたしが今まで戦ってきた場所とは違う。
剣を抜いて敵を倒せば終わる場所ではない。正しいことをしているつもりでも、証拠がなければこちらが悪者になる。逆に、相手が明らかに怪しくても、街の制度を味方につけていれば簡単には手を出せない。
王都という街そのものが、巨大な盾になっている。
「……分かった」
わたしは窓の外へ視線を戻した。
「今日は待つ」
「それでいい」
「でも、明日は動くからね」
「知っている」
「そこは止めないんだ」
「止めても行くだろう」
「まあね」
思わず笑うと、統もそれ以上は何も言わなかった。
しばらくして、遠くで鐘が鳴った。
夜が少しずつ薄くなっていた。
やがて空が白み始めたころ、廊下から足音が聞こえてきた。
少し急いでいる。
わたしが扉を見ると、統も同時に顔を上げた。
次の瞬間、控えめなノックが響いた。
「入って」
扉が開き、アリアさんが入ってきた。
その後ろにはノッピーニオさんもいる。
さすがに疲れているらしく、アリアさんの髪は少し乱れ、ノッピーニオさんの目の下には薄い隈が浮かんでいた。
「……おかえり」
わたしが声をかけると、アリアさんは椅子を引きながら苦笑した。
「ただいま。残念だけど、手ぶらよ」
「追いつけなかった?」
「追いついたわ。正確には、見失った」
アリアさんは腰を下ろし、深く息を吐いた。
「荷車は北へ向かった。途中で木戸を二度越えてる」
「木戸を?」
「ええ。どちらも深夜の通行許可が出ていたわ」
わたしは思わず統を見た。
統は何も言わない。
ただ、こちらの視線にも反応せず、アリアさんの話を聞いている。
「許可証は本物だったの?」
「そこが一番嫌なところね」
アリアさんの代わりに、ノッピーニオさんが紙を一枚、机の上へ置いた。
そこには、昨夜の記録が細かく書き込まれている。
荷車の大きさ。
幌の形。
護衛の人数。
木戸を通過した時刻。
そして、遠目から確認したという許可証の印章。
「本物だった」
ノッピーニオさんが短く言った。
「少なくとも、衛兵が偽物として扱うものではない」
「じゃあ、どこまで行ったの?」
「北神殿に近い街区まで」
アリアさんが答えた。
「そこから先は衛兵の数が増えた。深夜に二人だけで追えば、こちらの方が目立つ。だから、そこで切ったわ」
「北神殿……」
その名前を口にした瞬間、昨日見た白い布が頭に浮かんだ。
ベルロウさんが、少し嫌そうに耳を動かす。
「あー、月の姉神メンバメイのところか」
「ええ」
アリアさんは頷いた。
「王都でも一番古い神殿よ」
それだけで、部屋の空気が少し重くなった。
わたしはもう一度、統を見る。
今度は、統もこちらを見た。ほんの一瞬だけだった。
けれど、その目がわずかに細くなったのを、わたしは見逃さなかった。
まるで、初めて聞いた話ではないような顔だった。
朝食の時間になっても、空気は軽くならなかった。
パンを切りながら、わたしはノッピーニオさんのメモを覗き込む。
昨夜の荷車について、かなり細かく記録されている。
「護衛は四人」
ノッピーニオさんが言った。
「荷車一台。馬二頭。木箱は少なくとも六つ」
「中身までは分からなかった?」
「そこまでは見えない」
そこでノッピーニオさんが、紙の端を指で押さえた。
「ただ、印章が気になる」
書き留められていた印章の形を見る。
円形の中に、いくつかの線が重なっている。
「衛兵所のものではなかった」
「じゃあ何?」
「神殿の印章に似ている」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
アリアさんが、静かに紙を取り上げる。
「深夜の通行許可を神殿経由で発行できる人間がいる、と考えた方がいいわね」
「神殿が白布に便宜を図ってるの?」
「神殿全体が、とは限らないわ」
アリアさんは首を振った。
「中にいる誰かかもしれない。あるいは、神殿と別の組織が繋がっているのかもしれない。まだ断定はできない」
ベルロウさんがパンをかじりながら、ぼそっと呟いた。
「臭い話が、本格的に臭くなってきたな」
「それ、分かりやすいけど嫌な表現ね」
「実際そうだろ」
反論できない。
ここまで来ると、もう平民街の慈善団体を調べている、というだけでは済まない。
街の制度に入り込み、神殿にまで手を伸ばしている。
白布の向こう側には、もっと大きな何かがある。
そう考えた方が自然だった。
アリアさんが、ふと思い出したように言った。
「それと、今日、私は向こうに連絡を取るわ」
「向こう?」
わたしが聞き返すと、アリアさんは一瞬だけ間を置いた。
「依頼主よ。ここまで大きくなった話を、私の一存で抱えるわけにはいかないから」
「……監査院ってところ?」
「まあ、そういうことで」
妙に歯切れが悪い。
けれど、わたしはそれ以上追及しなかった。
まだ、アリアさんが何を隠しているのか、全部分かっているわけではない。
ただ、少なくとも味方ではある。そう思っていた。
向かいに座っていた統が、杯を持ち上げる。
その手が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれど、誰もそれには気づかなかった。




