102、成長する『血』
三人が去ったあともしばらく、わたしは動けなかった。
ベルロウさんが、横から軽く肘で小突いてくる。
「ドレミ」
「……なに?」
「こっち向け」
わたしは無理やり視線を戻した。
「お前、絶対あの集まりに行きたがってる顔してる」
ぐ、と詰まった。
「顔に出てた?」
「お前、顔に出やすいよ。役者やってたって言ってたくせにな」
「役と素は別なのよ」
「役の時は、あーしも騙されるよ。素の時はなあ」
ベルロウさんは、ふっと息を吐いた。
「あの女、たしかにあーしの鼻も嫌いだった」
「うん」
「上手いやり方だ。怒鳴らねえ。掴まねえ。札も無理やり押しつけねえ。ただ、引っかかったやつには、ちゃんと『覚えていてくれ』って空気だけ残して帰る」
「……そうなんだよね」
「あーしらが今ここで暴れたら、王都で通り名がつくぜ」
「それは分かる」
わたしは深く息を吐いた。
「分かってるんだけど……」
「ん?」
「あの子の顔、放っておけないなっと思って」
「だろうな」
ベルロウさんは、それ以上は止めなかった。止めないことが、ベルロウさんなりの「だろうな」なのだと思う。
「だからこそ、ドレミ」
「なに?」
「お前、一人で動くなよ」
「分かった」
「アリアとスバルに、ちゃんと相談しろ」
「了解」
「あーしもいる」
「うん」
「忘れんなよ、子守係を」
「失礼ね」
ベルロウさんが、にっと笑った。
わたしも、なんとか笑い返した。
胸の中には、まだぞわぞわしたものが残っていた。
あの少女の振り返った目。
あの女性の品のある言葉遣い。
そして、「血の中に、古いものを感じる方」という言葉。
全部が、嫌な組み合わせで頭に残っている。
その頃、わたしたちがいた場所から少し北の通りでは、統もまた、別のものに出会っていた。
わたしがあとで聞いた話をつなぎ合わせると、統は王都の魔力線を確認するため、一人で歩いていたらしい。
王城を中心に、東西南北の塔へ向かう線。
その一部が、地上だけではなく地下へ向かっている。
統がそのことを確かめていた途中、ある神殿の脇道で、白い装束の老人とすれ違った。
老司祭らしい。
杖を突いていて、目はもうほとんど見えていないようだった。
ところが、老人は統の前で足を止めた。見えていないはずなのに。
老人はしばらく黙ったあと、ごく軽く頭を下げた。
驚いている様子もなかった。
怖がっているようにも見えない。
ただ、まるで――昔から知っているものに、久しぶりに出会ったような仕草だった。
「……久しぶりに、こういうものを見たな」
老人は、それだけ言った。
統も何も答えず、軽く頭を下げ返した。
そのまま、二人は別々の方向へ歩いていった。
振り返らなかった、と統はあとで言った。
そして、その時に何を感じたのかについても、統は多くを語らなかった。
ただ、一つだけ。
「この街には、私を知っている側の人間がいる」
そう言った。
それ以上は、何も教えてくれなかった。
わたしたちは予定より早く宿へ戻った。
ベルロウさんが「これ以上歩いても、今日は意味がない」と判断したのと、わたし自身、足が少し重くなっていたのと、その両方が理由だった。
食堂奥のテーブルには、すでにアリアさんとノッピーニオさんがいる。
わたしの顔を見るなり、アリアさんは茶器に伸ばしかけた手を止めた。
「どうした?」
「ドレミ、向こうに当てられた」
ベルロウさんが先に答えた。
「丁寧に、ちゃんと品定めされたよ」
アリアさんの目が、ほんの少し細くなる。
わたしは、できるだけ落ち着いた声で順番に話した。
路地裏で少女に会ったこと。
パンと果物を渡したこと。
白布の女性が現れ、「保護している」と言ったこと。
話し終えると、アリアさんはしばらく黙っていた。
茶器の縁を指で二度叩いてから、ゆっくり息を吐く。
「……向こうから、もう仕掛けに来てるわね」
「勧誘? それとも目印?」
「両方よ」
アリアさんは、わたしをまっすぐ見た。
「誘いと品定めを、同時にやってる」
「うわ、嫌な手口」
「上手な手口でもあるわ。慣れてる」
「経験のある組織ってこと?」
「少なくとも、王都で一日二日やってる連中の手際じゃないわ」
ノッピーニオさんが無言でメモに何かを書き足した。
わたしには内容までは見えない。
でも、ベルロウさんが今日の道すがら拾ってきた情報も、わたしが見た看板の内容も、白布の女性の言葉も、彼の中ではすでに整理され始めているのだと思う。
たぶん、わたしよりずっと正確に、今日一日のことを覚えている。
「明日の動きなんだけど」
アリアさんが、いったん言葉を切った。
「もう少し外側から情報を集める。集会所の場所と、出入りする人数、それから時間帯」
「分かった」
「外から見える範囲だけよ。内側には、まだ踏み込ませない」
「……アリアさん」
「ん?」
「わたし、行く」
自分でも驚くくらい、迷いなく言っていた。
アリアさんが、ほんの少しだけ目を瞠る。
「危ないわよ」
「行きたいの」
「理由は?」
「あの子を放っておけない」
言いながら、頭の中には別の理由も浮かんでいた。
あの女性の言葉。
「血の中に、古いものを感じる方」。
あれは、たぶん偶然ではない。
たまたまわたしを捕まえて、適当なことを言ったわけではないのだと思う。
あの言葉は、わたしが今いちばん、自分でも怖いと思っている部分に、まっすぐ手を伸ばしてきた。
そんな連中が、何の準備もなく王都を歩いているとは思えない。
だったら、こちらも準備する側に回らなければいけない。
「あの子を放っておいたら、たぶん次の子が同じ目に遭う」
「……ええ」
「だから、一度ちゃんと近くまで行って見たい」
アリアさんは、しばらく黙っていた。
ベルロウさんが横から軽い声で言う。
「ま、こいつ、言い出したら聞かねえぞ」
「知ってる」
アリアさんが少し笑った。
「分かった。ただし、条件をつける」
「なに?」
「一人で動かない」
「分かった」
「スバルと完全に連携を取る」
「了解」
「危険判定は、最後にスバルが出す。前にあなたたちと約束した通りよ」
「……分かった」
今度は、はっきり頷いた。
ベルロウさんも、ノッピーニオさんも無言で頷く。
ノッピーニオさんがいつ頷いたのか、たぶん他の人には分からなかったと思う。
でも、わたしには分かった。
今日の彼は、いつもより少しだけ視線が忙しい。
たぶん、何かをずっと自分の中で組み立てている人の動きだった。
夜、部屋へ戻った。
窓の外では、街灯がぽつぽつと灯っている。
遠くから、また祈祷の声が薄く聞こえてきた。
統は、もう部屋に戻っていた。
わたしの顔を見ると、何かを察したようだった。
わたしはベッドに腰掛け、今日あったことを順番に話した。白布の女性に言われたことまで、すべて。
統は、いつもより長く黙って聞いていた。
普段なら、途中で何度か「事実か」とか「いつだ」とか確認してくるのに、今日は最後まで遮らなかった。
話し終えると、統は短く言った。
「お前、踏み込む側になることに、もう抵抗がないな」
「……あるよ」
わたしは少し笑った。
「怖いし、できれば関わりたくないと思ってる」
「だが、止まりたくはない」
「うん」
統は、ほんの少しだけ目を細めた。
「変わったな」
「変わった?」
「ボーダーにいた頃のお前なら、迷子の少女がいたら、助けて終わりだった」
「……そうかも」
「今日は、その先まで自分で行こうとした」
「うん」
「悪くない」
わたしは、ちょっと固まった。褒められた、というには控えめすぎる。
でも、ちゃんと評価ではあった。
「珍しく褒めるじゃない」
「気のせいだ」
「うわ、即逃げた」
「事実だ」
「最近、その『事実だ』の使い方が雑すぎない?」
「便利だからな」
「またそれ!」
文句を言いながら、わたしは笑っていた。
統は、いつもの平坦な声で、最後に一つだけ付け加えた。
「ただし、ひとつ言っておく」
「なに?」
「あちらは、『格上だと思っているもの』を、今、品定めしに来ている」
「うん」
「次に向こうが踏み込んでくる時は、もっと正面からだ」
「……正面から?」
「だから明日は、私もお前の動きに合わせる」
思わず、統を見る。
「ついて来てくれるの?」
「ついて来る、ではない」
「じゃあ、なに?」
「合わせる」
「ほとんど同じ意味じゃない?」
「違う」
「どう違うの?」
「お前の判断を尊重する側に立つ、という意味だ」
わたしは、少しだけ口をつぐんだ。
ああ。
それは、ボーダーの時にも、ダイスロープの時にもなかった言葉だった。
あの時の統は、わたしを助ける側だった。
守る側だった。
でも今は、少し違う。
わたしの判断を、信用する側に立つと言っている。
それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「……ありがと」
「気のせいだ」
「それは気のせいじゃないでしょ!」
「事実だ」
「あんたほんとに!」
枕を投げつけたくなったけれど、投げたら絶対に怒られる気がしたのでやめた。
代わりに、枕を抱きしめる。
統が灯りを落とす前に、こちらを見ずに言った。
「七色」
「なに?」
「明日も、できるだけ気配を抑えろ」
「分かってる。ふだんの半分でしょ」
「ああ」
「努力する」
「それでいい」
統は、そこで少しだけ間を置いた。
「だが、今日のお前なら、それ以上を保てる気もする」
「珍しい言い方ね」
「気のせいだ」
「だーかーらー!」
灯りが落ちた。
窓の外では、街路の灯りが薄く部屋の天井を撫でている。
通りは、もうほとんど人の気配がない。
遠くの祈祷の声と、街区を越える夜の見回り衛兵の足音だけが、静かな夜の中に響いていた。
わたしは天井を見ながら、今日一日のことを思い返した。
「あなたなら、扉はいつでも開いておりますから」
「血の中に、古いものを感じる方」
もう、知らないふりはできない。
明日のわたしは、たぶん今日までのわたしとは少し違う場所に立つ。
ただ目立たないように歩くだけじゃない。自分から見に行くのだ。あの子がいた場所へ、あの白い布の向こう側へ。
それが正しいことなのかどうかは、まだ分からない。怖くないと言えば嘘になる。
それでも、もう一度目を閉じてしまうことだけは、したくなかった。




