101、誘いの札
看板を見たあとの通りを、わたしたちは少し迂回した。
ベルロウさんが「こっち抜けるぞ」と路地裏のような道を選んだのだ。
通りの大筋から少し外れて、洗濯物が頭上に渡された薄暗い小路を、何本か通る。
その途中だった。
ベルロウさんの耳が、また、ぴくっと動いた。
「ドレミ、こっち」
声は小さかった。
でも、足は確実に方向を変えていた。
わたしはあわてて続く。
ベルロウさんが立ち止まった先、壁にもたれて、小さな少女が座り込んでいた。
たぶん、十歳くらい。
頬がやや痩けていて、顔色はあまり良くない。
服は妙に整っていた。襤褸ではない。けれど、誰かの“揃いの服”を着ているような、軽い違和感がある。
ベルロウさんが、ふっと小さく息を吐いた。
「迷子じゃねえな、これは」
「うん」
わたしは少しだけ膝を曲げて、目線を下げた。
子どもに話しかける時は、これだけで結構違う。
舞台でも何度かやった。なるべく上から落とさない位置で声をかけるのは、子どもにも、人見知りにも、有効だった。
「ねえ、大丈夫?」
少女は、最初は何も答えなかった。
わたしの顔を見て、それからベルロウさんの方を見て、また視線を落とす。
「迷子?」
少女は小さく首を振った。
「お母さんは?」
「……いない」
「お父さんも?」
「いない」
「家は?」
「……前は、あった」
声は細かった。
でも、嘘を言っている感じはしなかった。ただ、ものすごく、慣れた答え方だった。
たぶん、もう何度か同じ質問をされている子だった。
「お腹、すいてる?」
少女は、ほんの少しだけ頷いた。
わたしはベルロウさんを見上げた。
ベルロウさんは何も言わず、ただ顎で「行ってこい」と路地の出口を指した。
わたしは近くの露店に走って、丸いパンと果物をひとつずつ買った。
戻ってくると、少女はまだ同じ場所に座っていた。
「ほい」
「……いいの?」
「いいよ」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
わたしが頷くまでに、少女は三回確認した。
少女は、最後にぎゅっと一度パンを握ってから、ようやく小さく齧った。
齧る速度は遅かった。
でも、たぶん、本当はもっと急いで食べたかったはずだ。
「ゆっくりでいいよ」
わたしが言うと、少女はちょっとだけ口の動きを緩めた。
その時。
路地の入口の方から、静かな足音が近づいてきた。
白い布。
また、いた。
今度は三人だった。
四十代くらいの女性がひとり。
三十代くらいの女性がひとり。
二十代らしい男性がひとり。
先頭の女性は、よく見るとびっくりするほど身なりが整っていた。
肌の色は綺麗で、髪も整えられていて、ほんのり香の匂いがする。
白布の連中の中で、たぶんそれなりの立場の人だった。
女性は、わたしと、わたしの前のパンを齧っている少女を見ると、ふわりと微笑んだ。
「あら」
声まで品があった。
「ありがとうございます。その子は、私どもで保護している子なのです」
「……保護?」
「ええ。身寄りのない子どもたちに、食事と寝床を提供しております。彼女もそのうちの一人です」
女性は、ごく自然に少女のそばまで歩いてきた。
少女の肩が、ほんの少しだけ固くなった。
その瞬間、わたしは見た。
嬉しそうな顔ではなかった。
ものすごく微妙な、何かに半分諦めたような目だった。
「たまにこういうことがあるんです」
女性は、わたしに向けて、また穏やかに言う。
「少し外を歩きたくなって。心配して、いつも探しに来ております」
「……そう、なんですか」
「ええ」
答えは完璧だった。
言葉に、引っかかりがない。
声に、無理がない。
表情に、嘘がない。
でも、少女は俯いたままだった。
ベルロウさんが、わたしの背中に半歩近づいて、小声でだけ言った。
「鼻が、ほんのちょっとだけ嫌な匂い拾ってる」
「うん」
「あんまり押すなよ、ドレミ。あっちは合法のフリしてる。突けば突くほど、こっちが面倒被る」
「うん」
頭では分かっていた。
突けば、面倒になる。
合法の顔をされた相手ほど厄介だ。
――でも。
目の前の子を、このまま帰していいのか。その考えを、無理やり喉の奥へ押し込む。
女性の視線が、ふっとわたしへ移った。
その目が、ほんの一瞬だけ止まった。
ぞくり、と背筋が冷える。
「失礼ですが、あなた」
「はい?」
「お顔立ち、お肌の色合い、その瞳の透き通り方……」
女性は、まるで品定めをするように、ゆっくりとわたしを見ていた。
「お疲れではありませんか」
「……は?」
「夜、眠れていますか」
心臓が、ひとつ嫌な跳ね方をした。
最近のわたしは、ぐっすり眠れる日と、そうでない日が半々だ。
昨日もそうだった。 一昨日も、たぶんそうだった。
でも、そんなこと、街中で初対面の相手にいきなり当てられる筋合いはない。
「眠れてますよ」
なるべく平坦な声で返す。
女性は微笑んだまま、ふっと首を傾けた。
「もしよろしければ」
手の中に、いつの間にか札があった。
白い布と同じ色味の、小さな札。
簡素な意匠の、けれど明らかに丁寧に作られている、夜の祈祷の護符のようなもの。
「私どもの集まりは、特別な方をお迎えする会でもあるのです」
「……特別?」
「ええ」
女性は、ためらいなく、けれど押しつけがましさなく、続けた。
「血の中に、古いものを感じる方、と申しましょうか」
心臓が、もう一度跳ねた。
今度は嫌な跳ね方の倍くらいの強さで。
わたしは、自分の表情が動かなかったかどうか、自信がない。
たぶん、ほんのちょっとだけ、動いた。
ベルロウさんが、すぐ後ろで耳をぴくっと動かしたのが分かった。
「ドレミ」
声は小さかった。
「いらないって言え」
ベルロウさんの声には、ためらいがなかった。
わたしは深呼吸を一回した。
「……いりません」
言うのに、思ったより時間がかかった。
でも、ちゃんと言えた。
女性は、表情を変えなかった。
「そうですか」
強引には、押し付けなかった。
それが逆に、気味悪かった。
「いずれ、必要になったらいつでも」
女性は札を引っ込め、また、ふわりと微笑んだ。
「あなたなら、扉はいつでも開いておりますから」
『あなた、なら』──その言い方が、わたしの背骨をもう一回、ぞくっと撫でた。
女性は少女の手を取り、もう片方の信徒に荷物を持たせて、ゆっくり踵を返した。
少女は最後に、一度だけ、ほんの一瞬だけ、振り返った。
助けて、と叫ぶほどの強さは、なかった。
──でも、何かを訴える目だった。
白い布の三人は、来た時と同じ静かな足取りで路地の角を曲がり、そのまま消えた。
わたしは、しばらく動けなかった。
「……ベルロウさん」
「ん?」
「あの人たち……わたしのこと、知ってるのかな」
ベルロウさんは答えなかった。
ただ、消えていった路地の角を見つめながら、ゆっくりと耳を伏せた。




