100、誘いの札
朝食の時、ベルロウさんはやけに念入りにパンを千切っていた。
別に祈祷でもしているわけじゃない。ただ、わたしを横目で見ながら、見事なまでに不機嫌な顔をしていた。
「あーし、お前の子守係扱いなんだけど」
「失礼ね」
「“失礼”って言える立場じゃねえぞ、ドレミ」
「ちょっと!」
「お前、よく考えてみ? 昨日のお前」
「うん」
「肩がぶつかった喧嘩で、まず一歩出ようとしただろ」
「うん」
「ありゃ、いつでもしょっぴかれる前科ものの顔だ」
「人聞きの悪い表現やめて」
ベルロウさんはパンを口に運びながら、にっと笑った。
でも、嫌そうな顔は、ちゃんと半分は本気で嫌そうだった。
わたしは助けを求めて統を見た。
統は、もう朝食を半分以上片付け終わっていた。
いつの間にか身支度も済んでいて、明らかに今から出ようとしている顔だ。
「あんたはあんたで、なに、その完璧な臨戦態勢?」
「今日は別行動だ」
「どこ行くのよ」
「散歩」
「絶対嘘」
「散歩だ」
「あんたが“散歩”って言う日、わたしの知る限り絶対散歩じゃないのよね」
「事実だ」
「すぐ事実に逃げる」
「便利だ」
「だから昨日のと同じよそれ!」
アリアさんが横で笑いをこらえていた。
「あなたたちが街で固まらない方が、こっちも動きやすいの」
「アリアさんもそっち側?」
「そっち側よ」
「ドレミ、観念しな」
「ベルロウさんまで?」
「だってあーし、子守だぞ。子守として全権持って動くからな、文句言うなよ」
「ベルロウさんなんかすごいやる気だしてる!?」
「子守なめんなよ」
「子守、めっちゃ恐ろしい仕事になってるけど!?」
ノッピーニオさんは食堂の隅のテーブルで、いつものように静かに何か書いていた。
目線だけはちらりとこちらに向ける。「やかましいですよ」とでも言いたげな、無言の冷静さ。
わたしはがくっと肩を落として、自分のパンに戻った。
でも、なんだかんだで、悪い気はしなかった。
昨日の今日で、ちゃんとそれぞれの役割をもう一回確認している。
昨日まではわたしたちが歩いていた「ふつうの旅」とは、ちょっとだけ温度が違う朝だった。
宿を出ると、平民街の朝はすでに動いていた。
通りの少し奥に、共同井戸が見える。
その周りには、おばちゃんたちが大きな桶を抱えて集まっていて、洗い物の水しぶきと、世間話の声が混ざり合っていた。
「あんたとこ、もう次の子のお祝い決めた?」
「冗談じゃないよ、上の三人で手一杯さ」
「あら、四人目欲しいって言ってたじゃない」
「あの時は酒入ってたんだよ!」
わはは、と笑い声が上がる。
通りの反対側を、五、六人の子どもが、年長らしい女の子に手を引かれて一列に歩いていった。
「迷子になんないでね」
「はーい」
「はーい」
「はーい」
返事だけ揃ってる。
露店はもう仕込みに入っていた。
パンの匂い、揚げ油の匂い、それから昨日かいだ香辛料の匂いが、朝の冷たさの中で立ち上っている。
通りの隅には、毎朝そこで座っているらしい老人が、ひざ掛けをかけたまま、流れていく人々をぼんやり眺めていた。
「うわ、平民街、めちゃくちゃ生活感あるじゃない」
わたしが思わず呟くと、ベルロウさんが小さく鼻を鳴らした。
「お前、ようやく王都の現実見たな」
「昨日の貴族街となに、これ同じ街なの」
「ん。同じ街だ」
「すごい二段構造」
「都市ってのは大体そうなんだよ」
ベルロウさんは耳をぴくりと立てた。
「あーし、人ごみは嫌いだが、人は嫌いじゃねえ、って昨日言ったろ?」
「うん」
「あーしが嫌いなのは“都市”そのものなんだよ。人が集まりすぎて、ルールでがちがちにしねえと動かなくなる街そのものが嫌いだ」
「あー、なるほど」
「人間と話してる時の方が、ずっと気が楽だ」
ベルロウさんはそう言って、井戸端のおばちゃんたちにも、すれ違うおじいさんにも、軽く目線を返していた。
その時、横から急に小さな声がした。
「ねこ!」
通りすがりの子どもだった。
たぶん、五歳くらい。
お母さんに手を引かれて歩いていた途中で、ベルロウさんの尻尾を見つけて、目をきらきらさせている。
「ねこのおねえちゃん!」
ベルロウさんの耳が、ぴくっと跳ねた。
「おい、子ども。あーしを“ねこ”呼ばわりすんな」
「ねこのおねえちゃん!」
「だから違うっつーの」
「ねこのおねえちゃーん!」
「お前、ぜんぜん聞いてねえな!?」
子どもはそのままお母さんに引っぱられていって、最後にぶんぶん手を振った。
ベルロウさんは、無言で見送った。
「……今、ちょっと許してやった」
「単純すぎ」
「いいんだよ、子どもには」
「ベルロウさん、わたしには鬼みたいに厳しいのに」
「お前は子どもじゃねえからだろ」
「身長は子どもよ!」
「中身は元成人だろうが」
「うっ」
「うっ、じゃねえよ」
ベルロウさんは、けらけら笑っていた。
思った以上に、街と相性が悪くなさそうだった。
平民街の北寄りの通りに入ったところで、人だかりがあった。
大きな騒ぎではなかった。
ただ、衛兵が二人、街路の壁に貼られていた立て看板を取り外していた。
看板には、いくつかの名前と特徴が書かれていた。
年齢。
身長。
着ていた服。
最後に目撃された場所。
名前ごとに、最後の目撃場所が違う。
でも、目撃場所の地名を頭の中で並べてみると、なんとなく方向が似ていた。
北の――神殿の方角。
「……これ」
わたしが立ち止まると、ベルロウさんも横で耳をぴくりと立てた。
「迷子じゃねえな」
「人捜しの掲示?」
「ああ。たぶん、ここのところ続いてるやつだ」
看板を取り外していた衛兵が、もう片方の衛兵にぼそりと言うのが聞こえた。
「また増えた、って話だ」
「……月で三人、もう超えた」
「上、何やってんだ」
「滅多なこと言うな」
その小声の応酬を、ベルロウさんの耳は明らかに全部拾っていた。
周囲の住人たちの会話も、なんとなく聞こえてくる。
「またあれかい」
「うちの娘も気をつけさせないとね」
「白布の集まり、なんか怪しくないかい?」
「滅多なこと言うんじゃないよ。あれは慈善ってことになってんだ」
「……ってことに、ね」
住人の声の中に、含みがあった。
怒っているわけじゃない。
でも、信じきってもいない。
ベルロウさんが、わたしにだけ聞こえる小声で言った。
「あーしの鼻と耳が言ってる。これは“噂”の段階で済む話じゃねえな」
「アリアさんが言ってた通りね」
「ま、あれが酒場で拾ってきた話だってんなら、その酒場、王国でいちばん優秀な酒場だぜ」
「……ベルロウさん」
「ん?」
「アリアさんって、絶対ただの冒険者じゃないわよね?」
ベルロウさんは、耳の付け根をぼりぼり掻きながら、無表情にしてみせた。
「あーしは、なんにも知らねえな」
「あ、それ、絶対知ってるやつの返し方」
「気のせいだ」
「うわ、統と同じ言葉使った!」
「事実だからな」
「もういい!」
わたしは半分本気で拗ねたフリをした。
でも、ベルロウさんの耳は、わたしの方ではなく、衛兵たちの動きと、住人たちの声を、まだ静かに追い続けていた。
そっちが本業なんだろう。
そう思った時点で、わたしは内心、もうほとんど答え合わせを済ませていた。
看板を見たあとの通りを、わたしたちは少し迂回した。
ベルロウさんが「こっち抜けるぞ」と路地裏のような道を選んだのだ。
通りの大筋から少し外れて、洗濯物が頭上に渡された薄暗い小路を、何本か通る。
その途中だった。
ベルロウさんの耳が、また、ぴくっと動いた。
「ドレミ、こっち」
声は小さかった。
でも、足は確実に方向を変えていた。
わたしはあわてて続く。
ベルロウさんが立ち止まった先、壁にもたれて、小さな少女が座り込んでいた。
たぶん、十歳くらい。
頬がやや痩けている。
服は妙に整っていた。襤褸ではない。けれど、誰かの“揃いの服”を着ているような、軽い違和感がある。
顔色はあまり良くない。
ベルロウさんが、ふっと小さく息を吐いた。
「迷子じゃねえな、これは」
「うん」
わたしは少しだけ膝を曲げて、目線を下げた。
子どもに話しかける時は、これだけで結構違う。
舞台でも何度かやった。なるべく上から落とさない位置で声をかけるのは、子どもにも、人見知りにも、有効だった。
「ねえ、大丈夫?」
少女は、最初は何も答えなかった。
わたしの顔を見て、それからベルロウさんの方を見て、また視線を落とす。
「迷子?」
少女は小さく首を振った。
「お母さんは?」
「……いない」
「お父さんも?」
「いない」
「家は?」
「……前は、あった」
声は細かった。
でも、嘘を言っている感じはしなかった。
ただ、ものすごく、慣れた答え方だった。
たぶん、もう何度か同じ質問をされている子だった。
「お腹、すいてる?」
少女は、ほんの少しだけ頷いた。
わたしはベルロウさんを見上げた。
ベルロウさんは何も言わず、ただ顎で「行ってこい」と路地の出口を指した。
わたしは近くの露店に走って、丸いパンと果物をひとつずつ買った。
戻ってくると、少女はまだ同じ場所に座っていた。
「ほい」
「……いいの?」
「いいよ」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
わたしが頷くまでに、少女は三回確認した。
その三回が、彼女の生活を全部見せていた。
少女は、最後にぎゅっと一度パンを握ってから、ようやく小さく齧った。
齧る速度は遅かった。
でも、たぶん、本当はもっと急いで食べたかったはずだ。
「ゆっくりでいいよ」
わたしが言うと、少女はちょっとだけ口の動きを緩めた。
その時。
路地の入口の方から、静かな足音が近づいてきた。
白い布。
また、いた。
今度は三人だった。
四十代くらいの女性がひとり。
三十代くらいの女性がひとり。
二十代らしい男性がひとり。
先頭の女性は、よく見るとびっくりするほど身なりが整っていた。
肌の色は綺麗で、髪も整えられていて、ほんのり香の匂いがする。
白布の連中の中で、たぶんそれなりの立場の人だった。
女性は、わたしと、わたしの前のパンを齧っている少女を見ると、ふわりと微笑んだ。
「あら」
声まで品があった。
「ありがとうございます。その子は、私どもで保護している子なのです」
「……保護?」
「ええ。身寄りのない子どもたちに、食事と寝床を提供しております。彼女もそのうちの一人です」
女性は、ごく自然に少女のそばまで歩いてきた。
少女の肩が、ほんの少しだけ固くなった。
その瞬間、わたしは見た。
嬉しそうな顔ではなかった。
ものすごく微妙な、何かに半分諦めたような目だった。
「たまにこういうことがあるんです」
女性は、わたしに向けて、また穏やかに言う。
「少し外を歩きたくなって。心配して、いつも探しに来ております」
「……そう、なんですか」
「ええ」
答えは完璧だった。
言葉に、引っかかりがない。
声に、無理がない。
表情に、嘘がない。
でも、少女は俯いたままだった。
ベルロウさんが、わたしの背中に半歩近づいて、小声でだけ言った。
「鼻が、ほんのちょっとだけ嫌な匂い拾ってる」
「うん」
「あんまり押すなよ、ドレミ。あっちは合法のフリしてる。突けば突くほど、こっちが面倒被る」
「うん」
頭では分かっていた。
突けば、面倒になる。
合法の顔をされた相手ほど厄介だ。
――でも。
目の前の子を、このまま帰していいのか。その考えを、無理やり喉の奥へ押し込む。
女性の視線が、ふっとわたしへ移った。
その目が、ほんの一瞬だけ止まった。
ぞくり、と背筋が冷える。
「失礼ですが、あなた」
「はい?」
「お顔立ち、お肌の色合い、その瞳の透き通り方……」
女性は、まるで品定めをするように、ゆっくりとわたしを見ていた。
「お疲れではありませんか」
「……は?」
「夜、眠れていますか」
心臓が、ひとつ嫌な跳ね方をした。
最近のわたしは、ぐっすり眠れる日と、そうでない日が半々だ。
昨日もそうだった。
一昨日も、たぶんそうだった。
でも、そんなこと、街中で初対面の相手にいきなり当てられる筋合いはない。
「眠れてますよ」
なるべく平坦な声で返す。
女性は微笑んだまま、ふっと首を傾けた。
「もしよろしければ」
手の中に、いつの間にか札があった。
白い布と同じ色味の、小さな札。
簡素な意匠の、けれど明らかに丁寧に作られている、夜の祈祷の護符のようなもの。
「私どもの集まりは、特別な方をお迎えする会でもあるのです」
「……特別?」
「ええ」
女性は、ためらいなく、けれど押しつけがましさなく、続けた。
「血の中に、古いものを感じる方、と申しましょうか」
心臓が、もう一度跳ねた。
今度は嫌な跳ね方の倍くらいの強さで。
わたしは、自分の表情が動かなかったかどうか、自信がない。
たぶん、ほんのちょっとだけ、動いた。
ベルロウさんが、すぐ後ろで耳をぴくっと動かしたのが分かった。
「ドレミ」
声は小さかった。
「いらないって言え」
ベルロウさんの声には、ためらいがなかった。
わたしは深呼吸を一回した。
「……いりません」
言うのに、思ったより時間がかかった。
でも、ちゃんと言えた。
女性は、表情を変えなかった。
「そうですか」
強引には、押し付けなかった。
それが逆に、気味悪かった。
「いずれ、必要になったらいつでも」
女性は札を引っ込め、また、ふわりと微笑んだ。
「あなたなら、扉はいつでも開いておりますから」
あなた、なら。
その言い方が、わたしの背骨をもう一回、ぞくっと撫でた。
女性は少女の手を取り、もう片方の信徒に荷物を持たせて、ゆっくり踵を返した。
少女は最後に、一度だけ、ほんの一瞬だけ、振り返った。
助けて、と叫ぶほどの強さは、なかった。
でも、何かを訴える目だった。
わたしを覚えておくよ、とも見える。
わたしを覚えていてくれる? とも見える。
わたしは、何も言えなかった。
白い布の三人は、来た時と同じ静かな足取りで、路地の角を曲がって、消えた。




