第三話 あなたを知るということ
僕はあなたに身をゆだねが、心をゆだねたことはなかったのかもしれない。あなたはどうだったのだろう。僕と穴との間には、生めることのできない距離が最初からあった。最初から気づいていたし、でも最後までどうすることもできなかった。あなたのそばにいるとき、僕はどこか遠慮がちで、あなたとの距離を測れずにいた。あなたはどうだったのだろう。あなたからすれば、やはり僕はどこか違うものを見ているように見えたのだろうか。
僕とあなたは同じものを見ているときでも、違うことを感じていたのかもしれない。ときどき僕はあなたに驚き、あなたは僕に微笑みかけてくれた。微笑みのわけもわからず、僕はそんなあなたの笑顔を見るのが好きだった。あなたは不意に僕を凍らせるような言葉で、僕を困らせる。そんなとき僕は、どうすることもできず、ただ、あなたに助けを求めるしかなかった。
「はじめてここに来たときだったかな。あの人形のこと気になるって……」
「あー、覚えてるよ。そう、僕は人形とか女の人のポスターとかあんまり好きじゃないんだ。夜中に見ると怖かったりするし……」
「私、すごく驚いたのよ。すごい勘がいいというか……そういう力を持っているひとなのかなって」
「そういう力? えっ、なんのこと」
あなたの部屋でお酒を飲みながらくつろいでいるとき、急にあなたはあの人形のことを話し始めた。僕が始めてこの部屋に来たとき、どうしようもなく違和感を感じたその人形は、若い女性が持っているにはどことなく不自然な存在に感じた。双子のように同じ子供の人形が2体並んでいる。男女の区別は僕にはわからなかった。
「あの子達、実は私の子供、生まれて来なかった赤ちゃんの代わりなの」
「子供?生まれて来なかったって、それは……」
「昔付き合っていた人との間にできちゃった子供なんだけど、2回ともおろしたのよ。正直最初、本当におどろいたのよ。あの人形のことを聴かれた時は……」
僕には何も言葉は見つからなかった。ただ、驚いて見せる以外に何ができるというのだろうか。慰める言葉をかけようにも何も見つからない。慰めの言葉が必要なのかわからない。言葉を使う以外に、あなたに何かを伝える事ができるかさえわからない。あなたを抱きしめることも、触れることも、そばに寄ることも僕にはできない。わからなかった。でも、あなたはそんなことは全てわかっているという顔で、僕に微笑みかける。
「だからビックリしちゃった。うん、だから、そう、もう赤ちゃんを下ろすのは嫌だから、ちゃんとゴムしてね」
「う、うん。わかった」
それから僕は、あなたの昔話を聞かされた。話の半分は覚えていない。あなたが以前どれだけ羽目をはずしていたのかという話。彼氏が不良だったと言う話。でも、それはそれで楽しかったという話。夜間の高校をどうにか卒業して、少しずつ人生が前向きに変わったという話。当事の写真を何枚か見せられた。家族の写真も。あなたはお父さんを自慢していた。そして母親は嫌いだといった。なぜ嫌いかという話も聞かせてくれた。それは彼女が悪い方向へ行くきっかけになったことだと教えてくれた。僕は少しずつ、あなたという人を理解し始めた。
「母はね。お父さんに隠れて不倫してたの。中学の頃に家に早く帰ったら、母と私の良く知る人がね。一緒にお風呂に入っていたのよ。私、それ以来、母を軽蔑したわ。母の言うことは何一つ聞いてやるものかと思って、気がついたら夜の街を徘徊するようになってたわ」
そして、その頃から彼女の周りによからぬ噂――あの子は遊んでいて処女じゃないという話がクラスの中で広がり始めた。
「だからわたし、捨てたのよ。ナンパされてホテルに行って……終わった後に実は初めてだったって言ったら、信じてもらえなくて。ショックだったわ」
僕は、ただ、彼女の話を一方的に聞いているだけ、うなずくだけしかできなかった。初めての相手がどんな男手、当事どれくらい遊んでいたかという話は、ぜんぜん耳に入ってこなかった。正直、聞きたくなかった。あなたの昔の写真も、僕にはまるで別人のように見えた。でも……
「そうか。だとしたら、うん。僕はわかった気がするよ」
「え?何が?」
「それは、今はいえないけど、きっとキクちゃんが自分で気づかなきゃいけないことなんだと思う」
「えー、それって何かな?今は教えてくれないの」
「僕も確信をもてたわけじゃないから、少しずつキクちゃんのことをしれば、そのうち僕から話すこともあるかもしれないけど、今はもっと、キクちゃんのことが知りたいから……」
「そう。じゃあ、愉しみね。ふー君はすごいのね。勘がいいというか頭がいいというか、わたしなんか頭悪いから大学なんかいけないし」
「そ、それは関係ないよ。大学にいったからって、頭がいいとか、そういうことはないよ。たしかに多少は観察したりする能力はあるのかもしれないけど」
「そう、それ!どうしてわかったの?あの人形のこと」
「うーん。難しいなぁ。だって、そういうのは理屈じゃないというか、いや、ある程度の理屈はあるんだけど、やっぱり一人暮らしの女の子の部屋あったら、なんていうか、もっと可愛らしい……たとえばディズニーだったり、キティだったり、そういうイメージかな」
「なるほどね。確かに私はあまりそういうの好きじゃないって言うか、そんなのばっかりなときもあったけど、もう私なんかオバサンだから……」
「オバサンって、そんなことないよ。キクちゃんは十分に……」
「え?十分に……何?」
「それは、大きな声じゃいえないよ」
「じゃあ、小さな声でなら、囁いてくれるの?そばにいっていい?」
「うん」
「あぁ、耳……耳はダメ。もう……」
その日の夜、二人は激しく求め合い、激しく与え合った。あなたは僕の背中に傷ができるほど爪を立て、あなたの首筋に後ができるほど、僕はあなたを強く愛した。お互いの汗のにおいが、さらに二人を昂揚させた。それは明け方まで続き、二人は昼になるまでベッドをでることができなかった。




