第二話 あなたの面影
あなたと別れてから、僕はずっとあなたの影を追いかけていた。いや、追いかけられていたのか。あなたを忘れることはできなかったし、あなたは僕にあなたのことを忘れさせようとはしなかった。あなたはいつも僕のそばにいた。街の雑踏の中、あなたに似た女性の後姿に、思わず声をかけそうになる。駅のホーム、テレビで流れるニュースの映像、グラビアの中にまで、あなたは毎日のように僕の目の前に現れては通り過ぎてゆく。
恋を歌うバラードを聴けばせつなくなり、せつなさを歌うポップスを聴けば恋しくなる。あなたの思い出に直接繋がるようなものを、僕は何一つ持っていないというのに。たったの写真一枚も持っていないのに。
胸が痛む。
簡単に言ってしまえば、そういうことなのだが、それはまるであなたがそばにいるような予感めいたもの、或いはあなたの思い出に繋がるような物や出来事がすぐそばにあるかのような心のざわめき。病といったほうがわかりやすく、僕はすっかりボロボロだった。
あなたを忘れるきっかけになるかと、友人たちと馬鹿騒ぎをしたこともある。でも、そんな中でもあなたは僕の前に現れ、僕をせつなくする。たとえ、代わりの誰かを探しても、その中にあなたの匂いを探してしまう。他の誰かを抱いているときでも、あなたのことを思い浮かべてしまう。
こんなにも好きだったのか。
あなたを失って気付いた感情。これほどまでに、誰かを好きになったことはない。もう、好きにはなれない。
こんなにも恋焦がれていたのか。
あなたがいなくなってぽっかり空いた穴。胸に開いた穴は、僕の心臓を抉り出し、昼となく、夜となく僕を苦しめる。
こんなにも愛していたのか。
それを愛といえるのか、僕には自身がない。それを愛と呼ぶにはあまりにも狂おうしくて、せつなくて、儚げだ。僕はあなたを愛してなんかはいなかった。少なくともあなたと一緒に居る時間、あなたを愛してはいなかった。僕はあなたの心を抱いていない。僕はあなたの愛を知らない。僕はあなたに何も与えられない。あなたを奪うことしかできない。あなたのほんのひと時の時間を奪い、むさぼり、汚しただけだ。愛という名の欲望だけが、僕を突き動かした。あなたもそれを望んでいたのだろうか。あなたは僕を許したのだろうか。
今でも僕にはわからない。
あなたは 僕を 愛して いたのだろうか?
その答えを見つけることはできない。その答えにたどり着くことはできない。その答えに、僕が応えることができないのだから。
僕は自分の存在の曖昧さに腹を立ててはいたけど、あなたの存在の儚さを認めていた。
僕は自分の心の弱さに嘆いていたけど、あなたの心ほど強くなりたいとは思わなかった。
僕は自分の未熟さを悔いてはいたけど、あなたの先にはいけないのがわかっていた。
そう、僕には何一つないのだ。最初からないのだ。あなたを愛する資格も、権利も……そして理由すら。
僕があなたを愛しているといえるのは、あなたを失ったことのこの苦しみがあるから。苦しみこそが僕にとって、あなたへの愛の証なのだから。
だから、僕は――
「すてぃーぶんさん、今日はありがとうございました」
「えっ、あっ、あー。まぁ、恋愛に完全勝利なんてないのさ。潔い負け方を覚える事が肝要だ。スキーだって最小は正しい転び方を習うだろ?あれと同じさ」
「でも、世の中には初めてでも、失敗しないで最後まで滑りきっちゃう人だっているんじゃないですか?」
「それは、失敗した事がないヤツが言うセリフで、そいつにはそれを言う権利がある。若造?すでに何回もコケているだろう? オ・レ・た・ち・は!」
「すてぃーぶんさんも、恋愛では負け組みなんですか?」
「世の中には小心者の敗北者を救う便利な言葉があることを知らないのか?」
「なんですか?それ」
「負・け・る・が・勝ち」
若造とJRの改札で別れる。俺は――僕は、地下鉄の改札へ向かって階段を下りる。すれ違う人並みにあなたの姿を探したりはしない。駅のホームの反対側にあなたの面影を見つけたりしない。地下鉄の乗降口ですれちがう女の人の香水の香りであなたを思い出したりはしない。
だから、僕は、あなたを忘れようとした。でも、それは無駄なことだと思い知らされた。そしてそれこそが許されない罪だとわかったとき、僕はあなたとともに生きることを決めた。
あなたは僕の中で生きている。
あの日の姿のまま。
そう、あの日――1986年が過ぎ行き、新しい年をあなたの部屋で過ごしたとき、僕はこんな時間が永遠に続くものだと信じていた。でもそれは、あまりに儚い夢――幻――幻想。
地下鉄の窓に映る僕の姿は、いつの間にか1987年の――あなたを愛することを知らず、あなたへの愛を知らず、あなたを抱いていた自分の姿に変わっていた。




