第十話 彼
理解できるということと、わかるということは違うし、まして感じるとなれば、すべてがひとつの答えで一致するようなことはない。まだ20歳にもなっていない若造ならば、なおさらだ。それでもそのことに抗い、反発できるようであれば、相手や自分を傷つけてしまうことで、激しい苦痛と共に何かを飲み込んでいくことはできるかもしれない。が、僕にはそれが出来なかった。
あなたという存在そのものが僕にとって理解の範疇をはるかに超える存在であったにもかかわらず、あなたが僕に語ってくれた、あなたの身の上に起きたこと、そして、いま起きていることについて、その場で感情の伴うリアクションをすることですら困難であったのに。あなたはまるで僕の困惑を愉しむように……いや、あなたはそんなつもりなどこれっぽっちもなかったに違いない。ただ、あったのは、僕に対するまるで無防備な信頼?それとも……
「今勤めている会社に入社したのは高校卒業……高校っていっても定時制ね。わたし一年浪人してるから」
「えっ、そうなの?」
「中学の頃にね、いろいろと馬鹿やってね。結構遊んでたのよ。わたし」
「そんなふうにはみえないけど」
「そう?ありがとう。でもね、まぁ、なんとか高校を卒業できたことは本当によかったわ。いい仲間にもめぐり合えたし……その頃の話は、またあとでね。それで、19歳のときに今の会社の入社して、次の年の社員旅行でね。いまの彼とできちゃたの」
なんとなく状況を把握しながらも、どこか現実感がなかったこの話が、突然リアルに感じられるようになったのは、あなたが口にしたなんということもない、ありふれた代名詞――『彼』という言葉に、僕は頭のてっぺんからつま先まで電気が走るような感覚に襲われた。『彼』とあなたは言ったのだ。僕の目の前で。僕は自分の顔色が変わっていやしないかと、内心ビクビクしていた。多分、こんな経験は、初めてだろう。驚き、慌てふためき、隠し、恥じ、そして僕は嫉妬した。あなたに『彼』と呼ばれた男に――まだ、顔も見たこともない、そして見ることもないだろうその男に僕は嫉妬したのである。
「大丈夫?」
「えっ、あっ、ちょっと動揺したって言うか……ごめん」
「なんで謝るの?」
「うん、そう。そうだね。僕も、よくわかんない」
「そう?」
「つづけて……あ、その人は、そのときすでに結婚してたんでしょう?」
「そうよ。お子さんもいたわよ」
「そう、よくわかんないな。そういうの」
「そういうのって?」
後悔した。この話を掘り下げたところで仕方がないということはわかっていたつもりなのに、僕の口から出た言葉はあまりにも素朴で純真すぎた。
「よくないことだと思う?」
「少なくとも、いいこととは思わない。別に今すぐ止めなきゃいけないことだとは思わないけど、だからといってずっと続けるとかは、どうかなぁ……」
「そうね。確かにそうだわね。でもね。二人でこんなこと話してるの。二人が年を取っておじいちゃん、おばあちゃんになっても会って話が出来たらいいねって」
「そういうものかな」
「どうかな?わたしにもわからないの」
耐え切れない間の後、あなたはタバコに火をつけ、僕はシャツの胸のポケットからタバコを取り出し、火をつけずにまわしたり、テーブルの上でトントンとタバコの葉を詰めるように、吸い口を下にして小気味よく打ち付ける。
「でもね」
彼女が切り出す以外に、この静寂を破る手立てはなかったのかもしれない。
「今は、このままでいいと思っているの」
「そうだね。そうなのかもしれない」
そうでないのかもしれない――そう思っていてもなお、そうは言えず、他に考えも浮かばない。
「毎週木曜日だけなの。木曜の夜はここに来るのよ」
聞きたいとは思わなかったけど、どのみち聞かずにはいられない。あなたはいつも僕の心の準備が整う前にことをすませてしまう。僕はまるでオウム返しのように、ただ返事を合わせるしかなかった。それでも僕には、あなががこうして僕と週末で過ごし、そして、普通は話さないであろう自分の身の上を話してくれたことに純粋にうれしいと思う気持ちがあった。それをピュアというのか愚直というのか、初心だというのか、或いはそのいずれでもないのかもしれない。僕は自分自身を偽っていただけなのかもしれない。
結局のところ、あなたは僕の心を支配することに成功した。その後、あなたからどんなに驚くような話を聞かされても、どんなに苦しくなるような話を聞かされても、あなたと一緒にいる間は、僕は苦しまずにすんだのだから。でもそれは、のちに強烈なしっぺ返しとして僕を苦しめ、僕を狂わせることになる。
「お子さん可愛いのよ。写真でしか見たことがないけど……」
僕にはあなたがまるで下手な芝居をしているようにしか見えなかった。あなたも深く、悲しみの中で、懸命に明るく振舞っているのか?でもあなたのそれは、僕のそれとはまるで違う。あなたは自ら進んで落ちていこうとしているようにしか見えない。どこから、どこへ落ちていくのか、それは僕にもよくわからない。螺旋階段を上りながら、ふとあなたが僕の目の前を通り過ぎていくような感覚――それはまるで重力とは無関係に自らの意思で落ちていくような……嗚呼、人の心とはそういうものなのかもしれない。僕は階段を上ることしか考えていなかったし、踊り場にたむろをすることは許されても、決して引き返すことは許されなかった。許されないと思っていた。
僕は落ちていくあなたに手を差し伸べて、あなたを引き上げたいという衝動に駆られた。それは無謀とも思えたけど、僕にはそれができると……今は無理でも、もう少し、もう少し僕が大人になれば出来ると思った。いや、そう思わなければ、あなたとは一緒にいられなくなると、そう、僕の中の何かが訴えかけてきた。その何かが壊れてしまうまで……僕はあなたを愛していたのだと思う。
こうして僕は木曜日が嫌いになった。




