第九話 酒とタバコと女と男
ビールはあまり好きじゃなかった。当時は酎ハイが流行っていたが、僕はウイスキーに拘っていた。マイルドセブンは吸わなかった。吸うなら洋モク。軽いタバコが流行っていたけど、僕はKOOLだった。コーヒーならブラック。音楽ならヒットチャートは追いかけない。僕は世の中の流行ごとに少しだけ抗うことで、自分の個性、自分らしさを保とうとしていた。ときにその価値観を誰かと共有したくて、バカをやった。無茶をした。でも、振り切ることはできないし、駆け抜けることもできない。それを中途半端だと認めたくなくて、あがいていた。
女の子のこととなれば、やはり強がるしかなかった。女の子の趣味趣向に自分が合わせるなんてとんでもないことだと思っていた。あなたはそんな僕の気負いをまるで気付かないようで、気にしない素振りで振舞う。そして僕は素直になれる。少しばかりの背伸びをしながら、それでもあなたに甘えることを僕に許せるゆとりを与えてくれた。僕が少しだけ無理をして高いウイスキーを買って行けば「美味しいね。でも、あなたがいつも飲んでいるお酒でいいのよ。私なんか2杯も飲めば、お酒の味なんかわからなくなっちゃうんだから」といって、僕をほっとさせてくれた。彼女が吸っていたタバコは同じメンソールだけど少し軽かった。およそ女性をターゲットにしているだろうその銘柄も、二人が同じタバコを吸ったほうが、なにかと楽だった。僕はあっさり『KOOLしか吸わない』という自分のこだわりを捨ててしまった。
僕は、一人で夜を過ごすとき、あなたを抱くことばかり考えていた。でも、あなたを前にすると、あなたを抱きたいという衝動よりもあなたをもっと知りたいという好奇心がそれを邪魔した。僕はあなたを見つめる事が好きだった。僕の言葉に、あなたがどんな表情をするのか。あなたを困らせるにはどうすれば良いのか。あなたと少し困った表情は、その場の時間を止めてしまうかのような空気の硬直と、止まってしまった時間が慌てて流れ出すような揺らぎの中で、部屋に飾った絵のように僕を虜にした。
でも、僕には全てを受け入れきれずにいた。あなたが少しずつ語り始めたあなた自身の過去のこと、そして現在進行形で起きていることは、19歳の僕には手に余るものだった。それでもなお、僕があなたの相談役として、いや、そこまで行かなくても話し相手として、必要としてくれるのなら、僕はそれでいいとさえ思っていた。そう、そう思えていたうちは、僕の心は穏やかだったのかもしれない。
「私ね、会社の上司と不倫してるの」
あなたは、僕が凍り付いてしまうようなことを平気で言う。
「なぜかな?風間君には何でも話せちゃう感じ。不思議ね」
僕は覚悟をする暇もなく、慌てることも許されず、ただうなずくだけにもいかず。
「どうしてかな? 不思議な感じだね」と、そのままの言葉を返すしかなかった。
最初にその話を聞いたのは、高いウイスキーをお土産に、あなたの手料理をご馳走になりにいった夜のことだった。魚料理をリクエストしたことで、あなたは少し困りながら、それでもそつのない手際でタラの塩焼きとオニオンスライス、それと枝豆をお酒のつまみに出してくれた。
「美味しい。うん、いい塩加減だね」というと、「あら、褒めるところを見つけるのが上手ね」とあなたは少し照れくさそうに言った。ウイスキーを飲むと、顔を手で仰いで「美味しいけど、結構強いねこれ、顔がほてってきちゃった」と思わず生唾を飲み込んでしまうような艶やかな表情で僕を困らせた。
これが、女の人なんだ――直感的な理解と論理的な納得。そう、あなたは僕が始めてであった女なのだ。あなたはまるで僕があなたを女だと理解したことを確認したタイミングを見計らっていたかのように、唐突に話を切り出した。
「実はね。私、風間君に言わないといけない事があるんだ。別に隠してたわけじゃないんだけど、聞いてくれる?」
「えっ?何、改まって」
「付き合っている人がいるっていったら、怒る?」
「いや、それは、驚くことはあっても、怒るのはちがうでしょう」
「驚いた?」
「うん、少し、でも、まぁ、電話のこととか、いろいろ聞いていたから、そうじゃないかなぁとは思ってた」
それは本当のことであり、また、嘘でもあった。僕はその可能性を真っ先に否定していたし、大体が考える事が嫌だった。避けていたのだ。
「でね、それだけじゃないの」
「それだけじゃない?」
「うん、その付き合っている人って言うのはね。奥さんもお子さんもいるの」
「えっ!それってつまり……」
「そう、不倫よ。何度か別れはしたんだけどね。すぐ寄り戻しちゃって……」
僕は、一生懸命に言葉を捜した。しかし、見つかるはずはなかった。何を探せばいいのかがわからないのである。たとえ答えがあったとしても見つかるはずもないし、何を探せばいいのかがわかっていたとしても、その答えがあるはずもなかった。あなたは僕のいる世界よりも、ずっと、ずっと遠い異世界に住んでいるのだと、改めて思い知らされた。それでもなお、僕は諦めきれずに、何か手がかりになるようなものを探して、言葉を投げてみる。
「それで、キクちゃんとしては、今はどうなの、その人とは、付き合っていたいの? それとも別れたいの?」
とにもかくにも僕は自分で何かを語ることなんかできなかった。だから僕は、答えを求めてあなたの心の中の戸棚やタンスの引き出しを開けてみるしかなかった。その日から僕とあなたの奇妙で、滑稽で、儚げで、危うい関係が始まった。




