第十一話 やさしさ
やさしいこと。それは物心付いた頃から一つのキーワードになっていた。小学生の頃、母親が不意に妙なことを聞いてきた。
「ねぇ、お兄ちゃんの長所ってなんて書けばいい?」
思いのほか答えに窮した。
「やさしいって書いておいて」
「えっ?やさしいでいいの?」
「いいよ」
「やさしいね」
別に母親は、僕のことを優しくないと思っているわけではない。長所かどうかで考えれば、確かに他に適当な長所と呼べる特徴があったのだろう。果たして親が僕のことをどう見ていたのかは、わからない。でも、僕はこの『やさしい』こと、『やさしさ』に対して、妙な意識を持っていた。
みんながやさしくなれれば、誰も傷つかない。
僕は人と人が争う様を見るのが嫌いだった。それぞれ言い分や主張はあるのだろうと思う。でも、お互いを許すこと。やさしさをもって接することに努めれば、もっと平和的に物事を解決できるだろうと考えていたし、当時3面記事を賑わす事件のほとんどは、心の狭さや相手に対する思いやりのなさ、やさしさが足りない為に起きているように思えた。
だから僕は、常にやさしくあろうと心がけていた。僕は、僕の思うやさしさを、人知れず心がけていたのである。もちろんそのころの僕には『本当のやさしさ』と言われるようなものがあることも知らなかったし、ときにやさしさが人を傷つけることがあるとも知らなかった。そう、中途半端なやさしさ、表面だけのやさしさ、画一的なやさしさは、大事な人を傷つけ、悲しませることがあるのだ。
「やさしいってことは、別に美徳でも何でもないんだぜ。場合によっては無責任ってことになる」
「えっ?それってどういうことですか?」
「若いな風間。やさしさが男の武器だと思っていたら、いつまでたっても女はできないぞ」
「そんなもんですか?」
「そうさ。『あなたって、とてもいい人ね』って言うのは、男としては魅力がないって、ふられてるってことだよ」
「あー、なんか、それはわかる気がしますけど、女の子はだいたい『やさしい人がタイプ』とか言うじゃないですか?」
「あのなぁ、風間。『私の弱点はここです』って、自分から言う女がいると思うか?」
「あー、まぁ、確かにそれはないかもしれないですけど……」
「だろう?」
「あっ、それってもしかして大迫さん、言われたことあるんじゃないですか?女の人に」
大迫さんも、僕と同じで突っ込むのは得意だが、突っ込まれるのは苦手な人だった。
「うるせぇよ。なんで俺の話になってるんだよ」
大迫さんはひどく照れながら、それでも一瞬遠い昔を思い出すような顔をした。僕はそれ以上突っ込まなかった。大迫さんの言っていることはわかる。僕も高校時代に『やさしさ』で痛い目にあってきた。でも、僕はそのことを認めたくなくて、まだ、もがいていた。うまく行かないこともある。でも、自分は『やさしさ』を大事にしたいと思っていたし、それ以上の価値を他の何かに見出すことはできないでいた。
「やさしいのね」
「そう?」
「そうよ。やさしいわ」
「あんまり、褒められたような気がしないな」
「あら、そう?」
僕はあなたに『やさしいだけの人』と言われたくなくて、少しすねたのかもしれない。或いはうれしくて、それを悟られまいと虚勢を張ったのか……
「やさしいって、どういうことかな?」
「素敵なことよ」
「素敵なこと?」
「そう、素敵なこと」
その言葉には何の偽りも、飾りもなかった。その言葉が素晴らしいのではない。素敵なことを素敵だと無邪気にいえるあなたが、僕にはたまらなく愛しく思えた。
「わたしは、ちっともやさしくないから」
「えっ?やさしくないってなんで?」
「嫌な子なの」
僕はあなたの表情のなかに何かを見たような気がした。それはさみしさとも悲しさとも、後悔とも嫌悪ともちがう――いや、もしかしたらそういったものをすべて混ぜ合わせたような、僕の知らない感情、心の揺らぎ、透明感のある表情。僕はあなたから目が離せなくなる。
「うん?」
僕があまりにもあなたを見つめるものだから、あなたは少し照れくさそうにおどけて見せる。
「素敵だね」
「えっ?何が?」
「キクちゃんが」
「そんなことないわよ。私なんか、全然ダメよ」
コタツから足を出し、膝を抱えて顔をうずめ、あなたは少し顔を赤らめ――でも、それを気付かれまいと、膝を立てて、顔を隠す。
「変なこと言うから、暑くなっちゃったわ」
僕は、どうしていいのかわからず、結局あなたのまねをした。僕も頬が火照るのを感じていた。
なんか照れくさいね――僕が言う
そうだね――あなたが言う
電気消そうか――あなたが言う
そっちに……行ってもいいかな――僕が言う
うん……あなたが答える
眠くなっちゃった……あなたは再びコタツに足を入れその場で横になる
電気消すね……僕はそういいながら、あなたの横に横たわる
暗闇、静寂、あなたの匂い、肩と肩が触れ合う。腕に腕を重ねる。指と指が絡み合う。
僕は驚くほどの安らぎに包まれていた。
あなたはどうだったのだろう?
二人は静かに待った。二人の時が重なり合うのを。それは螺旋。あなたの中の、僕の中の別々に流れる時間の交わる瞬間。それはすぐ手の届くところまで近づきながら、また離れていくことを繰り返し、繰り返し、繰り返すごとに、どんどん、どんどん、ミリ単位で近づいているようだった。二人は、螺旋に身を任せるしかなかったのかもしれない。




