第9章 国家が夜を知る
第九章 国家が夜を知る
国家というものは、巨大である。
巨大であるがゆえに、遅い。
一つの事実を事実として認めるまでに、確認が必要になる。
確認した事実を共有するには決裁が必要になり、決裁した内容を実行へ移すには、さらに別の誰かの承認が要る。
九条ホオズキは、その仕組みを嫌というほど知っていた。
かつて軍にいた頃。
助けを求める民間人を前にしながら、上層部の判断を待ち続けたことがある。
そして。
間に合わなかった。
だから彼女は軍を辞めた。
だからヤタガラスを作った。
誰かの命が消えようとしている時に、会議の終了を待たなくてもいい組織を。
だが。
今回ばかりは、その国家を動かさなければならなかった。
*
午前五時四十二分。
首都圏某所。
表向きには、民間医療研究法人が所有する検査施設。
実際には、警察が重大事件の証拠分析などに使用することもある非公開施設だった。
地下二階。
本来なら大型実験動物の隔離検査に使われる区画が、急造の収容室へ変えられている。
厚い強化ガラス。
二重扉。
独立換気。
室内には紫外線照射装置。
拘束台には銀合金を編み込んだ固定具。
そして、その中央。
黒髪の女が横たわっていた。
眠ってはいない。
赤い目で、天井を見ている。
その様子を、隣室から十人以上の人間が見ていた。
誰一人、言葉を発しない。
警察。
医師。
政府関係者。
防衛関係者。
所属を明らかにしない男たち。
そして。
PMCヤタガラス。
「改めて確認する」
黒崎剛士が言った。
会議室の中央に立っていた。
昨日までの彼なら、これほど異質な人間たちを一室へ集めることなどできなかっただろう。
だが今は違う。
映像がある。
医師の証言がある。
採取した血液がある。
そして。
生きた個体がいる。
否定できない。
無視できない。
黒崎はモニターを操作した。
映し出されたのは、旧東湾配送センターで撮影された映像だった。
女が二メートルを超える柵を跳び越える。
紫外線によって皮膚が損傷する。
銀に触れて傷の治癒が遅れる。
人間を遥かに上回る怪力。
銃弾を受けても、致命傷にならない肉体。
そして。
三十を超える同族。
最後に映る、銀色の髪の女。
映像が止まった。
沈黙が続く。
やがて、灰色のスーツを着た五十代ほどの男が口を開いた。
「……加工の可能性は」
黒崎が男を見る。
「三か所の独立した記録装置で撮影しています」
「映像ではなく」
男は収容区画を示した。
「あれそのものが、という意味だ」
三島が深いため息をついた。
「では、あなた自身で診察してください」
「私は医者ではない」
「だったら医者の意見を聞いてください」
三島の声には疲労が滲んでいた。
一晩中起きている。
だが、その目だけは冴えていた。
「心拍はあります。呼吸もします。出血もする。細胞構造も基本的には人間に近い。ですが、代謝は異常に低い。体温も低い。傷害に対する組織修復速度は人間と比較になりません」
男が聞く。
「遺伝子は?」
「解析中です」
「人間なのか?」
三島は少し黙った。
「それを決めるには、科学だけでは足りません」
「どういう意味だ」
「生物学的にどの程度人間と近ければ人間と呼ぶのかという問題になるからです」
室内が静かになる。
三島は続けた。
「チンパンジーと人間の違いを何パーセントと表現するか。その数字だけで人権を決められますか?」
「今は哲学の話をしているんじゃない」
「いいえ」
三島は男を見る。
「もう始まっています」
その一言に、誰も反論しなかった。
ホオズキは壁際に寄りかかりながら、そのやり取りを聞いていた。
腕を組んでいる。
顔には疲労が見える。
それでも眠る気はなかった。
榊原宗一郎が隣に立っている。
「嫌な顔をされていますね」
榊原が小さく言った。
「私?」
「はい」
「昔を思い出してるだけ」
「軍ですか」
「ええ」
ホオズキは会議室を見回す。
「こういう部屋、大嫌いなのよ」
「でしょうね」
「十人集めて、二十の意見を出して、一つの判断を作る」
「それが国家というものです」
「分かってる」
「だからこそ嫌いなのでしょう」
ホオズキは何も言わなかった。
図星だった。
会議は続く。
「対象は何と呼称する」
別の男が言った。
「吸血鬼でいいのか?」
室内に妙な空気が流れた。
誰もその単語を公的な場で口にしたくなかった。
伝承。
怪談。
娯楽作品。
非科学的な象徴。
そんな言葉を、国家機関の会議資料に書くのか。
久世冬馬が淡々と答える。
「便宜上、V型異常生物として管理番号を付けています」
「V?」
「Vampireです」
「結局吸血鬼じゃないか」
「分かりやすさは重要です」
蓮司が吹き出しそうになる。
レイナが肘で止めた。
「笑わない」
「笑ってない」
「口元」
「生まれつき」
「嘘つけ」
榊原の視線が飛んできた。
二人とも黙った。
その時。
収容室の女が動いた。
首だけ。
ゆっくりと。
こちらを見る。
強化ガラスの向こう。
視線がホオズキへ向く。
「起きていたのか」
黒崎が言う。
「最初から」
ホオズキが答える。
「寝たふりすらしてない」
女の唇が動いた。
音声が拾われる。
『九条ホオズキ』
室内の全員が動きを止める。
ホオズキは腕を組んだまま答えた。
「何?」
『人が増えた』
「あなたのおかげ」
『怖いのか』
「何が?」
『我々が』
ホオズキは少し考えた。
「怖いわよ」
何人かが彼女を見る。
女も一瞬だけ目を細めた。
『認めるのか』
「認める」
ホオズキは平然としていた。
「怖くない相手なら対策なんてしないもの」
女は黙った。
「でもね」
ホオズキは強化ガラスへ近づく。
「怖いことと、負けることは別なのよ」
赤い瞳と黒い瞳が向き合う。
『母は来る』
「知ってる」
『おまえを殺す』
「予約が多いのよ。順番待ちしてもらって」
レイナが小さく俯いた。
笑いを堪えている。
黒崎が眉間を押さえた。
「お前な……」
「何?」
「こういう時くらい真面目にしろ」
「真面目よ」
女は不思議そうにホオズキを見ていた。
恐怖を感じている。
それなのに軽口を叩く。
理解できない。
そういう顔だった。
『なぜ』
「何が」
『なぜ恐怖を隠さない』
ホオズキは少しだけ表情を変えた。
「隠す必要がないから」
『弱さだ』
「そう?」
ホオズキはガラスに指先を触れた。
「怖いから準備する。死にたくないから考える。守りたい人がいるから戦う」
女は黙っている。
「怖いって、そんなに悪いものじゃないわよ」
赤い瞳が揺れた。
ほんのわずか。
その時。
久世の端末が鳴った。
短い警告音。
久世の顔が変わる。
「代表」
「何?」
「話を止めてください」
声が低い。
ホオズキは振り返った。
久世は画面を見ている。
指が高速で動く。
「何かあった?」
「外部ネットワークから遮断します」
「理由は」
「異常通信」
室内の数人が立ち上がった。
「どこからだ?」
黒崎が聞く。
「分かりません」
「攻撃か」
「まだ断定できません。ただ――」
久世が言葉を切る。
次の瞬間。
会議室の照明が一度消えた。
一秒。
再点灯。
だが。
収容区画側の照明は戻らない。
「久世!」
「こちらではありません!」
非常灯が点灯する。
赤い光。
誰もが第8章の倉庫を思い出した。
拘束台の女が笑った。
『来た』
ホオズキが振り向く。
「何が?」
『母ではない』
女が言う。
『もっと古いもの』
その瞬間。
施設全体に警報が鳴った。
*
午前六時七分。
地上階。
最初に異常を確認したのは、正面警備所だった。
監視カメラに一人の男が映った。
年齢は四十代ほど。
スーツ姿。
髪は短く。
表情は穏やか。
男は玄関前に立っていた。
警備員がスピーカーで呼びかける。
「施設関係者以外立入禁止です」
男はカメラを見る。
微笑んだ。
そして。
警備員の名前を呼んだ。
『佐藤さん』
警備員の表情が変わる。
「……誰だ」
『昨日、お嬢さんの誕生日でしたね』
警備員が固まった。
『七歳』
「何で」
『青いランドセルが欲しいそうですね』
「お前」
警備員が腰の無線に手を伸ばす。
その瞬間。
モニターが暗転した。
通信が切れる。
十秒後。
警備室からの応答がなくなった。
*
「一階警備室、連絡途絶!」
無線が飛ぶ。
「侵入者一名!」
「一名?」
黒崎が言った。
「一人で?」
ホオズキはすでに戦闘服の上着を掴んでいた。
「一人だから怖いのよ」
プレートキャリアを締める。
「大勢なら攻撃。単独なら別の目的がある」
「交渉?」
紗夜。
「あるいは」
榊原が言う。
「自信」
その言葉に、ホオズキが視線を上げた。
「全員、実弾装填」
会議室の空気が変わる。
「紫外線照射器を携行。銀弾は節約しない。黒崎」
「何だ」
「あなたはここ」
「断る」
「警察の偉い人が死んだら面倒よ」
「PMCの代表が死ぬよりはマシだ」
「どっちも駄目でしょ」
「なら話は終わりだ」
ホオズキが睨む。
黒崎も睨み返す。
「……頑固」
「お前が言うな」
榊原が割って入る。
「夫婦喧嘩は帰ってからお願いします」
「夫婦じゃない!」
二人の声が揃った。
一瞬。
誰も喋らなかった。
蓮司がレイナへ小声で言う。
「息ぴったり」
「聞こえるわよ」
ホオズキの声。
「すみません」
「減俸」
「また!?」
その直後。
銃声。
上階。
一発。
二発。
三発。
そして途絶える。
全員の表情から冗談が消えた。
「行く」
ホオズキが走り出した。
*
階段を上がる。
一階通路。
自動扉は開いたままだった。
床に警備員が倒れている。
「生体確認!」
紗夜がしゃがむ。
首に手を当てる。
「生きています」
「傷は?」
「ありません」
「意識だけ?」
「はい」
ホオズキは周囲を見る。
死体がない。
血もない。
銃撃戦の跡もない。
「侵入者は殺してない」
榊原が言った。
「意図的でしょう」
「目的は捕虜」
ホオズキ。
「だと思います」
さらに進む。
角。
レイナが小型鏡を出す。
「先、クリア」
一人ずつ進む。
ロビー。
そこに男がいた。
ソファに座っている。
脚を組み。
まるで約束の時間を待つ客のように。
黒いスーツ。
白いシャツ。
ネクタイはしていない。
年齢は四十代。
肌は不自然なほど白くはない。
瞳も赤くない。
完全に人間に見える。
「止まれ」
ホオズキが銃口を向ける。
男は笑った。
「初めまして」
「名前」
「名乗れば撃たないでいただけますか?」
「保証しない」
「正直で結構」
男は立たない。
周囲を武装した人間に囲まれている。
それでも落ち着いている。
「エドガー・ヴァイス」
男が言った。
「それが今の名前です」
「今の?」
「長く生きると、名前は増える」
黒崎の顔が険しくなる。
「吸血鬼か」
「その呼称で構いません」
エドガーはあっさり認めた。
「ただし、あなた方が捕らえた若い個体と私を同列に扱うのは、少々乱暴ですが」
ホオズキの指が引き金に触れる。
「目的は」
「話」
「それだけ?」
「それだけです」
「仲間が三十人以上で襲ってきた翌日に?」
「あれは私の仲間ではありません」
ホオズキの目が細くなる。
「母の一派?」
「そう呼んでいるのですね」
エドガーが少し笑った。
「面白い」
「知ってるの?」
「もちろん」
彼はようやく立ち上がった。
一斉に銃口が動く。
エドガーは両手を見える位置に置く。
「撃たないでください。今の私は戦いに来たわけではない」
「今の私は?」
紗夜が拾う。
「言葉尻を取りますね」
「仕事なので」
「優秀だ」
ホオズキが一歩前へ出る。
「その女は何者?」
エドガーは答えない。
「銀髪の女」
「名前を知りたいですか?」
「ええ」
「では」
男が微笑む。
「対価を」
「何が欲しい」
「捕らえた娘」
空気が凍った。
「返せと?」
「いいえ」
エドガーは首を振る。
「私に渡してほしい」
ホオズキの眉が動く。
「仲間じゃないの?」
「同族ではあります」
「違いは」
エドガーは少し考えた。
「あなた方人間で例えるなら、国家が違う」
「吸血鬼にも国家がある?」
「その表現は正確ではない」
「じゃあ何」
「血統」
短い答えだった。
「思想」
さらに続く。
「掟」
「派閥」
「共同体」
「そして」
エドガーの表情から笑みが消えた。
「敵対関係」
ホオズキは黙った。
この瞬間。
世界がさらに広がった。
一種類ではない。
まとまっていない。
吸血鬼という種族の中にも、政治がある。
「銀髪の女は?」
「アウレリア」
初めて。
名前が出た。
「アウレリア・セレスティン」
ホオズキは記憶する。
「年齢は」
「知りません」
「嘘」
「本当に知らない」
エドガーは笑わなかった。
「私が生まれた時には、すでにいた」
「あなたは何歳?」
一瞬。
男の瞳が変わった。
「五百までは数えました」
誰も動かなかった。
蓮司でさえ、冗談を言わない。
「それ以降は?」
「面倒になりまして」
レイナが小さく呟く。
「スケールが違う……」
エドガーは続けた。
「アウレリアは古い」
「どれくらい」
「非常に」
「答えになってない」
「答えられないのです」
「なぜ」
「記録がない」
ホオズキの表情が変わる。
「記録より古い?」
「可能性があります」
黒崎が低く言う。
「冗談じゃねえぞ」
「同感です」
エドガーが答えた。
「だから私はここへ来た」
「捕虜を奪うため?」
「半分は」
「残りは?」
男はホオズキを見る。
「警告」
その一言で。
室内の温度が下がったように感じた。
「何を警告するの」
「アウレリアは、人間との全面戦争を望んでいる」
沈黙。
「理由は?」
「時代です」
「意味が分からない」
「昔は簡単でした」
エドガーが言う。
「村が一つ消えても、山賊の仕業になった」
「旅人が消えても、狼に食われたことになった」
「戦争が起これば、何千人死んでも誰も疑わなかった」
「疫病の時代なら、一晩で数百人死んでも自然でした」
男の目が細くなる。
「今は違う」
「カメラ」
久世が言った。
エドガーは彼を見る。
「その通り」
「監視カメラ。スマートフォン。DNA鑑定。衛星。SNS」
「人間社会は、我々が隠れるには明るくなりすぎた」
ホオズキが理解する。
「だから、隠れるのをやめる?」
「アウレリアはそう考えている」
「人間を滅ぼす?」
「違う」
エドガーの返事は早かった。
「支配する」
黒崎の手が拳になる。
「人間を家畜にする気か」
「彼女の理想では」
エドガーが淡々と答える。
「人間は管理されるべき資源です」
誰かが息を飲んだ。
ホオズキは表情を変えない。
「あなたは違うの?」
「違います」
「どう違う」
「人間は面白い」
「理由になってない」
「私には十分です」
エドガーは微笑んだ。
「あなた方は弱い」
「寿命も短い」
「病気にもなる」
「すぐ死ぬ」
「なのに」
彼はロビーを見回す。
「海を越えた」
「空を飛んだ」
「月へ行った」
「我々が何千年も夜に隠れている間に、あなた方は世界を作り変えた」
エドガーの声には、不思議な響きがあった。
羨望。
敬意。
あるいは。
恐れ。
「人間を滅ぼすのは愚かです」
「だから共存したい?」
「できるなら」
「できないなら?」
エドガーは黙った。
ホオズキが銃口をわずかに上げる。
「答えて」
「生き残る側につく」
静かな答えだった。
綺麗事ではない。
ホオズキはむしろ、その言葉を信用した。
「捕虜を渡せば?」
「アウレリアの情報を渡します」
「それだけ?」
「彼女の拠点」
「人数」
「血統」
「協力者」
「人間社会への浸透状況」
ホオズキの眼が鋭くなる。
「協力者がいるの?」
「もちろん」
エドガーが言う。
「あなた方は、吸血鬼が人間に紛れていると考えた」
「その考えは半分正しい」
「半分?」
「人間もまた」
男は微笑む。
「我々に紛れている」
その意味を理解するのに、少し時間がかかった。
黒崎が先に反応した。
「協力している人間がいる」
「政治家」
「警察官」
「企業家」
「医師」
「軍人」
「宗教家」
エドガーは指を折るように列挙する。
「金で」
「権力で」
「不老への期待で」
「恐怖で」
「あるいは純粋な信仰で」
久世が顔を上げる。
「つまり」
「はい」
エドガーは彼を見る。
「あなた方の敵は、夜だけにはいません」
*
午前六時三十四分。
地下収容区画。
アウレリアの娘は、目を閉じていた。
眠っているように見える。
だが。
口元がわずかに動いた。
「エドガー」
誰もいない室内。
「裏切り者」
その声を。
天井の監視マイクだけが拾っていた。
*
「要求は却下」
ホオズキが言った。
エドガーは少し驚いた顔をする。
「即答ですか」
「ええ」
「理由を聞いても?」
「捕虜は物じゃない」
室内にいる全員がホオズキを見る。
「情報と交換する商品にはしない」
「彼女はあなたを殺そうとした」
「それとこれとは別」
エドガーの目がわずかに細くなる。
「面白い」
「そればっかりね」
「五百年生きても、面白い人間は希少です」
「口説いてる?」
黒崎の眉が動いた。
レイナが気づく。
蓮司も気づく。
二人が黒崎を見る。
「何だ」
「別に」
「何でもないです」
エドガーが黒崎を見た。
ホオズキを見る。
また黒崎を見る。
「なるほど」
「何がだ」
黒崎の声が低くなる。
「いえ」
エドガーは楽しそうだった。
「人間は本当に面白い」
「話戻して」
ホオズキが遮る。
「捕虜は渡さない」
「では交渉不成立ですね」
「そうとも限らない」
エドガーが眉を上げる。
「あなたが欲しいものは、アウレリアの娘だけ?」
「今のところ」
「じゃあ別のものを出す」
「何を?」
「アウレリアを止める」
今度こそ。
エドガーの表情が止まった。
ホオズキが続ける。
「あなた一人じゃ止められないんでしょ」
「……」
「だから人間に接触した」
「……」
「捕虜が欲しいんじゃない」
「本当に欲しいのは」
ホオズキが男を見据える。
「私たちの戦力」
長い沈黙。
エドガーが笑った。
先ほどまでの柔らかい笑顔ではない。
「恐ろしい方だ」
「吸血鬼に言われると嬉しいわ」
「正解です」
空気が変わる。
「アウレリアの勢力は大きい」
「どれくらい」
「世界規模です」
「人数」
「把握できません」
「またそれ?」
「本当です」
エドガーは続ける。
「彼女の血統だけではない」
「彼女に従う一族がいる」
「人間もいる」
「さらに」
そこで男は言葉を止める。
「何?」
ホオズキが促す。
「彼女より古い存在もいる」
誰も動かなかった。
「アウレリアより?」
久世。
「眠っている」
「どこに」
「世界各地」
「何体」
「分からない」
「起きたら?」
エドガーは答えなかった。
その沈黙が答えだった。
*
同時刻。
東京。
高層ホテル。
一室。
カーテンは閉じられている。
銀髪の女――アウレリア・セレスティンは、椅子に座っていた。
目の前に、三人の人間がいる。
一人は高級スーツを着た男。
一人は医師。
一人は制服姿の老人。
老人が口を開く。
「捕獲された個体については、政府内でも共有が始まっています」
「そうですか」
アウレリアはワイングラスを傾ける。
中身は赤い。
それが何なのかを、誰も聞かない。
「隠蔽は」
「難しいでしょう」
「なぜ?」
スーツの男が答える。
「黒崎という警察官が動いています」
「知っています」
「それから」
男は一瞬躊躇した。
「ヤタガラス」
アウレリアが微笑む。
「九条ホオズキ」
「はい」
「面白い子でしょう?」
三人は答えない。
「人間は、時々ああいうものを生みます」
アウレリアはグラスを置いた。
「弱く」
「短命で」
「脆いのに」
「夜に向かって銃を構える」
老人が尋ねる。
「今後は?」
「予定通りです」
「ですが、存在が明らかになれば」
「構いません」
三人の顔が変わった。
「むしろ」
アウレリアは立ち上がる。
「その方がいい」
カーテンの隙間。
朝日。
彼女は光を避けるように、一歩下がった。
「人間は未知を恐れる」
「恐怖は分断を生みます」
「政府は秘密にしたがる」
「市民は真実を求める」
「宗教は意味を与えようとする」
「企業は利益に変える」
「軍は兵器にしたがる」
「学者は研究したがる」
アウレリアの赤い瞳が細くなる。
「そして」
「人間同士で争う」
スーツの男が静かに聞く。
「我々は何をすれば」
「何もしなくていい」
「何も?」
「ええ」
アウレリアは微笑んだ。
「最初の一滴だけ落とせば」
「水面の波は」
「人間自身が広げます」
*
午前七時十三分。
非公開施設。
久世が突然席を立った。
「まずい」
「何?」
ホオズキ。
「情報が漏れた」
全員の顔が変わる。
「どこへ」
「SNS」
モニターに投稿が表示された。
短い動画。
粗い映像。
深夜の倉庫。
飛び上がる人影。
煙を上げる皮膚。
そして。
赤い瞳。
投稿文。
たった一行。
――東京で吸血鬼を見た。
再生数。
二百。
更新。
三百五十。
五百。
八百。
千。
数字が増えていく。
「消せ」
政府関係者が言う。
「無理です」
久世が即答する。
「投稿元を削除してもコピーされる」
「プラットフォームへ要請を」
「その間に拡散します」
「偽物だと発表すればいい」
別の男。
久世は首を振る。
「問題は」
画面を切り替える。
別の投稿。
別角度。
さらに別。
「一つじゃありません」
ホオズキの顔が険しくなる。
動画が次々投稿されている。
十本。
二十本。
撮影位置が違う。
「誰が撮った?」
黒崎。
「分かりません」
久世。
「ただ」
「同時刻に予約投稿されています」
「意図的?」
「はい」
エドガーが静かに言った。
「アウレリアです」
全員が彼を見る。
「彼女は隠れるのをやめた」
ホオズキは画面を見る。
再生数。
一万。
三万。
十万。
コメントが流れる。
映画の宣伝。
AI動画。
フェイク。
本物。
陰謀論。
怪物。
吸血鬼。
政府実験。
外国の兵器。
未知の感染症。
誰も真実を知らない。
だから誰もが、自分の理解できる物語を作り始めている。
ホオズキはその光景を見つめた。
「始まったわね」
黒崎が隣へ来る。
「ああ」
「昨日まで」
ホオズキが言う。
「私たちだけが知ってた」
「今は違う」
黒崎。
久世が振り返る。
「代表」
「何」
「トレンド一位です」
ホオズキは乾いた笑いを漏らした。
「最悪」
蓮司が画面を見る。
「『東京吸血鬼』……」
レイナ。
「もう名前までついてる」
紗夜が呟く。
「これからどうなりますか」
誰もすぐには答えなかった。
やがて。
榊原が言った。
「混乱します」
「でしょうね」
ホオズキ。
「デマも増える」
「模倣犯も出ます」
黒崎。
「人間同士の事件も起きる」
久世。
「株価も動くでしょう」
「宗教も」
三島。
「医療も」
エドガーが最後に言った。
「そして」
ホオズキが彼を見る。
「夜が動く」
エドガーは頷いた。
「隠れていた者たちは、選択を迫られる」
「アウレリアにつくか」
「人間につくか」
「逃げるか」
「あるいは」
男の顔から笑みが消える。
「自分で王になろうとするか」
ホオズキはしばらく黙った。
そして。
「榊原さん」
「はい」
「本部に連絡」
「全隊員を呼び戻しますか」
「いいえ」
ホオズキは首を振る。
「全契約を再評価」
「海外要員も?」
「全部」
榊原の目が変わる。
「長期戦になりますね」
「たぶん」
ホオズキは装備を締め直す。
「久世」
「はい」
「ネット上の情報を分類」
「事実、デマ、意図的な工作」
「了解」
「紗夜」
「はい」
「本部警備を三段階上げる」
「了解」
「レイナ」
「はい」
「Vesper周辺」
「張ります」
「蓮司」
「おう」
「遊撃待機」
「一番好きなやつ」
「死なないでね」
「努力します」
最後に。
ホオズキは黒崎を見る。
「国家は?」
黒崎はスマートフォンを見た。
着信が十件以上入っている。
警視庁。
政府。
知らない番号。
そして。
上司。
「ようやく起きた」
黒崎が言う。
「遅いわね」
「ああ」
ホオズキは鼻で笑った。
「でも」
黒崎は続ける。
「今度は動く」
ホオズキが窓を見る。
厚い防護ガラスの向こう。
朝。
太陽。
人間の時間。
だが。
地下には吸血鬼がいる。
ロビーには五百年以上生きた吸血鬼がいる。
東京のどこかでは、千年を超えているかもしれない女が朝日を避けている。
そしてインターネット上では。
世界中の人間が。
初めて。
同じ言葉を検索していた。
吸血鬼。
昨日まで。
それは物語だった。
今日から。
違う。
*
午前七時三十一分。
世界各地。
ロンドン。
地下鉄の使われていないホーム。
一人の老人がスマートフォンの動画を見る。
「ついにか」
小さく呟く。
*
イスタンブール。
旧市街。
古い屋敷。
黒い衣装の女がカーテンを閉じる。
「アウレリア……」
忌々しそうに名前を呼ぶ。
*
ニューヨーク。
高層ビル最上階。
若い男の姿をした何者かが、テレビニュースを見ている。
「面白くなってきた」
笑う。
*
パリ。
地下墓地。
暗闇の中。
何十もの赤い瞳が開く。
*
そして。
東欧某所。
人の住まなくなった山岳地帯。
朽ちた修道院。
その地下。
石造りの巨大な扉。
何百年。
あるいは。
何千年。
誰も開けていない。
扉の向こう。
暗闇。
何もない。
そう思われていた。
だが。
その日。
初めて。
音がした。
ドクン。
心臓のような。
低い音。
もう一度。
ドクン。
石棺の上に積もった埃が。
わずかに。
震えた。
――第九章 了




