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第8章 夜を捕らえる

第八章 夜を捕らえる


 人は、見たいものを見る。


 理解できるものだけを理解し、自分の知っている世界の枠からはみ出したものについては、見間違い、勘違い、錯覚、集団心理――そういう言葉を並べて、どうにか元の形へ押し戻そうとする。


 それは臆病だからではない。


 そうしなければ、人間は毎朝、昨日と同じ世界で目を覚ますことができないからだ。


 だからこそ、黒崎剛士は言った。


「証明してみろ」


 ヤタガラス本部、地下会議室。


 午前零時を回った室内には、眠気を訴える者は一人もいなかった。


 壁面の大型モニターには、久世冬馬がまとめた実験結果が表示されている。


 紫外線照射による組織損傷。


 銀との接触による再生速度の著しい低下。


 さらに両者を併用した場合に見られた、細胞活動そのものの停止に近い反応。


 数字だけを見れば、どこかの大学研究室で行われている生体組織実験の報告書にも思えた。


 ただし、その試料が人間によく似た何かから切り取られたものだと知れば、話は変わる。


 黒崎はテーブルの端に両手を置き、しばらく画面を見ていた。


 紺色のシャツ。


 ネクタイは外している。


 勤務を終えて帰宅する途中だったはずの男が、今は警察官としてではなく、九条ホオズキの私的な知人という極めて危うい立場でそこに立っていた。


「組織片だけじゃ駄目だ」


 やがて黒崎が言った。


「映像も駄目だ。今の時代、映像なんぞいくらでも作れる」


 久世が椅子に深く座ったまま答える。


「DNA解析結果は?」


「研究所がどこの誰だと聞かれる。採取過程を出せと言われる。そこで終わりだ」


「では、死体」


「もっと面倒になる」


 黒崎は顔をしかめた。


「人間そっくりの死体が出てきて、しかも身元がない。最初に始まるのは怪物退治じゃねえ。殺人事件の捜査だ」


 誰も反論しなかった。


 正しかった。


 科学的な証拠があることと、社会がそれを認めることは同じではない。


 ましてや相手は、これまで世界中の伝承の中にしか存在しなかったものだ。


「じゃあ、どうすればいい?」


 ホオズキが尋ねた。


 黒崎は彼女を見る。


「生きたまま捕まえろ」


 その一言で、室内の空気が変わった。


 御影紗夜がわずかに眉を寄せる。


 篠宮レイナは椅子の背から体を起こし、神代蓮司は腕組みしたまま小さく息を吐いた。


「簡単に言いますね」


 レイナが呟く。


「死人みたいに硬くて、人間より速くて、撃っても治る相手を」


「簡単だとは言ってない」


 黒崎は答えた。


「だが必要だ」


 ホオズキは何も言わず、黒崎を見つめていた。


 黒崎もその視線から逃げなかった。


「生きた個体を確保する。警察官の前で、人間にはあり得ない現象を確認させる。第三者の医師にも見せる。採血する。撮影する。全部、俺が立ち会う」


「あなたの首が飛ぶわよ」


「飛ぶだろうな」


 黒崎は淡々と答えた。


「だから、飛ばねえだけの証拠を用意しろと言ってる」


 ホオズキの口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。


「随分と無茶な注文ね」


「お前に仕事頼む時は、いつもそうだろ」


「料金、高いわよ」


「請求書は警視庁に回せ」


「通る?」


「通るわけねえだろ」


 短い沈黙のあと、蓮司が吹き出した。


 張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


 だが、榊原宗一郎だけは笑わなかった。


「代表」


 低い声が室内に響く。


「問題は、捕まえる場所です」


 ホオズキもすぐに表情を戻した。


「Vesperは使わない」


「賛成です」


 地下ライブハウス《Vesper》。


 少女失踪事件を追う中で、ヤタガラスが最初にそれらと遭遇した場所。


 奈緒を救出できた代わりに、彼らはそこで初めて、人間の常識が通じない敵を知った。


 そして銀色の髪を持つ女。


 あの女がいる。


 少なくとも、いる可能性が高い。


 いま再び巣に踏み込むのは、偵察ではない。


 宣戦布告になる。


「外に出る個体を狙います」


 久世がキーボードを操作した。


 都内地図が表示される。


 赤い点がいくつも浮かんでいた。


「Vesper周辺の防犯カメラを片っ端から追いました。正規のアクセス権があるものだけです」


「その一言、俺の前で強調する必要あるか?」


 黒崎が睨む。


「あります」


 久世は平然としていた。


「私は善良な情報技術者なので」


「寝言は寝て言え」


 モニター上に、一人の女性の姿が映った。


 黒髪。


 細身。


 二十代半ば程度に見える。


 黒いジャケットに濃色のパンツ。


 派手さはない。


 街ですれ違っても、おそらく誰も覚えていないだろう。


「この女です」


 久世が映像を拡大した。


「七日間で四回、Vesper付近から外出しています。時間帯はすべて日没後。移動範囲は半径約十二キロ」


「目的は?」


 紗夜が聞く。


「まだ断定できません。ただ、奇妙な行動がある」


 映像が切り替わった。


 大型物流センター。


 深夜。


 トラックが出入りする搬入口付近を、先ほどの女が歩いている。


「ここ」


 久世が画面を止めた。


「三回立ち寄っています」


「物流倉庫?」


「正確には閉鎖済みの配送施設です。新倉庫移転後、建物だけが残っている。夜間、人はいません」


 榊原が地図を見つめた。


「周囲は?」


「工業地区。北と西が運河。東は倉庫。南側に片側二車線の道路。午前一時以降は交通量がかなり減ります」


 ホオズキが椅子から立った。


 地図の前まで歩く。


「出口は?」


「車両ゲート二か所。歩行者通用口一か所。地下設備用通路が一本」


 榊原が続ける。


「捕獲には悪くない地形です」


「逃走経路をこちらで限定できる」


 紗夜が言った。


「ただし相手の身体能力を考えれば、フェンスは出口とは考えない方がいいでしょう」


「屋根もだ」


 蓮司が付け加える。


「前に見た動きなら、二階や三階なんて地面と変わらねえ」


 ホオズキは地図を見ながら考えていた。


 やがて振り返る。


「捕まえる」


 声は静かだった。


 だが迷いはなかった。


「久世。照明設備を準備。紫外線中心。ただし殺さない出力から段階的に上げられるように」


「了解」


「三島先生には?」


「連絡済みです。本人は来ると言っています」


「断って」


「絶対嫌だそうです」


 ホオズキが眉を寄せる。


「医者ってどうしてこういう時だけ勇敢なの?」


 久世は少し考えてから答えた。


「知的好奇心という病気でしょう」


「治療法は?」


「ありません」


 ホオズキはため息をついた。


「防護区画の外から観察。それ以上は許可しない」


「伝えます」


「紗夜、拘束班」


「了解」


「レイナは外周監視。蓮司は遊撃」


「了解」


「へいへい」


「榊原さん」


「全体統制を」


「お願いします」


 最後にホオズキは黒崎を見る。


「あなたは?」


「俺は警察官だ」


 黒崎は言った。


「本来なら、お前ら全員止める側だ」


「そうね」


「だが今夜だけは、見て見ぬふりをする警察官が何人かいる」


 ホオズキの瞳がわずかに細くなる。


「何人?」


「聞くな」


「所属は?」


「聞くな」


「装備は?」


「聞くな」


「随分便利ね」


「二度と使えねえ手だと思え」


 黒崎はホオズキの目を真っ直ぐ見た。


「失敗するなよ」


 その言葉の意味を理解していない者はいなかった。


 失敗すれば、単に捕獲作戦が失敗するのではない。


 黒崎は警察官としての立場を失う。


 ヤタガラスもまた、危険な武装集団として扱われかねない。


 そして何より、吸血鬼という存在に人間社会が備える機会を失う。


「黒崎」


 ホオズキが言った。


「何だ」


「私は、失敗しないなんて約束はしないわ」


 黒崎は黙っている。


「でも」


 ホオズキは続けた。


「帰ってくることだけは約束する」


 黒崎は数秒間、彼女を見た。


 それから鼻を鳴らした。


「最初からそれだけ守れ」


     *


 午前二時十三分。


 旧東湾配送センター。


 雨は降っていなかった。


 だが海から吹き込む風が湿っていた。


 巨大な倉庫群の間を抜けた風が、古いシャッターを低く震わせる。


 照明のほとんどは落ちている。


 その暗闇の中に、ヤタガラスの隊員たちは散っていた。


 ホオズキは三階の管理通路から搬入口を見下ろしていた。


 黒い戦闘服。


 プレートキャリア。


 右腿のホルスター。


 背中には通常の小銃ではなく、今回のために用意された特殊装備を吊っている。


 外見だけなら大型の投光器に近い。


 しかし照射されるのは可視光ではない。


『各班、状況』


 無線にホオズキの声が流れる。


『アルファ、異常なし』


 紗夜。


『ブラボー異常なし。暇すぎて蓮司が欠伸してます』


 レイナ。


『余計な報告すんなよ』


 蓮司。


『聞こえてるわよ』


 ホオズキが返す。


『神代。緊張感』


『ありますって』


『声にない』


『代表が持って行ったんじゃないですか』


『減俸』


『横暴!』


 その時だった。


『静かに』


 久世の声。


 全員が瞬時に黙った。


『対象を捕捉』


 ホオズキの表情から、すべての柔らかさが消えた。


『位置』


『南側道路。施設まで百八十。徒歩。単独』


 管理通路の奥に置かれた小型モニターへ映像が送られる。


 女が歩いていた。


 黒髪。


 黒いジャケット。


 会議室で見た人物と同じだった。


 傘はない。


 周囲を警戒しているようにも見えない。


 ごく普通の女が、深夜の工業地区を一人で歩いている。


 それだけの光景。


 だからこそ、不気味だった。


『脈拍は?』


 ホオズキが尋ねる。


『熱源映像では体表温度が周辺気温より若干高い程度。人間より低い。心拍は遠距離では取得不能』


 久世が答えた。


『対象、南ゲート通過』


 女が敷地へ入った。


 ゲートは閉鎖されている。


 高さ二メートルを超える金属柵。


 女はその前で止まった。


 そして次の瞬間。


 跳んだ。


 助走はなかった。


 膝をわずかに曲げただけだった。


 その体が柵の上へ浮かび、指先が一瞬だけ金網に触れる。


 音もなく反対側へ降りた。


 無線の向こうで、誰かが小さく息を飲んだ。


『映像記録』


 黒崎の声だった。


 彼は敷地外の移動指揮車にいる。


『取れているか』


『複数角度で記録中』


 久世が答える。


『まだ足りねえ』


 黒崎は言った。


『最後まで撮れ』


 女はゆっくりと倉庫へ近づいてくる。


 その歩き方だけ見れば人間だった。


 だがホオズキには分かった。


 あれは警戒している。


 顔を動かさない。


 視線もほとんど動かさない。


 けれど、空間全体を感じ取っている。


 耳か。


 匂いか。


 あるいは人間にはない別の感覚か。


 女が搬入口の前で止まった。


 三秒。


 五秒。


 十秒。


 ホオズキの背中を嫌な感覚が走った。


『待って』


 彼女は小さく言った。


 女が顔を上げた。


 真っ直ぐに。


 三階のホオズキを見た。


 二人の視線が暗闇の中で交わった。


「気づいてる」


 ホオズキが呟いた。


 次の瞬間、女が動いた。


『開始!』


 ホオズキの声と同時に、倉庫内の照明が一斉に点灯した。


 白い光。


 そして、その中に混ざる不可視の紫外線。


「――ッ!」


 女が初めて声を上げた。


 両腕で顔を覆う。


 露出していた手の甲から煙が上がった。


『反応あり!』


 久世の声が飛ぶ。


『皮膚損傷確認!』


 だが倒れない。


 女は照明の範囲から一瞬で飛び出した。


 速い。


 人間なら数秒かかる距離を、ほんの一瞬で詰める。


『西へ!』


 レイナ。


『抜けます!』


「行かせない!」


 紗夜が飛び出した。


 女の進路に銀色のワイヤーが走る。


 細い。


 だが内部に銀合金線が編み込まれている。


 女の肩に絡みつく。


「ぁあッ!」


 今度の悲鳴は明確だった。


 女がワイヤーを掴む。


 皮膚が焼けた。


 だが、その力は人間の比ではない。


 紗夜の体が一気に引かれた。


「紗夜!」


 ホオズキが通路から飛び降りる。


 三階。


 人間なら躊躇する高さ。


 途中の手すりを掴み、二階の梁へ足を掛け、そのまま床へ降りる。


 着地と同時に走った。


「離して!」


 紗夜がワイヤーの固定具を解除する。


 その直後、女が腕を振った。


 ワイヤーが鉄柱へ叩きつけられ、火花が散る。


 女の顔が照明に照らされた。


 皮膚が剥がれていた。


 左頬。


 額。


 手の甲。


 ところが傷口は見る見る塞がっていく。


 完全ではない。


 遅い。


 第7章の実験結果と一致している。


『再生低下を確認』


 久世の声がわずかに震えていた。


『銀接触部だけ明らかに遅い』


「やっぱり効く」


 ホオズキは腰の装置を抜いた。


 銃に似ている。


 だが弾丸ではない。


 圧縮ガス。


 引き金を引く。


 銀を混ぜた特殊樹脂弾が発射され、女の左肩に命中した。


 弾頭が砕け、粘着質の樹脂が広がる。


「――!」


 女が身をよじった。


 その隙を紗夜が逃さない。


 背後へ回り込む。


 しかし女は振り返らずに肘を打ち込んだ。


 紗夜は腕で受けた。


 鈍い音。


 体が二メートル近く飛ぶ。


「紗夜!」


「平気です!」


 転がりながら紗夜が叫ぶ。


 女が走る。


 東側。


『東封鎖!』


 榊原。


 巨大なシャッターが落ち始める。


 女は止まらない。


 閉じきる直前の隙間。


 そこへ滑り込もうとする。


「おっと」


 神代蓮司がいた。


「通行止めだ」


 女の拳が飛ぶ。


 蓮司は避けた。


 拳が背後のコンクリート柱に当たる。


 表面が砕ける。


「うわ」


 蓮司の顔から笑みが消えた。


「それ食らったら死ぬな」


 女がもう一撃。


 蓮司は下がる。


 その動きは普段の軽薄さとは別人だった。


 ぎりぎりまで引きつけて避ける。


 攻撃させる。


 進路を限定する。


「レイナ!」


『はい!』


 二階から投射されたネットが女を包んだ。


 銀合金繊維。


 女が地面へ倒れる。


 だが、すぐに起き上がった。


「嘘でしょ」


 レイナが呟く。


 ネットが軋む。


 一本。


 二本。


 金属繊維が切れ始める。


「久世!」


 ホオズキが叫ぶ。


『二号照明、起動!』


 天井から強烈な光が降った。


 紫外線。


 女の肌から一斉に煙が上がる。


「ああああああッ!」


 絶叫。


 初めて、女が完全に膝をついた。


『照射レベル四十パーセント』


 久世。


『まだ上げられる』


「維持!」


 ホオズキは女へ近づいた。


 紗夜も立ち上がり、反対側から寄る。


 女はネットの中でもがいている。


 顔が焼ける。


 治る。


 また焼ける。


 再生が追いつかなくなっている。


 目だけがホオズキを見ていた。


 赤い。


 あの日。


 Vesperで見たものと同じ眼。


 人間を獲物として見る眼。


 だが今は違った。


 そこにあったのは。


 恐怖だった。


 ホオズキの足が一瞬止まった。


 怪物。


 そう呼んできた。


 人を襲い、血を奪い、人間にはない力を持つ存在。


 だが目の前で怯えているそれを見た瞬間、奇妙な感覚が胸をよぎった。


 怪物にも恐怖がある。


 ならば。


 これは本当に、ただの怪物なのか。


「代表!」


 紗夜の声。


 女が突然口を開いた。


 鋭い犬歯。


「殺す……」


 掠れた声だった。


 ホオズキは動かなかった。


「おまえたち……全員……」


「喋れるのね」


 女の表情が変わった。


「何?」


「あなたたち、会話できるんだ」


 女は答えない。


「名前は?」


 沈黙。


「あなたの名前」


「……ない」


「ない?」


「必要……ない」


 人間とは違うアクセント。


 だが日本語だった。


 ホオズキはしゃがんだ。


 女と目線を合わせる。


「Vesperの銀髪の女を知ってる?」


 その瞬間だった。


 女の顔から憎悪が消えた。


 代わりに現れたものを見て、ホオズキは息を止める。


 恐怖。


 先ほどとは比較にならない恐怖。


「知らない」


「嘘ね」


「知らない」


「名前は?」


「知らない!」


 女が叫ぶ。


 その声に怒りはなかった。


 怯えていた。


「言えないの?」


 ホオズキが尋ねる。


 女の唇が震える。


 そして。


「……母」


 そう言った。


 ホオズキは動かなかった。


「何?」


「母」


 女はもう一度言った。


「我らの……母」


 無線から、誰の声も聞こえなかった。


 全員が聞いている。


 ホオズキはゆっくり立ち上がった。


「拘束する」


 紗夜が動く。


「両腕、両脚、首。全部銀を入れて。口にも保護具。自傷させないように」


「了解」


「久世、照射を二十五パーセントまで下げて」


『危険です』


「殺す方が危険よ」


 一瞬の間。


『了解』


 光が弱くなる。


 女の呼吸が少し落ち着いた。


 紗夜と蓮司が特殊拘束具を装着する。


 銀合金が皮膚に触れるたび、女の体が痙攣した。


 それでも暴れない。


 いや。


 暴れられない。


 人間を簡単に殺せるほどの存在が、今は床に横たわっている。


 科学。


 装備。


 情報。


 連携。


 人類が何千年もの間積み重ねてきたものが、初めて伝承の怪物を床へ押さえつけていた。


『黒崎』


 ホオズキが無線を開く。


『聞いてた?』


 しばらく返事がなかった。


 やがて。


『ああ』


 低い声。


『全部な』


『証拠として足りる?』


 また沈黙。


『……十分すぎる』


     *


 午前三時二十八分。


 敷地の南側ゲートから、二台の車両が入ってきた。


 警察車両ではない。


 民間のワゴン。


 ナンバーも普通だ。


 だが降りてきた男たちの動きは、明らかに一般人のものではなかった。


 黒崎が先頭だった。


 その後ろに三人。


 ホオズキは名前を聞かなかった。


 聞くなと言われていたからだ。


 一人は警察官。


 一人は医師。


 もう一人は映像記録担当。


 それだけ分かれば十分だった。


 倉庫中央。


 特製の拘束台。


 黒髪の女が横たわっている。


 黒崎たちが近づくと、女は顔だけ動かした。


「これが……」


 同行していた医師が言葉を失う。


 ホオズキは壁際に立っていた。


「先生」


 三島が透明防護板の向こうから声を掛ける。


「普通の患者だと思って診察してください」


「普通?」


 医師が三島を見る。


「これを?」


 三島は少し笑った。


「最初は、私もそう言いました」


 検査が始まった。


 体温。


 心拍。


 血圧。


 採血。


 瞳孔反応。


 傷の観察。


 そして。


 三島が小型の刃物で、女の前腕をほんの数ミリ切開した。


 血が滲む。


 医師が身を乗り出す。


 傷が閉じていく。


 一分もかからない。


「もう一度」


 黒崎が言った。


 三島は銀製器具を触れさせる。


 女が呻いた。


 同じ場所を切開。


 今度は違った。


 傷は閉じない。


 遅い。


 目に見えて遅い。


 医師の顔色が変わった。


「そんな……」


「次、紫外線」


 三島。


 照射。


 皮膚が赤くなる。


 水疱。


 壊死。


 通常の人間では起こり得ない速度で損傷する。


 しかし照射を止めれば、徐々に再生が始まる。


 医師は何度も脈拍を確認した。


 機器を疑った。


 別の機器を使った。


 結果は変わらなかった。


「生きている」


 医師が呟いた。


 黒崎が隣で聞く。


「人間ですか」


 医師は答えなかった。


「先生」


「分からない」


 ようやく返ってきた言葉だった。


「少なくとも……私が知る人間の生理学では説明できない」


 黒崎はその言葉を聞いて、目を閉じた。


 ほんの一秒。


 そして開く。


「それを書面にできますか」


 医師が黒崎を見る。


「私の人生を終わらせたいんですか」


「俺も一緒です」


「慰めになりません」


「でしょうね」


 その会話を聞きながら、ホオズキは拘束台の女を見ていた。


 女もこちらを見ている。


 目が合った。


「何?」


 ホオズキが尋ねる。


 女は黙っている。


 やがて口を開いた。


「遅い」


「何が?」


「おまえたちは……遅い」


 ホオズキの眉が動く。


「どういう意味?」


 女が笑った。


 初めて見せた笑顔だった。


 苦痛に歪んだ顔の中で、その笑みだけが異様だった。


「もう……始まっている」


「何が」


「夜が」


 倉庫内で誰かが動きを止めた。


「あなたたちは何人いる?」


 女は答えない。


「東京だけ?」


 沈黙。


「日本だけ?」


 女の笑みが少し深くなった。


 ホオズキは悟った。


 質問を変える。


「あなたたちは、最近現れたんじゃないわね」


 女の瞳が揺れた。


「昔からいた」


 反応。


 わずか。


 だが十分だった。


「人間社会に紛れてきた」


 また反応。


「何十年?」


 沈黙。


「百年?」


 反応しない。


「千年?」


 女が笑う。


「人間」


 小さく呟く。


「何?」


「おまえたちは……いつもそう」


「どういう意味」


「自分たちが知らなかったものは……存在しなかったと思う」


 ホオズキは黙った。


 女の声は弱い。


 だが言葉だけは鮮明だった。


「森にいた」


「町にいた」


「城にいた」


「船にも」


「戦場にも」


「病院にも」


 一つ一つ。


 女はゆっくり言った。


「おまえたちの隣に……ずっといた」


 誰も口を挟まなかった。


「なのに」


 女が笑う。


「ようやく気づいた」


 ホオズキの背筋を、冷たいものが這った。


 少女の失踪事件。


 Vesper。


 奈緒。


 銀髪の女。


 それらは始まりではない。


 発見だった。


 人間側が、ようやく見つけただけなのだ。


「母は何者?」


 ホオズキが尋ねた。


 笑みが消えた。


「答えない」


「怖いの?」


 女の眼が鋭くなる。


「違う」


「じゃあ何?」


「おまえたちに」


 女が言った。


「名前を与えたくない」


「どうして?」


「名前を知れば」


 そこで女は初めて、ホオズキから視線を外した。


「呼べるから」


 誰も言葉を発しなかった。


 意味を理解するまで、数秒かかった。


 三島が小さく尋ねる。


「呼べる、とは?」


 女は答えない。


「召喚?」


 久世が無線越しに呟く。


「宗教的な意味なのか、それとも通信のような――」


「久世」


 ホオズキが止めた。


 嫌な予感がした。


 女の表情。


 先ほどまでとは違う。


 何かを待っている。


「照明を最大に」


『え?』


「久世、今すぐ!」


 照射器が起動した。


 紫外線が降り注ぐ。


 女が絶叫する。


 その瞬間。


 倉庫の照明が消えた。


 完全な暗闇。


「何!?」


 レイナの声。


『電源喪失!』


 久世。


『非常電源に切り替える!』


 ホオズキは銃を抜いた。


「全員、警戒!」


 赤色の非常灯が点灯した。


 倉庫が血のような赤に染まる。


 拘束台。


 女はいる。


 拘束具も外れていない。


 では、何が起きた。


 その時。


 屋根の上で音がした。


 コツ。


 ほんの小さな音。


 ホオズキは上を見る。


 高い天井。


 鉄骨。


 暗闇。


「レイナ」


「見てます」


 レイナが暗視装置を上げる。


 数秒。


 そして。


「……代表」


 声が変わった。


「何」


「上にいます」


「何人」


 沈黙。


「レイナ、何人?」


「分かりません」


「どういう意味?」


「多すぎます」


 その瞬間。


 倉庫の屋根全体から、足音が聞こえた。


 一つではない。


 二つでもない。


 十。


 二十。


 あるいは。


 もっと。


 音もなく近づいていたものたちが、存在を隠す必要を失ったかのように動き始めた。


 拘束台の女が笑った。


「母が」


 掠れた声。


「気づいた」


 ホオズキの目が細くなる。


「総員、防御配置!」


 ヤタガラスの隊員たちが動く。


 紗夜が拘束台の前へ。


 蓮司が西側。


 レイナが二階。


 榊原が指揮線を組み直す。


 黒崎は同行者を背後へ下げた。


「ホオズキ!」


「分かってる!」


 天井の一部が軋んだ。


 金属板が内側へ曲がる。


 人間の力ではない。


 一度。


 二度。


 三度。


 ボルトが飛ぶ。


 蓮司が銃口を上げる。


「こいつは……」


 笑っていなかった。


「ちょっと多いな」


「怖い?」


 レイナが尋ねる。


「まさか」


 蓮司は安全装置を解除する。


「帰ったら怖かったことにする」


「じゃあ帰らないとね」


「そのつもり」


 ホオズキは天井を見上げたまま無線を開いた。


「久世」


『聞いてます』


「非常電源の残り」


『三十二分』


「紫外線照明は?」


『全部動かすと九分』


「十分」


『代表』


「何?」


 久世の声が少し震えていた。


『外部カメラにも出ました』


「数は」


『少なくとも三十七』


 黒崎がホオズキを見る。


 ホオズキも彼を見た。


 三十七。


 確認できた分だけで。


 敵は、こちらの存在を知った。


 いや。


 違う。


 こちらが彼らの存在に気づいたことを、敵が知ったのだ。


 ホオズキは息を吸った。


 不思議と恐怖はなかった。


 代わりに、あの国外任務の日と同じ感覚が戻ってきていた。


 選択しなければならない。


 待っていれば誰かが決めてくれる状況ではない。


 上層部の許可も。


 会議も。


 政治判断も。


 いま必要なのは、一つだけだった。


「榊原さん」


「はい」


「作戦変更」


「内容は」


「捕獲個体を維持したまま撤退」


 黒崎が声を上げる。


「連れていくのか!?」


「ここに置いたら取り返される」


「三十以上いるんだぞ!」


「だからよ」


 ホオズキは黒崎を見た。


「これだけの数を動かしてまで取り戻したい個体なら、価値がある」


 拘束台の女の笑みが消えた。


 その表情を見た瞬間、ホオズキは確信した。


「当たりね」


「……何が」


 黒崎が聞く。


「この子」


 ホオズキは女を指した。


「ただの一匹じゃない」


 女の瞳に、初めて焦りが浮かぶ。


 ホオズキはそれを見逃さなかった。


「何か知ってる」


 天井が裂けた。


 鉄板が落下する。


「伏せろ!」


 轟音。


 埃。


 赤い非常灯の中。


 一つの影が落ちてきた。


 床へ着地する。


 人間の形。


 細身の男。


 青白い肌。


 赤い眼。


 その後ろ。


 もう一つ。


 さらに。


 次々と。


 夜そのものが天井から降ってくるようだった。


 ヤタガラスの銃口が一斉に上がる。


 だがホオズキは撃たなかった。


 最後に降りてきた人物を見たからだ。


 白い肌。


 銀色の髪。


 長い髪が、埃の舞う赤い光の中でゆっくり揺れる。


 あの日。


 Vesper。


 鼻先が触れそうなほど近い距離で、互いの顔を見つめた女。


 あの笑み。


 忘れるはずがない。


 銀髪の女は、ヤタガラスの武器にも、黒崎にも目を向けなかった。


 拘束台の女を見た。


 それから。


 九条ホオズキを見る。


 微笑んだ。


「また会いましたね」


 その声は静かだった。


 まるで偶然、街角で知人に会ったかのように。


 ホオズキは銃口を向けた。


「随分な人数でお迎えね」


「大切な娘ですから」


 銀髪の女が答える。


 拘束台の女が震えた。


「母……」


「静かに」


 銀髪の女は優しく言った。


「迎えに来ましたよ」


 その声音には慈愛すらあった。


 だからこそ、ホオズキは背筋が寒くなった。


「帰していただけますか?」


 銀髪の女が尋ねる。


「嫌だと言ったら?」


 ホオズキは答えた。


 銀髪の女は少し首を傾ける。


「困ります」


「話し合い?」


「もちろん」


 その周囲で、三十を超える赤い眼が光っている。


 蓮司が小声で呟いた。


「説得力あるなあ」


「黙って」


 レイナが返す。


 銀髪の女はホオズキだけを見ていた。


「九条ホオズキ」


 名前を呼ばれた。


 ホオズキの表情が変わる。


「調べたの?」


「ええ」


「仕事が早いのね」


「あなた方ほどでは」


 銀髪の女が笑う。


「わずかな時間で、銀と光まで見つけた」


「千年生きてる割に、秘密の管理が甘いんじゃない?」


 銀髪の女の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


 反応した。


 千年。


 適当に投げた数字。


 だが。


 何かに触れた。


 久世が聞いている。


 きっと記録している。


「面白い方ですね」


「よく言われる」


「だから残念です」


「何が?」


「あなたとは」


 銀髪の女の赤い瞳が細くなる。


「もっと遅い時代に会いたかった」


 次の瞬間。


「久世!」


 ホオズキが叫んだ。


『全灯点火!』


 倉庫内が白く爆発した。


 紫外線照射器。


 全基最大出力。


 周囲の吸血鬼たちが一斉に叫ぶ。


 銀髪の女も腕で顔を覆った。


「撤退!」


 ホオズキが走る。


 紗夜と蓮司が拘束台を載せた搬送架台を押す。


 黒崎が医師たちを誘導する。


 レイナが後方へ煙幕を投げる。


 普通の煙ではない。


 銀微粒子を混ぜた特殊煙幕。


 倉庫内に白い霧が広がった。


 悲鳴。


 怒声。


 何かが鉄骨へ衝突する音。


「南ゲート!」


 榊原。


「車両まで百二十!」


 ホオズキは最後尾を走った。


 後ろを振り返る。


 銀髪の女がいた。


 紫外線の中。


 皮膚から煙を上げながら。


 それでも。


 立っている。


 笑っていた。


「九条ホオズキ!」


 初めて声を張った。


 ホオズキが振り返る。


「それを連れて行けば!」


 銀髪の女の声が響く。


「あなた方の世界は終わります!」


 ホオズキは走りながら答えた。


「もう始まってるんでしょう!」


 一瞬。


 銀髪の女の笑みが消えた。


「だったら!」


 ホオズキは叫んだ。


「こっちも始める!」


 南側シャッターが開く。


 冷たい夜気。


 待機していた装甲車。


「乗せろ!」


 黒崎。


 拘束個体を積み込む。


 医師。


 記録員。


 ヤタガラス隊員。


 次々と乗車。


 ホオズキが最後だった。


 車体へ飛び乗る寸前、もう一度だけ倉庫を見る。


 暗闇の中。


 銀髪の女が立っていた。


 赤い眼。


 二人の視線が交わる。


 ほんの数秒。


 だがホオズキには分かった。


 あの女は怒っている。


 同時に。


 楽しんでもいる。


 装甲扉が閉まる。


「出して!」


 エンジンが唸った。


 車両が加速する。


 背後の倉庫が遠ざかる。


 誰も喋らなかった。


 荒い呼吸。


 装備の擦れる音。


 拘束具の金属音。


 それだけ。


 やがて蓮司が壁にもたれた。


「……勝った?」


 誰も答えない。


「代表」


 レイナが言う。


「これ、勝ったんですかね」


 ホオズキは答えなかった。


 拘束台を見る。


 黒髪の女。


 生きている。


 捕まえた。


 証拠もある。


 人間社会が怪物の存在を否定できなくなるだけの証拠。


 作戦目的は達成した。


 ならば勝利だ。


 だが。


 銀髪の女の言葉が耳に残っている。


 ――それを連れて行けば、あなた方の世界は終わります。


 脅しなのか。


 警告なのか。


 それとも。


 予言なのか。


 黒崎が隣に腰を下ろした。


「ホオズキ」


「何」


「上を動かす」


 彼女は黒崎を見る。


 黒崎の顔には、もう迷いがなかった。


「今夜見たもの全部持っていく」


「信じてもらえる?」


「信じるしかなくする」


「あなた、嫌われるわよ」


「元から好かれちゃいねえ」


 ホオズキは少し笑った。


 黒崎は続ける。


「警察だけじゃ無理だ」


「でしょうね」


「政府案件になる」


「でしょうね」


「自衛隊も関わる」


「そうなるでしょうね」


「外交もだ」


 そこでホオズキは黙った。


 黒崎を見る。


「国外にもいると思う?」


「お前はどう思う」


 ホオズキは窓の外を見た。


 東京の夜景。


 無数の灯り。


 ビル。


 マンション。


 ホテル。


 駅。


 病院。


 学校。


 人間が暮らす場所。


 そのどこかに。


 ずっと。


「いるでしょうね」


 ホオズキは言った。


「たぶん」


 車両は夜の首都高速へ入った。


 眼下には街が広がっている。


 数百万の人間が眠る都市。


 彼らは知らない。


 今夜。


 世界が少しだけ変わったことを。


 いや。


 本当は世界など変わっていない。


 変わったのは、人間の認識だ。


 怪物は今日生まれたのではない。


 人類が今日。


 ようやく怪物を捕まえた。


 そしてその瞬間。


 怪物たちもまた。


 人類を敵として認識した。


     *


 午前四時十九分。


 旧東湾配送センター。


 人間たちが去った倉庫の中で、銀髪の女は一人立っていた。


 床には焼け焦げた跡。


 切れた銀線。


 空になった薬莢。


 破損した照射器。


 人間が残した痕跡。


 若い男の吸血鬼が近づく。


「追いますか」


 銀髪の女は答えない。


「母」


「必要ありません」


「ですが、姉妹が」


「分かっています」


 声は穏やかだった。


 男はそれ以上言わなかった。


 銀髪の女は床に落ちていたものを拾う。


 ヤタガラスの装備から外れた、小さな黒い留め具。


 それを指先で転がす。


「九条ホオズキ」


 名前を口にする。


 そして微笑んだ。


「ようやく」


 男が顔を上げる。


「何がですか」


 銀髪の女は倉庫の壊れた屋根を見上げた。


 その向こうには。


 夜明け前の空。


 東の端が、ほんのわずかに白み始めている。


「戦争が始まります」


 その声音には怒りも悲しみもなかった。


 むしろ。


 長い長い退屈がようやく終わった者のような響きがあった。


 遠く。


 朝を知らせる最初の鳥の声がした。


 銀髪の女はその音を聞きながら、静かに暗闇の奥へ歩いていった。


 夜は終わろうとしていた。


 だが人類にとっての本当の夜は。


 まだ。


 始まったばかりだった。


              ――第八章 了

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