第10章 最初の1滴
第10章 最初の一滴
午前四時十七分。
東京の夜が、朝へ明け渡されるにはまだ少し早い時間だった。
新聞配達の原付が住宅街を走り、始発電車の運転士たちが点呼を受け、繁華街では夜勤を終えた店員たちがシャッターを下ろしている。
ほとんどの人間が眠っているその時刻に、一つの動画がインターネットへ投稿された。
最初に確認されたのは、海外の小規模な動画共有サイトだった。
投稿者名は意味を持たない英数字の羅列。
登録されたばかりのアカウント。
動画の長さは二十一秒。
タイトルも説明文もなかった。
映像は暗かった。
どこかの立体駐車場らしい。
スマートフォンで撮影したような縦長の画面の中を、一人の女性が歩いている。
白い肌。
黒い服。
長い髪。
その数メートル後ろから、若い男性が追いかけていた。
男性が何かを叫ぶ。
女性が振り返る。
次の瞬間。
画面が大きく揺れた。
女性の姿が消えた。
正確には、消えたように見える速度で移動した。
数メートルあった距離を、一瞬で詰めたのだ。
男性の身体が壁へ叩きつけられる。
鈍い衝撃音。
そして女性が、その首元へ顔を寄せた。
数秒後、撮影者が悲鳴を上げる。
女性が顔を上げた。
口元が赤かった。
そこで映像は終わった。
投稿から三分後。
別の動画サイトへ転載された。
五分後。
英語字幕が付いた。
八分後。
中国語。
十一分後には日本語字幕版が現れた。
十四分後には動画の一部を切り抜いた短い映像が複数のSNSへ流れ始めた。
二十分後。
「吸血鬼」という単語が検索ランキングへ入り始める。
三十分後。
削除された。
だが、遅かった。
保存された動画はコピーされ、再投稿され、それをさらに別の人間が保存した。
一つ消えるたびに三つ増えた。
一時間後には、元の投稿がどこだったのかすら分からなくなっていた。
そして午前六時を回る頃。
世界は目を覚ました。
*
「……七百四十二万」
久世冬馬が呟いた。
ヤタガラス本部。
情報システム部の大型モニターには、膨大な数のウィンドウが表示されている。
動画サイト。
SNS。
掲示板。
ニュースサイト。
まとめサイト。
海外メディア。
久世の指がキーボードを滑るたび、数字が更新された。
「何が七百四十二万だ」
榊原宗一郎が聞いた。
「確認できた転載動画の総再生数です」
「今だけで?」
「午前七時三十八分現在で」
室内に重い沈黙が落ちた。
久世がもう一度キーを叩く。
数字が変わった。
「……訂正。七百八十一万」
榊原が鼻から長く息を吐いた。
「増え方が洒落にならんな」
九条ホオズキは、腕を組んだまま中央のモニターを見ていた。
映像はすでに何度も見た。
再生。
女性が歩く。
男が追う。
女性が振り返る。
一瞬で距離を詰める。
壁へ叩きつける。
首元へ顔を寄せる。
血。
終了。
二十一秒。
短い。
あまりにも短い。
だからこそ、人間はその前後を想像する。
想像した部分を、自分の信じたい物語で埋める。
「加工の可能性は?」
ホオズキが聞いた。
「映像そのものについては、あります」
久世が答えた。
「というより、今の技術ならこれくらいの映像は作れます。生成AIでも、VFXでも、かなり近いものはできる。だから映像一本だけなら証拠にはならない」
「だが本物なんだな」
榊原が言った。
久世は数秒黙った。
「少なくとも、俺が旧東湾配送センターで見た動きと一致しています」
誰も返事をしなかった。
あの夜。
生け捕りにした黒髪の女。
警察官を軽々と投げ飛ばし、人間では考えられない速度で動いた存在。
その個体は今も、政府が管理する非公開施設に収容されている。
映像の女が同一人物ではないことだけは分かっていた。
つまり。
少なくとも、もう一体いる。
おそらくは、それどころではない。
「問題は映像じゃありません」
久世が言った。
ホオズキが彼を見る。
「拡散の仕方です」
モニターに世界地図が表示された。
東京。
ソウル。
香港。
ベルリン。
ロンドン。
ニューヨーク。
サンパウロ。
無数の点が光る。
「普通のバズじゃない。最初の十五分で複数言語に翻訳されている。転載用アカウントも事前に用意されていた。しかも、最初の投稿を消して出所を分からなくしてる」
「誰かが仕掛けた」
「はい」
久世は言った。
「最初から世界中へ流すつもりだった」
ホオズキの表情が変わらない。
だが、右手の人差し指が左腕を一度だけ叩いた。
考えているときの癖だった。
「アウレリア」
榊原が低く言った。
ホオズキが頷く。
昨夜。
捕獲した黒髪の吸血鬼が口にした言葉。
――母。
そしてエドガー・ヴァイスが明かした名。
アウレリア・セレスティン。
何百年という時間を生き、人間社会の裏側で勢力を築いてきた吸血鬼。
人間との共存など望んでいない。
彼女が求めているのは、その上に立つことだ。
「昨日まで」
ホオズキが静かに言った。
「私たちは吸血鬼を探していた」
誰も口を挟まない。
「今日から違う」
その目がモニターの無数の投稿を見る。
「向こうが、人間社会の中へ出てきた」
*
午前八時十二分。
警視庁。
黒崎剛士の机の電話は、十五分間に六度鳴った。
内線。
警察庁。
公安。
警備局。
内閣官房。
そして、また警察庁。
黒崎は最後の電話を切ると、受話器を乱暴に置いた。
周囲の部下たちは、誰も彼の顔を見ようとしなかった。
怒っている。
全員が分かっていた。
だが原因は電話ではない。
「記者が一階に集まり始めています」
部下の一人が報告した。
「何人だ」
「現在四十人程度です」
「十分後には倍になるな」
黒崎は立ち上がった。
机の上には、印刷された資料がある。
動画から切り取られた静止画像。
行方不明者一覧。
Vesper。
旧東湾配送センター。
そして、最上段には赤字で書かれた文字。
取扱注意・未確認特殊事案
黒崎はその文字を見下ろした。
「未確認、ねえ」
低い声だった。
部下は何も言わなかった。
黒崎は実物を見ている。
紫外線に苦しむ女を。
銀によって再生を阻害される肉体を。
銃弾を受けながら立ち上がる姿を。
その存在を、自分の目で見た。
だが警察組織にとって、見たという事実だけでは足りない。
確認。
検証。
分類。
法的整理。
所管。
責任。
すべてが必要になる。
それを黒崎自身、否定するつもりはなかった。
組織は、そうでなければならない。
一人の人間の思い込みで国家権力が動けば、それこそ恐ろしい。
しかし。
目の前に化け物がいるときまで、書類の名前が決まるのを待っているわけにはいかない。
「会議は?」
黒崎が聞いた。
「九時からです」
「誰が来る」
「警察庁、内閣官房、防衛省、厚労省、それと――」
部下が一瞬ためらった。
「専門家が数名」
黒崎が眉を寄せる。
「何の専門家だ」
「感染症、法医学、映像解析。それから……」
「それから?」
「民俗学です」
黒崎は数秒黙った。
「……ついに民俗学者まで呼ぶようになったか」
誰も笑わなかった。
笑える話ではなかった。
*
午前九時。
政府関係施設の会議室。
窓はなかった。
長い机を囲み、十数人の人間が座っている。
黒崎もその中にいた。
大型モニターには例の二十一秒が停止した状態で表示されている。
「現時点で」
内閣官房の男が言った。
「政府として、この映像と一連の行方不明事件に関連があると認めることはできません」
黒崎は黙っていた。
「映像については加工の可能性がある。専門家の解析を待つべきです」
映像解析担当者が口を開く。
「正確には、加工された痕跡を確認できていない、です」
官房の男が顔を向けた。
「同じことでは?」
「違います」
解析担当者は即答した。
「偽物である証拠がないだけで、本物だと証明できたわけではない」
「だから慎重に扱うべきでしょう」
「慎重に扱うことと、偽物だと発表することは別です」
会議室の空気がわずかに硬くなる。
黒崎は内心でその技術者を評価した。
少なくとも言葉を曲げない人間らしい。
防衛省の出席者が口を開いた。
「仮に、警察側が収容している個体についての報告が事実だとすれば――」
黒崎が見る。
「事実です」
「黒崎警視」
「事実です」
同じ言葉を繰り返した。
「私は現場にいました」
「それについては理解しています。しかし国家として正式に認定するには――」
「時間が必要」
「そういうことです」
黒崎は椅子の背へ身体を預けた。
「向こうは待ってくれますかね」
答える者はいなかった。
黒崎は机を指で叩いた。
「こちらが名前を決めるまで」
一度。
「生物学的分類を終えるまで」
二度。
「法務省がこいつを人間として扱うのか、別の何かとして扱うのか結論を出すまで」
三度。
「向こうが大人しく地下室で待っていてくれるなら、俺も文句はありません」
官房の男の眉が動いた。
「言葉を慎んでください」
「慎んでる暇があるうちに言っています」
黒崎は前へ身体を起こした。
「Vesperの地下には、まだ行方不明者が残っている可能性がある」
会議室が静かになる。
「我々はこれまで、未知の相手に対して不用意に突入して被害を出すことを避けた。だから監視を続けた。だが状況が変わった」
黒崎はモニターを見る。
「相手が自分から姿を見せ始めた」
厚労省の職員が口を挟んだ。
「その件ですが、仮に血液摂取による感染性の疾患が――」
「分かってます」
黒崎は遮らなかった。
ただ低い声で続けた。
「だからこそ、地下に人を置いたままにはできない」
再び沈黙。
やがて官房の男が資料を閉じた。
「……限定的な突入を認めます」
黒崎の目が細くなる。
「警察主体。特殊事案への対処能力を持つ協力組織を同行させる」
「ヤタガラス」
「名前は出さないでください」
「出さなきゃ来ませんよ」
初めて、会議室の何人かが黒崎を見た。
黒崎は真顔だった。
*
午前十時二十四分。
地下ライブハウス、Vesper。
入口前には警察車両が並んでいた。
ただし赤色灯は消されている。
周囲はすでに封鎖されていた。
公式には、行方不明事件に関連する捜索。
それだけだ。
ホオズキは黒い戦闘服の上からプレートキャリアを着込み、無線を確認した。
その隣で黒崎が防弾ベストを直している。
「政府は何て?」
ホオズキが聞いた。
「存在は認めない」
「便利ね」
「役所ってのは、名前のないものが嫌いなんだ」
「名前ならあるでしょう」
ホオズキが地下へ続く階段を見た。
「吸血鬼」
黒崎が顔をしかめる。
「会議でそれを言った学者がいた」
「どうなった?」
「全員に嫌な顔された」
ホオズキの口元が少しだけ緩んだ。
「かわいそう」
「俺もそう思う」
だが笑みはすぐ消えた。
御影紗夜が近づく。
「代表。先行ドローン、地下二階まで到達」
「反応は?」
「熱源あり。ただし動きません」
「数」
「十一」
ホオズキの瞳が細くなる。
十一。
それが吸血鬼なのか。
人質なのか。
判断できない。
「紫外線照明班、準備」
「了解」
「銀弾は?」
「全員携行」
黒崎が付け加える。
「警察側には射撃制限をかけてる。相手が明確に攻撃してきた場合だけだ」
ホオズキが頷いた。
「正しいと思う」
「珍しく意見が合ったな」
「いつも合ってるでしょう」
「そうだったか?」
「細かいところで喧嘩してるだけ」
黒崎が一瞬、彼女を見る。
こういう状況でなければ、何か返したかもしれない。
だが今は二人とも地下を見ていた。
「行くぞ」
黒崎が言った。
「ええ」
隊列が動いた。
*
地下へ降りる。
一階。
無人。
以前は耳を痛めるほどの音楽が鳴っていた空間が、今は墓場のように静かだった。
床には空の酒瓶。
割れたグラス。
椅子。
誰かが慌てて出ていったような痕跡はない。
むしろ、不自然なほど整っている。
「撤収したな」
紗夜が囁く。
ホオズキは答えなかった。
地下二階。
鉄扉。
前回、彼女たちが撤退を決断した場所。
あの向こうに、被害者たちがいる。
ホオズキが手を上げる。
全員が止まった。
小型カメラを隙間から差し込む。
映像がタブレットへ送られる。
そこに映ったものを見て、紗夜の表情が変わった。
人間。
若い女性たち。
十人以上。
床に座っていた。
誰も拘束されていない。
誰も暴れていない。
ただ、じっと座っている。
「何だこれ……」
警察官の一人が呟いた。
ホオズキは映像を見つめた。
「扉を開ける」
「罠の可能性があります」
紗夜が言う。
「分かってる」
「ガスかもしれません」
「検知器」
久世の指示を受けた隊員が携帯型センサーを確認する。
異常なし。
ホオズキが黒崎を見る。
黒崎が頷く。
扉が開いた。
眩しい白色灯が室内を照らす。
誰も襲ってこなかった。
女性たちがゆっくり顔を上げた。
痩せている。
顔色が悪い。
腕には採血痕。
首元を布で隠している者もいた。
そして。
その中に。
「長谷川美月」
黒崎が名前を呼んだ。
一人の少女が顔を上げた。
失踪者の写真より、かなり痩せている。
しかし本人だった。
「警察だ」
黒崎は武器を下ろした。
「助けに来た」
美月は何も言わなかった。
黒崎が一歩近づく。
ホオズキが彼の肩を掴んだ。
「待って」
黒崎が止まる。
ホオズキは室内を見回した。
何かがおかしい。
あまりにも。
整いすぎている。
壁。
床。
天井。
そして正面。
白い壁に、一枚の紙が貼られていた。
ホオズキが近づく。
何も書かれていない。
ただの白紙。
「……何よ、これ」
紗夜が言った。
ホオズキは紙を見つめる。
美月が口を開いた。
「朝になったら」
掠れた声だった。
全員が振り返る。
「銀色の髪の女の人が……言いました」
ホオズキの身体から、わずかに力が抜ける。
「何て?」
美月の唇が震えた。
「朝になったら、帰してあげるって」
黒崎がしゃがみ、美月と目線を合わせた。
「他には?」
「……人間は」
少女が言った。
「自分で怖くなれるからって」
誰も動かなかった。
「私たちは、何もしなくていいって」
ホオズキの視線が白紙へ戻った。
そこには何も書かれていない。
だからこそ分かった。
メッセージは紙ではない。
この部屋そのものだった。
十一人の被害者。
全員生存。
全員解放。
吸血鬼は一人も残っていない。
アウレリアは人質を捨てた。
なぜなら。
もう必要ないからだ。
「黒崎」
「分かってる」
彼も気づいていた。
「ここはもう餌場じゃない」
ホオズキが言う。
「舞台装置だった」
*
正午。
救急車が次々とVesperから出ていった。
被害者十一名。
全員生存。
重度の貧血。
栄養状態の悪化。
複数の採血痕。
そして数名の首元に残る、二つの小さな傷。
現場は完全封鎖された。
だが。
隠せるはずがなかった。
「最悪だ」
久世の声が無線から聞こえた。
ホオズキは地上へ戻りながら答える。
「何が?」
「マスコミに抜かれました」
足が止まった。
「どこまで」
「行方不明女性複数を地下施設から救出。首に奇妙な傷。今、速報が出ました」
ホオズキは目を閉じた。
黒崎が隣で無線を聞いている。
「警察内部からか?」
「可能性があります。ただ……」
久世が言葉を切った。
「それだけじゃない」
「何?」
「被害者を搬送した病院名まで出てる」
黒崎の顔から表情が消えた。
「早すぎる」
「はい」
「情報漏洩の速度じゃない」
ホオズキが言った。
久世が答える。
「俺もそう思います」
その瞬間。
Vesperの外からざわめきが聞こえた。
封鎖線の向こう。
報道陣。
そして一般人。
スマートフォンを掲げる者。
動画配信をする者。
叫ぶ者。
「吸血鬼って本当なんですか!」
「行方不明者は血を抜かれてたんですか!」
「警察は何を隠してるんですか!」
「動画と関係あるんですか!」
警察官たちが押し返す。
だが質問は止まらない。
ホオズキは人々を見る。
怒っている人。
怯えている人。
面白がっている人。
笑っている人。
信じていない人。
信じ切っている人。
たった数時間で。
一つの映像が、人間をこれほど違う方向へ動かしている。
そしてアウレリアは。
おそらく。
それを見ている。
*
午後一時四十分。
動画の再生数は一億を越えた。
午後二時。
政府は短い声明を発表した。
「インターネット上で拡散している映像について、現時点でその真正性は確認されていない」
それは事実だった。
嘘ではない。
だが。
午後二時七分。
Vesperから救出された女性の家族が報道陣の前で泣いた。
「娘はずっと血を抜かれていたと言っています」
午後二時十九分。
救急搬送の映像がSNSへ投稿された。
午後二時三十一分。
被害者の首元の傷を撮影した写真が出回った。
午後二時四十三分。
「政府は隠している」という言葉が急上昇した。
午後三時。
銀製品を扱う通販サイトのアクセスが急増した。
午後三時十五分。
紫外線ライトが売れ始めた。
午後三時二十二分。
東京都内の交番に、「隣人が吸血鬼かもしれない」という通報が入った。
午後三時四十分。
繁華街で、青白い肌の男性が数人に取り囲まれる事件が発生した。
男性はただの会社員だった。
午後四時。
別の地域では、ゴシック系の服装をした若者が暴行された。
午後四時十三分。
救急相談窓口に、「朝から日光を嫌がる夫は吸血鬼か」という電話が入った。
午後四時二十分。
海外では吸血鬼を名乗る宗教団体が動画を公開した。
午後四時三十一分。
すべて偽物だと主張する専門家がテレビへ出演した。
午後四時四十二分。
その専門家の過去の発言を切り抜いた動画が拡散され、買収されているという噂が流れた。
午後五時。
誰も。
何が本当なのか分からなくなり始めていた。
*
ヤタガラス本部。
エドガー・ヴァイスは、ロビーのソファに座ってテレビを見ていた。
ニュース番組では、五人の専門家が議論している。
感染症。
映像技術。
犯罪心理。
生物学。
民俗学。
誰も同じことを言っていない。
エドガーは小さく笑った。
「何がおかしい」
榊原が聞いた。
「懐かしくてね」
「何がだ」
「人間は変わらない」
エドガーはテレビを見たまま答えた。
「疫病が流行ったときも、戦争が始まったときも、新しい宗教が現れたときも同じだった」
「現代を舐めるなよ」
榊原が言う。
「昔と違って情報はすぐ共有される」
「だから速い」
エドガーが答えた。
榊原が黙る。
エドガーはそこで初めて彼を見た。
「恐怖が広がる速度もだ」
ホオズキが歩いてきた。
「アウレリアの狙いは?」
エドガーの笑みが消えた。
「一つではない」
「全部言って」
「欲張りだ」
「仕事だから」
エドガーは肩をすくめた。
「第一に、我々の存在を公にする」
「なぜ」
「隠れる時代が終わったと考えているからだろう」
「自分から不利になるだけじゃない?」
「そうとも限らない」
エドガーは窓の外を見る。
まだ日は高い。
彼は当然、その光から離れた場所に座っていた。
「何百年もの間、我々が生き延びられたのは、人間が我々の存在を信じなかったからだ」
「なら隠れていた方がいい」
「普通ならね」
エドガーが言う。
「だがアウレリアは普通ではない」
ホオズキは黙って続きを待った。
「彼女は、人間を恐れていない」
「軍隊も?」
「恐れていない」
「核兵器も?」
エドガーは少し笑った。
「それはさすがに嫌だと思うよ」
榊原が眉を寄せる。
エドガーは続けた。
「だが、彼女が見ているのは兵器ではない。社会だ」
ホオズキの視線が鋭くなる。
「社会?」
「人間は強い。だが、人間社会は別だ」
エドガーはテレビを指した。
「疑う」
別の画面ではSNSが表示されている。
「怒る」
暴行事件。
「恐れる」
買い占め。
「責任を探す」
政府批判。
警察批判。
「そして群れる」
吸血鬼狩りを呼びかける投稿。
「アウレリアは知っている」
エドガーは静かに言った。
「人間は怪物を見つけると、最初に怪物を殺しに行くとは限らない」
ホオズキが答えた。
「隣の人間を疑う」
「そうだ」
誰も言葉を発しなかった。
「それが彼女のやり方だ」
エドガーは続ける。
「町を焼く必要はない。兵士を殺す必要もない。ほんの少しだけ恐怖を与える」
その声が低くなる。
「後は人間が、自分たちで燃やしてくれる」
*
午後七時十二分。
久世から緊急招集がかかった。
作戦会議室。
ホオズキ。
榊原。
紗夜。
黒崎。
そしてエドガー。
久世は全員が揃うのを待たず、モニターへ地図を表示した。
東京二十三区。
そこに赤い点が大量に打たれている。
「何これ」
紗夜が聞いた。
「今日午後から入った、吸血鬼関連の通報」
赤い点。
二百を越えている。
「ほぼ全部いたずらです」
久世が説明する。
「酔っ払い。喧嘩。コスプレ。野良犬。一件は大型のコウモリ」
「東京にそんなデカいコウモリいるのか」
黒崎が言った。
「ペットが逃げたそうです」
「平和な話だな」
誰も笑わなかった。
ホオズキは地図を見つめている。
「ほぼ全部って言ったわね」
「はい」
久世が地図を拡大した。
赤い点の一つが黄色に変わる。
「足立区。十九時三分」
監視カメラ映像。
男が路地を走っている。
その後ろを何かが追う。
次のカメラ。
男だけが映る。
その次。
誰もいない。
「行方不明?」
「はい」
別の点。
「江東区。十八時四十二分」
地下駐車場。
女性が車へ向かう。
画面の端。
人影。
映像が一瞬乱れる。
女性が消える。
「これも?」
「行方不明」
三件目。
「新宿。十八時二十八分」
酔客が路地で倒れている。
首から出血。
重度の貧血。
生存。
ホオズキが地図へ近づいた。
「三件だけ?」
「確認できたのは」
黒崎も立ち上がる。
「偶然じゃないな」
「はい」
久世が別の表示へ切り替えた。
通報時間。
警察到着時間。
消防到着時間。
周辺監視カメラ。
「おかしいんです」
「何が」
「偽通報が先に入ってる」
黒崎の目が動いた。
久世が説明を続ける。
「本物と思われる事案の発生前に、必ず周辺地域で複数の虚偽通報が発生している」
地図が変わる。
赤い点が先。
その後。
黄色。
「警察を散らしてる」
紗夜が言った。
「違う」
ホオズキが答えた。
全員が彼女を見る。
ホオズキは画面を見ていた。
「散らすだけなら、もっと効率のいい方法がある」
黒崎が気づく。
「……測ってるのか」
久世が頷いた。
「俺もそう考えています」
「何を?」
榊原が聞く。
ホオズキが答えた。
「反応時間」
室内が静まり返る。
「通報して」
ホオズキは赤い点を指す。
「警察が何分で来るか」
次。
「救急が何分」
次。
「周辺のカメラがどこにあるか」
次。
「どれくらいで封鎖されるか」
黒崎の顔が険しくなる。
「偵察か」
「ええ」
ホオズキは言った。
「この街そのものを調べてる」
エドガーだけが何も言わなかった。
ホオズキが彼を見る。
「知ってた?」
「予想はしていた」
黒崎が睨む。
「先に言え」
「確証がなかった」
「次からは予想でも言え」
エドガーは肩をすくめる。
「努力しよう」
黒崎が何か言い返そうとしたその瞬間。
久世の端末が鳴った。
短い電子音。
一度。
久世が画面を見る。
その顔が変わった。
「……何だ?」
ホオズキが聞いた。
「メールです」
「誰から」
「分かりません」
「今さら迷惑メールなら後にして」
「違います」
久世の声が低くなった。
「本部の外部公開していないアドレスに直接来ています」
ホオズキの目が細くなる。
「開いて」
「添付があります」
「隔離環境で」
久世が操作する。
画面が暗転した。
数秒後。
映像が表示された。
誰も声を出さなかった。
非公開施設。
昨日。
ホオズキが黒崎と共に建物へ入っていく姿。
遠距離から撮影されている。
次。
施設を出るホオズキ。
次。
ヤタガラス本部。
今日の午後。
帰ってくる車両。
その最後。
静止画。
ホオズキの顔。
そして黒い画面。
白い文字が浮かぶ。
一行。
九条ホオズキ。
二行目。
私の娘を預かってくれて、ありがとう。
誰も動かない。
三行目が現れる。
あなたたちは、夜を照らそうとしている。
数秒。
最後の文章。
なら私は、その光が作る影の中を歩きましょう。
映像が終わった。
久世が即座に解析を始める。
榊原が無言で扉を見る。
紗夜はすでに拳銃へ手を伸ばしていた。
黒崎はホオズキを見た。
「本部の場所が割れてる」
「そうね」
ホオズキは画面から目を離さなかった。
「非公開施設もだ」
黒崎の声がさらに低くなる。
「内部に協力者がいる」
「たぶん」
「たぶんじゃない」
「そうね」
ホオズキはようやく振り返った。
その顔には恐怖がなかった。
怒りもない。
ただ。
戦場で敵を見つけた兵士の目をしていた。
「久世」
「はい」
「本部の全システムを点検。通信、出入り、監視カメラ、契約業者、清掃、配送、全部」
「了解」
「榊原さん」
「おう」
「今日から本部を戦時警戒体制へ」
「すぐやる」
「紗夜」
「はい」
「外出する隊員は二人以上。単独行動禁止」
「了解」
黒崎が腕を組む。
「俺にも何かあるんだろ」
ホオズキが彼を見る。
「警察内部」
「ああ」
「疑った方がいい」
黒崎は数秒黙った。
「……一番嫌な仕事だな」
「分かってる」
信じている人間を疑わなければならない。
部下。
上司。
同僚。
長年同じ現場を歩いた者。
それこそが、アウレリアの狙いかもしれない。
疑わせる。
分断する。
恐れさせる。
ホオズキはもう一度、真っ黒になったモニターを見る。
エドガーが静かに言った。
「彼女は君を知った」
「みたいね」
「怖くないのか」
ホオズキは少し考えた。
そして答えた。
「怖いわよ」
全員が彼女を見る。
ホオズキは淡々と続けた。
「正体の分からない敵がいて、どこまで入り込まれてるのかも分からない。部下もいる。守らなきゃならない人もいる」
一瞬だけ。
黒崎へ視線が動いた。
「怖くないわけないでしょう」
エドガーは何も言わない。
「でも」
ホオズキはモニターへ向き直った。
「怖いからって、目を閉じたら」
静かな声だった。
「夜はなくならない」
窓の外。
東京に夜が戻っていた。
巨大な街。
一千万人を超える人間が生きる街。
無数の窓。
無数の道路。
無数の地下道。
誰かが眠り。
誰かが働き。
誰かが笑い。
誰かが怯えている。
そのどこかを。
人ではないものが歩いている。
そして今日。
人類は初めて。
自分たちが夜の頂点ではないかもしれないと知った。
まだ大半の人間は信じていない。
信じる者を笑う人間もいる。
陰謀だと叫ぶ人間もいる。
偽物だと断言する者もいる。
だが。
一度落ちた雫は。
もう拾い上げることができない。
水面に生まれた波紋は。
静かに。
確実に。
世界の端へ向かって広がり始めていた。
そしてその夜。
東京都内では、さらに十九件の失踪届が出された。
そのうち。
七件の現場から。
一滴の血も。
見つからなかった。




