第11章 オールジャパン
第11章 オールジャパン
午前五時四十二分。
東京の空が白み始める少し前、九条ホオズキはヤタガラス本部の屋上に立っていた。
眠っていない。
正確には、この三日間で合計四時間ほどしか眠っていなかった。
それでも不思議と眠気はなかった。
身体の疲労と、頭の疲労が別々の場所に存在しているような感覚だった。肩は重く、目の奥には鈍い痛みがある。それなのに思考だけは妙に冴えている。
眼下では、東京がいつも通り朝を迎えようとしていた。
配送トラックが走り、始発電車が高架を抜け、コンビニの前では制服姿の店員がゴミ袋を交換している。
世界は何も変わっていないように見える。
だが、変わってしまった。
もう戻らない。
数日前まで、「吸血鬼」という単語は映画や小説の中だけに存在するものだった。
今では総理官邸、警察庁、防衛省、厚生労働省、国立研究機関の機密文書に、その文字が並んでいる。
そしてネット上では、それ以上の速度で広がっていた。
東京吸血鬼。
地下倉庫の怪物。
銀に焼かれる男。
政府の人体実験。
軍の生物兵器。
悪魔。
宇宙人。
海外勢力の工作。
あらゆる憶測が、事実と嘘を混ぜながら拡散している。
政府は映像について「真偽を確認中」としか発表していない。
否定しなかった。
それだけで十分だった。
ホオズキはスマートフォンを取り出した。
そこには昨夜届いたメッセージが残っている。
『私の娘を預かってくれて、ありがとう』
そして続く一文。
『あなたたちが光の下を歩くのなら、その光が作る影の中を歩きましょう』
差出人は不明。
だが、誰が送ったのかなど考えるまでもない。
アウレリア・セレスティン。
銀白色の髪を持つ古い吸血鬼。
彼女は自分たちを見ている。
行動を測っている。
そして何より厄介なのは――遊んでいる。
「代表」
背後から声がした。
振り向かなくても分かった。
「榊原」
副代表兼統合作戦本部長、榊原宗一郎が屋上へ出てきた。
片手に紙コップを二つ持っている。
「コーヒーです」
「ありがとう」
受け取る。
熱かった。
それだけで、少しだけ現実に戻された気がした。
「政府からです」
榊原が言った。
「正式に招集がかかりました」
「何時?」
「〇九〇〇。場所は市ヶ谷です」
ホオズキはコーヒーを一口飲んだ。
「ずいぶん早いわね」
「十九人増えましたからな」
昨夜から今朝にかけて、東京都内で新たに十九件の失踪届。
そのうち七件では、血痕も争った痕跡もなかった。
「警察庁、防衛省、厚労省、内閣官房。それと研究機関が三つ。民間企業も呼ばれています」
「民間?」
「光学機器、特殊素材、医療機器、防護装備。政府が声をかけられるところは一通り」
ホオズキは榊原を見た。
「戦争でも始めるつもり?」
榊原は少しだけ眉を上げた。
「始まってから準備するよりは、まともでしょう」
否定できなかった。
屋上の扉が再び開いた。
今度は黒崎剛士だった。
機動隊の制服ではない。
ダークスーツにネクタイ。
いかにも警察幹部らしい格好だったが、二メートル近い巨体と坊主頭のせいで、どこか借り物の服に見える。
「お前ら、まだ寝てないのか」
開口一番だった。
「黒崎こそ」
「俺は二時間寝た」
「自慢にならないわよ」
「お前よりは寝てる」
ホオズキは顔をしかめた。
榊原が咳払いを一つする。
「朝から痴話喧嘩なら、私は下へ戻りますが」
「違う」
「違うわ」
二人の声が重なった。
榊原は何も言わず、コーヒーを飲んだ。
黒崎がホオズキの隣に立つ。
東京を見下ろした。
「今日から変わるぞ」
「何が?」
「全部だ」
黒崎はしばらく黙っていた。
「今までは、お前たちが見つけた化け物を、警察が半信半疑で追いかけていた。今日からは違う」
朝日がビルの隙間から差し始める。
「国家が敵として認識する」
ホオズキは目を細めた。
「それが良いことかどうかは、まだ分からないわね」
「俺もだ」
黒崎は短く答えた。
「だが、知らないまま食われ続けるよりはいい」
*
〇九一二。
防衛省市ヶ谷地区。
地下に設けられた会議室には、五十人近い人間が集まっていた。
長机の前に並ぶ肩書きを見ただけで、普段なら一堂に会することなどあり得ない顔ぶれだと分かる。
内閣官房。
警察庁。
警視庁。
防衛省。
陸上自衛隊。
航空自衛隊。
海上自衛隊。
厚生労働省。
国立感染症関連研究機関。
大学医学部。
材料工学研究所。
光学機器メーカー。
化学メーカー。
防護装備メーカー。
そして、その端に。
寺院関係者と神社関係者、それに古文書研究者まで座っていた。
神代蓮司は後方席からその光景を眺め、小声で言った。
「すげえな」
隣の篠宮レイナが答える。
「何が?」
「坊さんと自衛官とメーカーの技術者が同じ会議にいる」
「歴史の教科書に載るかもね」
「会議の?」
「人類が吸血鬼対策会議を始めた日として」
「俺、写真撮っていいかな」
「スマホ出した瞬間に黒崎さんに折られると思う」
蓮司は大人しくポケットから手を出した。
前方では久世冬馬がノートパソコンを開いていた。
彼の画面には、巨大な相関図が表示されている。
失踪事件。
目撃情報。
血液製剤の不審な流通。
病院。
地下施設。
廃ビル。
企業。
政治団体。
防犯カメラの異常。
SNS投稿。
それらが一本一本、細い線で結ばれていた。
あまりにも線が多い。
もはや事件の相関図ではなく、巨大な神経網のようだった。
久世は誰にも聞こえない声で呟いた。
「さて……何百年分なんだろうな、これ」
やがて会議室の照明が落ちた。
スクリーンに映像が表示される。
あの倉庫で捕獲された吸血鬼だった。
銀製の拘束具。
紫外線照射。
異常な再生速度。
銃撃を受けても活動を続ける身体。
人間とは明らかに異なる反応。
映像が終わる。
誰もすぐには口を開かなかった。
すでに資料で見ている者も多い。
それでも動画で見ると、現実感が違った。
内閣官房の男が立ち上がった。
「本日〇六〇〇をもって、政府は一連の対象を暫定的に“V型異常生物”として統一管理することを決定しました」
V。
Vampire。
誰も口にはしなかったが、意味は分かっている。
「なお、呼称はあくまで行政上の便宜によるものです。生物学的分類を意味しません」
ホオズキは腕を組んだまま聞いていた。
隣に座る榊原が小さく囁く。
「役所らしいですな」
「怪物にも書類が必要なのよ」
説明は続いた。
目的は三つ。
存在の把握。
市民の保護。
そして対処手段の確立。
だが、会議が始まって三十分もしないうちに、早くも問題が起きた。
「焼夷剤はどうでしょう」
陸自側の出席者が言った。
「再生能力を持つなら、組織そのものを広範囲に熱損傷させる」
医学研究者が首を振る。
「市街地運用を考えてください」
「ならば高出力レーザー――」
「現行装備を明日から使える前提で話してください」
「銀の散弾は?」
「銀は高価です。大量供給の問題があります」
「純銀である必要は確認されているんですか?」
「そこがまだ分からない」
「紫外線の波長域は?」
「UV-Cで最も強い反応を示しています。ただし人体にも危険です」
「日光では?」
「個体差があります」
「宗教的な道具は?」
一瞬、部屋が静まった。
寺院側の出席者が困った顔をした。
「こちらを見るのはやめていただきたい」
数人が目を逸らした。
「我々も吸血鬼退治を業務にしているわけではありません」
神社側の男が続けた。
「少なくとも、神道の古典に西洋的な吸血鬼という概念はありません」
今度は古文書研究者が手を挙げた。
「ただし、“夜に人血を啜るもの”“死してなお歩くもの”“日を恐れるもの”という記録なら、日本にも複数あります」
空気が変わった。
「最古は?」
「記述の信頼性まで含めるなら、江戸中期。ただ、もっと古い伝承もあります」
ホオズキが顔を上げた。
「日本にもいた?」
「断定はできません」
研究者は答えた。
「しかし、もし同じ存在だったとすれば――」
スクリーンに古い文書の写真が映る。
崩し字。
墨で描かれた人影。
「少なくとも二百年以上前から、日本に似たものが存在した可能性があります」
ざわめきが起きた。
ホオズキは久世を見た。
久世もこちらを見ていた。
同じことを考えている。
突然現れたのではない。
ずっといた。
こちらが気づかなかっただけだ。
*
会議は午後に入っても続いた。
途中からホオズキは苛立ち始めていた。
議論が必要なのは分かる。
科学的検証も必要だ。
法的根拠も、予算も、指揮系統も必要だ。
だが、その間にも誰かが消えている。
「九条代表」
名前を呼ばれた。
ホオズキは顔を上げた。
内閣官房の男がこちらを見ていた。
「ヤタガラス側から、何か意見はありますか」
「あります」
ホオズキは立ち上がった。
部屋中の視線が集まる。
「皆さんが議論していることは全部必要です」
前置きした。
「でも、一つだけ忘れないでください」
スクリーンを指す。
そこには捕獲個体の画像が映っている。
「こいつらは、会議が終わるのを待ってくれません」
誰も口を挟まない。
「私たちは最初、普通の武器で戦いました。効かなかった。次に銀を試した。効いた。紫外線も試した。もっと効いた。でも、それは私たちが賢かったからじゃない」
ホオズキは一度言葉を切った。
「死ななかった人間が偶然持ち帰った情報を、一つずつ積み上げただけです」
御影紗夜が無言で彼女を見ている。
レイナも。
蓮司も。
「今必要なのは、完璧な対吸血鬼兵器じゃありません」
ホオズキは言った。
「今夜、現場に持っていけるものです」
メーカー側の技術者が姿勢を変えた。
「照射器なら既製品を改造できる。銀は弾丸だけじゃなくていい。刃物でも、拘束具でも、粉末でもいい。防具で噛みつきを完全に防げないなら、首だけでも守る。通信が切られるなら中継器を増やす」
榊原が僅かに笑った。
ホオズキは続ける。
「百点の装備を半年後にください、とは言いません」
机に手を置く。
「六十点でいい」
静かだった。
「明日の夜、持っていける六十点をください」
最初に反応したのは、光学機器メーカーの技術者だった。
「……携帯型UV-C照射器なら」
全員がそちらを見る。
「出力を安全基準以上に上げれば、試作品を早ければ二十四時間で」
材料メーカーの技術者が続いた。
「銀を表面処理に使うだけなら、純銀製よりはるかに量産できます」
「効果は?」
「分かりません」
「試しましょう」
「はい」
防護装備メーカーの男が資料をめくる。
「首回りと上腕部を重点防護した軽量装備なら既存製品から転用できます」
「警察にも回せる数を?」
「規格を統一すれば」
そこからだった。
会議が変わった。
“吸血鬼とは何か”を話す場所から、“今夜どう生き残るか”を考える場所へ。
榊原がホワイトボードの前に立った。
「では役割を分けます」
その声には、長年現場を回してきた男特有の迷いのなさがあった。
「警察は住民避難、交通規制、初動封鎖。自衛隊は大規模事案発生時の後方支援と特殊装備。研究班は弱点検証。メーカーは即応装備の開発。医療班は被害者の治療手順を統一」
黒崎が引き取る。
「警視庁側は俺がまとめる。現場で指揮系統を二つ作るな。ヤタガラスが先に入っていても、警察が後から来ても、通信チャンネルは共有する」
「久世」
榊原が呼ぶ。
「はい」
「情報統合」
「もう作ってます」
久世はスクリーンを切り替えた。
日本地図が表示された。
赤い点が無数にある。
失踪。
不審死。
血液製剤盗難。
夜間の暴行。
防犯カメラ異常。
そこからノイズを除外していく。
赤い点が減る。
さらに減る。
最後に、三十四個が残った。
「過去一年分です」
久世が言う。
「今回の事案と共通点が多いケースを抽出しました」
北海道。
東京。
神奈川。
名古屋。
京都。
大阪。
福岡。
全国に散らばっている。
「三十四……」
誰かが呟く。
「少なく見積もって、です」
久世は淡々と言った。
「記録に残っているものだけなら」
ホオズキは日本地図を見つめた。
東京だけではない。
最初から。
ずっと。
日本中にいたのだ。
*
夕方。
会議室の入口に、新しい看板が設置された。
『V型異常事案統合対策本部』
長い名前だった。
蓮司がそれを見て言った。
「もっと格好いい名前なかったんですかね」
レイナが答える。
「税金使って格好良さを追求されても困るでしょ」
「ヤタガラスみたいな名前にすればいいじゃん」
「役所が?」
「対吸血鬼特殊部隊――月光、とか」
「あなた会議から外されたい?」
「冗談です」
その会話の横を、自衛官と警察官と白衣の研究者が忙しそうに行き交っていく。
段ボール箱が運び込まれる。
特殊ライト。
銀処理された試験片。
防護具。
医療用品。
まだ全部が試作品だった。
頼りない。
不格好。
だが、それでも形になり始めている。
今朝まで存在しなかったものが。
ホオズキはその光景を見ていた。
「すごいでしょう」
背後から黒崎が言った。
「何が?」
「日本人」
「急に大きな話ね」
「昨日まで吸血鬼なんぞ知らなかった連中が、今日には対策品作ってる」
確かにそうだった。
研究者は捕獲個体からデータを取り、メーカーはその数字を図面へ落とし込み、自衛官は運用方法を考え、警察官は現場手順を作る。
寺の古文書までデータ化され始めていた。
誰か一人が英雄になる話ではない。
人類が。
社会全体が。
未知の捕食者に対して、ようやく歯車を回し始めたのだ。
「オールジャパンね」
ホオズキが言った。
黒崎が鼻を鳴らす。
「嫌いそうな言葉だな」
「嫌いよ」
「だろうな」
「でも――」
ホオズキは運ばれていく装備箱を見た。
「悪くないわ」
その瞬間。
久世が廊下の向こうから走ってきた。
珍しかった。
彼は普段、何があっても走らない。
「代表」
表情が違う。
「七件のほう、引っかかりました」
ホオズキの顔から僅かな笑みが消えた。
「血痕なしの失踪?」
「はい」
「共通点は?」
「ありました」
久世がタブレットを差し出す。
七人。
年齢も性別も違う。
高校生。
会社員。
看護師。
大学院生。
無職。
飲食店勤務。
そして七十二歳の元教師。
一見、何の共通点もない。
だが。
「全員、失踪前一か月以内に同じ診療所を訪れています」
黒崎が画面を覗き込んだ。
「どこだ」
「新宿区。小さな夜間診療所です」
「名前は?」
「月城夜間診療所」
久世が次の画面を表示した。
建物の写真。
一見すれば、ただの古い個人医院だった。
「診療内容は?」
「一般内科。夜間専門。二十時から午前四時まで」
ホオズキが眉を寄せる。
「ずいぶん都合のいい営業時間ね」
「もっと面白いのがあります」
久世が言った。
「この診療所、法人登記を遡ると名前を何度も変えています」
画面に年表が出る。
現在。
平成。
昭和。
さらに古い記録。
「前身と思われる医院が、大正時代にも存在します」
黒崎が黙る。
「経営者は?」
「書類上は別人です」
「書類上は?」
久世が一枚の写真を拡大した。
白黒写真。
昭和初期。
診療所の前に立つ人々。
その中央に、白衣を着た男がいる。
次に現代の監視カメラ映像。
同じ顔。
同じ目。
同じ輪郭。
百年近い時間が存在しないかのように。
「……マジかよ」
蓮司が呟いた。
ホオズキは写真から目を離さなかった。
「出るわよ」
「今からか?」
黒崎が聞く。
「夜間診療所なんでしょう?」
ホオズキは時計を見る。
十九時四十分。
「ちょうど営業時間よ」
*
二一一八。
新宿区。
月城夜間診療所。
繁華街から数本離れた路地の奥。
古い三階建ての建物だった。
一階だけに明かりがついている。
派手な看板はない。
『夜間診療受付中』
小さなプレートがあるだけ。
周囲には警察車両を入れていない。
大人数で包囲すれば気づかれる。
ホオズキ。
紗夜。
レイナ。
蓮司。
それに黒崎。
少人数だけで接触する。
少し離れた場所には警察部隊が待機していた。
「相手が一体とは限らない」
紗夜が言った。
「分かってる」
ホオズキは首元の防護具を確認した。
試作品だった。
ほんの数時間前に完成したものだ。
腰には銀処理されたナイフ。
小型UV照射器。
通常火器も携行している。
効きにくいと分かっていても、何もないよりはいい。
「まさか本当に今日作った装備で今日突入するとはな」
蓮司が呟いた。
「六十点でいいって代表が言ったから」
レイナが答える。
「俺、せめて七十点欲しいんだけど」
「生きて帰ったら改善点を書いてあげて」
「俺がテスターなの?」
ホオズキが振り返る。
「行くわよ」
自動ドアが開いた。
ベルが鳴る。
普通の待合室だった。
長椅子。
雑誌。
観葉植物。
消毒液の匂い。
受付には誰もいない。
「こんばんは」
ホオズキが声をかける。
返事はない。
だが紗夜が右手を僅かに上げた。
静止の合図。
「いる」
小声だった。
「奥」
気配。
人間なら聞き逃すほど僅かな足音。
診察室のドアが開いた。
一人の男が出てきた。
白衣。
四十代ほどに見える。
黒髪。
眼鏡。
整った顔立ち。
久世が見せた昭和初期の写真と同じ男だった。
「九条ホオズキさんですね」
男は言った。
ホオズキの背筋に冷たいものが走った。
「どうして名前を?」
「有名になりましたから」
男は穏やかに笑った。
「望んでないけどね」
「でしょうね」
男は全員を見回した。
最後に黒崎を見る。
「警察の方まで」
「身分証を見るか?」
「必要ありません」
黒崎の目が細くなる。
「随分詳しいな」
「長く生きると、情報の大切さが分かります」
否定しない。
ホオズキは男を見た。
「吸血鬼?」
「その言葉を使うなら」
男は答えた。
「そうです」
蓮司の手が僅かに動く。
紗夜は武器ではなく、男の手を見ていた。
男の両手は見える位置にある。
殺意も、攻撃の予兆もない。
「失踪した七人は?」
ホオズキが聞く。
「無事です」
「会わせて」
「その前に一つ確認したい」
男の表情から笑みが消えた。
「あなた方は、我々をすべてアウレリアの仲間だと考えていますか」
空気が変わった。
ホオズキは答えなかった。
男が続ける。
「もしそうなら、今夜ここで戦うことになります」
「違うなら?」
「話ができます」
しばらく沈黙した。
「あなたはどっち?」
ホオズキが聞く。
男は少し考えた。
「どちらでもありません」
「便利な答えね」
「五百年生きれば、白と黒だけで世界を分けるのが馬鹿らしくなる」
その言葉にホオズキの目が鋭くなる。
「五百年?」
「正確には四百八十二年です」
蓮司が口を開きかけたが、レイナが肘で止めた。
男は診療室の奥を示した。
「ついてきてください」
「罠だったら?」
「あなた方を殺すなら」
男はホオズキの腰にあるUV照射器を見た。
「その玩具が完成する前にやっています」
蓮司が小声で言う。
「今ちょっとムカつきました」
「私も」
レイナが答えた。
*
地下へ続く階段があった。
診療所の外観からは想像できないほど深い。
降りた先には鉄扉。
男が暗証番号を入力する。
扉が開いた。
ホオズキは息を止めた。
病室だった。
七人いる。
失踪者全員。
ベッドに横たわっている者もいれば、椅子に座って食事をしている者もいる。
誰も拘束されていない。
看護師らしい女性までいた。
「……どういうこと?」
黒崎が低い声を出す。
失踪者の一人、三十代の女性がこちらを見た。
「あの……警察ですか?」
「ああ」
「すみません」
女性は頭を下げた。
「家族に連絡できなくて」
「監禁されているのか?」
「違います」
即答だった。
「保護してもらっています」
ホオズキは男を見る。
「何から?」
答えたのは女性だった。
「あの女です」
「女?」
「銀色の髪の」
全員の表情が変わった。
アウレリア。
「一週間くらい前から」
女性は震え始めた。
「知らない人が家の前に立つようになって。夜になると窓の外にいて……」
「警察には?」
「相談しました。でも、何もされていないからって」
黒崎の顔が険しくなる。
「それでここに?」
「先生が助けてくれました」
別の男が口を開いた。
「俺は地下鉄で襲われました」
高校生も言う。
「家に帰る途中、ずっと誰かにつけられてた」
七人。
全員が。
襲われる前兆を経験していた。
「どうしてこの七人なの?」
レイナが尋ねる。
白衣の男が答えた。
「血です」
「血液型?」
「もっと深いものです」
男は七人を見た。
「彼らの血には、我々にとって非常に強い匂いがある」
ホオズキの眉が寄る。
「匂い?」
「あなた方がワインの違いを感じるように。我々にも血の違いがあります」
「アウレリアは、この七人を集めてる?」
「正確には彼女の子供たちが」
男の声が低くなる。
「そして彼女は、これまで守られてきた掟を破り始めた」
「掟」
ホオズキが繰り返す。
「吸血鬼にも法律があるってこと?」
「法律というより、生存のための約束です」
男は言った。
「人間を狩りすぎない」
「存在を知られない」
「子供を無闇に増やさない」
「国家に戦争を仕掛けない」
最後の一つで、全員が黙った。
「それをアウレリアが破った?」
「ええ」
「どうして?」
男はホオズキを見た。
「時代が変わったからです」
「意味が分からない」
「人間は増えた。都市は巨大になった。血液は病院に保管され、交通網は世界を繋ぎ、夜でも人が外を歩く」
男は自嘲するように笑った。
「我々にとって、これほど暮らしやすい時代はなかった」
誰も笑わなかった。
「だから彼女は考えた」
男の笑みが消える。
「もう隠れる必要はない、と」
ホオズキはアウレリアのメッセージを思い出した。
光の下を歩くなら。
その影を歩く。
「あなたたちは?」
「隠れたい」
即答だった。
「人間を支配したくない?」
「面倒です」
蓮司が思わず男を見る。
「……面倒?」
「四百年以上人間を見てきました」
男は淡々と答える。
「皆さんは、自分たち自身を統治するだけでも大変でしょう」
黒崎が僅かに口元を歪めた。
「違いない」
「黒崎」
「事実だ」
ホオズキは溜息をついた。
「それで、この七人を守ってた?」
「はい」
「なぜ?」
「アウレリアに渡したくないから」
「親切心?」
「いいえ」
男は否定した。
「我々のためです」
その答えに、ホオズキは少しだけ安心した。
綺麗事を言われるより信用できる。
「彼女が大規模な狩りを始めれば、人類は我々すべてを敵と認識する」
男はホオズキの装備を見る。
「今日一日で、あなた方はそこまで進んだ」
UV照射器。
銀処理された武器。
防護装備。
「一週間後には?」
男が聞く。
誰も答えない。
「一か月後には?」
さらに続ける。
「一年後には?」
ホオズキは何も言わなかった。
「アウレリアは、人間を家畜にできると考えている」
男は静かに言った。
「私は違う」
その瞳に初めて感情が見えた。
恐怖だった。
「あなた方は、怖い」
人間ではない存在が。
人間を怖いと言っている。
「百年前、人間は夜空を飛ぶことすら満足にできなかった」
男は言った。
「今では宇宙へ行く」
黒崎の表情が変わる。
「我々は強い。速い。傷も治る。ですが――」
男は自分の胸に手を置いた。
「変化しない」
そしてホオズキを見る。
「人間は弱い」
一拍。
「だから、変わる」
その言葉が地下室に残った。
*
午前〇時三十一分。
七人は警察の保護下に入ることになった。
月城夜間診療所については、当面監視対象。
白衣の吸血鬼――月城静馬は逃走しなかった。
住所も名前も、自ら提供した。
電話番号まで教えた。
「連絡先交換する吸血鬼なんて初めてだわ」
ホオズキが言うと、月城は答えた。
「私もPMCの代表と連絡先を交換するのは初めてです」
「でしょうね」
診療所を出る直前。
月城が呼び止めた。
「九条さん」
ホオズキが振り向く。
「一つ忠告を」
「何?」
「エドガー・ヴァイスと話したそうですね」
ホオズキの表情が変わる。
なぜ知っている。
「彼の言葉を信用しすぎないことです」
「仲間じゃないの?」
「昔は」
「今は?」
月城は答えなかった。
代わりに言った。
「我々は人間より長く生きます」
夜風が診療所の中へ流れ込む。
「だから人間より賢いと思われがちですが、それは誤解です」
月城の目が細くなる。
「長生きした馬鹿は、ただの長生きした馬鹿です」
ホオズキは一瞬だけ呆気に取られた。
後ろで蓮司が吹き出す。
レイナに足を踏まれた。
「覚えておくわ」
ホオズキが答える。
「もう一つ」
月城の声から、僅かな冗談めいた響きが消えた。
「アウレリアを殺せば終わる、とは考えないことです」
ホオズキの足が止まる。
「どういう意味?」
「彼女は王ではない」
月城は言った。
「吸血鬼という種族の代表でもない」
暗い診療所の奥で、彼の瞳だけが微かに光って見えた。
「彼女は、数ある考え方の一つにすぎません」
ホオズキは何も言わなかった。
「あなた方は今夜、一人の敵を知ったのではない」
月城は静かに続けた。
「一つの社会の入口に立ったんです」
*
午前二時十二分。
ヤタガラス本部。
作戦室の大型スクリーンには、日本地図が表示されていた。
その横には、新しい情報が追加されている。
アウレリア・セレスティン。
エドガー・ヴァイス。
月城静馬。
その下に。
『所属・派閥不明』
『相互関係不明』
『敵対・協力関係不明』
不明。
不明。
不明。
分からないことばかりだった。
だが昨日までとは違う。
昨日までは、何が分からないのかさえ分からなかった。
今は違う。
久世がキーボードを叩く。
「政府側データベースとの共有、完了」
榊原が資料を閉じる。
「対策本部は明朝から本格稼働です」
「警視庁も夜間警戒を増やす」
黒崎が言った。
「ただし市民には理由を明かせん」
「パニックになるから?」
レイナが聞く。
「それもある」
黒崎は腕を組んだ。
「それ以上に、敵にもこちらの手を知らせる」
紗夜が口を開く。
「向こうにも人間の協力者がいる」
静かな声だった。
「警察にも?」
誰も答えなかった。
政治家。
企業家。
医師。
軍人。
警察官。
吸血鬼に協力する人間は存在する。
では、この部屋の外はどこまで安全なのか。
政府は?
警察は?
軍は?
企業は?
誰を信用していい?
ホオズキはスクリーンを見上げた。
「疑い始めたら終わりがないわ」
榊原が頷く。
「だから仕組みで守るしかありません」
「情報を分割する」
久世が言った。
「一人に全部渡さない。アクセスログを全部取る。妙な閲覧をした人間は自動で引っかけます」
「内部保安は私が見る」
紗夜。
「現場は?」
蓮司が尋ねる。
ホオズキは振り返った。
「私たち」
迷いはなかった。
「今までと同じよ」
「敵は増えましたけどね」
レイナが言う。
「味方も増えたわ」
ホオズキは答えた。
警察。
自衛隊。
研究者。
医師。
技術者。
古文書を読む老人。
工場で銀を加工する職人。
試作品を徹夜で組み上げるメーカー社員。
これまで互いの名前すら知らなかった人間たちが、一つの目的のために動き始めている。
それは軍隊ではない。
まして、英雄でもない。
社会そのものだった。
「私たちはずっと」
ホオズキが言った。
「ヤタガラスだけで戦うつもりだった」
誰も口を挟まない。
「でも違ったみたいね」
窓の外では、東京の夜景が輝いている。
何百万という明かり。
何百万という生活。
その一つ一つを、誰かが守っている。
「これはもう、私たちだけの戦いじゃない」
黒崎が隣に立った。
「ああ」
ホオズキは日本地図を見る。
赤い点は、まだ残っている。
東京だけではない。
全国に。
そして恐らく世界中に。
「オールジャパンなんて言葉」
ホオズキが小さく笑った。
「嫌いだったんだけどね」
「知ってる」
「でも――」
言葉を続けようとした、その時だった。
久世の端末が鳴った。
一度。
二度。
三度。
警告音。
久世の表情が変わる。
「どうした?」
榊原が聞く。
「待ってください」
キーボードを叩く。
画面が切り替わる。
海外からの暗号通信だった。
「発信元は?」
「……不明」
「内容」
久世の指が止まった。
英語。
フランス語。
ドイツ語。
ロシア語。
中国語。
複数の言語で、同じ文章が送られている。
そして最後に。
日本語。
全員が画面を見た。
『日本政府並びに、九条ホオズキへ』
ホオズキの目が細くなる。
文章が続く。
『アウレリア・セレスティンの行動は、我々の総意ではない』
部屋から音が消えた。
『人間との全面衝突を望まない者は、我々の中にもいる』
黒崎がゆっくりと腕を組む。
『ただし、人類が我々すべてを敵と定めるなら、我々もまた選択を迫られる』
久世がスクロールする。
最後の一文。
『七十二時間後、東京に代表者を送る』
その下には場所も名前もない。
ただ。
一つの紋章が添付されていた。
黒い円。
その中央に。
赤い月。
月城静馬の言葉が、ホオズキの脳裏によみがえる。
――一人の敵を知ったのではない。
――一つの社会の入口に立った。
ホオズキはスクリーンを見つめたまま尋ねた。
「久世」
「はい」
「この通信」
久世はすでに解析を始めていた。
「世界中の複数のサーバーを経由しています」
「追える?」
「やります」
榊原が低い声で言う。
「罠の可能性は」
「高いでしょうな」
黒崎が答えた。
「だが無視もできん」
レイナが椅子にもたれる。
「吸血鬼と外交交渉する時代かぁ……」
蓮司が天井を見る。
「数日前まで、俺たち女子高生の失踪事件調べてたんですよね」
「そうね」
紗夜が答えた。
「ずいぶん遠くまで来た」
ホオズキはゆっくりと窓際へ歩いた。
東京。
眠らない街。
夜を人間のものにした都市。
電気で闇を追い払い、地下まで掘り進み、数千万の人間が集まり、それでもまだ拡大を続ける巨大な生き物。
その影の中に。
彼らはいた。
何百年も。
こちらを見ながら。
こちらに見つからないように。
生きていた。
だが、もう隠れる時代は終わった。
人間にも。
吸血鬼にも。
ホオズキはポケットからスマートフォンを取り出した。
アウレリアから届いたメッセージが残っている。
『その光が作る影の中を歩きましょう』
ホオズキはそれを数秒見つめたあと、画面を消した。
「榊原」
「はい」
「七十二時間後の接触を想定して準備」
「了解」
「久世。通信の分析と、世界各国の類似事件を洗って」
「了解です」
「紗夜、内部保安を最高レベルに」
「分かった」
「レイナ。月城の周辺を調べて。四百八十二年分」
レイナが苦笑した。
「代表、残業代すごいことになりますよ」
「アカネに請求して」
「怒られますよ?」
「知ってる」
僅かに笑いが起きた。
ほんの数秒。
それだけだった。
だが、それでよかった。
人間は恐怖だけでは戦えない。
冗談を言い。
コーヒーを飲み。
眠いと愚痴をこぼし。
それでも翌朝には仕事へ向かう。
そうやって世界を回してきた。
吸血鬼が五百年生きるのなら。
人間は五百年かけて社会を作る。
一人では勝てない相手なら。
百人で知恵を出す。
百人で足りなければ千人。
千人で足りなければ国ごと動かす。
弱いからこそ。
繋がる。
変わる。
積み上げる。
「黒崎」
「なんだ」
ホオズキは日本地図から目を離さずに言った。
「人間って、怖いわね」
黒崎は少し考えた。
それから。
「今頃気づいたか」
そう答えた。
午前三時〇七分。
V型異常事案統合対策本部。
正式稼働まで、あと四時間五十三分。
その時、日本中の工場では、銀を混ぜた試験素材が作られていた。
研究室では紫外線の波長が検証されていた。
警察署では夜間警戒の手順書が配られていた。
自衛隊では未知の敵を想定した机上演習が始まっていた。
古い寺では、何十年も誰にも開かれなかった文書箱が開けられていた。
病院では、大量失血患者の受け入れ手順が見直されていた。
そして。
東京のどこか。
灯りのない高層ビルの屋上で。
銀白色の髪の女が、その都市を見下ろしていた。
アウレリア・セレスティン。
彼女の隣に、一人の若い吸血鬼が立っている。
「母上」
「なあに?」
「人間が動き始めました」
「ええ」
アウレリアは微笑んだ。
恐れてはいなかった。
むしろ。
嬉しそうだった。
「思っていたより早いですね」
「そうでしょう?」
彼女は夜景を眺める。
「あの子たちは、本当に面白い」
「他の一族が接触を試みています」
「知っているわ」
「止めますか?」
「どうして?」
若い吸血鬼が怪訝そうな顔をする。
アウレリアは振り返った。
赤い瞳。
縦長の黒い瞳孔。
口元には薄い笑み。
「好きにさせなさい」
「しかし――」
「戦争というのはね」
彼女は優しく言った。
「敵と味方が最初から決まっているものではないの」
夜風が銀白色の髪を揺らす。
「迷って」
「疑って」
「裏切って」
「選ぶ」
アウレリアは東京へ向き直った。
「だから面白いのよ」
遠く。
東の空が、ほんの僅かに明るくなり始めていた。
夜明け。
アウレリアはそれを眩しそうに見つめる。
そして静かに笑った。
「さあ、九条ホオズキ」
「あなたたちは、誰と手を組むのかしら」
東京の夜が終わる。
だが。
人間たちが知ったばかりの、本当の夜は。
ここから始まろうとしていた。
第11章『オールジャパン』 了




