第12章 72時間
第十二章 七十二時間
人間は、敵を見つければ名前をつける。
名前をつければ分類する。
分類できれば、対処できると思う。
けれど――。
分類したはずの怪物が、こちらに向かって手を差し出してきたとき、人間は初めて迷う。
その手を握るべきか。
それとも、撃つべきか。
*
「……七十二時間後、か」
九条ホオズキは、壁一面を覆う大型ディスプレイを見上げていた。
PMCヤタガラス本部、地下作戦指揮室。
午前四時十八分。
窓のない部屋に昼も夜もなかったが、そこにいる全員の顔には、徹夜明け特有の鈍い疲労が浮かんでいた。
ディスプレイ中央には、たった一行だけが表示されている。
《七十二時間後、東京へ代表者を送る》
送信元は一つではない。
欧州。
北米。
中東。
東アジア。
通信経路も暗号方式も異なっていたが、内容はほぼ同じだった。
――アウレリア・セレスティンの行動は、我々すべての総意ではない。
――人類との全面衝突を望まない者も存在する。
――話し合う意思があるなら、場所を指定せよ。
文章だけを読めば、外交文書だった。
だが。
送ってきた相手は国家ではない。
企業でもない。
宗教団体ですらない。
人間を食料にし得る、何百年もの寿命を持つ存在。
吸血鬼だった。
「なんかもう」
神代蓮司が椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
「三日前まで俺ら、銀の弾丸が効くかどうか試してたんだよな」
「正確には銀単体の有効性はまだ確定していません」
久世冬馬が、ノートパソコンから目を上げずに言った。
「高純度銀そのものによる組織破壊なのか、銀イオンによる代謝阻害なのか、心理的要因まで含むのか。サンプル数が足りない」
「そういう話じゃねえよ」
「どういう話です?」
「怪物退治してたら、急に怪物の国際会議になったって話」
久世がようやく顔を上げた。
「怪物ではなく、未知の人類亜種である可能性もあります」
「お前、本人の前でもそれ言えんの?」
「言います」
「やめろ。殺されるぞ」
「その際は録音をお願いします。貴重なデータなので」
「自分の死亡ログ残そうとすんな」
普段なら誰かが笑うところだった。
だが、今は誰も笑わなかった。
室内には、警察庁、自衛隊、厚生労働省、内閣官房、複数の研究機関から派遣された連絡員が詰めている。
昨日までなら、到底同じ机を囲むことのなかった組織だった。
ホオズキは腕を組んだまま、世界地図を見つめた。
赤い点が、いくつも灯っている。
通信が確認された地域。
それは、あまりにも広かった。
「これだけいるのね」
御影紗夜が低く言った。
「数百年も、誰にも気づかれずに」
「気づかれてはいたんでしょう」
榊原宗一郎が答えた。
「ただ、誰も同じものだとは思わなかった。失踪事件。猟奇殺人。宗教儀式。都市伝説。事故死。病死。歴史上の怪異譚……それぞれ別々の箱に入れられていた」
榊原は机上の資料を閉じた。
「箱をひっくり返してみたら、底で全部つながっていた。それだけです」
ホオズキは黙っていた。
吸血鬼。
その言葉を口にするたび、現実感が薄れていく。
だが、自分の脇腹に残る傷は現実だった。
Vesperで見た再生も。
銃弾を浴びながら笑っていた女も。
捕獲した黒髪の個体も。
そして昨夜会った、四百八十二年を生きる医師――月城静馬も。
すべて現実だった。
『人間は弱い』
月城の声が、頭の中によみがえる。
『だから、変わる』
ホオズキは小さく息を吐いた。
「会うしかないわ」
会議室の空気が変わった。
内閣官房から派遣された男が眉をひそめる。
「九条代表。それは、あなた個人の判断ですか」
「いいえ」
ホオズキは振り返った。
「現場の判断です」
「違いが分かりませんが」
「個人的には会いたくないもの」
即答だった。
「できることなら全員まとめて太陽の下に並べて、三日くらい観察していたい」
神代が小さく吹き出した。
政府側の人間は笑わなかった。
ホオズキは続ける。
「でも、月城静馬の話が本当なら、吸血鬼側にも派閥がある。アウレリアに反対している者がいる。だったら、敵を一つにまとめる必要はない」
榊原がゆっくり頷いた。
「敵の敵は味方、とは限りませんが」
「少なくとも、敵を増やす必要はない」
「その通りです」
警察側の席から声がした。
黒崎剛士だった。
大きな体を窮屈そうに椅子へ押し込み、腕を組んでいる。
徹夜で伸びた髭が、いつも以上に強面を際立たせていた。
「ただし」
黒崎が続ける。
「会談場所は、こちらで決める。警備計画もこちらで作る。出席者も制限する。相手の言うことを信用する前に、こちらが生き残れる環境を作る」
ホオズキが横目で見る。
「慎重ね」
「お前が慎重じゃなさすぎるんだ」
「私は慎重よ」
「慎重な人間は、吸血鬼と会う話を聞いた五分後に『会いましょう』とは言わん」
「六分は考えたわ」
「同じだ」
ほんのわずかに、空気が緩んだ。
だが、久世だけは笑っていなかった。
彼は画面を見つめたまま、指を止めていた。
「……代表」
「なに」
「少し妙です」
全員の視線が集まる。
久世は一つのログを中央画面へ転送した。
「最初の通信を受信したのが午前二時十一分。その後、各地域から類似通信が到着しました」
「それが?」
「通信内容は外部に公開していません」
「当然でしょう」
「ですが」
久世は、別のウィンドウを開いた。
海外の匿名掲示板。
投稿時刻。
午前二時二十三分。
《TOKYO WILL HOST THE NIGHT DELEGATES》
東京が、“夜の代表者”を迎える。
投稿には、会談予定を示唆する文言まであった。
十二分。
最初の通信から、わずか十二分後だった。
室内から音が消えた。
「……またか」
黒崎が呟いた。
第十章。
アウレリアは、ヤタガラス内部でしか知り得ない情報を知っていた。
非公開施設。
捕獲個体。
移送経路。
そして彼女は、ホオズキに向かって言った。
『私の娘を預かってくれて、ありがとう』
内部にいる。
誰かが。
どこかに。
情報を渡している。
「アクセス権限を切ります」
久世が言った。
「今すぐ?」
「いいえ」
ホオズキが止めた。
久世が顔を上げる。
「代表」
「切ったら、相手は逃げるでしょう」
ホオズキの目から眠気が消えていた。
「泳がせる」
「危険です」
「だから泳がせるのよ」
彼女は画面上の匿名投稿を指差した。
「内部協力者がいるなら、こちらから情報を食べさせる」
榊原が顎に手を添えた。
「偽情報ですか」
「三つ用意する」
ホオズキは指を一本立てた。
「会談場所A」
二本目。
「会談場所B」
三本目。
「会談場所C」
久世の口元がわずかに動いた。
「情報の経路ごとに、異なる場所を流す」
「漏れた場所で、誰のところから情報が出たか絞る」
「古典的ですね」
「古典が残っているのは、効くからよ」
神代が感心したように口笛を吹きかけ、黒崎に睨まれてやめた。
榊原が立ち上がる。
「では、偽装計画を作ります」
「待って」
ホオズキが言った。
「本当の会談場所は、最後まで紙にも書かない」
「関係者にも?」
「私と榊原さん。それと黒崎」
「俺もか」
「警備責任者でしょう」
「勝手に決めるな」
「嫌なの?」
「やる」
「即答ね」
「お前に言われたくない」
*
午前十一時。
首都圏某所。
厚いコンクリート壁に囲まれた地下収容施設では、昼夜の区別がさらに曖昧だった。
二重扉。
三重の監視。
紫外線照射装置。
高照度照明。
銀を含む拘束具。
非常時には区画全体へ特殊ガスを注入できる構造。
人間が知る限りの対策が、そこには詰め込まれていた。
その中心に、一人の女が座っている。
黒い髪。
白い肌。
見た目は二十代前半。
だが、その年齢を信じる者は誰もいない。
Vesper近郊で捕獲された吸血鬼。
アウレリアが“娘”と呼んだ存在。
彼女は床に座り、膝を抱えていた。
拘束はされている。
しかし、以前のような獣じみた抵抗はない。
ただ、静かにこちらを見ていた。
強化ガラス越しに、ホオズキが立っている。
隣には研究員と紗夜。
「昨日から摂取量が減っています」
研究員が言った。
「代替血液製剤への反応が悪い。拒絶というより、食欲そのものが落ちているようです」
「人間みたいね」
ホオズキが言った。
「人間に近い部分は、かなりあります」
「だから余計に気持ち悪いのよ」
紗夜が横から見る。
「怖い?」
「ええ」
ホオズキはあっさり認めた。
「人間に似た怪物より、怪物に似た人間のほうが怖いもの」
そのとき。
収容室の女が顔を上げた。
唇が動く。
何かを言った。
「音声」
研究員がマイクを上げる。
ノイズの後、かすかな声が聞こえた。
「……来る」
ホオズキの眉が動いた。
「誰が?」
女は答えない。
「アウレリア?」
反応なし。
「あなたの母親?」
その瞬間。
女の顔が歪んだ。
恐怖だった。
ホオズキは、それを見逃さなかった。
母親を恐れている。
娘と呼ばれた存在が。
「名前は?」
ホオズキが尋ねる。
何度目か分からない質問だった。
これまでは一度も答えなかった。
だが今日は違った。
女は、しばらく俯いた後。
「……ミレイユ」
と言った。
研究員が息を呑む。
「ミレイユ?」
女が頷く。
「ミレイユ・セレスティン?」
激しく首を振った。
「違う」
声が少し強くなる。
「違う」
「じゃあ、姓は?」
「ない」
「アウレリアの娘じゃないの?」
ミレイユは黙り込んだ。
やがて。
「娘は……血のつながりじゃない」
ホオズキの表情が変わる。
「どういう意味」
「作った者を……娘と呼ぶ」
紗夜と研究員が顔を見合わせた。
ホオズキはガラスへ一歩近づいた。
「あなたを吸血鬼にしたのはアウレリア?」
ミレイユは、小さく頷いた。
「いつ?」
「一九四四年」
室内の空気が止まる。
八十年以上。
目の前の女は、少なくともそれだけの時間を生きている。
「なぜ?」
ミレイユは答えなかった。
代わりに、肩が震えた。
「……死にたくなかった」
声は、幼かった。
「焼けてた」
ホオズキは黙る。
「町が」
ミレイユは続けた。
「家も。人も。みんな燃えてた。私は瓦礫の下にいて……足が動かなかった」
途切れ途切れの日本語。
それでも意味は伝わった。
「アウレリアが来た」
「助けたの?」
ミレイユは少し考えた。
そして。
「違う」
と答えた。
「選ばせた」
ホオズキの目が細くなる。
「何を」
「人として死ぬか」
ミレイユが顔を上げた。
赤い瞳が、ガラス越しにホオズキを見る。
「人ではないものとして、生きるか」
誰も言葉を発しなかった。
やがてホオズキが尋ねる。
「あなたは後者を選んだ」
「……うん」
「後悔してる?」
長い沈黙。
ミレイユは膝を抱いたまま、俯いた。
「毎日」
その一言だけは。
誰が聞いても、人間の声だった。
*
同日、午後三時四十二分。
警視庁。
「また出たぞ!」
叫び声が飛ぶ。
大型モニターに緊急速報が表示されていた。
都内北部。
地下駐車場。
死者四名。
重傷者三名。
目撃者証言。
――白い肌の女。
――異常な速度。
――銃撃を受けても倒れなかった。
「映像は!」
「あります!」
監視カメラ映像が再生される。
暗い駐車場。
一人の女性。
長い黒髪。
人間離れした速度で警備員へ接近し、腕を振る。
男が吹き飛ぶ。
別の警備員が拳銃を抜く。
発砲。
女は倒れない。
カメラを見た。
そして――。
笑った。
「吸血鬼……」
誰かが呟いた。
黒崎は映像を睨んでいた。
「止めろ」
「え?」
「三秒戻せ」
再生。
女がカメラを見る。
「止めろ」
静止画になる。
黒崎は画面へ近づく。
「拡大」
顔。
首。
胸元。
右手。
「……おかしい」
「何がです?」
「血がない」
「はい?」
「四人殺したんだろ」
「そうですが」
「服に血がついてない」
周囲が静まる。
黒崎は電話を取った。
「九条を呼べ。久世もだ」
*
三十分後。
ヤタガラス本部。
久世が映像を解析していた。
「確かに変です」
ホオズキが腕を組む。
「何が」
「動きが速すぎる」
「吸血鬼なら普通でしょう」
「違います」
久世は映像を一コマずつ送った。
「速すぎるという意味ではなく、不自然に“速く見せている”」
「……加工?」
「一部フレームが抜かれてます」
黒崎が眉をしかめる。
「映像編集ってことか」
「はい。しかも雑ではない。監視カメラの圧縮ノイズまで再生成してる」
「じゃあ、この女は」
「吸血鬼かもしれないし、違うかもしれません」
久世が別画面を開く。
「もっと重要なのは、被害者です」
四名。
顔写真が並ぶ。
「全員、同じ警備会社の社員」
「それが?」
「その警備会社は三年前に廃業しています」
ホオズキが視線を向ける。
「どういうこと」
「今日殺された四人は、現在存在しない会社の社員証を持っていた」
沈黙。
久世が続けた。
「さらに、三名の重傷者。病院に搬送された記録はありますが、救急隊の出動記録がありません」
「……偽装?」
「事件そのものが、です」
神代が椅子から身を起こす。
「待てよ。じゃあ誰も死んでないのか?」
「それはまだ分かりません」
「何のために?」
その問いに。
ホオズキと黒崎が同時に答えた。
「会談だ」
二人が互いを見る。
黒崎が先に続ける。
「吸血鬼が人間を襲った。会談直前に」
「世論を潰す」
ホオズキが言う。
「“奴らとは話し合えない”って空気を作る」
久世が頷く。
「すでにSNSで拡散しています」
画面が切り替わる。
《吸血鬼テロ発生》
《政府は怪物と交渉する気か》
《東京会談を中止しろ》
《人類の敵と話す必要はない》
《先制攻撃しかない》
投稿数が秒単位で増えていく。
ホオズキは、それを見ながら。
「うまいわね」
と言った。
神代が顔をしかめる。
「褒めてる場合か」
「敵のやり方を理解するのに、嫌いになる必要はない」
ホオズキは画面を指差した。
「アウレリアは、吸血鬼で人間を支配するつもりじゃない」
「何?」
「人間に、人間を動かさせる」
彼女は言った。
最初の一滴だけ落とせばいい。
水面の波は、人間自身が広げる。
「恐怖を与える」
ホオズキが言った。
「情報を少し混ぜる。偽物を一つ。本物を一つ。あとは勝手に人間が疑って、怒って、争う」
黒崎の顔が険しくなる。
「つまり、本物も来る」
ホオズキが彼を見る。
「ええ」
「偽事件で目を引いている間に」
「別の場所で、本当に血が流れる」
その瞬間。
警報が鳴った。
久世の端末。
警察系統。
消防。
そしてSNS。
複数の系統から同時に通知。
「新宿区!」
オペレーターが叫ぶ。
「月城夜間診療所!」
ホオズキの顔色が変わった。
*
月城夜間診療所は、燃えていた。
黒煙が夜空へ立ち上る。
消防車。
パトカー。
規制線。
野次馬。
スマートフォンを掲げる人々。
ヤタガラスの車両が、急停止する。
「ホオズキ!」
黒崎の声。
だが彼女はすでに走っていた。
「代表!」
紗夜が追う。
入口は崩れていた。
炎。
煙。
血の匂い。
「月城!」
ホオズキが叫ぶ。
返事はない。
診察室。
無人。
処置室。
血痕。
床を引きずった跡。
壁には、何発もの弾痕。
「ここで戦ってる」
紗夜が膝をつく。
「拳銃弾。あと散弾」
「襲撃者は?」
「分からない」
奥。
地下へ続く扉が壊されていた。
前夜。
七人の失踪者が保護されていた場所。
ホオズキは階段を駆け降りた。
「待て、九条!」
黒崎が追いつく。
地下室。
暗闇。
非常灯だけが赤く点滅している。
誰かがいた。
壁際。
座り込んでいる男。
「月城!」
ホオズキが駆け寄る。
月城静馬だった。
白衣は真っ赤に染まり。
胸には巨大な穴が開いていた。
人間なら即死。
だが。
「……遅いですよ」
月城が微笑んだ。
ホオズキが息を止める。
「生きてるの?」
「一応」
「一応で済む傷じゃないわ」
「あなた方と構造が少し違うので」
黒崎が周囲を確認する。
「誰にやられた」
月城の笑みが消えた。
「人間です」
三人が黙る。
「……人間?」
「重装備でした」
月城が咳き込む。
血が口元から流れた。
「十二人。暗視装置。消音火器。焼夷弾。銀入り散弾」
紗夜の顔が険しくなる。
「吸血鬼対策装備……」
「ええ」
月城がホオズキを見る。
「あなたたちが、昨日共有したばかりの装備に……よく似ていました」
地下室の温度が、一気に下がったように感じた。
内部情報。
まただ。
「七人は?」
ホオズキが尋ねる。
「逃がしました」
「どこへ」
「言いません」
即答だった。
ホオズキが眉を上げる。
「私にも?」
「あなたの組織から情報が漏れている可能性があるのでしょう」
「……正しい判断ね」
「褒められるとは思いませんでした」
「今度コーヒーでも奢るわ」
「私は飲めません」
「面倒くさいわね、あなた」
月城が、わずかに笑った。
その笑みが消える。
「九条さん」
「なに」
「これは警告です」
「アウレリアから?」
「おそらく」
月城は壁にもたれた。
「ただし、私を殺すためではない」
「どういう意味?」
「殺す気なら、もっと確実にやる」
月城は自分の胸の穴を見る。
「これは……見せるためです」
ホオズキは黙る。
「和平派の吸血鬼が、人間の武器で襲われた」
月城が言った。
「さて、吸血鬼たちはどう思うでしょう」
黒崎の目が細くなる。
「人間が裏切ったと思う」
「ええ」
「逆に人間側には、吸血鬼が人間を殺したという事件を見せる」
「ええ」
紗夜が息を吐いた。
「両方に、相手が先に殴ったと思わせる」
月城は静かに頷いた。
「戦争を始めるとき、最も便利なのは」
その赤い瞳が。
暗闇で鈍く光る。
「最初に撃ったのは誰か、分からなくすることです」
*
午後十一時五十七分。
ヤタガラス本部。
作戦指揮室には、再び全員が集まっていた。
ホオズキは一言も喋らず、壁の時計を見ていた。
七十二時間。
残り四十八時間。
時間だけが減っていく。
久世が報告する。
「偽会談場所A、B、C。それぞれ異なる系統へ流しました」
「反応は」
「A周辺で、不審車両三台」
「どの系統?」
「警察庁側」
黒崎の眉が動く。
「待て」
「まだ警察から漏れたとは限りません」
久世が続ける。
「Bではドローンを確認」
「系統は?」
「政府側」
「Cは?」
「動きなし」
「ヤタガラス系統ね」
神代が言った。
「じゃあ俺らは白?」
「そう単純ではありません」
久世は首を振る。
「相手はこちらの罠を察知して、わざと複数へ反応している可能性もあります」
「面倒だな」
「情報戦というのは、だいたい面倒です」
榊原が地図を見つめる。
「本会談場所を決める必要があります」
ホオズキは黙ったまま。
やがて。
「地上にしましょう」
一同が振り返る。
黒崎が露骨に嫌な顔をした。
「却下」
「早いわね」
「地下施設だ」
「嫌」
「なぜ」
「逃げ道が少ない」
「地下のほうが防御しやすい」
「吸血鬼相手には?」
黒崎が止まる。
「壁を走る。天井に張りつく。狭い空間でも人間より速い。そんな連中を地下に招き入れて、入口を塞がれたら終わり」
榊原が静かに頷く。
「理にかなっています」
「榊原さんまで」
「広い場所。周囲を封鎖可能。日光を利用できる。複数方向に退避可能」
榊原は地図を動かした。
「ただし一般人から隔離する必要があります」
「場所は?」
数秒後。
一つの候補が表示された。
湾岸部。
使用停止中の大型物流施設。
巨大な屋根。
広い敷地。
複数の搬入口。
ヘリ着陸可能。
周囲は運河。
そして。
屋根の一部を遠隔で開放できる。
ホオズキが薄く笑った。
「いいじゃない」
黒崎は嫌そうな顔のままだ。
「罠みたいな場所だな」
「罠よ」
「隠す気ないのか」
「向こうだって分かるでしょう」
ホオズキは画面を見上げる。
「私たちは彼らを信用しない」
「向こうも俺たちを信用しない」
「だから対等」
黒崎はしばらく彼女を見た。
「……お前は本当に、怖くないのか」
突然の問いだった。
室内に人は多い。
だが、その瞬間だけ二人の会話になった。
ホオズキは少し考えた。
「怖いわよ」
「そうは見えん」
「見せてないもの」
彼女はディスプレイへ視線を戻した。
「死ぬのは怖い。仲間が死ぬのはもっと怖い。知らないものは嫌い。理解できないものはもっと嫌い」
少しだけ。
声が柔らかくなる。
「でも、怖いから撃つって決めたら」
黒崎を見る。
「アウレリアの思い通りでしょう」
黒崎は答えなかった。
やがて、大きく息を吐く。
「俺は外周警備をやる」
「ありがとう」
「礼は終わってから言え」
「じゃあ終わらせないとね」
*
同時刻。
東京都心。
高層ビル最上階。
窓の外には、無数の光が広がっていた。
アウレリア・セレスティンは、ワイングラスを片手に東京を見下ろしている。
中身はワインではない。
背後に、一人の男が立っていた。
顔は暗がりに隠れている。
「月城静馬は生存」
男が言った。
「でしょうね」
アウレリアは興味なさそうに答えた。
「殺害命令ではありませんでしたから」
「七名は逃亡しました」
「構いません」
「東京会談は予定通り行われる見込みです」
そこで。
アウレリアが笑った。
「ええ」
「阻止しないのですか」
「どうして?」
男が黙る。
アウレリアはグラスを回した。
「私は和平を止めたいわけではないの」
「では」
「見たいのよ」
赤い液体が、ガラスの内側をゆっくり流れる。
「人間が、怪物と同じテーブルについたとき」
その唇が。
楽しげに吊り上がる。
「どちらが先に相手を裏切るのか」
「……」
「信頼なんて、壊すのは簡単」
アウレリアは振り返った。
「でもね」
赤い瞳が、暗闇の中で輝く。
「本当に美しいのは」
グラスを傾ける。
「信じようとした者が、裏切られた瞬間よ」
*
ヨーロッパ東部。
名も忘れられた山中。
朽ちた修道院。
その地下。
誰も訪れないはずの石造りの通路を、一人の老人が歩いていた。
蝋燭を持つ手が震えている。
壁には。
人間の文字よりも古い紋様が刻まれていた。
老人は巨大な石扉の前で立ち止まった。
「主よ……」
返事はない。
扉の向こう。
暗闇。
巨大な石棺。
第九章の夜。
一度だけ。
それは震えた。
あれ以来。
修道院の地下では。
毎夜。
音がしていた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
老人は震えながら跪いた。
「まだ……お眠りください」
沈黙。
「世界は……まだ、あなたを必要としておりません」
そのとき。
石棺の蓋が。
ゆっくり。
ほんの数センチだけ。
横へ動いた。
老人の呼吸が止まる。
隙間から。
冷たい空気が流れ出す。
そして。
暗闇の中から。
声がした。
男とも。
女とも。
老人とも。
子供ともつかない。
ひどく古い声。
「……東京」
老人が顔を上げる。
「主よ……?」
長い沈黙。
石棺の中の何かが。
もう一度。
言った。
「アウレリアは」
石の蓋に。
白い指が掛かった。
「まだ、あの遊びを続けているのか」
老人の顔から。
血の気が引いた。
石棺が。
さらに。
開く。
*
東京。
午前零時。
会談まで。
あと四十八時間。
人間は武器を用意した。
吸血鬼は使者を送った。
和平を望む者がいた。
戦争を望む者もいた。
そして。
どちらにも属さないものが。
長い眠りから。
目を開けようとしていた。
九条ホオズキはまだ知らない。
自分たちが準備しているのは。
人間と吸血鬼の最初の会談ではない。
何百年ものあいだ。
闇の中で均衡を保ってきた世界そのものを。
壊してしまうかもしれない。
最初の夜なのだということを。
――第十二章「七十二時間」了




