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第13章 同じ卓につく者たち

第十三章 同じ卓につく者たち


 その夜、東京湾から吹く風は、妙に冷たかった。


 九月とはいえ、まだ日中には夏の名残がある。だが海沿いに建つ巨大な物流施設の屋上に立っていると、吹き抜ける風にはすでに秋の匂いが混じっていた。


 午後十時十三分。


 使用停止から三年が経過した大型物流センター。


 かつては一晩に数千台の貨物車両が出入りしていた場所だが、今は周囲の道路も封鎖され、施設の灯りは必要最低限に落とされている。


 外から見れば、ただの巨大な廃墟だった。


 だが今夜、その内部には日本という国家が用意できる、ほとんどすべての種類の警戒網が張り巡らされていた。


 警察。


 自衛隊。


 政府危機管理部門。


 研究機関。


 そして、PMCヤタガラス。


 その中心にいるのは、二十六歳の女だった。


「周囲、異常なし」


 無線から御影紗夜の声が届く。


 九条ホオズキは屋上の手すりから離れた。


 黒いスーツの上に薄手の防弾装備を着込み、腰には拳銃を収めている。


 今夜は戦闘服ではない。


 それでも彼女を知る者なら、一目見れば分かった。


 戦う準備はできている。


「レイナ」


『西側異常なし。レンジが暇そうにしてます』


『おい、余計な報告すんな』


 すぐに神代蓮司の声が割り込んだ。


『俺は暇なんじゃない。敵が来てないだけだ』


「同じことじゃない」


 ホオズキが答えると、無線の向こうでレイナが小さく笑った。


 しかし、その笑いも長くは続かなかった。


 今夜、この場所で行われることを考えれば当然だった。


 人間と吸血鬼。


 互いに相手の存在をほとんど知らないまま、何百年も同じ世界で生きてきた二つの存在が、初めて公式に同じ卓につく。


 歴史の教科書に記載されることは、おそらくない。


 少なくとも、当分は。


 政府の公式記録にも、そのままの名称では残らないだろう。


 それでも間違いなく、人類史上初めての出来事だった。


「緊張しているか」


 背後から声がした。


 振り返らなくても分かる。


「してないように見える?」


「見える」


 黒崎剛士が答えた。


 警察側の警備責任者として、この施設に入っている。


 いつもの厳しい顔だった。


 恋人同士であることを知らない者が見れば、二人の間に私的な関係があるとはまず思わないだろう。


「なら、演技は成功ね」


 ホオズキは言った。


「本当は?」


「胃が痛い」


「珍しいな」


「人類史上初の吸血鬼との外交交渉よ。胃くらい痛くなるわ」


 黒崎はほんのわずかに口元を緩めた。


「終わったら何か食うか」


「ラーメン」


「この時間からか」


「だからいいのよ」


 一瞬だけ、いつもの二人に戻った。


 だが黒崎の無線機が鳴り、その時間は終わった。


『警備本部より黒崎警視。接触予定時刻まで十分』


「了解」


 黒崎の顔が警察官に戻る。


「行くぞ」


「ええ」


 二人は屋上を後にした。


     ◇


 物流センター中央部。


 巨大な荷捌きスペースには、一つだけ長いテーブルが置かれていた。


 まるで倉庫の巨大さを強調するためのように、そこだけが異様に小さく見える。


 人間側は七名。


 政府代表。


 警察代表。


 防衛関係者。


 研究者。


 そしてヤタガラスからは、九条ホオズキと榊原宗一郎。


 久世冬馬は別室の情報管制室にいる。


 黒崎は交渉参加者ではない。


 あくまで警備責任者だった。


「あと三分」


 榊原が時計を確認した。


 ホオズキは黙って正面を見ていた。


 反対側には空の椅子が五脚並んでいる。


 誰が来るのか。


 正確な人数すら知らされていない。


 先方から送られてきたメッセージには、ただ一文。


 ――代表者を送る。


 それだけだった。


 政府代表の男が水を飲んだ。


 手が少し震えていた。


 無理もない。


「九条代表」


「はい」


「確認しておきたい」


 男が小声で言った。


「もし交渉相手が突然こちらを襲った場合は」


「逃げてください」


「……私たちが?」


「戦うのは私たちです」


 ホオズキは淡々と言った。


「ただし、こちらから先に撃つことはありません」


「しかし」


「相手も同じことを考えています」


 男は黙った。


「人間に囲まれた場所へ来るんです。向こうだって怖い」


「吸血鬼が?」


「恐怖を感じない生物なら、何百年も隠れて生きたりしません」


 榊原が横目でホオズキを見る。


 わずかに頷いた。


 そのときだった。


 大型シャッターの向こうから、三回。


 音がした。


 コン。


 コン。


 コン。


 誰かが外側から叩いている。


 警備員の顔色が変わった。


 無線が一斉に忙しくなる。


『西ゲート接触』


『映像確認』


『人数三』


『武装確認できず』


 ホオズキが立ち上がった。


 榊原も続く。


 シャッターがゆっくりと上がる。


 冷たい夜風が吹き込んできた。


 暗闇の中に三人の人影が立っていた。


 一人目。


 長身の白人男性。


 黒いコート。


 エドガー・ヴァイス。


 二人目。


 日本人男性。


 黒髪に眼鏡。


 月城静馬。


 そして三人目。


 まだ若く見える女性だった。


 二十代後半ほどにしか見えない。


 しかし、その目を見た瞬間、ホオズキは理解した。


 若くない。


 途方もなく。


 深い。


 長い時間を見てきた目だった。


 女性は黒いドレスの上から濃紺のコートを羽織っていた。


 肩まで伸びた淡い金髪。


 青白い肌。


 そして、人間とまったく変わらない顔。


 三人は武器を持っていなかった。


 少なくとも、目に見える範囲では。


「こんばんは」


 エドガーが言った。


 その声には以前と同じ、妙な落ち着きがあった。


「約束どおり来ました」


 ホオズキは答えた。


「ようこそ、とは言いにくい状況だけど」


「私も歓迎されるとは思っていません」


 エドガーが微笑む。


 金髪の女性が一歩前へ出た。


「九条ホオズキ」


 初対面で名前を呼ばれた。


 ホオズキの目が細くなる。


「あなたが代表?」


「今夜は」


 女性は言った。


「セシリア・ヴァルデス」


 そして少しだけ頭を下げる。


「私たちの中では、三百十七年ほど生きています」


 政府代表の表情が固まった。


 セシリアはそれを見て、少し困ったように笑った。


「年齢を言うと、いつもそういう顔をされる」


「慣れてないんです」


 ホオズキが答えた。


「そのうち慣れる?」


「できれば」


 三百十七歳の吸血鬼と、二十六歳の元軍人。


 二人は数秒見つめ合った。


 そしてセシリアが椅子に座った。


「始めましょう」


     ◇


 交渉開始から三十分。


 会話は、想像していた以上に淡々と進んだ。


 友好的という意味ではない。


 むしろ逆だった。


「個体数は?」


 政府側が尋ねた。


「不明です」


 セシリアが答える。


「把握していないと?」


「あなた方は世界中のすべての人間を、一人単位で把握していますか?」


「国家には人口統計があります」


「私たちには国家がありません」


 セシリアは言った。


「王もいない。政府もない。戸籍もない。血統ごとの集団はあります。しかし従属関係は複雑で、何十年、何百年と眠る者もいる」


 研究者が身を乗り出す。


「眠る?」


「冬眠と考えれば近いでしょう」


 月城が補足した。


「活動をほぼ停止する個体が存在します」


「期間は?」


「数日から数百年」


 室内が静かになった。


 研究者のペンが止まる。


 ホオズキはエドガーを見た。


「じゃあ、あなたたち自身も総数を知らない」


「知らない」


 エドガーは即答した。


「百人かもしれない。千人かもしれない。一万人かもしれない」


 政府代表が顔をしかめる。


「それでは安全保障上――」


「その言葉です」


 セシリアが遮った。


 声を荒らげたわけではない。


 だが、それまで穏やかだった空気が一瞬で変わった。


「私たちが姿を現さなかった理由は」


 彼女は人間側の全員を見渡した。


「人間が必ず、その言葉を使うからです」


 安全保障。


 管理。


 登録。


 監視。


 隔離。


「あなた方は未知の存在を見つければ分類する。数える。囲う。研究する」


「当然だ」


 防衛関係者が言った。


「人間を捕食する能力を持つ存在ならなおさらだ」


「否定しません」


 セシリアは静かに答えた。


「だから私たちは隠れてきた」


 ホオズキは腕を組んだ。


「でもアウレリアは違う」


 初めて、その名が出た。


 吸血鬼側三人の表情がわずかに変化した。


 特に月城。


「彼女は隠れる気がない」


 ホオズキは続けた。


「むしろ私たちに見つけてほしがっている」


「その認識で合っています」


 エドガーが言った。


「なぜ?」


 今度は榊原だった。


 低い声。


 静かだが、軍人特有の圧がある。


 セシリアは少し考えた。


「彼女は、隠れて生きることを敗北だと考えている」


「つまり?」


「自分たちを人類とは別の種族だと考えています」


「実際、違うんじゃない?」


 ホオズキが言う。


 セシリアは彼女を見る。


「身体は」


 少し間を置く。


「心まで違うかは、私には分かりません」


 その答えだけは、予想外だった。


 ホオズキは何も言わなかった。


「アウレリアは長い間、私たちの社会で危険視されてきました」


「止めなかったの?」


「止められなかった」


 エドガーが答える。


「正確には、殺せなかった」


「強いから?」


「それもあります」


 月城が初めて口を開いた。


「だが、それだけではない」


「じゃあ何?」


 月城は一瞬ためらった。


「彼女が消えることで、もっと古い何かが動き出す可能性がある」


 ホオズキの目が細くなった。


 第九章。


 エドガーが警告した言葉。


 アウレリアより古い存在。


 眠っているもの。


「それは何?」


「分かりません」


「またそれ?」


「本当に分からないのです」


 月城の声には冗談の気配がなかった。


「私が生まれるより、遥か以前から眠っている者たちがいる」


「あなた四百八十二歳だったわね」


「はい」


 政府代表が絶句する。


 ホオズキは続けた。


「それより古い?」


「遥かに」


 倉庫の巨大な天井が、急に重く感じられた。


     ◇


 情報管制室。


 久世冬馬は六枚のモニターを見つめていた。


 映像。


 通信。


 熱源。


 周辺道路。


 航空情報。


 施設内部。


 すべて正常。


 だからこそ気持ちが悪かった。


「静かすぎる」


 久世が呟いた。


 隣の技術員が振り返る。


「何か?」


「いや」


 久世は画面を切り替えた。


 偽の会談場所三箇所。


 A地点には政府系の不審車両。


 B地点には小型ドローン。


 C地点は無反応。


 情報漏洩は間違いなく存在する。


 だが誰が、何のために流したのか。


 アウレリア側なのか。


 別の吸血鬼勢力か。


 人間なのか。


 あるいは複数なのか。


 その瞬間だった。


 一つのログが目に入った。


「……ん?」


 久世が顔を近づける。


 施設内部の入退室管理。


 本来存在しないはずの認証記録。


 わずか一秒。


 すぐに消えている。


 だが久世の監視システムは、それを記録していた。


「おい」


 彼の声が変わった。


「地下区画の監視を出せ」


「地下?」


「早く」


 映像が切り替わる。


 誰もいない。


 地下搬入口。


 照明だけが点いている。


 久世は立ち上がった。


「九条代表に連絡」


「何と?」


「会談場所が割れてる」


 技術員の顔色が変わる。


「それと――」


 久世は画面を見つめた。


「誰かもう中にいる」


     ◇


 その連絡が届くより、二秒早かった。


 パン。


 乾いた音。


 交渉室の全員が反応した。


 セシリアの肩が跳ねた。


 黒いコートに小さな穴が開く。


 次の瞬間。


 彼女の胸から血が吹き出した。


「伏せろ!」


 榊原が叫ぶ。


 ホオズキがテーブルを蹴り倒した。


 警備員が銃を構える。


 吸血鬼側も立ち上がる。


「撃つな!」


 ホオズキが叫んだ。


 ほぼ同時に。


「誰も動くな!」


 エドガーの怒声が響いた。


 人間側と吸血鬼側。


 双方が互いに武器を向けかけた。


 ほんの一秒。


 人類史上初の会談が、戦争開始の瞬間に変わりかけた。


 セシリアは倒れなかった。


 胸を押さえている。


 指の隙間から血が流れる。


 月城が彼女を支えた。


「銀だ」


 その一言で室内の空気が変わった。


 吸血鬼を殺すための攻撃。


 人間側しか持っていないと思われている武器。


 それが吸血鬼代表を撃った。


「こちらではない!」


 政府代表が叫ぶ。


 エドガーが牙を見せる。


 一瞬だった。


 人間ではない顔。


 ホオズキは拳銃を抜いた。


 しかし撃たない。


 エドガーも動かない。


 二人の視線がぶつかった。


「信じろとは言わない」


 ホオズキが言った。


「でも今撃ったら、撃った奴の思い通りよ」


 エドガーの呼吸が荒い。


 数秒。


 そして。


 口を閉じた。


 牙が隠れる。


「……同感です」


 直後。


 照明が消えた。


 真っ暗になった。


 悲鳴。


 銃を構える音。


「撃つな!」


 黒崎の声が倉庫全体に響いた。


「全員、射撃禁止! 撃つな!」


 非常灯が点く。


 赤い光。


 暗闇が血の色に染まる。


 そして。


 匂いがした。


 強烈な血の匂い。


 床のどこかで、液体が流れている。


 月城の顔色が変わった。


「まずい」


 吸血鬼側の一人。


 これまでほとんど喋らず、エドガーの後ろにいた若い男が身体を震わせ始めた。


 鼻を押さえる。


「見るな!」


 エドガーが叫ぶ。


「呼吸を止めろ!」


 男の瞳孔が変わる。


 縦に細くなる。


 牙が伸びた。


 その姿を見た警備員が反射的に銃口を向ける。


 ホオズキが腕を掴んだ。


「撃つな!」


「でも!」


「命令!」


 男が一歩動く。


 人間側へ。


 さらに一歩。


 その瞬間。


 月城が彼を床に叩き伏せた。


「耐えろ!」


 四百八十二歳の医師が、若い吸血鬼を押さえ込む。


「お前は獣ではない!」


 男が呻く。


 床には血が広がっている。


 誰かが意図的に持ち込んだ大量の血液。


 それが換気設備を通して交渉室へ撒かれていた。


 人間に撃たせるため。


 吸血鬼を暴走させるため。


 どちらが先でもよかった。


 一発撃てば終わる。


 人間が吸血鬼を殺す。


 吸血鬼が人間を襲う。


 その映像さえ残れば。


 和平など二度と成立しない。


「久世!」


 ホオズキが無線に叫ぶ。


『分かってる! 地下だ!』


「レイナ!」


『向かってる!』


「レンジ!」


『俺も行く!』


「サヤはここ!」


『了解!』


 命令を飛ばしながら、ホオズキは気づいた。


 誰かに見られている。


 上。


 天井近くの作業通路。


 赤い非常灯。


 そこに。


 一人の女が立っていた。


 長い銀白色の髪。


 黒と赤の衣服。


 雪のように白い肌。


 赤い瞳。


 そして。


 楽しそうな笑み。


 ホオズキの時間が一瞬止まった。


「……アウレリア」


 女は笑った。


 声を出さずに。


 拍手した。


 一度。


 二度。


 三度。


 乾いた音が倉庫に響く。


「素晴らしい」


 その声を初めて、生で聞いた。


「本当に撃たなかった」


 ホオズキは拳銃を向ける。


 サヤも照準を合わせる。


 黒崎が警察側に射撃禁止を命じる。


「降りてきなさい」


 ホオズキが言った。


 アウレリアは首を傾けた。


「怖くないの?」


「怖いわよ」


「そうは見えない」


「演技が上手なの」


 アウレリアの笑みが少し深くなった。


「あなた、本当に面白い」


「私はあなたを面白いとは思ってない」


「残念」


 ゆっくり。


 アウレリアが階段を降りてくる。


 誰も撃たない。


 撃てない。


 彼女が一歩進むたび、空気が張り詰めていく。


 やがて。


 ホオズキの十メートルほど前で止まった。


 初めて二人が同じ場所に立った。


 九条ホオズキ。


 二十六歳。


 人間。


 アウレリア・セレスティン。


 正確な年齢、不明。


 吸血鬼。


「こんばんは、九条ホオズキ」


「初めまして、アウレリア」


「ずっと会いたかった」


「私はそうでもない」


 アウレリアが笑った。


「あなたなら撃つと思っていた」


「何を?」


「彼らを」


 エドガーたちを見る。


「怪物が牙を剥いた。人間なら撃つでしょう?」


「状況による」


「ずいぶん理性的なのね」


「軍人だったから」


「軍人ほど簡単に撃つ生き物もいないでしょう?」


 その瞬間。


 ホオズキの顔からわずかに表情が消えた。


 国外任務。


 救えなかった民間人。


 遅すぎた命令。


 燃える街。


 アウレリアは、その変化を見逃さなかった。


「なるほど」


「私の過去まで調べた?」


「少し」


「趣味が悪い」


「長生きすると暇なの」


 ホオズキは拳銃を下ろさない。


「何がしたいの?」


「見せたかっただけ」


「何を」


「あなたたちは同じ世界では生きられない」


 アウレリアが言った。


「人間は私たちを恐れる。私たちは人間を食べる。それだけで十分でしょう?」


「単純ね」


「真理はいつも単純よ」


「じゃあ聞くけど」


 ホオズキの声が低くなる。


「その真理とやらに、子供を攫う必要はあるの?」


 アウレリアの笑みが消えた。


 ほんの少し。


「少女を監禁して、血を取って、仲間を増やして。それも種族の真理?」


「犠牲は必要よ」


「便利な言葉ね」


 ホオズキは言った。


「自分が犠牲にならない人間ほど、よく使う」


 榊原がわずかに視線を動かした。


 黒崎は何も言わない。


 だがホオズキの背後で、拳を握っている。


 アウレリアはしばらく黙っていた。


 それから。


「あなたは、人間を信じている?」


「いいえ」


 即答だった。


 アウレリアが意外そうな顔をする。


「じゃあなぜ守るの?」


「信じてなくても守れるから」


「矛盾ね」


「人間なんてそんなものよ」


 ホオズキは言った。


「私は国家を信用してない。組織も信用してない。命令を出す偉い人も信用してない。でも、だからって全部壊せばいいとは思わない」


「……」


「あなたは何百年生きたか知らない。でも長く生きすぎて、世界を簡単に考えるようになったんじゃない?」


 その場にいた全員が息を止めた。


 吸血鬼相手に言う言葉ではない。


 ましてや今までに確認された中で、最も危険な個体。


 だがアウレリアは怒らなかった。


 むしろ。


 心底楽しそうに笑った。


「ああ」


 赤い瞳が細くなる。


「やっぱりあなた、好き」


「私は嫌い」


「それも素敵」


「気持ち悪い」


 黒崎の眉が動いた。


 状況が状況でなければ、別の意味でも気になる会話だった。


 アウレリアは踵を返した。


「待ちなさい」


 ホオズキが言う。


 止まらない。


「あなたはここから出られない」


「そう?」


 次の瞬間だった。


 施設内のすべての照明が再び消えた。


「動くな!」


 黒崎。


 暗闇。


 ほんの二秒。


 非常灯が復旧する。


 アウレリアはいなかった。


 閉鎖された倉庫。


 すべての出入口を警察とヤタガラスが固めている。


 それでも。


 消えていた。


「……冗談でしょ」


 サヤが呟く。


 久世の声が無線から聞こえた。


『映像確認中。待ってくれ』


 数秒。


『……あった』


「どこ?」


『映ってる』


 久世の声に戸惑いが混じる。


『ただ、人間の動きじゃない』


 高速度撮影用の監視カメラ。


 そこには一瞬だけ。


 銀白色の影が写っていた。


 一枚。


 次の映像では、すでに十数メートル先。


 さらに次では消えている。


 瞬間移動ではない。


 走っている。


 ただ。


 人間の目では追えない速度で。


 ホオズキは拳銃をゆっくり下ろした。


「化け物ね」


 背後から声がした。


 セシリアだった。


 胸の傷はすでに塞がり始めている。


「あなたたちから見れば、私も同じでしょうけれど」


 ホオズキは振り返った。


「会談は?」


 政府代表が言った。


「中止すべきだ」


 防衛関係者も頷く。


「襲撃を受けた以上――」


「続けましょう」


 声を発したのはセシリアだった。


 人間側が彼女を見る。


「今?」


「今だからです」


 彼女は破れたコートを脱いだ。


 血に染まったシャツ。


 だが傷はほぼ消えている。


「今夜、私たちは人間に撃たれた」


 静かに言う。


「そして人間は、私たちの仲間に襲われかけた」


 誰も反論しない。


「それでも」


 セシリアはホオズキを見る。


「どちらも撃たなかった」


 ホオズキは少し考えた。


 そして倒れたテーブルを起こした。


「続けましょう」


 椅子を戻す。


 榊原が手伝う。


 月城も。


 エドガーも。


 人間と吸血鬼が一緒に、倒れた机を元に戻す。


 奇妙な光景だった。


 歴史というものが、もし目に見えるのなら。


 案外こういう姿をしているのかもしれない。


     ◇


 午前三時四十八分。


 会談は終了した。


 和平条約ではない。


 同盟でもない。


 正式名称。


 V型異常事案に関する暫定的相互非攻撃及び情報交換覚書。


 たった六項目。


 人間側は、協力する吸血鬼個体への無差別な攻撃を行わない。


 吸血鬼側は、人間への捕食行為を容認しない。


 双方はアウレリア・セレスティン及びその直接勢力に関する情報を共有する。


 身柄を確保した場合、即時処分せず相互協議を行う。


 研究目的の拘束・実験は禁止する。


 覚書の存在は非公開。


 脆い。


 あまりにも脆い約束だった。


 一度の事件で消し飛ぶ程度のもの。


 それでも。


 ゼロではなくなった。


 セシリアが署名する。


 政府代表が署名する。


 最後に立会人としてホオズキが署名した。


 エドガーが手を差し出した。


 ホオズキはその手を見る。


「握手するの?」


「人間はこうするのでしょう?」


「感染したりしない?」


「失礼ですね」


「冗談よ」


 握る。


 冷たい。


 本当に驚くほど冷たい手だった。


「あなた、冷え性ね」


「心臓がほとんど動いていないので」


「そういう問題なの?」


「たぶん」


 二人は手を離した。


 黒崎が遠くからその光景を見ている。


 人間と吸血鬼。


 初めて交わされた公式な握手。


 誰も写真を撮らなかった。


 ニュースにもならない。


 拍手もない。


 ただ倉庫の片隅で。


 歴史が、ほんの少しだけ方向を変えた。


     ◇


 会談終了後。


 ホオズキたちは情報管制室へ集まった。


 久世が椅子に座ったまま頭を掻いている。


「悪いニュースが二つ」


「良いニュースは?」


「ない」


「最悪ね」


 久世が画面を切り替えた。


「まず地下に侵入した奴」


 映像。


 警備員の制服。


 帽子。


 マスク。


 性別すら分からない。


「逃げられた」


「吸血鬼?」


「分からん。ただし身体能力は人間レベルだ」


 黒崎が画面を見る。


「制服は?」


「本物」


 空気が変わる。


「盗品?」


「違う」


 久世は別の画面を出した。


「正規発行品。認証情報も本物」


 黒崎の顔が険しくなる。


「誰のものだ」


「そこが二つ目の悪いニュース」


 久世はキーを叩いた。


 認証記録。


 アクセス履歴。


 消去されたログ。


 複数の政府系システムを経由している。


「今回の襲撃」


 久世が言った。


「アウレリアだけじゃ成立しない」


 誰も喋らない。


「会談場所を知っていた。内部構造を知っていた。警備員用の正規認証を持ってた。さらに非常電源の切替まで把握してた」


 榊原が腕を組む。


「つまり」


「ああ」


 久世が椅子にもたれた。


「いる」


 ホオズキを見る。


「人間側に」


 部屋が静かになった。


「内通者が」


 最初から疑っていた。


 だが疑惑と確信は違う。


 黒崎が低い声で言う。


「警察とは限らん」


「政府かもしれない」


 榊原。


「民間委託先かもしれない」


 久世。


「複数かもしれない」


 サヤ。


 ホオズキは画面を見つめていた。


 アウレリア。


 吸血鬼。


 内通者。


 眠っている古い存在。


 敵が増えているのではない。


 世界そのものが広がっている。


 今まで見えていなかったものが、次々と姿を現している。


「代表」


 榊原が呼んだ。


 ホオズキは目を閉じた。


 数秒。


 そして開く。


「一つずつ潰しましょう」


「どれから?」


「人間」


 黒崎がホオズキを見る。


「吸血鬼を追う前に?」


「ええ」


 ホオズキは答えた。


「アウレリアが私たちの情報を持っているなら、情報源を切る」


 久世が笑う。


「賛成」


「黒崎」


「分かってる」


「警察側をお願い」


「任せろ」


「榊原」


「政府系統だな」


「お願いします」


 ホオズキは立ち上がった。


 窓の外。


 東京湾の向こうで空が白み始めていた。


 長い夜だった。


 だが。


 終わってはいない。


「夜が明けるわね」


 サヤが言った。


 ホオズキは朝焼けを見ながら答えた。


「ええ」


 そして。


「向こうにとっては、一番嫌な時間ね」


     ◇


 同じ頃。


 東京からおよそ九千キロ離れた場所。


 東欧。


 山間部。


 地図にもほとんど記載されていない森の奥。


 崩れかけた修道院。


 その地下。


 何百年。


 あるいは。


 何千年。


 誰にも開けられていない石室。


 壁には古代の文字。


 十字架より古い。


 ローマより古い。


 いくつかは、人類が文字を持つ以前から存在していたようにも見える。


 中央。


 巨大な石棺。


 静寂。


 そして。


 ドクン。


 音がした。


 以前より。


 明らかに強く。


 石棺の表面から埃が落ちる。


 ドクン。


 二度目。


 石棺の蓋が。


 ほんの数ミリ。


 動いた。


 暗闇の中。


 声がした。


 人間の言葉ではない。


 だが。


 もしその場にエドガー・ヴァイスがいれば。


 もし月城静馬が聞いていれば。


 意味を理解したかもしれない。


 その声が呼んでいたもの。


 それは。


 一つの名前だった。


「――アウレリア」


 再び静寂。


 石棺は開かない。


 まだ。


 眠っている。


 ただ。


 長い眠りの中で。


 それは初めて。


 寝返りを打った。


 世界の反対側では、太陽が昇り始めていた。


 そして人類はまだ知らなかった。


 自分たちが恐れている吸血鬼たちもまた。


 さらに深い夜を。


 恐れているということを。


――第十三章 了

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