第13章 同じ卓につく者たち
第十三章 同じ卓につく者たち
その夜、東京湾から吹く風は、妙に冷たかった。
九月とはいえ、まだ日中には夏の名残がある。だが海沿いに建つ巨大な物流施設の屋上に立っていると、吹き抜ける風にはすでに秋の匂いが混じっていた。
午後十時十三分。
使用停止から三年が経過した大型物流センター。
かつては一晩に数千台の貨物車両が出入りしていた場所だが、今は周囲の道路も封鎖され、施設の灯りは必要最低限に落とされている。
外から見れば、ただの巨大な廃墟だった。
だが今夜、その内部には日本という国家が用意できる、ほとんどすべての種類の警戒網が張り巡らされていた。
警察。
自衛隊。
政府危機管理部門。
研究機関。
そして、PMCヤタガラス。
その中心にいるのは、二十六歳の女だった。
「周囲、異常なし」
無線から御影紗夜の声が届く。
九条ホオズキは屋上の手すりから離れた。
黒いスーツの上に薄手の防弾装備を着込み、腰には拳銃を収めている。
今夜は戦闘服ではない。
それでも彼女を知る者なら、一目見れば分かった。
戦う準備はできている。
「レイナ」
『西側異常なし。レンジが暇そうにしてます』
『おい、余計な報告すんな』
すぐに神代蓮司の声が割り込んだ。
『俺は暇なんじゃない。敵が来てないだけだ』
「同じことじゃない」
ホオズキが答えると、無線の向こうでレイナが小さく笑った。
しかし、その笑いも長くは続かなかった。
今夜、この場所で行われることを考えれば当然だった。
人間と吸血鬼。
互いに相手の存在をほとんど知らないまま、何百年も同じ世界で生きてきた二つの存在が、初めて公式に同じ卓につく。
歴史の教科書に記載されることは、おそらくない。
少なくとも、当分は。
政府の公式記録にも、そのままの名称では残らないだろう。
それでも間違いなく、人類史上初めての出来事だった。
「緊張しているか」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。
「してないように見える?」
「見える」
黒崎剛士が答えた。
警察側の警備責任者として、この施設に入っている。
いつもの厳しい顔だった。
恋人同士であることを知らない者が見れば、二人の間に私的な関係があるとはまず思わないだろう。
「なら、演技は成功ね」
ホオズキは言った。
「本当は?」
「胃が痛い」
「珍しいな」
「人類史上初の吸血鬼との外交交渉よ。胃くらい痛くなるわ」
黒崎はほんのわずかに口元を緩めた。
「終わったら何か食うか」
「ラーメン」
「この時間からか」
「だからいいのよ」
一瞬だけ、いつもの二人に戻った。
だが黒崎の無線機が鳴り、その時間は終わった。
『警備本部より黒崎警視。接触予定時刻まで十分』
「了解」
黒崎の顔が警察官に戻る。
「行くぞ」
「ええ」
二人は屋上を後にした。
◇
物流センター中央部。
巨大な荷捌きスペースには、一つだけ長いテーブルが置かれていた。
まるで倉庫の巨大さを強調するためのように、そこだけが異様に小さく見える。
人間側は七名。
政府代表。
警察代表。
防衛関係者。
研究者。
そしてヤタガラスからは、九条ホオズキと榊原宗一郎。
久世冬馬は別室の情報管制室にいる。
黒崎は交渉参加者ではない。
あくまで警備責任者だった。
「あと三分」
榊原が時計を確認した。
ホオズキは黙って正面を見ていた。
反対側には空の椅子が五脚並んでいる。
誰が来るのか。
正確な人数すら知らされていない。
先方から送られてきたメッセージには、ただ一文。
――代表者を送る。
それだけだった。
政府代表の男が水を飲んだ。
手が少し震えていた。
無理もない。
「九条代表」
「はい」
「確認しておきたい」
男が小声で言った。
「もし交渉相手が突然こちらを襲った場合は」
「逃げてください」
「……私たちが?」
「戦うのは私たちです」
ホオズキは淡々と言った。
「ただし、こちらから先に撃つことはありません」
「しかし」
「相手も同じことを考えています」
男は黙った。
「人間に囲まれた場所へ来るんです。向こうだって怖い」
「吸血鬼が?」
「恐怖を感じない生物なら、何百年も隠れて生きたりしません」
榊原が横目でホオズキを見る。
わずかに頷いた。
そのときだった。
大型シャッターの向こうから、三回。
音がした。
コン。
コン。
コン。
誰かが外側から叩いている。
警備員の顔色が変わった。
無線が一斉に忙しくなる。
『西ゲート接触』
『映像確認』
『人数三』
『武装確認できず』
ホオズキが立ち上がった。
榊原も続く。
シャッターがゆっくりと上がる。
冷たい夜風が吹き込んできた。
暗闇の中に三人の人影が立っていた。
一人目。
長身の白人男性。
黒いコート。
エドガー・ヴァイス。
二人目。
日本人男性。
黒髪に眼鏡。
月城静馬。
そして三人目。
まだ若く見える女性だった。
二十代後半ほどにしか見えない。
しかし、その目を見た瞬間、ホオズキは理解した。
若くない。
途方もなく。
深い。
長い時間を見てきた目だった。
女性は黒いドレスの上から濃紺のコートを羽織っていた。
肩まで伸びた淡い金髪。
青白い肌。
そして、人間とまったく変わらない顔。
三人は武器を持っていなかった。
少なくとも、目に見える範囲では。
「こんばんは」
エドガーが言った。
その声には以前と同じ、妙な落ち着きがあった。
「約束どおり来ました」
ホオズキは答えた。
「ようこそ、とは言いにくい状況だけど」
「私も歓迎されるとは思っていません」
エドガーが微笑む。
金髪の女性が一歩前へ出た。
「九条ホオズキ」
初対面で名前を呼ばれた。
ホオズキの目が細くなる。
「あなたが代表?」
「今夜は」
女性は言った。
「セシリア・ヴァルデス」
そして少しだけ頭を下げる。
「私たちの中では、三百十七年ほど生きています」
政府代表の表情が固まった。
セシリアはそれを見て、少し困ったように笑った。
「年齢を言うと、いつもそういう顔をされる」
「慣れてないんです」
ホオズキが答えた。
「そのうち慣れる?」
「できれば」
三百十七歳の吸血鬼と、二十六歳の元軍人。
二人は数秒見つめ合った。
そしてセシリアが椅子に座った。
「始めましょう」
◇
交渉開始から三十分。
会話は、想像していた以上に淡々と進んだ。
友好的という意味ではない。
むしろ逆だった。
「個体数は?」
政府側が尋ねた。
「不明です」
セシリアが答える。
「把握していないと?」
「あなた方は世界中のすべての人間を、一人単位で把握していますか?」
「国家には人口統計があります」
「私たちには国家がありません」
セシリアは言った。
「王もいない。政府もない。戸籍もない。血統ごとの集団はあります。しかし従属関係は複雑で、何十年、何百年と眠る者もいる」
研究者が身を乗り出す。
「眠る?」
「冬眠と考えれば近いでしょう」
月城が補足した。
「活動をほぼ停止する個体が存在します」
「期間は?」
「数日から数百年」
室内が静かになった。
研究者のペンが止まる。
ホオズキはエドガーを見た。
「じゃあ、あなたたち自身も総数を知らない」
「知らない」
エドガーは即答した。
「百人かもしれない。千人かもしれない。一万人かもしれない」
政府代表が顔をしかめる。
「それでは安全保障上――」
「その言葉です」
セシリアが遮った。
声を荒らげたわけではない。
だが、それまで穏やかだった空気が一瞬で変わった。
「私たちが姿を現さなかった理由は」
彼女は人間側の全員を見渡した。
「人間が必ず、その言葉を使うからです」
安全保障。
管理。
登録。
監視。
隔離。
「あなた方は未知の存在を見つければ分類する。数える。囲う。研究する」
「当然だ」
防衛関係者が言った。
「人間を捕食する能力を持つ存在ならなおさらだ」
「否定しません」
セシリアは静かに答えた。
「だから私たちは隠れてきた」
ホオズキは腕を組んだ。
「でもアウレリアは違う」
初めて、その名が出た。
吸血鬼側三人の表情がわずかに変化した。
特に月城。
「彼女は隠れる気がない」
ホオズキは続けた。
「むしろ私たちに見つけてほしがっている」
「その認識で合っています」
エドガーが言った。
「なぜ?」
今度は榊原だった。
低い声。
静かだが、軍人特有の圧がある。
セシリアは少し考えた。
「彼女は、隠れて生きることを敗北だと考えている」
「つまり?」
「自分たちを人類とは別の種族だと考えています」
「実際、違うんじゃない?」
ホオズキが言う。
セシリアは彼女を見る。
「身体は」
少し間を置く。
「心まで違うかは、私には分かりません」
その答えだけは、予想外だった。
ホオズキは何も言わなかった。
「アウレリアは長い間、私たちの社会で危険視されてきました」
「止めなかったの?」
「止められなかった」
エドガーが答える。
「正確には、殺せなかった」
「強いから?」
「それもあります」
月城が初めて口を開いた。
「だが、それだけではない」
「じゃあ何?」
月城は一瞬ためらった。
「彼女が消えることで、もっと古い何かが動き出す可能性がある」
ホオズキの目が細くなった。
第九章。
エドガーが警告した言葉。
アウレリアより古い存在。
眠っているもの。
「それは何?」
「分かりません」
「またそれ?」
「本当に分からないのです」
月城の声には冗談の気配がなかった。
「私が生まれるより、遥か以前から眠っている者たちがいる」
「あなた四百八十二歳だったわね」
「はい」
政府代表が絶句する。
ホオズキは続けた。
「それより古い?」
「遥かに」
倉庫の巨大な天井が、急に重く感じられた。
◇
情報管制室。
久世冬馬は六枚のモニターを見つめていた。
映像。
通信。
熱源。
周辺道路。
航空情報。
施設内部。
すべて正常。
だからこそ気持ちが悪かった。
「静かすぎる」
久世が呟いた。
隣の技術員が振り返る。
「何か?」
「いや」
久世は画面を切り替えた。
偽の会談場所三箇所。
A地点には政府系の不審車両。
B地点には小型ドローン。
C地点は無反応。
情報漏洩は間違いなく存在する。
だが誰が、何のために流したのか。
アウレリア側なのか。
別の吸血鬼勢力か。
人間なのか。
あるいは複数なのか。
その瞬間だった。
一つのログが目に入った。
「……ん?」
久世が顔を近づける。
施設内部の入退室管理。
本来存在しないはずの認証記録。
わずか一秒。
すぐに消えている。
だが久世の監視システムは、それを記録していた。
「おい」
彼の声が変わった。
「地下区画の監視を出せ」
「地下?」
「早く」
映像が切り替わる。
誰もいない。
地下搬入口。
照明だけが点いている。
久世は立ち上がった。
「九条代表に連絡」
「何と?」
「会談場所が割れてる」
技術員の顔色が変わる。
「それと――」
久世は画面を見つめた。
「誰かもう中にいる」
◇
その連絡が届くより、二秒早かった。
パン。
乾いた音。
交渉室の全員が反応した。
セシリアの肩が跳ねた。
黒いコートに小さな穴が開く。
次の瞬間。
彼女の胸から血が吹き出した。
「伏せろ!」
榊原が叫ぶ。
ホオズキがテーブルを蹴り倒した。
警備員が銃を構える。
吸血鬼側も立ち上がる。
「撃つな!」
ホオズキが叫んだ。
ほぼ同時に。
「誰も動くな!」
エドガーの怒声が響いた。
人間側と吸血鬼側。
双方が互いに武器を向けかけた。
ほんの一秒。
人類史上初の会談が、戦争開始の瞬間に変わりかけた。
セシリアは倒れなかった。
胸を押さえている。
指の隙間から血が流れる。
月城が彼女を支えた。
「銀だ」
その一言で室内の空気が変わった。
吸血鬼を殺すための攻撃。
人間側しか持っていないと思われている武器。
それが吸血鬼代表を撃った。
「こちらではない!」
政府代表が叫ぶ。
エドガーが牙を見せる。
一瞬だった。
人間ではない顔。
ホオズキは拳銃を抜いた。
しかし撃たない。
エドガーも動かない。
二人の視線がぶつかった。
「信じろとは言わない」
ホオズキが言った。
「でも今撃ったら、撃った奴の思い通りよ」
エドガーの呼吸が荒い。
数秒。
そして。
口を閉じた。
牙が隠れる。
「……同感です」
直後。
照明が消えた。
真っ暗になった。
悲鳴。
銃を構える音。
「撃つな!」
黒崎の声が倉庫全体に響いた。
「全員、射撃禁止! 撃つな!」
非常灯が点く。
赤い光。
暗闇が血の色に染まる。
そして。
匂いがした。
強烈な血の匂い。
床のどこかで、液体が流れている。
月城の顔色が変わった。
「まずい」
吸血鬼側の一人。
これまでほとんど喋らず、エドガーの後ろにいた若い男が身体を震わせ始めた。
鼻を押さえる。
「見るな!」
エドガーが叫ぶ。
「呼吸を止めろ!」
男の瞳孔が変わる。
縦に細くなる。
牙が伸びた。
その姿を見た警備員が反射的に銃口を向ける。
ホオズキが腕を掴んだ。
「撃つな!」
「でも!」
「命令!」
男が一歩動く。
人間側へ。
さらに一歩。
その瞬間。
月城が彼を床に叩き伏せた。
「耐えろ!」
四百八十二歳の医師が、若い吸血鬼を押さえ込む。
「お前は獣ではない!」
男が呻く。
床には血が広がっている。
誰かが意図的に持ち込んだ大量の血液。
それが換気設備を通して交渉室へ撒かれていた。
人間に撃たせるため。
吸血鬼を暴走させるため。
どちらが先でもよかった。
一発撃てば終わる。
人間が吸血鬼を殺す。
吸血鬼が人間を襲う。
その映像さえ残れば。
和平など二度と成立しない。
「久世!」
ホオズキが無線に叫ぶ。
『分かってる! 地下だ!』
「レイナ!」
『向かってる!』
「レンジ!」
『俺も行く!』
「サヤはここ!」
『了解!』
命令を飛ばしながら、ホオズキは気づいた。
誰かに見られている。
上。
天井近くの作業通路。
赤い非常灯。
そこに。
一人の女が立っていた。
長い銀白色の髪。
黒と赤の衣服。
雪のように白い肌。
赤い瞳。
そして。
楽しそうな笑み。
ホオズキの時間が一瞬止まった。
「……アウレリア」
女は笑った。
声を出さずに。
拍手した。
一度。
二度。
三度。
乾いた音が倉庫に響く。
「素晴らしい」
その声を初めて、生で聞いた。
「本当に撃たなかった」
ホオズキは拳銃を向ける。
サヤも照準を合わせる。
黒崎が警察側に射撃禁止を命じる。
「降りてきなさい」
ホオズキが言った。
アウレリアは首を傾けた。
「怖くないの?」
「怖いわよ」
「そうは見えない」
「演技が上手なの」
アウレリアの笑みが少し深くなった。
「あなた、本当に面白い」
「私はあなたを面白いとは思ってない」
「残念」
ゆっくり。
アウレリアが階段を降りてくる。
誰も撃たない。
撃てない。
彼女が一歩進むたび、空気が張り詰めていく。
やがて。
ホオズキの十メートルほど前で止まった。
初めて二人が同じ場所に立った。
九条ホオズキ。
二十六歳。
人間。
アウレリア・セレスティン。
正確な年齢、不明。
吸血鬼。
「こんばんは、九条ホオズキ」
「初めまして、アウレリア」
「ずっと会いたかった」
「私はそうでもない」
アウレリアが笑った。
「あなたなら撃つと思っていた」
「何を?」
「彼らを」
エドガーたちを見る。
「怪物が牙を剥いた。人間なら撃つでしょう?」
「状況による」
「ずいぶん理性的なのね」
「軍人だったから」
「軍人ほど簡単に撃つ生き物もいないでしょう?」
その瞬間。
ホオズキの顔からわずかに表情が消えた。
国外任務。
救えなかった民間人。
遅すぎた命令。
燃える街。
アウレリアは、その変化を見逃さなかった。
「なるほど」
「私の過去まで調べた?」
「少し」
「趣味が悪い」
「長生きすると暇なの」
ホオズキは拳銃を下ろさない。
「何がしたいの?」
「見せたかっただけ」
「何を」
「あなたたちは同じ世界では生きられない」
アウレリアが言った。
「人間は私たちを恐れる。私たちは人間を食べる。それだけで十分でしょう?」
「単純ね」
「真理はいつも単純よ」
「じゃあ聞くけど」
ホオズキの声が低くなる。
「その真理とやらに、子供を攫う必要はあるの?」
アウレリアの笑みが消えた。
ほんの少し。
「少女を監禁して、血を取って、仲間を増やして。それも種族の真理?」
「犠牲は必要よ」
「便利な言葉ね」
ホオズキは言った。
「自分が犠牲にならない人間ほど、よく使う」
榊原がわずかに視線を動かした。
黒崎は何も言わない。
だがホオズキの背後で、拳を握っている。
アウレリアはしばらく黙っていた。
それから。
「あなたは、人間を信じている?」
「いいえ」
即答だった。
アウレリアが意外そうな顔をする。
「じゃあなぜ守るの?」
「信じてなくても守れるから」
「矛盾ね」
「人間なんてそんなものよ」
ホオズキは言った。
「私は国家を信用してない。組織も信用してない。命令を出す偉い人も信用してない。でも、だからって全部壊せばいいとは思わない」
「……」
「あなたは何百年生きたか知らない。でも長く生きすぎて、世界を簡単に考えるようになったんじゃない?」
その場にいた全員が息を止めた。
吸血鬼相手に言う言葉ではない。
ましてや今までに確認された中で、最も危険な個体。
だがアウレリアは怒らなかった。
むしろ。
心底楽しそうに笑った。
「ああ」
赤い瞳が細くなる。
「やっぱりあなた、好き」
「私は嫌い」
「それも素敵」
「気持ち悪い」
黒崎の眉が動いた。
状況が状況でなければ、別の意味でも気になる会話だった。
アウレリアは踵を返した。
「待ちなさい」
ホオズキが言う。
止まらない。
「あなたはここから出られない」
「そう?」
次の瞬間だった。
施設内のすべての照明が再び消えた。
「動くな!」
黒崎。
暗闇。
ほんの二秒。
非常灯が復旧する。
アウレリアはいなかった。
閉鎖された倉庫。
すべての出入口を警察とヤタガラスが固めている。
それでも。
消えていた。
「……冗談でしょ」
サヤが呟く。
久世の声が無線から聞こえた。
『映像確認中。待ってくれ』
数秒。
『……あった』
「どこ?」
『映ってる』
久世の声に戸惑いが混じる。
『ただ、人間の動きじゃない』
高速度撮影用の監視カメラ。
そこには一瞬だけ。
銀白色の影が写っていた。
一枚。
次の映像では、すでに十数メートル先。
さらに次では消えている。
瞬間移動ではない。
走っている。
ただ。
人間の目では追えない速度で。
ホオズキは拳銃をゆっくり下ろした。
「化け物ね」
背後から声がした。
セシリアだった。
胸の傷はすでに塞がり始めている。
「あなたたちから見れば、私も同じでしょうけれど」
ホオズキは振り返った。
「会談は?」
政府代表が言った。
「中止すべきだ」
防衛関係者も頷く。
「襲撃を受けた以上――」
「続けましょう」
声を発したのはセシリアだった。
人間側が彼女を見る。
「今?」
「今だからです」
彼女は破れたコートを脱いだ。
血に染まったシャツ。
だが傷はほぼ消えている。
「今夜、私たちは人間に撃たれた」
静かに言う。
「そして人間は、私たちの仲間に襲われかけた」
誰も反論しない。
「それでも」
セシリアはホオズキを見る。
「どちらも撃たなかった」
ホオズキは少し考えた。
そして倒れたテーブルを起こした。
「続けましょう」
椅子を戻す。
榊原が手伝う。
月城も。
エドガーも。
人間と吸血鬼が一緒に、倒れた机を元に戻す。
奇妙な光景だった。
歴史というものが、もし目に見えるのなら。
案外こういう姿をしているのかもしれない。
◇
午前三時四十八分。
会談は終了した。
和平条約ではない。
同盟でもない。
正式名称。
V型異常事案に関する暫定的相互非攻撃及び情報交換覚書。
たった六項目。
人間側は、協力する吸血鬼個体への無差別な攻撃を行わない。
吸血鬼側は、人間への捕食行為を容認しない。
双方はアウレリア・セレスティン及びその直接勢力に関する情報を共有する。
身柄を確保した場合、即時処分せず相互協議を行う。
研究目的の拘束・実験は禁止する。
覚書の存在は非公開。
脆い。
あまりにも脆い約束だった。
一度の事件で消し飛ぶ程度のもの。
それでも。
ゼロではなくなった。
セシリアが署名する。
政府代表が署名する。
最後に立会人としてホオズキが署名した。
エドガーが手を差し出した。
ホオズキはその手を見る。
「握手するの?」
「人間はこうするのでしょう?」
「感染したりしない?」
「失礼ですね」
「冗談よ」
握る。
冷たい。
本当に驚くほど冷たい手だった。
「あなた、冷え性ね」
「心臓がほとんど動いていないので」
「そういう問題なの?」
「たぶん」
二人は手を離した。
黒崎が遠くからその光景を見ている。
人間と吸血鬼。
初めて交わされた公式な握手。
誰も写真を撮らなかった。
ニュースにもならない。
拍手もない。
ただ倉庫の片隅で。
歴史が、ほんの少しだけ方向を変えた。
◇
会談終了後。
ホオズキたちは情報管制室へ集まった。
久世が椅子に座ったまま頭を掻いている。
「悪いニュースが二つ」
「良いニュースは?」
「ない」
「最悪ね」
久世が画面を切り替えた。
「まず地下に侵入した奴」
映像。
警備員の制服。
帽子。
マスク。
性別すら分からない。
「逃げられた」
「吸血鬼?」
「分からん。ただし身体能力は人間レベルだ」
黒崎が画面を見る。
「制服は?」
「本物」
空気が変わる。
「盗品?」
「違う」
久世は別の画面を出した。
「正規発行品。認証情報も本物」
黒崎の顔が険しくなる。
「誰のものだ」
「そこが二つ目の悪いニュース」
久世はキーを叩いた。
認証記録。
アクセス履歴。
消去されたログ。
複数の政府系システムを経由している。
「今回の襲撃」
久世が言った。
「アウレリアだけじゃ成立しない」
誰も喋らない。
「会談場所を知っていた。内部構造を知っていた。警備員用の正規認証を持ってた。さらに非常電源の切替まで把握してた」
榊原が腕を組む。
「つまり」
「ああ」
久世が椅子にもたれた。
「いる」
ホオズキを見る。
「人間側に」
部屋が静かになった。
「内通者が」
最初から疑っていた。
だが疑惑と確信は違う。
黒崎が低い声で言う。
「警察とは限らん」
「政府かもしれない」
榊原。
「民間委託先かもしれない」
久世。
「複数かもしれない」
サヤ。
ホオズキは画面を見つめていた。
アウレリア。
吸血鬼。
内通者。
眠っている古い存在。
敵が増えているのではない。
世界そのものが広がっている。
今まで見えていなかったものが、次々と姿を現している。
「代表」
榊原が呼んだ。
ホオズキは目を閉じた。
数秒。
そして開く。
「一つずつ潰しましょう」
「どれから?」
「人間」
黒崎がホオズキを見る。
「吸血鬼を追う前に?」
「ええ」
ホオズキは答えた。
「アウレリアが私たちの情報を持っているなら、情報源を切る」
久世が笑う。
「賛成」
「黒崎」
「分かってる」
「警察側をお願い」
「任せろ」
「榊原」
「政府系統だな」
「お願いします」
ホオズキは立ち上がった。
窓の外。
東京湾の向こうで空が白み始めていた。
長い夜だった。
だが。
終わってはいない。
「夜が明けるわね」
サヤが言った。
ホオズキは朝焼けを見ながら答えた。
「ええ」
そして。
「向こうにとっては、一番嫌な時間ね」
◇
同じ頃。
東京からおよそ九千キロ離れた場所。
東欧。
山間部。
地図にもほとんど記載されていない森の奥。
崩れかけた修道院。
その地下。
何百年。
あるいは。
何千年。
誰にも開けられていない石室。
壁には古代の文字。
十字架より古い。
ローマより古い。
いくつかは、人類が文字を持つ以前から存在していたようにも見える。
中央。
巨大な石棺。
静寂。
そして。
ドクン。
音がした。
以前より。
明らかに強く。
石棺の表面から埃が落ちる。
ドクン。
二度目。
石棺の蓋が。
ほんの数ミリ。
動いた。
暗闇の中。
声がした。
人間の言葉ではない。
だが。
もしその場にエドガー・ヴァイスがいれば。
もし月城静馬が聞いていれば。
意味を理解したかもしれない。
その声が呼んでいたもの。
それは。
一つの名前だった。
「――アウレリア」
再び静寂。
石棺は開かない。
まだ。
眠っている。
ただ。
長い眠りの中で。
それは初めて。
寝返りを打った。
世界の反対側では、太陽が昇り始めていた。
そして人類はまだ知らなかった。
自分たちが恐れている吸血鬼たちもまた。
さらに深い夜を。
恐れているということを。
――第十三章 了




