第14章 昼に棲むもの
第十四章 昼に棲むもの
人間と吸血鬼が、初めて同じ紙に署名した夜。
その会場では、まだ床に撒かれた血が乾いていなかった。
湾岸部の大型物流施設。
つい数十分前まで、人間側の代表と吸血鬼の和平派が向かい合っていた広大な倉庫は、今では完全に封鎖されている。
照明は復旧していた。
しかし白々しい蛍光灯に照らし出された光景は、会談前とはまるで違って見えた。
床に残った銀弾の弾痕。
破損した照明。
散乱した椅子。
血液を撒くために天井から落とされた容器の破片。
そして中央の長机には、先ほど署名されたばかりの覚書が残されている。
協力的な吸血鬼への無差別攻撃を行わない。
人間への捕食を認めない。
アウレリア・セレスティンとその勢力に関する情報を共有する。
確保した吸血鬼を即時処分せず、協議する。
研究を理由とする拘束や人体実験を行わない。
そして、この合意そのものを当面は公表しない。
紙の上では、わずか六項目。
しかしそれは、人類史上初めて、人間が自分たち以外の知的種族との間に結んだ取り決めだった。
その歴史的な紙から、わずか十メートルほど離れた場所で。
九条ホオズキは、床に落ちた薬莢を見つめていた。
「代表」
背後から榊原宗一郎が声を掛ける。
「吸血鬼側は全員退去しました。エドガー・ヴァイスから、負傷したセシリア・ヴァルデスの容態について連絡が入っています」
「どう?」
「銀弾は摘出したそうです。生命に別状なし。ただし回復には時間が掛かるとのことです」
「そう」
ホオズキは短く答えた。
彼女の視線は薬莢から離れない。
榊原は、その横顔をしばらく見てから尋ねた。
「何か?」
「……殺す気がなかった」
榊原の眉がわずかに動いた。
「アウレリアが、ですか」
「全部よ」
ホオズキはしゃがみ込み、手袋をした指で床の弾痕を示した。
「セシリアに撃ち込まれた銀弾。照明の破壊。血液の散布。非常電源の遮断。どれも致命傷を狙ったものじゃない」
「目的は混乱」
「違う」
ホオズキは立ち上がった。
「目的は選択よ」
倉庫の向こうでは鑑識班が動き回っている。
人間側の警備要員。
警察。
政府関係者。
ヤタガラス。
本来なら互いの管轄について揉めてもおかしくない組織が、今夜ばかりは黙々と同じ現場を調べていた。
「暗闇の中で、誰か一人でも撃てばよかった」
ホオズキが続ける。
「人間が吸血鬼を撃つ。吸血鬼が反撃する。それだけで十分だった。会談は終わる。和平派は人間を信用できなくなる。人間側も『やはり怪物だった』と言える」
「だが、撃たなかった」
「ええ」
あの瞬間。
血の匂いが充満し、銀弾が飛び、照明が消えた。
人間も吸血鬼も銃口を向けた。
それでも、最初の一発を撃つ者はいなかった。
月城静馬が若い吸血鬼を押さえ込んだ。
エドガーが自らの同胞を制した。
そしてホオズキが、人間側に発砲禁止を命じた。
その結果。
アウレリアは天井の通路から姿を現し、笑ったのだ。
――本当に撃たなかった。
まるで実験結果を喜ぶ研究者のように。
「私たちが何をするか、見たかったのよ」
ホオズキは低く言った。
「敵を殺すためじゃない。人間と吸血鬼が、本当に自制できるのかを確かめるために」
「だとすれば」
榊原の声が重くなる。
「我々は試験を受けている、と」
「たぶんね」
ホオズキは、長机の上に置かれた覚書を見る。
「問題は――」
そこで言葉を切った。
「試験官がアウレリア一人じゃないことよ」
*
物流施設二階。
情報管制室。
久世冬馬の前には、六台のモニターが並んでいた。
監視カメラ。
入退場記録。
警備システム。
電源制御。
ネットワーク通信。
施設管理端末。
ありとあらゆる記録が同時に表示されている。
「……出た」
久世の指が止まった。
「レイナ」
「はい」
篠宮レイナが背後から画面を覗き込む。
「これ見て」
久世が映像を拡大する。
会談開始のおよそ二時間前。
作業員用通路。
灰色の制服を着た男が一人、扉を通過している。
帽子。
マスク。
手袋。
顔はほとんど見えない。
「例の警備員?」
「そう」
「顔認証は?」
「マスクで六割しか取れてない。でも問題はそこじゃない」
久世が別の画面を開いた。
認証ログ。
そこには緑色の表示が残っている。
AUTHORIZED。
正規認証。
「偽造カードじゃない」
「コピー?」
「それも違う」
久世は椅子を回した。
「正式発行された認証情報だ」
レイナの表情が消えた。
「……誰の?」
「そこが面白い」
久世が別の資料を表示する。
認証番号。
申請日時。
発行元。
承認者。
すべて正規。
会談会場の設備点検を行う臨時作業員として、九日前に発行されている。
「会談場所が正式決定したのは?」
レイナが訊く。
「四日前」
二人の間に沈黙が落ちた。
先にレイナが理解した。
「決定前から知ってた?」
「そういうこと」
「誰が申請したの」
「政府側の会談準備班」
「承認者」
「危機対策合同調整室の事務担当官」
レイナが画面に顔を近づける。
「名前は?」
「杉原義隆。四十三歳」
表示された顔写真は、ごく普通の男だった。
眼鏡。
短い黒髪。
少し疲れた目。
背広姿。
どこにでもいる官僚。
怪物には見えない。
狂信者にも見えない。
「本人が侵入したの?」
「違う。杉原はその時間、別棟にいた。複数の映像で確認できる」
「じゃあ認証を渡した」
「可能性は高い」
久世がさらに資料を開く。
「もっと嫌なものがある」
銀行口座だった。
レイナが首を傾げる。
「金?」
「いや」
久世は画面をスクロールする。
「不自然なくらい、何もない」
借金なし。
巨額入金なし。
海外送金なし。
家族への不審な資金移動もない。
副業もない。
高級品の購入もない。
「普通過ぎる」
久世が呟いた。
「金で買われた内通者なら、大抵どこかに歪みが出る。生活が変わる。口座が動く。借金が消える。家族が急に海外へ行く。だがこいつには何もない」
「脅迫?」
「それなら何か弱みがある」
久世は腕を組む。
「問題は、それも見当たらないことだ」
レイナはしばらく杉原の顔写真を眺めた。
「じゃあ……自分から?」
「その可能性が一番気持ち悪い」
ドアが開いた。
黒崎剛士が入ってくる。
巨体が狭い情報管制室に入っただけで、室内の空気が少し窮屈になったように感じられた。
「久世」
「ちょうどよかった」
「何が出た」
「容疑者」
久世が杉原の顔写真を示す。
黒崎の目つきが変わった。
「……こいつか」
「知ってる?」
「合同会議で何度か見た」
「どんな人?」
レイナが訊いた。
黒崎は数秒考える。
「目立たん」
「それだけ?」
「官僚としては、それが一番厄介な評価だ」
久世が苦笑した。
「分かる」
「仕事は?」
「早い。余計な発言はしない。命令されたことは正確に処理する」
「思想的な発言は?」
「聞いたことがない」
黒崎は写真を見つめる。
「だからこそ、今まで誰も疑わなかったんだろうな」
そのとき。
久世の端末が短く鳴った。
新しい検索結果。
「……待て」
久世の顔から表情が消える。
「何?」
「杉原、今どこにいる」
黒崎が無線機を取った。
「確認する」
数秒。
返答。
黒崎の眉間に深い皺が刻まれた。
「いない」
「いつから?」
「三十分前に退館した」
「会談襲撃の後?」
「そうだ」
レイナが立ち上がる。
「逃げた」
「いや」
久世が言った。
「もっと悪い」
彼は監視映像を呼び出した。
施設正面。
杉原義隆が映っていた。
走っていない。
周囲を気にしてもいない。
ごく普通にコートを着て。
警備員に会釈をして。
出口から歩いて出ている。
「逃げてない」
久世は言った。
「自分が追われると思ってないんだ」
*
三十分後。
杉原義隆は都心へ向かう地下鉄の車内にいた。
座席に座り、スマートフォンでニュースを読んでいる。
画面には、吸血鬼関連の見出しが並んでいた。
正体不明の失血死。
インターネット上を飛び交う吸血鬼映像。
銀製品の価格高騰。
紫外線照射器の売り切れ。
夜間外出を控える人々。
動画配信者による「吸血鬼探索」。
自警団を名乗る集団。
そして――
昨夜、都内で起きた外国人男性への暴行事件。
被害者は単に色白だった。
加害者たちは「吸血鬼だと思った」と供述していた。
杉原は記事を読み終えると、画面を閉じた。
表情は変わらない。
地下鉄が駅へ滑り込む。
扉が開く。
杉原は立ち上がった。
ホームへ降りる。
人波に混ざる。
背後。
二十メートル。
レイナが歩いている。
さらに後方。
御影紗夜。
別の出口には神代蓮司。
誰も杉原を直接見てはいなかった。
ヤタガラスは、逃げる人間を追う組織ではない。
逃げない人間を追う方が難しいことを知っている組織だった。
『対象、地上へ』
レイナが小声で送る。
『了解』
杉原は繁華街を歩いた。
コンビニに寄った。
缶コーヒーを買った。
横断歩道を渡った。
そして小さな公園へ入った。
ベンチに腰掛ける。
缶を開ける。
飲む。
ただそれだけ。
「……何してんの、この人」
遠くから見ていた蓮司が呟いた。
『待ってる』
紗夜が答える。
『誰を?』
『それを見るのが仕事でしょ』
『相変わらず厳しいなあ』
『黙って』
十分。
二十分。
三十分。
誰も来ない。
杉原は時計を見ることさえしなかった。
そして缶コーヒーを飲み終えると、立ち上がった。
『動いた』
公園の出口。
杉原は突然、足を止めた。
レイナも止まる。
杉原が振り返る。
一瞬だけ。
視線が合った。
レイナは表情を変えなかった。
杉原も変えなかった。
しかし。
次の瞬間。
杉原が走った。
「バレた!」
レイナが叫ぶ。
人混みを割って男が走る。
予想外だった。
杉原の走り方は、訓練を受けた人間のものではない。
腕を大きく振り。
鞄を揺らし。
何度も通行人にぶつかりそうになりながら逃げる。
四十三歳の、ごく普通の事務職の男。
それでも必死だった。
レイナが追う。
距離が縮まる。
杉原が路地へ入る。
角を曲がった瞬間。
巨大な影が立っていた。
「終わりだ」
黒崎だった。
杉原が急停止する。
反対を向く。
レイナ。
横道。
紗夜。
逃げ道はない。
杉原は荒い呼吸を繰り返した。
そして笑った。
「……やっぱり来たか」
黒崎が一歩前へ出る。
「杉原義隆」
「警視」
「聞きたいことがある」
「でしょうね」
「任意同行を求める」
「拒否したら?」
「その場合は正式な手続きを取る」
杉原は黒崎を見た。
次にレイナを見る。
そして、なぜか安堵したように息を吐いた。
「ヤタガラスもいるんですね」
レイナの目が細くなる。
「私たちを知ってるの?」
「もちろん」
「どうして?」
「ずっと見ていましたから」
黒崎が距離を詰める。
「誰の命令だ」
杉原の笑みが消えた。
「命令?」
「あの会場へ侵入者を入れたのはお前だな」
「そうです」
あまりに簡単な返答だった。
全員が一瞬、言葉を失った。
黒崎が睨む。
「認めるのか」
「ええ」
「アウレリア・セレスティンに協力したのか」
杉原は首を振った。
「違います」
その返答だけは即座だった。
「私はあの女が嫌いだ」
「だったらなぜ」
「必要だったからですよ」
杉原の声は落ち着いていた。
「人間が、目を覚ますために」
*
取調室ではない。
ヤタガラス本部の会議室だった。
本来なら黒崎は反対した。
杉原は公務員であり、今回の事件には複数の法令に抵触する疑いがある。
警察施設へ連行すべきだった。
しかし杉原自身が言った。
「警察に行けば、私は何も話しません」
そして。
「九条ホオズキになら話します」
そう付け加えた。
黒崎は露骨に不機嫌になった。
「なぜ私なの?」
ホオズキが杉原の正面に座る。
杉原は手錠を掛けられている。
左右には黒崎と榊原。
壁際には久世。
録音機が回っている。
「あなたは組織を信用していない」
杉原が言った。
「訂正して」
ホオズキは即答した。
「私は組織が嫌いなんじゃない。動けない組織が嫌いなの」
「同じことですよ」
「全然違う」
杉原は少し笑った。
「なるほど」
ホオズキは机に肘をついた。
「あなたが会場の認証情報を流した?」
「はい」
「誰に?」
「知りません」
黒崎の拳がわずかに動く。
「ふざけるな」
「本当です」
「連絡方法は」
「指定された場所へ記録媒体を置いた」
「誰に指示された」
「分かりません」
「接触は?」
「一度もありません」
久世が割り込む。
「通信は追える」
「無理ですよ」
「随分自信あるね」
「私自身が通信していませんから」
久世が黙る。
杉原は続けた。
「最初の接触は紙でした」
「紙?」
「自宅の郵便受けに封筒が入っていた」
「内容は」
「二十七年前の事件記録」
ホオズキの目が動いた。
「何の?」
「失踪事件です」
杉原は静かに答えた。
「私の姉の」
会議室の空気が変わった。
「十六歳でした」
杉原は机を見つめた。
「塾から帰る途中で消えた。目撃者なし。遺体なし。誘拐を示す証拠もなし。警察は捜した。でも、何も見つからなかった」
黒崎は何も言わない。
「封筒には写真が入っていました」
「どんな写真?」
「姉です」
「生きている?」
「死んでいました」
杉原は淡々としていた。
淡々とし過ぎていた。
それが逆に、長い年月を感じさせた。
「首に二つの傷があった」
ホオズキはゆっくり背もたれに身体を預けた。
「吸血鬼」
「そう書いてありました」
「送り主は?」
「記号だけです」
「何て?」
杉原が顔を上げる。
「DAWN」
久世がすぐに端末へ入力した。
「ドーン……夜明け?」
「その後も手紙が来ました」
杉原が続ける。
「失踪事件。変死事件。行方不明者。原因不明の失血死。全部、何十年も前から起きていた」
「それで吸血鬼を信じた?」
「最初は信じませんでした」
杉原はホオズキを見る。
「でも、あなたたちが捕まえた」
沈黙。
「この国は知っていたんですか?」
杉原の声が初めて揺れた。
「知らなかった」
黒崎が答えた。
「少なくとも、俺の知る限りはな」
「では、なぜ二十七年間も姉は見つからなかった」
「それとこれは――」
「同じですよ!」
杉原が突然叫んだ。
椅子が揺れる。
今までの無表情が崩れた。
「怪物がいた! 本当にいた! 人を殺して、血を吸って、それでも社会は何事もなかったように動いていた!」
黒崎が立ちかける。
ホオズキが手で制した。
「続けて」
杉原は荒い息を整えた。
「政府は公表しない。警察も公表しない。専門家は慎重に検討する。証拠が足りない。社会的混乱を避ける必要がある。全部、分かります」
歯を食いしばる。
「分かるからこそ、怖かった」
「何が?」
「また同じことになる」
杉原は言った。
「会議をしている間にも人が死ぬ」
ホオズキの瞳がわずかに細くなる。
その言葉は。
彼女自身が軍を去った理由と、あまりにも似ていた。
「だから会談を壊そうとした?」
「違う」
杉原が首を振る。
「試したんです」
ホオズキは動かなかった。
杉原は続ける。
「人間と吸血鬼が向き合ったとき、本当に話し合えるのか」
榊原が低い声で問う。
「もし撃ち合いになっていたら?」
「それが答えだった」
「死者が出てもか」
「……はい」
榊原の目から温度が消えた。
「愚か者が」
声を荒らげたわけではない。
だからこそ恐ろしかった。
「他人の命を秤に載せ、自分だけ安全な場所から結果を見る。それを正義とは呼ばん」
杉原は俯いた。
「分かっています」
「分かっていない」
榊原が言った。
「分かっていればやらん」
沈黙。
やがてホオズキが口を開いた。
「DAWNはアウレリアの組織?」
「分かりません」
「あなたに会場襲撃を指示した?」
「違います」
杉原は顔を上げる。
「私は認証情報を渡しただけです」
「何のために使われるか知っていた?」
「会談に介入するとだけ」
「銀弾も?」
「知らなかった」
「血液散布は?」
「知らなかった」
「照明を落とすことは?」
「知らなかった」
ホオズキはしばらく杉原を見つめた。
嘘を見抜こうとしているのではない。
もっと単純なことを確認していた。
この男は、自分が何をしたのか、本当に理解しているのか。
「あなた」
ホオズキが言った。
「利用されたのよ」
杉原が固まる。
「違う」
「同じよ」
「違います」
「アウレリアは人間を操る。でも、全部を自分でやる必要はない」
ホオズキは指を一本立てた。
「姉の死体写真を見せる」
二本目。
「真実を少しずつ与える」
三本目。
「政府が隠しているように見せる」
四本目。
「あなた自身に決断させる」
そして手を下ろした。
「命令なんかしなくても、人間は勝手に動く」
杉原の唇が震えた。
「そんな……」
「それがあの女のやり方よ」
ホオズキはアウレリアの言葉を思い出した。
人間は最初の一滴さえ与えれば、自分たちで争う。
「あなたがアウレリアと会ったかどうかなんて関係ない」
ホオズキは言った。
「あなたが憎しみを持った瞬間から、もう盤の上にいた」
杉原は何も言わなかった。
ただ。
顔から血の気が引いていった。
*
その夜。
東京では、また一つ事件が起きた。
住宅街で男が刺された。
犯人は近所の住民だった。
「夜中に歩いていた」
「肌が白かった」
「最近見かけない人だった」
それだけ。
被害者は吸血鬼ではなかった。
普通の会社員だった。
同じ時間。
別の街では、若者たちが廃ビルへ侵入した。
吸血鬼を撮影して動画サイトへ投稿するためだった。
一人が階段から転落し、重傷。
さらに別の場所では、銀製の食器が盗まれた。
インターネットでは偽の「吸血鬼撃退装置」が高値で売られた。
紫外線ライトを人へ向ける悪戯が流行した。
病院には「自分は吸血鬼に噛まれた」と訴える人間が押し寄せた。
そのほとんどが勘違いだった。
一部は詐欺だった。
そして。
ほんのわずかだけ。
本物が混じっていた。
政府は正式発表を避けた。
警察は失血事件の再調査を始めた。
医療機関には原因不明の咬傷患者に関する内部通知が回った。
大学では血液学、病理学、遺伝学の研究者たちが密かに招集された。
防衛関係者は夜間警備計画を作り始めた。
宗教団体は、それぞれ違う説明を始めた。
経済はすでに反応していた。
銀。
紫外線関連機器。
防犯設備。
夜間配送。
警備会社。
保険。
人間社会はまだ吸血鬼の存在を正式には認めていない。
それでも社会そのものは、とっくに吸血鬼がいる前提で動き始めていた。
怪物が現れたから世界が変わるのではない。
怪物がいるかもしれないと、人間が信じた瞬間から世界は変わる。
*
午前二時。
ヤタガラス本部。
ホオズキは一人、屋上にいた。
東京の夜景を眺めている。
背後のドアが開いた。
「こんな所にいたか」
黒崎だった。
「杉原は?」
「正式に身柄を預かった」
「そう」
「しばらく外には出られん」
「でしょうね」
黒崎が隣へ立つ。
しばらく二人とも喋らなかった。
「似ていると思ったか」
突然、黒崎が言った。
ホオズキは横を見る。
「誰と誰が?」
「お前と杉原だ」
「……少しだけ」
ホオズキは否定しなかった。
「大きな組織が動くのを待てなかった。決定が遅いと思った。自分で動いた」
「違う」
黒崎は即答した。
「何が?」
「あいつは他人に決断を押し付けた」
ホオズキは黙る。
「お前は自分が前に出る」
黒崎は夜景を見ながら言った。
「そこは違う」
ホオズキは小さく笑った。
「慰めてる?」
「事実を言ってるだけだ」
「下手ね」
「知ってる」
その返答があまりにも黒崎らしくて、ホオズキは少しだけ肩の力を抜いた。
だが。
黒崎の表情はすぐに戻った。
「杉原の姉の写真」
「ええ」
「本物だった」
ホオズキの顔から笑みが消える。
「確認できた?」
「二十七年前の行方不明者記録と一致した。着衣も身体的特徴もな」
「遺体は?」
「見つかっていない」
「じゃあ誰が写真を撮ったの」
「そこだ」
黒崎がポケットから紙を取り出す。
「久世が画像を調べた」
印刷された写真。
古びた室内。
床に横たわる少女。
首に傷。
ホオズキは写真を受け取った。
「二十七年前に撮影された可能性が高いそうだ」
「最近作った偽物じゃない」
「少なくとも単純な加工ではない」
ホオズキは写真を見る。
少女の背後。
壁。
暗い。
ほとんど何も見えない。
「黒崎」
「ん?」
「これ」
ホオズキが写真の端を指す。
壁に何かが描かれている。
文字ではない。
円。
その中に縦線。
さらに三本の短い線。
黒崎が目を細める。
「何だこれは」
「分からない」
屋上のドアが勢いよく開いた。
「代表!」
久世だった。
普段ほとんど走らない男が息を切らしている。
「どうしたの」
「その写真!」
「これ?」
「拡大したら出た!」
久世がタブレットを差し出す。
同じ記号。
そして別の写真。
さらに別。
「何これ」
「過去の失踪事件だ」
久世が画面を切り替える。
「日本だけじゃない」
ドイツ。
ポーランド。
フランス。
トルコ。
ルーマニア。
アメリカ。
南米。
年代も違う。
十九世紀。
二十世紀初頭。
戦後。
冷戦期。
現代。
事件現場の片隅に。
同じ記号がある。
「偶然?」
黒崎が訊く。
「ここまで重なれば偶然じゃない」
「アウレリアの印?」
「違う」
久世が言った。
「エドガーに画像を送った」
「返事は?」
久世は一瞬ためらった。
「来た」
画面を見せる。
短い文章。
そこにはこう書かれていた。
『その印をどこで見つけた』
続けて。
『今すぐ離れろ』
そして三通目。
『それは我々の印ではない』
ホオズキの表情が変わった。
「……我々の、ではない?」
その直後。
久世の端末が鳴った。
エドガーから着信。
久世がスピーカーにする。
『九条ホオズキはいるか』
「いる」
ホオズキが答えた。
電話の向こう。
エドガー・ヴァイスの声は、今まで聞いたことがないほど緊張していた。
『その印は、古い』
「どれくらい?」
沈黙。
『我々より古い』
ホオズキは言葉を失う。
「アウレリアより?」
『比較にならん』
黒崎が訊く。
「何を意味する印だ」
再び沈黙。
『名前ではない』
「じゃあ何」
『警告だ』
エドガーの声が低くなる。
『それが残された土地では、我々も狩られた』
風が屋上を吹き抜ける。
ホオズキのポニーテールが揺れた。
「吸血鬼を狩る存在?」
『昔はそう考えていた』
「今は?」
電話の向こうで。
五百年以上を生きてきた吸血鬼が。
ほんの少しだけ。
恐怖を滲ませた。
『分からない』
*
同じころ。
東欧。
人の住まなくなった山岳地帯。
森の奥。
朽ち果てた修道院。
その地下。
何百年も誰も入っていない石室で。
石棺が動いた。
数ミリ。
止まる。
そして。
また動く。
石と石が擦れる音が、地下空間に響いた。
暗闇の中。
乾き切った指が。
石棺の縁に掛かった。
白い指。
人間のものとほとんど変わらない。
ゆっくりと。
蓋が持ち上がる。
隙間から、闇が覗く。
その奥で。
二つの瞳が開いた。
赤ではなかった。
黒でもない。
淡い金色。
長い眠りから覚めた存在は、しばらく何もせず天井を見つめていた。
やがて。
唇が動く。
「……アウレリア」
声は若い。
男とも女とも判別しにくい。
「まだ――」
乾いた喉が音を作る。
「人間と遊んでいるのか」
石棺の周囲。
壁一面に。
同じ記号が刻まれている。
円。
一本の縦線。
三本の短い線。
その存在は、ゆっくり身体を起こした。
足元には。
古びた骨が散乱している。
人骨。
そして。
人間とは明らかに違う骨。
異様に長い犬歯を持つ頭蓋骨。
吸血鬼の骨だった。
何十体。
いや。
何百体。
石棺の主はその上を裸足で歩く。
歩くたびに骨が砕けた。
やがて地下室の出口で立ち止まる。
遠い東の方角へ顔を向けた。
「東京」
誰から教えられたわけでもない。
それでも、その名を知っていた。
そして。
ほんの少し笑った。
「今度は――」
暗闇の中。
長い犬歯が覗いた。
「人間まで、夜を見つけたか」
その瞬間。
世界のどこかで。
アウレリア・セレスティンが目を開いた。
東京。
高層ビルの暗い一室。
窓辺に立っていた彼女の笑顔が消える。
初めてだった。
人間を見ても。
銃を向けられても。
銀弾を見ても。
決して崩れなかったその表情が。
完全に消えた。
アウレリアはゆっくり窓へ近づく。
東欧から何千キロも離れている。
聞こえるはずなどない。
感じるはずもない。
それでも。
彼女は分かった。
「……起きた」
呟き。
その声には。
歓喜も。
嘲笑も。
余裕もなかった。
ただ。
恐怖だけがあった。
背後にいた若い吸血鬼が戸惑う。
「アウレリア様?」
彼女は答えない。
「何か……?」
ようやくアウレリアが振り返った。
「全員を呼び戻しなさい」
「え?」
「日本だけじゃない」
声が低い。
「ヨーロッパも。中東も。北米も」
「しかし、人間との計画は」
「中止よ」
若い吸血鬼が目を見開く。
アウレリア・セレスティン。
人間との戦争を望み。
人間を資源と呼び。
自ら何百年もかけて準備してきた女が。
初めて。
戦争を止めると言った。
「急ぎなさい!」
怒声が響いた。
若い吸血鬼が飛び出していく。
一人になった部屋で。
アウレリアは両手を握りしめる。
微かに震えていた。
「どうして……」
窓の外。
東京の夜景。
「どうして今なの……」
そして。
誰にも聞こえない声で。
彼女はその名を口にした。
それは。
エドガーさえ知らない名前だった。
「――ノア」
東京の空に。
夜明けはまだ来ない。
人間は吸血鬼という怪物を見つけたばかりだった。
吸血鬼は人間との新しい関係を模索し始めたばかりだった。
両者はまだ知らなかった。
自分たちが互いを敵と呼んでいる間に。
もっと古い何かが。
すでに目を覚ましていたことを。
そして。
人間と吸血鬼の双方にとって。
本当の意味での「夜」は。
まだ始まってすらいなかった。
――第十四章 了




