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第14章 昼に棲むもの

第十四章 昼に棲むもの


 人間と吸血鬼が、初めて同じ紙に署名した夜。


 その会場では、まだ床に撒かれた血が乾いていなかった。


 湾岸部の大型物流施設。


 つい数十分前まで、人間側の代表と吸血鬼の和平派が向かい合っていた広大な倉庫は、今では完全に封鎖されている。


 照明は復旧していた。


 しかし白々しい蛍光灯に照らし出された光景は、会談前とはまるで違って見えた。


 床に残った銀弾の弾痕。


 破損した照明。


 散乱した椅子。


 血液を撒くために天井から落とされた容器の破片。


 そして中央の長机には、先ほど署名されたばかりの覚書が残されている。


 協力的な吸血鬼への無差別攻撃を行わない。


 人間への捕食を認めない。


 アウレリア・セレスティンとその勢力に関する情報を共有する。


 確保した吸血鬼を即時処分せず、協議する。


 研究を理由とする拘束や人体実験を行わない。


 そして、この合意そのものを当面は公表しない。


 紙の上では、わずか六項目。


 しかしそれは、人類史上初めて、人間が自分たち以外の知的種族との間に結んだ取り決めだった。


 その歴史的な紙から、わずか十メートルほど離れた場所で。


 九条ホオズキは、床に落ちた薬莢を見つめていた。


「代表」


 背後から榊原宗一郎が声を掛ける。


「吸血鬼側は全員退去しました。エドガー・ヴァイスから、負傷したセシリア・ヴァルデスの容態について連絡が入っています」


「どう?」


「銀弾は摘出したそうです。生命に別状なし。ただし回復には時間が掛かるとのことです」


「そう」


 ホオズキは短く答えた。


 彼女の視線は薬莢から離れない。


 榊原は、その横顔をしばらく見てから尋ねた。


「何か?」


「……殺す気がなかった」


 榊原の眉がわずかに動いた。


「アウレリアが、ですか」


「全部よ」


 ホオズキはしゃがみ込み、手袋をした指で床の弾痕を示した。


「セシリアに撃ち込まれた銀弾。照明の破壊。血液の散布。非常電源の遮断。どれも致命傷を狙ったものじゃない」


「目的は混乱」


「違う」


 ホオズキは立ち上がった。


「目的は選択よ」


 倉庫の向こうでは鑑識班が動き回っている。


 人間側の警備要員。


 警察。


 政府関係者。


 ヤタガラス。


 本来なら互いの管轄について揉めてもおかしくない組織が、今夜ばかりは黙々と同じ現場を調べていた。


「暗闇の中で、誰か一人でも撃てばよかった」


 ホオズキが続ける。


「人間が吸血鬼を撃つ。吸血鬼が反撃する。それだけで十分だった。会談は終わる。和平派は人間を信用できなくなる。人間側も『やはり怪物だった』と言える」


「だが、撃たなかった」


「ええ」


 あの瞬間。


 血の匂いが充満し、銀弾が飛び、照明が消えた。


 人間も吸血鬼も銃口を向けた。


 それでも、最初の一発を撃つ者はいなかった。


 月城静馬が若い吸血鬼を押さえ込んだ。


 エドガーが自らの同胞を制した。


 そしてホオズキが、人間側に発砲禁止を命じた。


 その結果。


 アウレリアは天井の通路から姿を現し、笑ったのだ。


 ――本当に撃たなかった。


 まるで実験結果を喜ぶ研究者のように。


「私たちが何をするか、見たかったのよ」


 ホオズキは低く言った。


「敵を殺すためじゃない。人間と吸血鬼が、本当に自制できるのかを確かめるために」


「だとすれば」


 榊原の声が重くなる。


「我々は試験を受けている、と」


「たぶんね」


 ホオズキは、長机の上に置かれた覚書を見る。


「問題は――」


 そこで言葉を切った。


「試験官がアウレリア一人じゃないことよ」


     *


 物流施設二階。


 情報管制室。


 久世冬馬の前には、六台のモニターが並んでいた。


 監視カメラ。


 入退場記録。


 警備システム。


 電源制御。


 ネットワーク通信。


 施設管理端末。


 ありとあらゆる記録が同時に表示されている。


「……出た」


 久世の指が止まった。


「レイナ」


「はい」


 篠宮レイナが背後から画面を覗き込む。


「これ見て」


 久世が映像を拡大する。


 会談開始のおよそ二時間前。


 作業員用通路。


 灰色の制服を着た男が一人、扉を通過している。


 帽子。


 マスク。


 手袋。


 顔はほとんど見えない。


「例の警備員?」


「そう」


「顔認証は?」


「マスクで六割しか取れてない。でも問題はそこじゃない」


 久世が別の画面を開いた。


 認証ログ。


 そこには緑色の表示が残っている。


 AUTHORIZED。


 正規認証。


「偽造カードじゃない」


「コピー?」


「それも違う」


 久世は椅子を回した。


「正式発行された認証情報だ」


 レイナの表情が消えた。


「……誰の?」


「そこが面白い」


 久世が別の資料を表示する。


 認証番号。


 申請日時。


 発行元。


 承認者。


 すべて正規。


 会談会場の設備点検を行う臨時作業員として、九日前に発行されている。


「会談場所が正式決定したのは?」


 レイナが訊く。


「四日前」


 二人の間に沈黙が落ちた。


 先にレイナが理解した。


「決定前から知ってた?」


「そういうこと」


「誰が申請したの」


「政府側の会談準備班」


「承認者」


「危機対策合同調整室の事務担当官」


 レイナが画面に顔を近づける。


「名前は?」


「杉原義隆。四十三歳」


 表示された顔写真は、ごく普通の男だった。


 眼鏡。


 短い黒髪。


 少し疲れた目。


 背広姿。


 どこにでもいる官僚。


 怪物には見えない。


 狂信者にも見えない。


「本人が侵入したの?」


「違う。杉原はその時間、別棟にいた。複数の映像で確認できる」


「じゃあ認証を渡した」


「可能性は高い」


 久世がさらに資料を開く。


「もっと嫌なものがある」


 銀行口座だった。


 レイナが首を傾げる。


「金?」


「いや」


 久世は画面をスクロールする。


「不自然なくらい、何もない」


 借金なし。


 巨額入金なし。


 海外送金なし。


 家族への不審な資金移動もない。


 副業もない。


 高級品の購入もない。


「普通過ぎる」


 久世が呟いた。


「金で買われた内通者なら、大抵どこかに歪みが出る。生活が変わる。口座が動く。借金が消える。家族が急に海外へ行く。だがこいつには何もない」


「脅迫?」


「それなら何か弱みがある」


 久世は腕を組む。


「問題は、それも見当たらないことだ」


 レイナはしばらく杉原の顔写真を眺めた。


「じゃあ……自分から?」


「その可能性が一番気持ち悪い」


 ドアが開いた。


 黒崎剛士が入ってくる。


 巨体が狭い情報管制室に入っただけで、室内の空気が少し窮屈になったように感じられた。


「久世」


「ちょうどよかった」


「何が出た」


「容疑者」


 久世が杉原の顔写真を示す。


 黒崎の目つきが変わった。


「……こいつか」


「知ってる?」


「合同会議で何度か見た」


「どんな人?」


 レイナが訊いた。


 黒崎は数秒考える。


「目立たん」


「それだけ?」


「官僚としては、それが一番厄介な評価だ」


 久世が苦笑した。


「分かる」


「仕事は?」


「早い。余計な発言はしない。命令されたことは正確に処理する」


「思想的な発言は?」


「聞いたことがない」


 黒崎は写真を見つめる。


「だからこそ、今まで誰も疑わなかったんだろうな」


 そのとき。


 久世の端末が短く鳴った。


 新しい検索結果。


「……待て」


 久世の顔から表情が消える。


「何?」


「杉原、今どこにいる」


 黒崎が無線機を取った。


「確認する」


 数秒。


 返答。


 黒崎の眉間に深い皺が刻まれた。


「いない」


「いつから?」


「三十分前に退館した」


「会談襲撃の後?」


「そうだ」


 レイナが立ち上がる。


「逃げた」


「いや」


 久世が言った。


「もっと悪い」


 彼は監視映像を呼び出した。


 施設正面。


 杉原義隆が映っていた。


 走っていない。


 周囲を気にしてもいない。


 ごく普通にコートを着て。


 警備員に会釈をして。


 出口から歩いて出ている。


「逃げてない」


 久世は言った。


「自分が追われると思ってないんだ」


     *


 三十分後。


 杉原義隆は都心へ向かう地下鉄の車内にいた。


 座席に座り、スマートフォンでニュースを読んでいる。


 画面には、吸血鬼関連の見出しが並んでいた。


 正体不明の失血死。


 インターネット上を飛び交う吸血鬼映像。


 銀製品の価格高騰。


 紫外線照射器の売り切れ。


 夜間外出を控える人々。


 動画配信者による「吸血鬼探索」。


 自警団を名乗る集団。


 そして――


 昨夜、都内で起きた外国人男性への暴行事件。


 被害者は単に色白だった。


 加害者たちは「吸血鬼だと思った」と供述していた。


 杉原は記事を読み終えると、画面を閉じた。


 表情は変わらない。


 地下鉄が駅へ滑り込む。


 扉が開く。


 杉原は立ち上がった。


 ホームへ降りる。


 人波に混ざる。


 背後。


 二十メートル。


 レイナが歩いている。


 さらに後方。


 御影紗夜。


 別の出口には神代蓮司。


 誰も杉原を直接見てはいなかった。


 ヤタガラスは、逃げる人間を追う組織ではない。


 逃げない人間を追う方が難しいことを知っている組織だった。


『対象、地上へ』


 レイナが小声で送る。


『了解』


 杉原は繁華街を歩いた。


 コンビニに寄った。


 缶コーヒーを買った。


 横断歩道を渡った。


 そして小さな公園へ入った。


 ベンチに腰掛ける。


 缶を開ける。


 飲む。


 ただそれだけ。


「……何してんの、この人」


 遠くから見ていた蓮司が呟いた。


『待ってる』


 紗夜が答える。


『誰を?』


『それを見るのが仕事でしょ』


『相変わらず厳しいなあ』


『黙って』


 十分。


 二十分。


 三十分。


 誰も来ない。


 杉原は時計を見ることさえしなかった。


 そして缶コーヒーを飲み終えると、立ち上がった。


『動いた』


 公園の出口。


 杉原は突然、足を止めた。


 レイナも止まる。


 杉原が振り返る。


 一瞬だけ。


 視線が合った。


 レイナは表情を変えなかった。


 杉原も変えなかった。


 しかし。


 次の瞬間。


 杉原が走った。


「バレた!」


 レイナが叫ぶ。


 人混みを割って男が走る。


 予想外だった。


 杉原の走り方は、訓練を受けた人間のものではない。


 腕を大きく振り。


 鞄を揺らし。


 何度も通行人にぶつかりそうになりながら逃げる。


 四十三歳の、ごく普通の事務職の男。


 それでも必死だった。


 レイナが追う。


 距離が縮まる。


 杉原が路地へ入る。


 角を曲がった瞬間。


 巨大な影が立っていた。


「終わりだ」


 黒崎だった。


 杉原が急停止する。


 反対を向く。


 レイナ。


 横道。


 紗夜。


 逃げ道はない。


 杉原は荒い呼吸を繰り返した。


 そして笑った。


「……やっぱり来たか」


 黒崎が一歩前へ出る。


「杉原義隆」


「警視」


「聞きたいことがある」


「でしょうね」


「任意同行を求める」


「拒否したら?」


「その場合は正式な手続きを取る」


 杉原は黒崎を見た。


 次にレイナを見る。


 そして、なぜか安堵したように息を吐いた。


「ヤタガラスもいるんですね」


 レイナの目が細くなる。


「私たちを知ってるの?」


「もちろん」


「どうして?」


「ずっと見ていましたから」


 黒崎が距離を詰める。


「誰の命令だ」


 杉原の笑みが消えた。


「命令?」


「あの会場へ侵入者を入れたのはお前だな」


「そうです」


 あまりに簡単な返答だった。


 全員が一瞬、言葉を失った。


 黒崎が睨む。


「認めるのか」


「ええ」


「アウレリア・セレスティンに協力したのか」


 杉原は首を振った。


「違います」


 その返答だけは即座だった。


「私はあの女が嫌いだ」


「だったらなぜ」


「必要だったからですよ」


 杉原の声は落ち着いていた。


「人間が、目を覚ますために」


     *


 取調室ではない。


 ヤタガラス本部の会議室だった。


 本来なら黒崎は反対した。


 杉原は公務員であり、今回の事件には複数の法令に抵触する疑いがある。


 警察施設へ連行すべきだった。


 しかし杉原自身が言った。


「警察に行けば、私は何も話しません」


 そして。


「九条ホオズキになら話します」


 そう付け加えた。


 黒崎は露骨に不機嫌になった。


「なぜ私なの?」


 ホオズキが杉原の正面に座る。


 杉原は手錠を掛けられている。


 左右には黒崎と榊原。


 壁際には久世。


 録音機が回っている。


「あなたは組織を信用していない」


 杉原が言った。


「訂正して」


 ホオズキは即答した。


「私は組織が嫌いなんじゃない。動けない組織が嫌いなの」


「同じことですよ」


「全然違う」


 杉原は少し笑った。


「なるほど」


 ホオズキは机に肘をついた。


「あなたが会場の認証情報を流した?」


「はい」


「誰に?」


「知りません」


 黒崎の拳がわずかに動く。


「ふざけるな」


「本当です」


「連絡方法は」


「指定された場所へ記録媒体を置いた」


「誰に指示された」


「分かりません」


「接触は?」


「一度もありません」


 久世が割り込む。


「通信は追える」


「無理ですよ」


「随分自信あるね」


「私自身が通信していませんから」


 久世が黙る。


 杉原は続けた。


「最初の接触は紙でした」


「紙?」


「自宅の郵便受けに封筒が入っていた」


「内容は」


「二十七年前の事件記録」


 ホオズキの目が動いた。


「何の?」


「失踪事件です」


 杉原は静かに答えた。


「私の姉の」


 会議室の空気が変わった。


「十六歳でした」


 杉原は机を見つめた。


「塾から帰る途中で消えた。目撃者なし。遺体なし。誘拐を示す証拠もなし。警察は捜した。でも、何も見つからなかった」


 黒崎は何も言わない。


「封筒には写真が入っていました」


「どんな写真?」


「姉です」


「生きている?」


「死んでいました」


 杉原は淡々としていた。


 淡々とし過ぎていた。


 それが逆に、長い年月を感じさせた。


「首に二つの傷があった」


 ホオズキはゆっくり背もたれに身体を預けた。


「吸血鬼」


「そう書いてありました」


「送り主は?」


「記号だけです」


「何て?」


 杉原が顔を上げる。


「DAWN」


 久世がすぐに端末へ入力した。


「ドーン……夜明け?」


「その後も手紙が来ました」


 杉原が続ける。


「失踪事件。変死事件。行方不明者。原因不明の失血死。全部、何十年も前から起きていた」


「それで吸血鬼を信じた?」


「最初は信じませんでした」


 杉原はホオズキを見る。


「でも、あなたたちが捕まえた」


 沈黙。


「この国は知っていたんですか?」


 杉原の声が初めて揺れた。


「知らなかった」


 黒崎が答えた。


「少なくとも、俺の知る限りはな」


「では、なぜ二十七年間も姉は見つからなかった」


「それとこれは――」


「同じですよ!」


 杉原が突然叫んだ。


 椅子が揺れる。


 今までの無表情が崩れた。


「怪物がいた! 本当にいた! 人を殺して、血を吸って、それでも社会は何事もなかったように動いていた!」


 黒崎が立ちかける。


 ホオズキが手で制した。


「続けて」


 杉原は荒い息を整えた。


「政府は公表しない。警察も公表しない。専門家は慎重に検討する。証拠が足りない。社会的混乱を避ける必要がある。全部、分かります」


 歯を食いしばる。


「分かるからこそ、怖かった」


「何が?」


「また同じことになる」


 杉原は言った。


「会議をしている間にも人が死ぬ」


 ホオズキの瞳がわずかに細くなる。


 その言葉は。


 彼女自身が軍を去った理由と、あまりにも似ていた。


「だから会談を壊そうとした?」


「違う」


 杉原が首を振る。


「試したんです」


 ホオズキは動かなかった。


 杉原は続ける。


「人間と吸血鬼が向き合ったとき、本当に話し合えるのか」


 榊原が低い声で問う。


「もし撃ち合いになっていたら?」


「それが答えだった」


「死者が出てもか」


「……はい」


 榊原の目から温度が消えた。


「愚か者が」


 声を荒らげたわけではない。


 だからこそ恐ろしかった。


「他人の命を秤に載せ、自分だけ安全な場所から結果を見る。それを正義とは呼ばん」


 杉原は俯いた。


「分かっています」


「分かっていない」


 榊原が言った。


「分かっていればやらん」


 沈黙。


 やがてホオズキが口を開いた。


「DAWNはアウレリアの組織?」


「分かりません」


「あなたに会場襲撃を指示した?」


「違います」


 杉原は顔を上げる。


「私は認証情報を渡しただけです」


「何のために使われるか知っていた?」


「会談に介入するとだけ」


「銀弾も?」


「知らなかった」


「血液散布は?」


「知らなかった」


「照明を落とすことは?」


「知らなかった」


 ホオズキはしばらく杉原を見つめた。


 嘘を見抜こうとしているのではない。


 もっと単純なことを確認していた。


 この男は、自分が何をしたのか、本当に理解しているのか。


「あなた」


 ホオズキが言った。


「利用されたのよ」


 杉原が固まる。


「違う」


「同じよ」


「違います」


「アウレリアは人間を操る。でも、全部を自分でやる必要はない」


 ホオズキは指を一本立てた。


「姉の死体写真を見せる」


 二本目。


「真実を少しずつ与える」


 三本目。


「政府が隠しているように見せる」


 四本目。


「あなた自身に決断させる」


 そして手を下ろした。


「命令なんかしなくても、人間は勝手に動く」


 杉原の唇が震えた。


「そんな……」


「それがあの女のやり方よ」


 ホオズキはアウレリアの言葉を思い出した。


 人間は最初の一滴さえ与えれば、自分たちで争う。


「あなたがアウレリアと会ったかどうかなんて関係ない」


 ホオズキは言った。


「あなたが憎しみを持った瞬間から、もう盤の上にいた」


 杉原は何も言わなかった。


 ただ。


 顔から血の気が引いていった。


     *


 その夜。


 東京では、また一つ事件が起きた。


 住宅街で男が刺された。


 犯人は近所の住民だった。


「夜中に歩いていた」


「肌が白かった」


「最近見かけない人だった」


 それだけ。


 被害者は吸血鬼ではなかった。


 普通の会社員だった。


 同じ時間。


 別の街では、若者たちが廃ビルへ侵入した。


 吸血鬼を撮影して動画サイトへ投稿するためだった。


 一人が階段から転落し、重傷。


 さらに別の場所では、銀製の食器が盗まれた。


 インターネットでは偽の「吸血鬼撃退装置」が高値で売られた。


 紫外線ライトを人へ向ける悪戯が流行した。


 病院には「自分は吸血鬼に噛まれた」と訴える人間が押し寄せた。


 そのほとんどが勘違いだった。


 一部は詐欺だった。


 そして。


 ほんのわずかだけ。


 本物が混じっていた。


 政府は正式発表を避けた。


 警察は失血事件の再調査を始めた。


 医療機関には原因不明の咬傷患者に関する内部通知が回った。


 大学では血液学、病理学、遺伝学の研究者たちが密かに招集された。


 防衛関係者は夜間警備計画を作り始めた。


 宗教団体は、それぞれ違う説明を始めた。


 経済はすでに反応していた。


 銀。


 紫外線関連機器。


 防犯設備。


 夜間配送。


 警備会社。


 保険。


 人間社会はまだ吸血鬼の存在を正式には認めていない。


 それでも社会そのものは、とっくに吸血鬼がいる前提で動き始めていた。


 怪物が現れたから世界が変わるのではない。


 怪物がいるかもしれないと、人間が信じた瞬間から世界は変わる。


     *


 午前二時。


 ヤタガラス本部。


 ホオズキは一人、屋上にいた。


 東京の夜景を眺めている。


 背後のドアが開いた。


「こんな所にいたか」


 黒崎だった。


「杉原は?」


「正式に身柄を預かった」


「そう」


「しばらく外には出られん」


「でしょうね」


 黒崎が隣へ立つ。


 しばらく二人とも喋らなかった。


「似ていると思ったか」


 突然、黒崎が言った。


 ホオズキは横を見る。


「誰と誰が?」


「お前と杉原だ」


「……少しだけ」


 ホオズキは否定しなかった。


「大きな組織が動くのを待てなかった。決定が遅いと思った。自分で動いた」


「違う」


 黒崎は即答した。


「何が?」


「あいつは他人に決断を押し付けた」


 ホオズキは黙る。


「お前は自分が前に出る」


 黒崎は夜景を見ながら言った。


「そこは違う」


 ホオズキは小さく笑った。


「慰めてる?」


「事実を言ってるだけだ」


「下手ね」


「知ってる」


 その返答があまりにも黒崎らしくて、ホオズキは少しだけ肩の力を抜いた。


 だが。


 黒崎の表情はすぐに戻った。


「杉原の姉の写真」


「ええ」


「本物だった」


 ホオズキの顔から笑みが消える。


「確認できた?」


「二十七年前の行方不明者記録と一致した。着衣も身体的特徴もな」


「遺体は?」


「見つかっていない」


「じゃあ誰が写真を撮ったの」


「そこだ」


 黒崎がポケットから紙を取り出す。


「久世が画像を調べた」


 印刷された写真。


 古びた室内。


 床に横たわる少女。


 首に傷。


 ホオズキは写真を受け取った。


「二十七年前に撮影された可能性が高いそうだ」


「最近作った偽物じゃない」


「少なくとも単純な加工ではない」


 ホオズキは写真を見る。


 少女の背後。


 壁。


 暗い。


 ほとんど何も見えない。


「黒崎」


「ん?」


「これ」


 ホオズキが写真の端を指す。


 壁に何かが描かれている。


 文字ではない。


 円。


 その中に縦線。


 さらに三本の短い線。


 黒崎が目を細める。


「何だこれは」


「分からない」


 屋上のドアが勢いよく開いた。


「代表!」


 久世だった。


 普段ほとんど走らない男が息を切らしている。


「どうしたの」


「その写真!」


「これ?」


「拡大したら出た!」


 久世がタブレットを差し出す。


 同じ記号。


 そして別の写真。


 さらに別。


「何これ」


「過去の失踪事件だ」


 久世が画面を切り替える。


「日本だけじゃない」


 ドイツ。


 ポーランド。


 フランス。


 トルコ。


 ルーマニア。


 アメリカ。


 南米。


 年代も違う。


 十九世紀。


 二十世紀初頭。


 戦後。


 冷戦期。


 現代。


 事件現場の片隅に。


 同じ記号がある。


「偶然?」


 黒崎が訊く。


「ここまで重なれば偶然じゃない」


「アウレリアの印?」


「違う」


 久世が言った。


「エドガーに画像を送った」


「返事は?」


 久世は一瞬ためらった。


「来た」


 画面を見せる。


 短い文章。


 そこにはこう書かれていた。


『その印をどこで見つけた』


 続けて。


『今すぐ離れろ』


 そして三通目。


『それは我々の印ではない』


 ホオズキの表情が変わった。


「……我々の、ではない?」


 その直後。


 久世の端末が鳴った。


 エドガーから着信。


 久世がスピーカーにする。


『九条ホオズキはいるか』


「いる」


 ホオズキが答えた。


 電話の向こう。


 エドガー・ヴァイスの声は、今まで聞いたことがないほど緊張していた。


『その印は、古い』


「どれくらい?」


 沈黙。


『我々より古い』


 ホオズキは言葉を失う。


「アウレリアより?」


『比較にならん』


 黒崎が訊く。


「何を意味する印だ」


 再び沈黙。


『名前ではない』


「じゃあ何」


『警告だ』


 エドガーの声が低くなる。


『それが残された土地では、我々も狩られた』


 風が屋上を吹き抜ける。


 ホオズキのポニーテールが揺れた。


「吸血鬼を狩る存在?」


『昔はそう考えていた』


「今は?」


 電話の向こうで。


 五百年以上を生きてきた吸血鬼が。


 ほんの少しだけ。


 恐怖を滲ませた。


『分からない』


     *


 同じころ。


 東欧。


 人の住まなくなった山岳地帯。


 森の奥。


 朽ち果てた修道院。


 その地下。


 何百年も誰も入っていない石室で。


 石棺が動いた。


 数ミリ。


 止まる。


 そして。


 また動く。


 石と石が擦れる音が、地下空間に響いた。


 暗闇の中。


 乾き切った指が。


 石棺の縁に掛かった。


 白い指。


 人間のものとほとんど変わらない。


 ゆっくりと。


 蓋が持ち上がる。


 隙間から、闇が覗く。


 その奥で。


 二つの瞳が開いた。


 赤ではなかった。


 黒でもない。


 淡い金色。


 長い眠りから覚めた存在は、しばらく何もせず天井を見つめていた。


 やがて。


 唇が動く。


「……アウレリア」


 声は若い。


 男とも女とも判別しにくい。


「まだ――」


 乾いた喉が音を作る。


「人間と遊んでいるのか」


 石棺の周囲。


 壁一面に。


 同じ記号が刻まれている。


 円。


 一本の縦線。


 三本の短い線。


 その存在は、ゆっくり身体を起こした。


 足元には。


 古びた骨が散乱している。


 人骨。


 そして。


 人間とは明らかに違う骨。


 異様に長い犬歯を持つ頭蓋骨。


 吸血鬼の骨だった。


 何十体。


 いや。


 何百体。


 石棺の主はその上を裸足で歩く。


 歩くたびに骨が砕けた。


 やがて地下室の出口で立ち止まる。


 遠い東の方角へ顔を向けた。


「東京」


 誰から教えられたわけでもない。


 それでも、その名を知っていた。


 そして。


 ほんの少し笑った。


「今度は――」


 暗闇の中。


 長い犬歯が覗いた。


「人間まで、夜を見つけたか」


 その瞬間。


 世界のどこかで。


 アウレリア・セレスティンが目を開いた。


 東京。


 高層ビルの暗い一室。


 窓辺に立っていた彼女の笑顔が消える。


 初めてだった。


 人間を見ても。


 銃を向けられても。


 銀弾を見ても。


 決して崩れなかったその表情が。


 完全に消えた。


 アウレリアはゆっくり窓へ近づく。


 東欧から何千キロも離れている。


 聞こえるはずなどない。


 感じるはずもない。


 それでも。


 彼女は分かった。


「……起きた」


 呟き。


 その声には。


 歓喜も。


 嘲笑も。


 余裕もなかった。


 ただ。


 恐怖だけがあった。


 背後にいた若い吸血鬼が戸惑う。


「アウレリア様?」


 彼女は答えない。


「何か……?」


 ようやくアウレリアが振り返った。


「全員を呼び戻しなさい」


「え?」


「日本だけじゃない」


 声が低い。


「ヨーロッパも。中東も。北米も」


「しかし、人間との計画は」


「中止よ」


 若い吸血鬼が目を見開く。


 アウレリア・セレスティン。


 人間との戦争を望み。


 人間を資源と呼び。


 自ら何百年もかけて準備してきた女が。


 初めて。


 戦争を止めると言った。


「急ぎなさい!」


 怒声が響いた。


 若い吸血鬼が飛び出していく。


 一人になった部屋で。


 アウレリアは両手を握りしめる。


 微かに震えていた。


「どうして……」


 窓の外。


 東京の夜景。


「どうして今なの……」


 そして。


 誰にも聞こえない声で。


 彼女はその名を口にした。


 それは。


 エドガーさえ知らない名前だった。


「――ノア」


 東京の空に。


 夜明けはまだ来ない。


 人間は吸血鬼という怪物を見つけたばかりだった。


 吸血鬼は人間との新しい関係を模索し始めたばかりだった。


 両者はまだ知らなかった。


 自分たちが互いを敵と呼んでいる間に。


 もっと古い何かが。


 すでに目を覚ましていたことを。


 そして。


 人間と吸血鬼の双方にとって。


 本当の意味での「夜」は。


 まだ始まってすらいなかった。


――第十四章 了

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