第15章 東京の下の夜
第15章 東京の下の夜
東京という街には、誰も正確な全体像を知らない場所がある。
地上ではない。
地下だ。
地下鉄、共同溝、下水道、地下河川、電力施設、防災設備、通信管路。そこへ戦前に掘られた防空壕や軍事施設、戦後の混乱期に造られた地下倉庫、計画変更によって放棄された鉄道施設、建設途中で封鎖された空間まで加わる。
行政機関でさえ、それらすべてを一枚の図面に重ね合わせることはできない。
管理者が違う。
年代が違う。
そもそも記録が残っていない。
東京の地下には、地上の人間が忘れた空間が無数に眠っている。
そして、その夜。
久世冬馬は、その「忘れられた空間」が偶然生まれたものではない可能性に気づいた。
ヤタガラス本部地下、情報システム部。
壁一面に設置された大型ディスプレイには、東京二十三区の地下構造が表示されていた。
現行の地下鉄路線。
廃止された旧線。
下水幹線。
共同溝。
地下河川。
戦前の防空壕。
旧軍関連施設。
さらに久世が過去数日かけて集めた、民間工事会社の古い資料や都市開発公社の廃棄図面までが重ねられている。
膨大な線が絡み合い、東京の地下に巨大な血管網のような模様を作り出していた。
ホオズキは腕を組み、その画面を見上げていた。
その隣には榊原宗一郎。
少し離れた場所では黒崎剛士が険しい顔で地図を睨んでいる。
御影紗夜、篠宮レイナ、神代蓮司も集められていた。
久世が椅子を回した。
「最初は偶然だと思いました」
ホオズキが視線だけを向ける。
「何が?」
「失踪地点です」
画面上に赤い点が現れた。
一つ。
二つ。
十。
三十。
五十。
瞬く間に東京全域へ広がっていく。
過去十五年間に発生し、現在まで未解決となっている失踪事件だった。
もちろん、そのすべてが吸血鬼事件とは限らない。
家出。
自殺。
犯罪。
事故。
国外逃亡。
原因はいくらでも考えられる。
だが久世は、その中から条件を絞っていた。
最後の目撃地点。
携帯電話の最終通信位置。
防犯カメラ映像。
交通系ICカードの最終利用記録。
そして、過去に確認された吸血鬼関連事件。
「これだけなら東京に人が多いから、と説明できます」
久世が操作する。
今度は青い線が浮かび上がった。
地下施設だった。
赤い失踪地点の多くが、その青い線の上か、わずか数百メートル以内に重なっている。
レイナが眉をひそめた。
「地下鉄?」
「違う」
久世は即座に否定した。
「現役の地下鉄なら俺もこんな顔してません」
指で画面の一部を拡大する。
そこには、現在使われている路線とは別の細い線が走っていた。
「旧防空壕。廃止された下水支線。戦前の地下搬送路。旧陸軍施設と推定されている空間。それから、工事中に発見されたけど用途不明として埋め戻された地下道」
黒崎が低く言った。
「全部つながっているのか」
久世は数秒黙った。
「公的記録上は、つながっていません」
「公的記録上は?」
「こっちを見てください」
別の画像が映る。
地下工事現場の写真だった。
コンクリート壁に、直径一メートルほどの穴が空いている。
「十二年前。再開発工事中に発見された空洞です。施工会社の報告では、旧施設跡と判断して充填処理を行ったことになっている」
次の写真。
別の場所。
同じような穴。
さらに別の場所。
「九年前」
また別の穴。
「七年前」
榊原が口を開いた。
「位置関係を出せ」
「はい」
画面が東京全体へ戻る。
写真が撮影された地点を黄色で示す。
それらを結ぶ。
ホオズキの目が細くなった。
一つの線になった。
それも地下鉄のような直線ではない。
既存の地下施設を縫うようにして伸び、途中で枝分かれしながら都心部へ向かっている。
久世が言った。
「誰かが掘っています」
部屋から音が消えた。
「地下鉄を造るような大工事じゃありません。既存施設の壁を抜いて、使える空間同士をつないでいる。少しずつ。人間社会に気づかれない規模で」
神代が冗談めかした口調を消した。
「何年かけてだ」
「最低でも三十年」
久世は答えた。
そして一拍置いた。
「たぶん、もっとです」
ホオズキは画面を見つめ続けた。
第十四章で発見された奇妙な印。
世界各地の失踪事件。
吸血鬼すら恐れる何か。
だが、これはそれとは別の問題かもしれない。
あるいは。
すべて同じ一本の線でつながっているのかもしれない。
「入口は?」
ホオズキが訊いた。
久世が一地点を拡大した。
「あります」
東京東部。
再開発から取り残された古い工業地帯。
廃業した冷蔵倉庫だった。
---
翌日、午前二時十三分。
倉庫周辺は完全に封鎖されていた。
表向きの理由はガス漏れ。
警察と消防が道路を封鎖し、一般車両を迂回させている。
実際には、そのさらに内側に黒崎指揮下の警察部隊が展開していた。
そして最深部。
倉庫の暗がりに、ヤタガラスの隊員たちがいた。
ホオズキは黒い戦闘服の上からプレートキャリアを装着し、ヘルメット側面の小型照射装置を確認した。
これまでの戦闘データから改良された対吸血鬼用装備。
高出力照明。
特殊波長照射装置。
再生阻害効果を狙った特殊弾。
捕獲用拘束具。
地下空間用小型ドローン。
まだどれも完成品とは言えない。
吸血鬼という存在そのものについて、人間側の理解が足りなさすぎるからだ。
それでも、最初に手探りで戦った頃とは違う。
人類は学習し始めていた。
黒崎がホオズキへ歩み寄る。
「警察は地上を押さえる」
「地下には来ないの?」
「行きたい奴は山ほどいる」
黒崎は言った。
「だが構造が分からん。人数を入れれば、それだけ退路を塞ぐ。最初は少数がいい」
ホオズキは頷いた。
「合理的ね」
「お前が言うと嫌な予感しかしない」
「どうして?」
「合理的な判断の後に無茶をするからだ」
ホオズキの口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
「心配してる?」
「指揮官としてだ」
「そう」
「……半分は」
ホオズキが黒崎を見る。
黒崎は露骨に視線を逸らした。
背後から神代の声がした。
「代表、出発前にイチャつくのやめてもらっていいです?」
黒崎が振り返る。
「神代」
「はい」
「帰ってきたら腕立て百回」
「警察にその権限ないでしょう」
「俺個人として言っている」
「もっと駄目じゃないですか」
レイナが小さく吹き出した。
その一瞬だけ、緊張が和らぐ。
だが榊原の声が全員を任務へ引き戻した。
「時間だ」
倉庫最奥部。
床に置かれた大型冷凍設備を移動すると、その下から鉄製の扉が現れた。
近年取り付けられたものだ。
錆びてはいるが、戦前の設備ではない。
紗夜がしゃがみ込み、錠前を見る。
「内側からも開閉できる構造です」
「使われてるってことか」
神代が呟く。
ホオズキは無線機を確認した。
「突入する」
扉が開く。
冷たい空気が流れ出した。
臭いがした。
湿ったコンクリート。
古い鉄。
泥。
そして、わずかな腐敗臭。
階段が地下へ続いている。
最初の十メートルは近代的なコンクリートだった。
二十メートル。
壁が煉瓦へ変わる。
さらに進む。
そこから先は岩盤が露出していた。
三つの時代が一本の通路に重なっている。
まるで東京という街そのものの断面だった。
久世の声が無線から届く。
『通信状態確認』
「良好」
ホオズキが答える。
『中継器を十メートル間隔で置いてください。地下だと地上との直接通信は持ちません』
「了解」
最後尾の隊員が通信中継器を設置していく。
先行する小型ドローンが暗闇の奥へ消える。
その映像はホオズキのヘルメット内ディスプレイにも送られていた。
通路。
分岐。
また通路。
古い鉄扉。
瓦礫。
捨てられた配管。
異常はない。
約百五十メートル進んだところで、ドローンが停止した。
『待ってください』
久世の声。
映像が拡大される。
床だった。
足跡がある。
複数。
裸足。
革靴。
運動靴。
大きさも違う。
ホオズキがしゃがみ込んだ。
ライトを床へ向ける。
埃の中を、確かに多くの者が歩いている。
しかも最近だ。
「一人や二人じゃないわね」
紗夜が答えた。
「最低でも二十。もっといると思います」
神代が前方を見る。
「吸血鬼二十人なら、ちょっと笑えないな」
榊原が静かに言った。
「二十で済めばいいがな」
さらに五十メートル。
そこで最初の生活痕跡が見つかった。
ペットボトル。
缶詰。
医療用輸血バッグ。
乾電池。
毛布。
どれも新しい。
レイナが輸血バッグを拾い、ラベルを見る。
「これ……」
ホオズキが近づく。
病院名が記載されていた。
使用期限内。
正規流通品だった。
「盗品?」
レイナが言う。
久世が通信越しに答えた。
『番号を送ってください。追います』
ホオズキはバッグを見つめた。
吸血鬼が人間を襲う。
それだけなら単純だった。
だが輸血製剤が地下へ持ち込まれている。
つまり、この地下社会には物流がある。
物流があるということは、それを支える人間がいる。
数分後、久世から返答が来た。
『ありました』
「どこ?」
『三日前、都内の医療系廃棄物処理業者へ移送されたことになっています』
神代が顔をしかめる。
「廃棄予定品を横流しか」
『可能性が高いです』
榊原が言った。
「人間の協力者か」
『それも一人二人じゃないでしょうね』
ホオズキは輸血バッグを元の位置へ戻した。
「進む」
通路は次第に広くなっていった。
やがて、古い鉄道施設らしき空間へ出る。
ホーム。
線路は撤去されている。
駅名表示はない。
公式記録に存在しない駅だった。
そのホームには椅子が置かれていた。
テーブル。
本棚。
発電機。
冷蔵庫。
電灯。
ここに誰かが暮らしている。
しかも一時的ではない。
レイナが小声で言った。
「地下基地……?」
ホオズキは首を振った。
「違う」
視線を奥へ向ける。
小さな靴が置かれていた。
その横には大人用の靴。
食器。
衣類。
生活用品。
「ここは家よ」
その瞬間。
何かが動いた。
紗夜の銃口が跳ね上がる。
神代も照準する。
ホーム反対側の暗闇。
人影。
細身の男だった。
三十代程度に見える。
青白い肌。
赤く光る瞳。
吸血鬼。
しかし男は襲ってこなかった。
両手を上げている。
「撃つな」
日本語だった。
訛りもない。
「争うつもりはない」
神代が呟いた。
「向こうから降伏してきたぞ」
ホオズキは銃口を下げない。
「名前は?」
男は迷った。
「春樹」
「姓は?」
「もう使っていない」
「ここに何人いる?」
男の表情が変わった。
「帰れ」
「質問に答えて」
「帰れ」
今度ははっきりした恐怖が混じっていた。
それはホオズキたちを恐れる目ではない。
男は彼らの背後を見ていた。
地下の奥を。
「ここを見つけたなら、もう遅い」
榊原が一歩前へ出た。
「何が遅い」
男の唇が震えた。
「匂いが残る」
その直後だった。
通路奥から叫び声が響いた。
人間の声。
女性。
ホオズキの目つきが変わる。
「場所は?」
春樹が首を振る。
「行くな」
もう一度、叫び声。
今度は子供の泣き声まで聞こえた。
ホオズキは男の横を通り過ぎた。
「待て!」
春樹が腕を掴もうとする。
紗夜が即座にその手を払った。
「触るな」
春樹は必死だった。
「そこは俺たちの居住区じゃない!」
ホオズキが止まる。
振り返る。
「どういう意味?」
「地下には区画がある」
春樹は言った。
「俺たちみたいに人を殺さず、血液を買って暮らしている連中もいる。地上と取引している奴もいる。だが奥は違う」
「誰がいる」
春樹は答えなかった。
代わりに言った。
「人間牧場だ」
空気が変わった。
神代の表情から軽さが消える。
紗夜の目が冷たくなる。
レイナは何も言わなかった。
ホオズキだけが平静だった。
「案内して」
春樹が首を横に振る。
「行けば戦争になる」
「もうなってるわ」
「違う!」
春樹が初めて声を荒らげた。
「地上の人間と吸血鬼の戦争じゃない!」
彼は暗闇を指した。
「俺たちの中にも、あいつらを恐れてる者がいる!」
ホオズキは数秒、男を見つめた。
「だから?」
「だから……」
「人間が閉じ込められてる」
静かな声だった。
「それだけで行く理由には十分よ」
春樹は何も言えなくなった。
数秒後。
肩を落とした。
「……ついてこい」
---
そこから先の地下は、さらに異様だった。
現代の設備と古代のような構造物が混在している。
コンクリート壁の向こうに煉瓦道。
その先に岩盤を削った洞窟。
そして再びコンクリート。
誰かが、何十年、何百年という時間を使いながら地下空間を拡張している。
途中、横道を何本も通り過ぎた。
そこには吸血鬼たちの生活があった。
食卓を囲む者。
本を読む者。
眠っている者。
テレビを見ている者。
人間とほとんど変わらない。
ホオズキたちを見ると、彼らは一斉に身を引いた。
敵意より恐怖。
子供の姿さえあった。
少なくとも外見上は十二、三歳程度。
だが実年齢は分からない。
少女が母親らしい女性の背後へ隠れる。
ホオズキはそこから目を逸らした。
この地下にいるすべての吸血鬼を敵と決めつけることはできない。
その一方で。
数百メートル先には、人間が監禁されている。
単純な善悪では処理できない社会が、東京の真下に成立していた。
久世が通信越しに呟く。
『代表』
「何?」
『ドローンの測距結果が出ました』
「言って」
一瞬、久世が黙った。
『この地下区画……でかすぎます』
画面に概算図が表示された。
ホオズキが足を止めた。
神代も覗き込む。
「冗談だろ」
空間は一つではない。
複数階層。
無数の通路。
居住区。
貯蔵区。
旧鉄道施設。
地下水路。
さらに、その外側へ何本もの道が伸びている。
久世が続ける。
『今確認できている範囲だけで直径約四キロ。しかも途中で測距不能になった通路が七本あります』
レイナが息を飲む。
「街じゃない」
榊原が言った。
「都市だ」
東京の地下に。
もう一つの東京があった。
---
人間の声が近くなる。
春樹が立ち止まった。
「この先だ」
巨大な鋼鉄扉。
比較的新しい。
電子錠。
監視カメラ。
人間の施設そのものだった。
紗夜がカメラを破壊する。
神代が扉を見る。
「爆破するか?」
榊原が首を振る。
「内部に人質がいる」
ホオズキが電子錠を見る。
「久世」
『接続してください』
小型端末を端子へ差し込む。
十秒。
二十秒。
ランプが赤から緑へ変わる。
『開きます』
扉がゆっくり開いた。
臭いが押し寄せた。
血。
消毒液。
汗。
排泄物。
そして恐怖。
中には檻が並んでいた。
ホオズキが立ち止まる。
レイナが小さく息を呑んだ。
四十人以上。
男性。
女性。
老人。
若者。
複数の子供。
痩せている。
腕には採血痕。
何人かは点滴につながれていた。
単に血を吸われているのではない。
死なない程度に栄養を与えられ、定期的に血液を採取されている。
人間を「資源」として維持している。
一人の女性がホオズキを見る。
最初は理解できていなかった。
黒い戦闘服。
武器。
ヘルメット。
人間なのか。
敵なのか。
女性の唇が震える。
「……警察?」
ホオズキはヘルメットを外した。
顔を見せる。
「違う」
一瞬、女性の顔から希望が消えかける。
ホオズキは続けた。
「でも助けに来た」
その言葉を聞いた瞬間。
女性が泣いた。
声を上げることもなく、ただ涙だけが流れた。
それを合図にしたように、檻の中の人々が次々と顔を上げる。
「助かるの?」
「外に出られる?」
「娘を探してください」
「ここに弟がいたんです」
「何日経ったんですか」
「お願いします」
声が重なる。
レイナが唇を噛んだ。
紗夜は銃を持ったまま、ゆっくり檻へ近づいた。
「大丈夫です」
いつもの彼女からは想像できないほど柔らかな声だった。
「順番に出します」
榊原が無線へ言う。
「黒崎警視」
『聞いている』
「多数の生存者を確認」
数秒。
黒崎の声が変わる。
『何人だ』
「現時点で四十三」
『……了解した』
榊原は続けた。
「医療班を地下入口まで」
『すぐ動かす』
ホオズキは檻を見渡した。
空の檻もある。
床には黒く変色した染み。
救えなかった人間がいる。
その数は分からない。
春樹が後ろで俯いていた。
神代が彼を見る。
「知ってたんだな」
「存在だけは」
「止めなかった」
「止められなかった」
「同じじゃねえか」
春樹が顔を上げる。
「違うと言うつもりはない」
神代は何も返さなかった。
殴りたい気持ちと。
この男も何かを恐れていたという事実。
その両方が表情に出ていた。
そのとき。
ホオズキが気づいた。
一番奥の壁。
傷がある。
円。
そこを貫く一本の縦線。
そして下へ伸びる三本の線。
第十四章で見たものと同じだった。
ホオズキの背中を、冷たいものが這った。
「久世」
『はい』
「映像見えてる?」
沈黙。
『見えてます』
榊原が振り返る。
「同じ印だな」
「ええ」
春樹の顔色が変わった。
ホオズキは見逃さなかった。
「知ってるの?」
春樹は答えない。
「春樹」
「知らない」
「嘘ね」
「知らない」
ホオズキが近づく。
「あなた、その印を見て怯えた」
男は後ずさった。
「言えない」
「なぜ?」
春樹が震える声で答えた。
「名前を呼ぶなって言われてる」
全員が静かになった。
ホオズキはもう一歩近づく。
「誰の?」
春樹は首を振る。
「駄目だ」
「言って」
「駄目だ」
男の恐怖は演技ではなかった。
銃を突きつけられているわけでもないのに、額から汗が流れている。
「名前を呼べば気づかれる」
レイナが言った。
「誰に?」
男は目を閉じた。
唇を噛んだ。
そして。
ほとんど聞こえない声で言った。
「ノア」
その瞬間。
地下全体が揺れた。
ほんのわずかだった。
地震と呼ぶには小さい。
だが確かに、足元から振動が伝わってきた。
照明が揺れる。
檻の中から悲鳴。
春樹が真っ青になる。
「だから言った!」
神代が周囲を見る。
「何だ!?」
久世の声が飛ぶ。
『地下で振動を検知! 震源じゃない、もっと近い!』
ホオズキが銃を構える。
「距離!」
『分かりません!』
低い音が聞こえた。
ゴォォォ……。
地鳴り。
いや。
違う。
何か巨大なものが、地下のどこかで動いたような音。
春樹が壁へ背中をつける。
「気づいた」
「誰が?」
ホオズキが訊く。
春樹は答えなかった。
だがその顔が答えていた。
ノア。
---
その頃。
東京の別の場所。
アウレリアは椅子から立ち上がった。
グラスの中の赤い液体が、わずかに波打っている。
側近が訝しげに訊いた。
「どうされました?」
アウレリアは答えない。
床を見ていた。
はるか下。
人間には決して感じ取れないものを感じている。
「……誰かが」
小さく呟く。
「名前を呼んだ」
側近の顔色が変わる。
「まさか」
アウレリアは窓へ向かった。
夜の東京。
無数の灯り。
数千万の人間が、この都市で眠り、働き、笑い、怒り、何も知らず生きている。
その足元に何があるのか。
誰も知らない。
アウレリアは初めて東京へ来た夜を思い出していた。
地下へ降りた。
歓迎された。
そして警告された。
決して、その名を口にするなと。
「ヤタガラス……」
アウレリアが呟く。
唇に笑みはなかった。
「あなたたち、本当に何も知らないのね」
側近が訊く。
「撤退しますか?」
アウレリアは答えなかった。
長い沈黙の後。
「全員に通達して」
「何を?」
「地下居住区を捨てる」
側近が息を呑む。
「東京全域ですか?」
「ええ」
「ですが何百人も――」
「今すぐ」
アウレリアが振り返る。
そこに浮かんでいたのは怒りではなかった。
恐怖だった。
「夜明けを待たないで」
---
地下。
ヤタガラスの救助活動は続いていた。
最初の被害者が地上へ搬送される。
次。
また次。
黒崎が地上側で受け入れていた。
毛布に包まれた少女が担架で運ばれてくる。
母親らしい女性がその手を握っている。
警察官たちの中には、目を逸らす者もいた。
これまで噂だった存在。
ネット上の動画。
政府発表。
科学者の議論。
それらとは違う。
実際に傷つけられた人間を目の前にすると、吸血鬼という存在は急に現実になる。
黒崎は担架が通り過ぎるまで黙って見送った。
そのとき無線が入った。
『黒崎警視』
ホオズキ。
「どうした」
『地下構造について追加情報』
嫌な予感がした。
「言え」
数秒。
『今いる場所が中心じゃない』
黒崎の眉が動く。
「何?」
---
ホオズキたちは人間監禁区画のさらに奥に立っていた。
そこに巨大な縦穴があった。
直径、およそ三十メートル。
底が見えない。
周囲には螺旋状の通路が造られている。
下へ。
さらに下へ。
地下二階や三階という規模ではない。
どこまでも続いている。
久世がドローンを降下させた。
五十メートル。
百メートル。
百五十メートル。
まだ底に着かない。
神代が穴を覗き込む。
「東京の地下って、こんな深くまで掘れるのかよ」
榊原が答える。
「普通なら無理だ」
二百メートル。
突然。
ドローン映像が乱れた。
一瞬だけ何かが映る。
巨大な空間。
建造物。
柱。
そして。
数え切れないほどの灯り。
次の瞬間。
映像が消えた。
久世の声。
『ロストしました』
誰も喋らなかった。
ホオズキは暗闇を見下ろした。
自分たちが見つけた「地下都市」。
それすら表層だった。
東京の地下にはさらに何かがある。
春樹が後ろから言った。
「俺たちは、地下に住んでるんじゃない」
ホオズキが振り返る。
「どういう意味?」
「逃げてきたんだ」
「何から?」
春樹は穴の底を見る。
「下から」
ホオズキの表情が変わる。
「吸血鬼が?」
「そうだ」
「あなたたちが地下へ逃げたのに、下から逃げてきた?」
春樹が頷いた。
「昔はもっと深いところにいた」
低い声だった。
「でも、あいつが眠っている場所に近づきすぎた」
「ノア?」
春樹は答えない。
それだけで十分だった。
ホオズキが暗闇を見る。
東欧で目覚めた存在。
東京地下に刻まれた同じ印。
世界各地の失踪。
年代を越えて造られた地下構造。
何かがおかしい。
もしノアが東欧にいるのなら。
なぜ東京の地下に、彼を恐れる者たちがいる?
久世が言った。
『代表』
「何?」
『古い地図を確認しています』
キーボードを叩く音。
『この縦穴に近い記録……一件だけあります』
「いつ?」
久世が答えた。
『明治二十六年』
全員が黙った。
吸血鬼たちが近代になって掘ったのではない。
少なくとも入口の一部は、それ以前から存在していた。
『当時の工事記録に、妙な記述があります』
「読んで」
久世が少し間を置いた。
『地下水脈調査中、人工構造物を発見。内部探索を中止。入口を封鎖』
ホオズキが訊く。
「理由は?」
久世の声が低くなる。
『作業員十四名が行方不明』
地下に沈黙が落ちた。
『一名だけ帰還』
「証言は?」
『残っています』
久世は古い文書を読み上げた。
『地下には街がある』
ホオズキが暗闇を見る。
久世が続ける。
『人の街ではない』
風が吹いた。
地下深くから。
冷たい風。
それに混じって。
何かの匂い。
古い土。
鉄。
そして血。
春樹が後ずさる。
「帰れ」
誰に言っているのか分からなかった。
ホオズキたちへか。
自分自身へか。
「今すぐ地上へ戻れ」
榊原がホオズキを見る。
長年軍人として生きてきた男の表情が、これ以上進むべきではないと告げていた。
今夜の目的は探索ではない。
人命救助。
すでに四十三名を確保している。
未知の地下空間へ突入する理由はない。
ホオズキも理解していた。
「撤収する」
神代が意外そうに見る。
「行かないんですか?」
「行かない」
即答だった。
「分からないものに、準備なしで突っ込むのは勇気じゃない。馬鹿よ」
榊原がわずかに頷いた。
「正しい判断だ」
「縦穴を監視。センサーを置いて、出入口を封鎖。ただし完全閉鎖はしない」
レイナが訊く。
「なぜ?」
ホオズキは暗闇を見つめる。
「閉じ込めたと思うほうが危ない気がする」
撤収が始まった。
最後尾をホオズキが歩く。
縦穴から離れる。
十メートル。
二十メートル。
そのとき。
ホオズキは足を止めた。
「代表?」
紗夜が振り返る。
「静かに」
全員が止まった。
音。
遠い。
あまりにも遠い。
地下の遥か下。
何かが聞こえた。
規則的な音。
ゴン。
間。
ゴン。
また間。
ゴン。
神代が呟いた。
「何だ……?」
久世が通信越しに答える。
『こっちでも拾ってます』
音響解析が始まる。
数秒。
久世の声が止まった。
「どうしたの?」
ホオズキが訊く。
『……機械音じゃありません』
「じゃあ何?」
久世が答えた。
『足音です』
誰も動かなかった。
ゴン。
また一つ。
地下の奥で。
何か巨大なものが歩いている。
ホオズキは拳銃を握った。
だが戦うためではない。
本能だった。
自分より遥かに強い存在に出会った動物が、牙を見せるのと同じだった。
ゴン。
音が止まった。
静寂。
そして。
地下二百メートル以上離れた場所に設置した音響センサーが、一つだけ別の音を拾った。
人間の声に似ていた。
男とも女とも分からない。
極端に低い声。
久世が録音を再生する。
ノイズ。
地下水の音。
その向こうから。
一言。
――アウレリア。
ホオズキの瞳が細くなる。
春樹がその場に膝をついた。
「嘘だ……」
そして。
もう一言。
今度は、はっきり聞こえた。
――東京。
ホオズキは暗闇を見つめた。
その夜。
人類は吸血鬼の都市を発見した。
四十三人の監禁被害者を救出した。
人間社会と共存してきた吸血鬼たちの存在も知った。
地下には物流があり、秩序があり、社会があった。
それだけでも、世界を変えるには十分な発見だった。
しかし。
ヤタガラスが本当に発見したものは、それではなかった。
吸血鬼たちが地下に都市を造った理由。
彼らが人間社会から隠れていた理由。
そして。
吸血鬼自身が恐れていたもの。
東京の夜は、地上にあるのではない。
その遥か下。
人間も吸血鬼も忘れようとしてきた場所で。
もっと古い夜が。
ゆっくりと。
こちらを見上げ始めていた。
第15章 了




