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第16章 夜明け作戦

第16章 夜明け作戦


 東京の朝は、何も知らない顔をして始まった。


 始発電車が動き、コンビニエンスストアには配送車が横付けされ、駅前では眠そうな会社員たちがコーヒーを片手に改札へ吸い込まれていく。


 道路は混み始め、信号機はいつもの周期で色を変えた。


 その足元。


 アスファルトの下。


 地下鉄より深く、共同溝より古く、行政の図面からさえ忘れ去られた空間では、四十三人の人間が長い夜から救い出されたばかりだった。


 そして、さらにその下には――まだ数え切れないほどの人間がいた。


          *


 午前五時四十二分。


 政府の極秘対策施設に設けられた医療区画では、白衣を着た医師や看護師が慌ただしく動き続けていた。


 救出された四十三人のうち、自力で歩けた者は十一人。


 残りは脱水、栄養失調、貧血、骨折、感染症、精神錯乱など、程度の差こそあれ何らかの治療を必要としていた。


 年齢もばらばらだった。


 十代の少女。


 二十代の会社員。


 三十代の配送業者。


 六十代の男性。


 行方不明になった時期も統一されていない。


 最も最近の者は三日前。


 最も古い者は――十一年前だった。


「十一年……」


 久世冬馬が低く呟いた。


 会議室の大型ディスプレイには、救出者全員の失踪時期と発見位置が表示されている。


 九条ホオズキは腕を組み、それを見つめていた。


 眠っていない。


 第十五章――地下から帰還してから、一睡もしていなかった。


 それでも顔には疲労を出していない。


「本人確認は?」


「現在進行中です」


 久世が答えた。


「四十三名中、三十一名は照合完了。残る十二名については古い行方不明者データまで遡っています。ただ……妙なのが一人います」


「妙?」


「該当記録がない」


 ホオズキが視線を向けた。


 久世は画面を切り替える。


 一人の男性が映った。


 推定年齢五十代後半。


 白髪。


 痩せ細り、頬が大きく落ち込んでいる。


「本人は名前を『佐伯義春』と名乗っています。住所は台東区。生年月日も言える。ところが戸籍にも住民票にも存在しない」


「記憶障害では?」


 御影紗夜が言った。


「最初はそれを疑った」


 久世は首を振った。


「だが本人が話した住所には、実際にその名字の一家が住んでいた記録がある」


「いた?」


「明治二十六年まで」


 室内が静かになった。


 神代蓮司が椅子の背にもたれた姿勢のまま眉を上げる。


「ちょっと待て」


 誰も返事をしなかった。


 久世が続けた。


「明治二十六年。西暦一八九三年。その家から十七歳の青年が失踪している」


 画面に古い文書が表示された。


 墨書きされた警察資料。


 失踪者。


 佐伯義春。


「……名前が同じ?」


「本人の申告している生年月日まで一致している」


 神代の顔から笑みが消えた。


「百三十年以上前だぞ」


 ホオズキが尋ねる。


「本人は?」


「自分が地下にいた期間を、半年くらいだと思っている」


「外見は人間?」


「検査上は」


 久世は一瞬、言葉を選んだ。


「少なくとも現時点では、V型異常生物――吸血鬼に分類される特徴はない」


 榊原宗一郎がゆっくり腕を組んだ。


「地下には時間まで狂わせる何かがある、と?」


「分かりません」


 久世は即答した。


「低温環境、薬物、人工的な冬眠、記憶操作、あるいは我々の知らない生理作用。候補はいくらでもあります。だから今の段階で超常現象扱いするつもりはない。ただし……」


「ただし?」


「一八九三年の失踪記録にも、あの印が描かれている」


 画面中央に、それが表示された。


 円。


 中央を貫く一本の縦線。


 その下に並ぶ三本の短い線。


 第十四章以来、人間と吸血鬼双方を不安にさせている印。


 ノア。


 その名を聞いた瞬間に、アウレリアさえ撤退を命じた存在。


 ホオズキは画面を見たまま訊いた。


「証言は取れた?」


「何人かから」


 紗夜が資料を開いた。


「地下で見たものについて、共通する証言があります」


 彼女は読み上げた。


「『赤い服を着た者には近づくな』」


 ページをめくる。


「『地下の人間を管理しているのは吸血鬼だけではない』」


 さらに一枚。


「『時々、吸血鬼までいなくなる』」


 神代が顔をしかめた。


「捕食者が捕食されてるってことか」


「可能性はある」


 ホオズキはそう言った。


「春樹は?」


「別室です」


 紗夜が答える。


 共存派吸血鬼の春樹。


 前回の地下潜入で道案内を申し出た男。


 彼がいなければ、四十三人の救出は不可能だった。


 そして春樹は、巨大縦坑を見た瞬間、明確に怯えていた。


 ホオズキは立ち上がった。


「話を聞こう」


          *


 春樹は取調室の椅子に座っていた。


 拘束はされていない。


 ただし室外には武装警備員が二名立っている。


 ホオズキが入室すると、春樹は顔を上げた。


「寝てないな」


「あなたもでしょう」


「俺たちは寝なくても、しばらく死なない」


「便利ね」


「そうでもない。眠れない夜ってのは長い」


 ホオズキは向かいに座った。


「ノアについて話して」


 春樹の表情が変わった。


「……月城から聞かなかったのか」


「月城静馬も、エドガーも、詳しい話を避けている」


「当然だ」


「なぜ?」


「知らない方が安全だからだ」


「それで四十三人が地下に閉じ込められていた」


 春樹が黙る。


 ホオズキは目を逸らさない。


「知らないことは、安全とは違う」


 しばらくして、春樹が息を吐いた。


「ノアという名前は、本当の名前じゃない」


「呼称?」


「ああ」


「誰が付けた?」


「俺たちだ」


「吸血鬼が?」


 春樹は頷いた。


「俺たちの古い記録に、繰り返し現れる存在がいる。国も時代も違う。ローマ。ペルシャ。中国。東欧。日本。それでも特徴が同じなんだ」


「特徴は?」


「吸血鬼を喰う」


 ホオズキは黙った。


「人間の血を飲むんじゃない。俺たちを狩る。殺して終わりじゃない。血も、肉も、何も残さない」


「同族ではない?」


「分からない」


「分からない?」


「血の匂いが違う」


 春樹の声が小さくなった。


「吸血鬼なら分かる。近くにいるだけで同類だと感じる。だが、あれは違うらしい」


「らしい?」


「見た奴が、ほとんど戻ってこないからだ」


 その一言だけは、冗談ではなかった。


「ノアという呼び名の由来は?」


「大洪水だ」


「聖書?」


「人間がそう呼んだんじゃない」


 春樹はホオズキを見る。


「俺たちが付けたんだ」


「なぜ?」


「奴が現れた後には、何も残らない」


 沈黙。


「街が消える。集落が消える。俺たちも、人間も」


 ホオズキの目が細くなった。


「無差別?」


「そういうことだ」


「なら、なぜ東京地下にいる?」


「分からない」


「一八九三年の記録がある」


「もっと古いかもしれない」


「地下都市を造ったのは?」


「俺たちじゃない」


 ホオズキの指がわずかに動いた。


「何?」


「少なくとも、全部じゃない」


 春樹は続ける。


「吸血鬼が使っている部分はある。人間を飼っていた連中もいる。アウレリア派もあそこを利用していた。だが最深部は違う」


「誰が造った?」


「だから分からない」


「春樹」


 ホオズキの声が低くなる。


「いま、この瞬間にも地下には人がいる」


「知っている」


「だったら全部話して」


 春樹が唇を噛んだ。


 やがて、絞り出すように言う。


「最深部には、扉がある」


「扉?」


「古い連中は『門』と呼んでる」


「どこに通じる?」


「誰も知らない」


「開いたことは?」


「ある」


「いつ?」


 春樹はホオズキから目を逸らした。


「関東大震災」


 ホオズキの表情が止まった。


「一九二三年?」


「ああ」


「何が出た?」


「記録には一行しかない」


「何と?」


 春樹は答えた。


「――夜が歩いた」


          *


 午前七時十分。


 内閣直轄V型異常事案対策本部。


 会議室には各組織の代表者が集まっていた。


 警察庁。


 警視庁。


 防衛省。


 消防庁。


 厚生労働関係者。


 国土交通関係者。


 電力会社。


 通信会社。


 医療チーム。


 研究班。


 そしてPMCヤタガラス。


 大型画面に地下構造の推定図が映されている。


 ただし、その大部分は黒かった。


 分かっているのは、ごく一部。


「推定される地下構造の総面積は、少なく見積もっても平方キロメートル単位になります」


 久世が説明する。


「既存の地下鉄、下水道、共同溝、旧防空壕、廃止された工事用坑道、戦前の軍関連地下施設。それらが複雑に接続されている。ただし、それだけでは説明できない空間が存在する」


 画面が変わる。


 第十五章で発見された巨大縦坑。


 直径約三十メートル。


 底は確認できなかった。


「ここから先は行政記録にありません」


 会議室の一人が尋ねた。


「地中探査は?」


「通常の探査では不十分です。構造物の材質も不明。深度によっては既存インフラへの影響が出ます」


 別の男が言った。


「なら封鎖すべきではないか」


「中に人がいます」


 紗夜が言った。


「人数は?」


「不明です」


「百人?」


「分かりません」


「千人?」


「分かりません」


 政府側の男が眉を寄せる。


「分からないことが多すぎる」


「だから行くんです」


 ホオズキの声だった。


 視線が集まった。


「前回救出した四十三名は、偶然見つけた一か所にいた人数です。地下全域に同様の収容区画が存在する可能性がある」


「しかし相手は武装した吸血鬼だ」


「分かっています」


「地下で大規模戦闘になれば、地下鉄やライフラインにまで影響する」


「それも分かっています」


「では――」


「だから通常の軍事作戦にはしない」


 ホオズキが画面を指した。


「目的を限定します」


 榊原が立ち上がった。


「作戦目的は三つ」


 低く、よく通る声だった。


「第一。監禁されている人間の救出」


「第二。地下施設の構造把握」


「第三。最深部に存在すると推定される未知勢力の確認」


 榊原は一拍置く。


「吸血鬼の殲滅は目的としない」


 防衛省側の人間が反応する。


「攻撃を受けた場合は?」


「当然、反撃します」


「吸血鬼側との協定は?」


「相互非攻撃覚書は現在も有効」


 ホオズキが答えた。


「こちらから共存派、保守派へ事前通告する。地下にいる非戦闘員は退避させるよう要求する」


「アウレリア派は?」


「応じないでしょう」


「なら敵だ」


「攻撃してくるなら」


 ホオズキは淡々と言った。


「撃ちます」


          *


 会議は二時間続いた。


 最終的に承認された作戦名は、


 ――夜明け作戦。


 その規模は、ヤタガラス設立以来最大だった。


 しかし投入される火力は意図的に抑えられた。


 理由は単純だ。


 ここは東京の地下だからである。


 地上には数百万の人間がいる。


 地下鉄が走っている。


 水道がある。


 電線がある。


 通信網がある。


 爆薬も重火器も無制限には使えない。


 戦車も装甲車も入れない。


 航空支援もない。


 最後に頼れるのは、人間が自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の手で助けることだった。


 作戦全体の統合調整を榊原宗一郎。


 ヤタガラス最深部突入班を九条ホオズキ。


 救出班を御影紗夜。


 偵察・先行誘導を篠宮レイナ。


 突破戦闘を神代蓮司。


 情報支援を久世冬馬。


 地上封鎖と警察部隊との調整を黒崎剛士。


 消防・医療部隊は複数の地上拠点で待機。


 防衛側部隊は主要出入口および重要インフラ防護。


 さらに、人間側の部隊とは別に――


 吸血鬼側からも協力者が出た。


          *


「三十七名」


 月城静馬が言った。


 会議室の空気がわずかに変わった。


「我々から出せる人数です」


 隣にはエドガー・ヴァイス。


 そして春樹。


 人間側出席者の一部は露骨に警戒していた。


「信用できるのか?」


 警察関係者が言った。


 月城は怒らなかった。


「信用していただく必要はありません」


「何?」


「監視していただければよい」


 月城は静かに続けた。


「地下にいるのは、人間だけではない。我々の同胞もおります」


「アウレリアの仲間では?」


「全員がそうではない」


「見分けがつくのか」


「あなた方よりは」


 険悪になりかけた空気を、ホオズキが遮った。


「同行してもらいます」


 黒崎がホオズキを見る。


「九条」


「必要よ」


「危険だぞ」


「人間だけで地下へ入る方が危険」


 エドガーが僅かに笑った。


「話が早い」


 ホオズキが睨む。


「勘違いしないで。信用したわけじゃない」


「分かっている」


「地下で人間を襲った者は、協力者でも撃つ」


「それで構わない」


 エドガーの笑みが消えた。


「我々も同じだ」


「同じ?」


「人間を家畜にした連中は、我々にとっても敵だ」


 ホオズキとエドガーは数秒見つめ合った。


 奇妙な時代になったものだ。


 数日前まで、人間は吸血鬼の存在すら知らなかった。


 いまや人間と吸血鬼が、同じ敵を探して東京の地下へ降りようとしている。


          *


 午後四時。


 黒崎剛士は地上拠点となった警察施設の指揮車両横で、部隊配置を確認していた。


 巨大な身体。


 坊主頭。


 機動隊指揮官としての制服。


 私生活で見せる穏やかさは、そこにはなかった。


「第三封鎖線、配置完了」


「了解」


「地下鉄側との調整終了。指定区間は保守点検名目で順次運休」


「一般客の避難は?」


「完了しています」


「マスコミは?」


「一部が嗅ぎつけています」


 黒崎は眉間に皺を寄せた。


「近づけるな。ただし強引にやるな。事故になる」


「了解」


 そこへホオズキが歩いてきた。


 黒い戦闘服。


 プレートキャリア。


 無線機。


 予備弾倉。


 紫外線照射装置。


 銀を含む特殊弾。


 腰には拳銃。


 その姿を見て、黒崎の顔が僅かに険しくなる。


「お前が一番下まで行く必要があるのか」


「代表だから」


「代表は後ろにいるものだ」


「ヤタガラスでは違う」


「知っている」


 黒崎は溜息を吐いた。


「だから言ってるんだ」


 ホオズキが少し笑った。


「心配?」


「仕事中だ」


「質問に答えてない」


「死ぬほど心配してる」


 あまりに即答だったので、ホオズキが逆に黙った。


 黒崎は周囲に聞こえない声で続ける。


「だが止めても行くだろう」


「うん」


「なら帰ってこい」


「命令?」


「頼みだ」


 ホオズキの表情が柔らかくなる。


「分かった」


 黒崎は一瞬だけ彼女の肩に手を置いた。


 それ以上はしなかった。


 ここでは恋人ではない。


 指揮官同士だった。


「地下で何が起きても、救出経路は維持する」


「お願い」


「九条」


「何?」


「危ないと思ったら引け」


 ホオズキは少し考えた。


「努力する」


「そこは『分かった』って言え」


「嘘は嫌いなの」


「まったく……」


 黒崎は小さく笑った。


 その時だった。


『代表』


 無線から榊原の声。


『全部隊、配置完了しました』


 ホオズキの表情が変わる。


 ヤタガラス代表の顔に戻る。


「了解」


 時刻を見る。


 十六時二十九分。


 あと一分。


          *


 東京の各所で、同時にマンホールが開いた。


 閉鎖された地下鉄保守通路。


 廃止された地下施設。


 冷蔵倉庫。


 下水道。


 工事用縦坑。


 地上からは何も分からない。


 だが東京の地下へ、数百人規模の人員が静かに入り始めた。


 ホオズキは冷蔵倉庫地下の入口に立っていた。


 前回通った道だ。


 春樹が隣に立つ。


「まだ引き返せるぞ」


「あなたが?」


「俺じゃない」


「なら余計なお世話」


「言うと思った」


 神代が銃を確認する。


「代表。準備よし」


 紗夜。


「救出班、準備完了」


 レイナ。


「先行偵察、いつでも」


 久世の声がイヤホンに届く。


『通信確認。代表、聞こえるか』


「良好」


『地下深部では中継器を順次設置する。切断されたら十五秒以内にバックアップへ移行』


「了解」


 最後に榊原。


『全チーム、スタンバイ』


 時計が十六時三十分を示した。


 ホオズキは息を吸う。


「夜明け作戦――開始」


          *


 最初の一時間は、驚くほど静かだった。


 地下通路には誰もいない。


 前回あった血液輸送用コンテナも消えていた。


 壁際に置かれていた家具も、簡易ベッドも、生活用品もない。


 まるで住民が一斉に引っ越したようだった。


「逃げた?」


 神代が言う。


 春樹が床を指差した。


「違う」


 薄い埃。


 その上に残る無数の足跡。


「これは?」


「逃げた足跡じゃない」


 春樹がしゃがみ込む。


「同じ方向に歩いてる」


 ホオズキも見る。


 足跡は一方向。


 地下深部へ向かっている。


「全員が?」


「そう見える」


 紗夜が周囲を警戒する。


「避難ではなく集合?」


 春樹の顔が曇る。


「呼ばれたのかもしれない」


「誰に?」


 答えはなかった。


 レイナが前方から戻ってきた。


「代表」


「どうした?」


「人がいます」


「何人?」


「一人」


「吸血鬼?」


「人間」


          *


 男は通路の中央に座っていた。


 背広姿。


 裸足。


 年齢は三十代ほど。


 両手を膝に置き、壁を見つめている。


「聞こえますか?」


 紗夜が慎重に近づいた。


 反応なし。


「私たちは救助に来ました」


 男の肩が動いた。


 ゆっくり振り返る。


「救助?」


「そうです」


 男は紗夜を見る。


 次にホオズキを見る。


「遅いよ」


 声は穏やかだった。


「ずっと待ってた」


「いつからここに?」


「分からない」


「名前は?」


「もういい」


「何が?」


「名前」


 男は笑った。


「下ではいらないから」


 ホオズキが一歩前へ出た。


「下って?」


 男の笑みが大きくなる。


「もっと下」


 春樹が急に後退した。


「離れろ」


 紗夜が振り返る。


「何?」


「そいつから離れろ!」


 男が口を開いた。


 その瞬間、全員が武器を構えた。


 しかし牙はなかった。


 普通の人間の口だった。


 男は笑いながら言った。


「起きたよ」


 ホオズキの背中に冷たいものが走る。


「誰が?」


 男は天井を指差した。


 違う。


 その指は――天井ではなく、その向こう側。


 さらに遥か上。


 地上を指していた。


「夜が」


          *


 同時刻。


 地上。


 黒崎の指揮所に警報が鳴った。


「何だ?」


「電力異常!」


「場所!」


「作戦区域だけじゃありません!」


 オペレーターの声が震える。


「東京都心部複数地点で瞬間停電!」


「原因は?」


「不明!」


 大型モニターに地図が出る。


 一点。


 二点。


 五点。


 十点。


 赤い表示が広がっていく。


 黒崎は無線を取った。


「地下全部隊へ。地上で広域電力異常が発生。警戒を――」


 通信が切れた。


「おい?」


 ノイズ。


「九条?」


 返事がない。


「九条!」


 黒崎が振り返る。


「地下通信は!」


「全系統切断!」


「バックアップ!」


「切り替えています!」


「衛星系!」


「地下には届きません!」


 黒崎は机を叩いた。


「久世!」


 返事はない。


 その瞬間。


 指揮所の照明が消えた。


 真っ暗になった。


          *


 地下でも同じだった。


 照明が一斉に落ちた。


「暗視!」


 ホオズキの声。


 全員が即座に装備を切り替える。


 暗視装置の中に緑色の世界が浮かび上がる。


『代表、聞こえるか!』


 久世。


「聞こえる」


『主系統が落ちた! 中継器も三つ同時に死んだ!』


「原因は?」


『外部からじゃない!』


「どういうこと?」


『地下側からだ!』


 久世の声に、初めて焦りが混じっていた。


『何かが通信網へ触ってる!』


「電子攻撃?」


『違う!』


 久世が叫んだ。


『配線そのものが切られてる!』


 ホオズキが周囲を見る。


 何もいない。


「どこで?」


『複数地点! 同時だ!』


 その直後。


 遠くから銃声が聞こえた。


 一発。


 二発。


 そして連射。


 別の方向。


 さらに別の方向。


 無線が一斉に騒がしくなる。


『第三班、接触!』


『敵影多数!』


『紫外線が効かない!』


『待て、そいつら人間だ!』


『違う! 人間じゃ――』


 通信が途切れた。


「榊原!」


 ホオズキが呼ぶ。


『聞こえています』


 榊原の声は冷静だった。


『複数方面で同時接触。敵の正体不明』


「救出班を後退させて」


『すでに命令済み』


 紗夜が周囲を見る。


「代表」


「何?」


「足音」


 全員が黙る。


 聞こえた。


 遠い。


 しかし確実に近づいてくる。


 何十人。


 いや。


 何百。


 規則正しい足音ではない。


 裸足。


 靴。


 硬い爪のような音。


 何種類もの足音が混ざっている。


 神代が銃を構えた。


「来るぞ」


 暗闇の向こうに、人影が現れた。


 一人。


 二人。


 十人。


 さらに増える。


 人間。


 吸血鬼。


 男女。


 老人。


 若者。


 全員が同じ方向を向いて歩いている。


 ホオズキたちを見ていない。


 ただ、地下深部へ向かっている。


 春樹の顔が青ざめた。


「ありえない」


「何が?」


「あいつら……」


 春樹の声が震える。


「アウレリア派だ」


 ホオズキが眉を寄せる。


「ならなぜ攻撃しない?」


「違う」


 春樹が一人を指差す。


 その隣には別の吸血鬼。


「あれは保守派」


 もう一人。


「共存派だ」


 さらに。


「人間もいる」


 紗夜が言う。


 全員が争わず歩いている。


 人間と吸血鬼。


 敵と味方。


 すべてが並んで。


 最深部へ。


 その時。


 一人の吸血鬼がこちらを向いた。


 若い女性だった。


 目から血を流している。


 彼女は春樹を見た。


「逃げて」


 掠れた声。


 春樹が動く。


「おい!」


「逃げ――」


 女性の身体が突然後方へ引きずられた。


 闇の中へ消える。


 悲鳴すらなかった。


 神代がライトを向ける。


 何もいない。


 次の瞬間。


 天井から何かが落ちた。


 神代が反射的に横へ飛ぶ。


 床が砕けた。


「接触!」


 銃声。


 ホオズキが撃つ。


 銀弾。


 命中。


 だが、それは止まらない。


 一瞬だけライトが照らした。


 人間に似ていた。


 だが身体が異様に細長い。


 手足の関節が、人間より一つ多いように見える。


 皮膚は灰色。


 眼球がない。


「何だこいつ!」


 神代が叫ぶ。


「撃て!」


 紗夜の射撃。


 紫外線照射。


 反応なし。


 春樹が叫ぶ。


「それじゃ死なない!」


「弱点は!」


「知らない!」


 怪物が壁を走る。


 文字通り、垂直の壁を。


 レイナが狙う。


「頭!」


 三発。


 命中。


 怪物が落ちる。


 神代が距離を詰め、至近距離から射撃。


 ようやく動きが止まった。


 静寂。


「……吸血鬼じゃないな」


 神代が息を整えながら言う。


 春樹が死体を見る。


「違う」


 ホオズキがしゃがみ込む。


 怪物の皮膚。


 胸。


 そして首元。


 焼印のようなものがあった。


 円。


 一本の縦線。


 三本の線。


 あの印。


「ノア……」


 紗夜が呟く。


 その瞬間だった。


 地下全体が揺れた。


 地震ではない。


 もっと鈍い。


 深い。


 何か巨大なものが――下で動いた。


 ゴン。


 一度。


 ゴン。


 二度。


 前回聞いたものと同じ音。


 しかし今回は、遥かに近い。


 無線が復活する。


『代表!』


 久世だった。


「状況!」


『とんでもないものを拾った!』


「何?」


『地下深部で熱源が急増している!』


「何体?」


 沈黙。


「久世?」


『数えられない』


「数字で」


『だから――』


 久世が息を呑む。


『数千だ』


 誰も言葉を発さなかった。


 その直後。


 別回線が強制的に割り込んだ。


 女の声。


『九条ホオズキ』


 ホオズキの目が鋭くなる。


「アウレリア」


 間違えようがない。


『聞こえるか』


「聞こえてる」


『戦いを止めろ』


「あなたが言う?」


『私ではない!』


 初めて聞く声だった。


 アウレリアの。


 怯えた声。


『私の者にも退却を命じた! だが命令を聞かない!』


「何が起きてるの?」


『呼ばれている』


「誰に?」


『分からない!』


 アウレリアが怒鳴る。


『血が命令を聞かないんだ!』


 春樹が凍りつく。


 アウレリアの声が続く。


『古い者ほど抵抗できない! 人間も同じだ!』


「人間まで?」


『地下に長くいた者だ!』


 ホオズキは先ほどの男を振り返る。


 そこには誰もいなかった。


「アウレリア。ノアについて知ってることを全部話して」


 沈黙。


『今はその時では――』


「今よ!」


 ホオズキの声が地下に響いた。


「もう人が死んでる!」


 長い沈黙。


 そしてアウレリアが言った。


『ノアは一人ではない』


 ホオズキの表情が変わる。


「何?」


『ノアとは名前ではない』


 春樹が息を呑む。


『我々が付けた名称でもない』


「春樹の話と違う」


『我々がそう思い込んでいただけだ』


 アウレリアの声が震える。


『古い記録を読み違えていた』


「じゃあ何なの?」


 通信の向こうで何かが崩れる音がした。


『ノアとは――』


 激しいノイズ。


「アウレリア?」


『――方舟ではない』


 声が途切れ途切れになる。


『洪水の後に残る者でもない』


「何を言ってる?」


『逆だ』


 アウレリアが息を吸った。


『ノアは――』


 その瞬間。


 地下深部から、音が響いた。


 声だった。


 人間の声ではない。


 吸血鬼の声でもない。


 巨大な空洞全体が喋っているような低音。


 言葉なのかさえ分からない。


 だが。


 なぜか意味だけは理解できた。


 ――集まれ。


 ホオズキの頭に、強烈な痛みが走った。


「っ……!」


「代表!」


 紗夜が支える。


 神代も頭を押さえる。


 レイナが膝をつく。


 春樹は絶叫しながら耳を塞いだ。


 無線の向こうでも悲鳴が聞こえる。


『何だこれは!』


『頭の中に――』


『救護班!』


『撃つな! 味方だ!』


 榊原の声。


『全部隊! 相互距離を取れ! 武器を下げるな!』


 黒崎。


『地下班! 返事をしろ! 九条!』


 ホオズキは歯を食いしばった。


「聞こえてる……!」


『無事か!』


「今は」


 そして前を見る。


 地下深部。


 闇の奥。


 人々の行進は止まらない。


 何百もの人間と吸血鬼が、同じ場所を目指している。


 まるで巡礼者。


 あるいは。


 生贄。


 アウレリアの通信が、最後に戻った。


『九条ホオズキ』


「何?」


『門を開かせるな』


「どうやって?」


『分からない』


「おい!」


『だが、開けば――』


 激しいノイズ。


『東京は消える』


 通信断。


 ホオズキは数秒、何も言わなかった。


 神代が尋ねる。


「どうする?」


 答えは決まっていた。


 だが簡単ではない。


 地上へ撤退すれば安全に近づく。


 しかし地下には、多数の人質がいる。


 さらに奥では、何かが目覚めようとしている。


 時間はない。


 ホオズキは無線を開いた。


「榊原」


『はい』


「作戦目的を変更する」


『聞きます』


「救出作戦は継続」


『了解』


「同時に、最深部へ進む」


 一瞬の沈黙。


『危険です』


「分かってる」


『帰還経路が切断される可能性があります』


「それも分かってる」


『では理由を』


 ホオズキは暗闇を見る。


 その向こう。


 東京の地下。


 人間が百年以上知らなかった世界。


 吸血鬼さえ恐れてきた存在。


「ここで止めなきゃ」


 彼女は言った。


「次は地上だから」


 榊原は三秒ほど黙った。


『了解しました』


「黒崎」


『聞いてる』


「地上封鎖を第二段階へ」


『九条』


「何?」


『帰ってこいと言ったはずだ』


 ホオズキは少しだけ笑った。


「まだ帰らないとは言ってない」


『屁理屈を――』


「黒崎」


『……何だ』


「地上をお願い」


 沈黙。


 やがて。


『任せろ』


 それだけだった。


 ホオズキは無線を切った。


 銃を構える。


「レイナ」


「はい」


「道を探して」


「了解」


「紗夜」


「救出者の誘導を優先します」


「レンジ」


 神代が笑った。


 いつもの軽い笑みではない。


「正面突破?」


「今回は勝手に先へ行かないで」


「善処します」


「それ、信用できない」


「代表に言われたくない」


 紗夜が小さく笑った。


 緊張がほんの一瞬だけ緩む。


 春樹が呆れた顔で彼らを見る。


「お前ら……怖くないのか?」


 ホオズキは答えた。


「怖いよ」


 春樹が目を見開く。


「でも」


 ホオズキは暗闇へ視線を戻した。


「怖くないことと、進めることは別だから」


 その時。


 はるか前方で赤い光が灯った。


 一つ。


 また一つ。


 十。


 百。


 地下都市の奥で、無数の赤い灯火が目覚めていく。


 そして巨大縦坑の底から。


 何かがゆっくりと上昇し始めた。


 それを見た春樹が、掠れた声で言った。


「……門だ」


 ホオズキは銃を握り直した。


 東京の地上では、夕方の帰宅ラッシュが始まっていた。


 誰も知らない。


 その足元で。


 人間と吸血鬼が初めて同じ方向を向き、


 もっと古い夜と戦おうとしていることを。


 そして――


 夜明け作戦は、その名とは裏腹に、


 この日もっとも深い闇へと踏み込んでいった。


---


第16章 夜明け作戦 了

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