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第17章 門の底

第17章 門の底


 最初に聞こえたのは、機械の音だった。


 地鳴りでもなければ、怪物の咆哮でもない。


 重い鋼鉄を、さらに巨大な何かが押し上げている音。


 ギィィィィィ――。


 地下深く。


 東京の地図から消された空間で、赤い非常灯だけに照らされた巨大縦坑。その底から、円環状の構造物がゆっくりと持ち上がっていた。


 九条ホオズキは、その光景を無言で見つめた。


 銃床を肩につけたまま、足を止めない。


 隣を進む神代蓮司が、思わず息を呑む。


「……なんだよ、あれ」


 直径は少なく見積もっても三十メートル。


 黒い金属で造られた巨大な環状構造物。


 しかし、近代的な機械だけではない。


 その表面には、金属とは明らかに異なる黒褐色の石材が埋め込まれていた。風化し、欠け、ところどころに人の手で刻まれた溝が走っている。


 その溝を、赤黒い液体が流れていた。


 血だった。


「……門だ」


 春樹が言った。


 その声は震えていた。


 青白い顔から、さらに血の気が失せている。


 御影紗夜が春樹を見る。


「何の門?」


「知らない」


「さっきからそればっかりね」


「本当に知らないんだ!」


 春樹が珍しく声を荒らげた。


「俺たちだって、全部知ってるわけじゃない。下の連中は昔から言っていた。東京の下には触るなって。古いものが眠っている。あれは俺たちのものじゃない。俺たちよりずっと前からあるって」


 篠宮レイナが壁際へ走り、携行端末を開いた。


 画面にはノイズが走り続けている。


「代表。冬馬さんとの回線、復旧しかけてます」


『――こちら……RAVEN……聞こえ……るか』


 途切れ途切れの声。


 ホオズキが即答する。


「聞こえる。状況を」


『……熱源が増えてる』


「吸血鬼?」


『違う』


 短い沈黙。


『人間だ』


 ホオズキの眉がわずかに動いた。


『地下鉄跡、共同溝、下水施設、旧防空壕……こっちで確認できるだけで二千を超えた。全員が同じ方向へ移動してる』


「どこへ」


 久世冬馬の返答は必要なかった。


 ホオズキたちの前方。


 暗闇の向こうから、靴音が聞こえ始めていた。


 一人ではない。


 十人でもない。


 何百という足音が、同じ速度で近づいてくる。


 蓮司が銃口を上げた。


「おいおい……」


 赤い照明の下へ、最初の一人が姿を現す。


 中年の男だった。


 スーツ姿。


 裸足。


 額から血を流している。


 しかし、その顔には苦痛も恐怖もなかった。


 焦点の合わない目で前を見つめ、そのまま歩いてくる。


 その後ろには若い女。


 作業服姿の男。


 高校生ほどの少年。


 老人。


 次々に現れる。


 誰一人として互いに言葉を交わさない。


 誰一人として走らない。


 ただ、門へ向かって歩いている。


 レイナが叫んだ。


「止まって!」


 反応はない。


 紗夜が一人の女性の前へ出て、肩を掴んだ。


「聞こえますか! ここは危険です!」


 女性は立ち止まらなかった。


 紗夜に掴まれたまま、足を前へ出そうとする。


「……何これ」


 その女性の唇が動いた。


「ひらく」


 紗夜が顔を寄せる。


「え?」


「ひらく」


 別の男も言った。


「ひらく」


 老人も。


「ひらく」


 少年も。


「ひらく」


 何十人もの声が、重なった。


「門が、ひらく」


 春樹が後退した。


「まずい」


「説明して」


 ホオズキの声が飛ぶ。


「呼ばれてるんだ」


 春樹は自分の頭を押さえた。


「俺にも聞こえる」


 ホオズキが春樹を見る。


「何が」


「声だ」


 春樹の赤い瞳が震えていた。


「ずっと……下から呼んでる」


 その瞬間。


 照明が消えた。


 完全な暗闇。


 直後、蓮司が叫んだ。


「接触!」


 銃声。


 短い発砲音が地下空間へ響いた。


 ホオズキは反射的に身体を沈める。


 何かが頭上を通過した。


 速い。


 人間の動きではない。


「紫外線灯!」


 紗夜の命令と同時に、隊員が携行型照射器を起動する。


 青白い光。


 悲鳴。


 そこに、一体の吸血鬼がいた。


 皮膚はただれ、口が異常なほど裂けている。


 だが、これまで遭遇した個体とは違っていた。


 光を浴びた瞬間、怪物は逃げなかった。


 照射器そのものへ飛び込んだ。


「なっ――」


 爪が振り下ろされる。


 紫外線灯が砕けた。


 次の瞬間には怪物自身も焼け、床へ転がった。


 自分の命と引き換えに光源を破壊したのだ。


 さらに奥。


 二体。


 三体。


 五体。


 すべてが照明だけを狙っていた。


「学習してやがる!」


 蓮司が撃つ。


 一体の膝を破壊。


 続けて頭部へ二発。


 倒れた個体を跨ぎながら、別の一体が電源ユニットへ突進する。


 レイナが横から撃ち抜いた。


「代表! こいつら、人間を狙ってません!」


 ホオズキはすぐに理解した。


「装備を壊しに来ている」


 敵はこちらの戦術を知っている。


 紫外線。


 高出力照明。


 再生を阻害する弾薬。


 通信。


 すべて、第十四章以降、人間側が積み上げてきた対策。


 そして今、向こうもまた対策を作っていた。


「予備電源を分散! 一か所に集めるな!」


「了解!」


「誘導中の民間人を撃つな! 噛まれていてもだ!」


「でも代表、このままじゃ――」


「撃つな」


 ホオズキの声には迷いがなかった。


 その間にも、人々は歩き続ける。


 怪物が銃火の中を駆け抜ける。


 人と敵が入り混じる。


 これほど戦いにくい状況はなかった。


 春樹が歯を食いしばった。


「奴ら、分かってやってる」


「何を?」


「人間を盾にしてるんじゃない」


 春樹は震える手で胸を押さえた。


「人間も、吸血鬼も、全部同じなんだ」


 ホオズキが振り向く。


「どういう意味」


「門にとっては」


 春樹が答えた。


「全部、材料なんだよ」


     *


 地上では、黒崎剛士が東京の地面を睨んでいた。


 地下から微かな振動が続いている。


 規制線の向こうでは、消防車両、自衛隊車両、警察車両が道路を埋め尽くしていた。


 大型投光器が地下出入口を照らしている。


「警視!」


 部下が走ってくる。


「第三封鎖線、突破されました!」


「敵か」


「いえ……一般人です」


「人数」


「百二十七。現在も増加中!」


 黒崎が眉をひそめる。


「どこから出てきた」


「地下です。行方不明者だけじゃありません。付近住民も混じっています。全員、地下へ戻ろうとしています」


 黒崎は無線を取った。


「押し返すな。拘束を優先。暴れても打撃は最小限にしろ」


『しかし警視、感染者の可能性が――』


「検査班を回せ。可能性で一般人を殴るな」


『了解』


 別の通信が割り込んだ。


『統合指揮所より黒崎警視。地下構造物の振動が増大。陥没の危険あり。封鎖案を検討中』


「封鎖とは」


 一拍置いて声が返る。


『地下連絡路を爆破し、最深部を隔離する』


 黒崎の目が細くなった。


「中に何人いる」


『救助部隊を含め――』


「人数を聞いている」


『推定三百以上』


「却下だ」


『黒崎警視、これは上の――』


「三百人が生存している区画を爆破する命令なら、正式な命令書を出せ」


『時間がありません』


「なら、なおさら口頭で三百人を埋めるな」


 低い声だった。


 怒鳴ってはいない。


 だが、周囲の警察官が一瞬だけ振り返るほどの圧があった。


 無線の向こうが沈黙する。


 黒崎は続けた。


「地下ではまだ救助活動が続いている。ヤタガラスも警察も、自衛隊もいる。民間人もいる。封鎖は最後の手段だ」


『……九条代表も地下にいますね』


 わずかに含みのある言い方だった。


 黒崎の表情は変わらなかった。


「だから何だ」


『いえ』


「俺は警察官として言っている」


 黒崎は地下入口を見る。


「中にいるのが九条だろうが、名前も知らん一般人だろうが同じだ」


 そして、短く言った。


「まだ帰せる人間がいる」


 通信を切る。


 すぐに別の無線を掴んだ。


「久世。下とつながるか」


『細いですが』


「九条を呼べ」


『やってます』


「急げ」


『黒崎さん』


「なんだ」


『……最深部の熱源、さらに増えました』


「数は」


 久世が答える。


『計測不能です』


     *


「右!」


 紗夜の声。


 ホオズキが身を沈める。


 頭上を爪が通過した。


 蓮司が至近距離から三発撃ち込む。


 怪物が吹き飛んだ。


「キリねえぞ!」


「弾数」


「まだ戦える!」


「数字で」


「残り四十九!」


「最初からそう言って」


「こんな時まで細けえな!」


「こんな時だからよ」


 ホオズキはマガジンを交換した。


 その視線の先では、民間人の流れが止まらない。


 こちらが通路を塞いでも、別の通路から現れる。


 まるで東京の地下そのものが、人間を門へ運んでいるようだった。


「代表!」


 レイナが叫ぶ。


「管理室を見つけました!」


「行く」


 数名を残し、ホオズキたちは側面通路へ入った。


 途中、二体の怪物と遭遇した。


 紗夜が一体を牽制。


 蓮司がもう一体へ突っ込む。


 至近距離。


 人と怪物の身体がぶつかり、壁が鳴った。


「神代!」


「先行け!」


「三十秒で戻って」


「無茶言うな!」


「二十秒」


「減ってんじゃねえか!」


 ホオズキは本当に先へ進んだ。


 レイナが苦笑しながら続く。


「相変わらず容赦ないなぁ」


「聞こえてる!」


 後ろから蓮司の声。


 管理室の扉は半開きだった。


 内部には数十台のモニター。


 古い設備と最新式のサーバーが不自然に混在している。


 レイナが端末へ飛びつく。


「冬馬さん、こっち見えます?」


『映像来た』


「解析お願いします」


『……これは』


 久世の声が止まった。


「何?」


『門じゃない』


 ホオズキが画面を見る。


「どういう意味」


『少なくとも、俺たちが想像してたようなオカルト装置じゃない』


 モニターに構造図が開く。


 巨大円環。


 その下から伸びる無数の配管。


 電力線。


 通信線。


 地下水路。


 そして――東京中へ広がるネットワーク。


『これ、増幅器だ』


 久世が言った。


『神経信号に近いパターンを、電気設備と通信網へ乗せてる』


「人を操っている?」


『たぶん。ただし普通の電波じゃない』


 春樹が画面を見つめた。


「血だ」


 全員が振り向く。


「血の中にある」


「何が」


「俺たちを俺たちにしているもの」


 春樹は苦しそうに言った。


「命令だ」


 久世が続ける。


『こっちでも同じ結論。吸血鬼の血液を媒介にして、生体信号を増幅してる。現代設備はその補助だ』


 レイナが顔をしかめる。


「じゃあ、古代の怪しい儀式を、サーバーと電力網でパワーアップしたってこと?」


『ものすごく雑に言えば』


「十分」


 ホオズキが言った。


「止め方」


『中央制御を落とす』


「やって」


『やってる。けど切れない』


 久世のキーボード音。


『独立系だ。物理的に線を切るしかない』


 レイナが構造図を拡大する。


「ここ」


 円環の中央。


 地下さらに深くへ伸びる一本の線。


「制御核?」


『違う』


 久世の声が低くなる。


『給電してない』


「じゃあ何」


『そこから信号が来てる』


 管理室の空気が変わった。


 春樹が一歩退く。


「……下だ」


「春樹?」


「下にいる」


 彼は自分の耳を塞いだ。


「聞こえる」


 ホオズキが近づく。


 春樹の呼吸が荒くなっている。


「しっかりして」


「来るな」


「春樹」


「来るな!」


 突然。


 春樹がホオズキへ飛びかかった。


 速かった。


 人間なら反応できない速度。


 だがホオズキは半歩だけ身体をずらし、春樹の腕を取り、その勢いを利用して床へ叩きつけた。


 春樹が呻く。


 紗夜が銃を向ける。


「代表、離れて!」


「撃たないで」


「でも!」


「撃たない」


 春樹が暴れる。


 赤い瞳。


 犬歯。


 額には血管が浮かび上がっていた。


「殺せ!」


 春樹が叫んだ。


「今すぐ殺せ!」


「却下」


「分かってない!」


 春樹の爪が床を引っ掻く。


「俺はもう逆らえない!」


「さっきまで逆らってた」


「無理なんだよ!」


「じゃあ今も会話できてる」


「九条!」


 春樹の声が悲鳴に変わる。


「俺を使って門を開ける!」


 ホオズキの動きが止まった。


「鍵?」


 春樹は荒い呼吸のまま笑った。


 絶望した人間のような笑いだった。


「俺たち全員だ」


「吸血鬼全員?」


「違う」


 春樹の目から涙が流れた。


「血を持ってる奴、全部だ」


 通信機が突然生き返った。


 ノイズ。


 そして女の声。


『――九条ホオズキ』


 アウレリア。


 ホオズキの表情が険しくなる。


『その男を殺しなさい』


「嫌よ」


『迷っている時間はないわ』


「迷ってない」


『なら殺しなさい』


「嫌だと言った」


 通信の向こうで、アウレリアが小さく息を吐いた。


『あなたという女は、本当に――』


「ノアについて知っていることを全部話して」


『もう時間がない』


「話して」


 数秒。


 やがてアウレリアが言った。


『ノアは名前ではない』


 春樹が目を閉じる。


『最初の血を受け継いだ者たちを、私たちはそう呼んだ』


 レイナが呟いた。


「者たち……?」


『ええ』


 アウレリアの声から、これまでの余裕が消えていた。


『一人ではない』


「何人?」


『知らない』


 ホオズキが眉を寄せる。


 あのアウレリアが、「知らない」と言った。


『私が生まれた時には、すでに眠っていた。私を作った者も、そのまた前の者も、彼らを恐れていた』


「なぜ東京にいる」


『東京だけではない』


 全員が黙った。


『世界中よ』


 久世の通信音が止まった。


 アウレリアは続けた。


『人間の都市は長い歴史の中で大きくなった。でも、それよりずっと前から地下にあるものもある』


「門は何」


『棺を上へ運ぶためのもの』


 ホオズキの視線がゆっくりと構造図へ向く。


 円環。


 中央シャフト。


 縦方向に並ぶ無数の長方形。


 今まで設備だと思っていた区画。


 違う。


 それは。


 棺だった。


「……何個あるの」


 レイナが画面を数える。


 一つ。


 二つ。


 十。


 三十。


 表示範囲を広げる。


 地下深く。


 さらに下。


 さらに下。


 レイナの顔から笑みが消えた。


「百……」


 久世が低く言う。


『もっとある』


 アウレリアの声。


『だから言ったでしょう』


 震えていた。


『門を開かせるな、と』


 その瞬間。


 地面が跳ねた。


 轟音。


 管理室の天井から埃が降る。


『九条!』


 黒崎の声が通信へ割り込んだ。


 ホオズキが即座に応答する。


「黒崎」


『無事か』


「まだ」


 黒崎は一秒だけ黙った。


『状況は』


「最悪」


『具体的に言え』


「地下に吸血鬼の古株が百人以上寝てる」


『……もっとマシな報告はないのか』


「ない」


『そうか』


 妙に落ち着いた声。


 それが逆にホオズキにはありがたかった。


『地上で封鎖準備が始まってる。俺が止めているが、長くは持たん』


「止めなくていい」


『何?』


「必要になったら封鎖して」


 黒崎の声が変わる。


『お前はどうする』


「門を止める」


『九条』


「剛士」


 一瞬だけ、互いに役職ではなく名前で呼んだ。


 しかしホオズキはすぐに代表の声へ戻った。


「民間人を優先して」


『それは俺が決める』


「命令よ」


『俺はヤタガラスじゃない』


「知ってる」


『なら自分の部下に命令しろ』


 ホオズキは思わず口元を緩めた。


 こんな場所で。


 こんな状況で。


 この男は変わらない。


『九条』


「何」


『帰ってこい』


 短い言葉。


 ホオズキは答えなかった。


 代わりに通信を切る。


 紗夜が彼女を見る。


「代表」


「作戦変更」


 全員の視線が集まった。


「紗夜。民間人を門から遠ざける。拘束してでも止める。ただし殺傷禁止」


「了解」


「レイナ。管理系統を全部調べて。止められる設備は片端から止めて」


「了解」


「神代」


 ちょうど扉から蓮司が戻ってきた。


 服は裂け、頬から血を流している。


「二十二秒遅刻」


「数えてたのかよ!」


「私と春樹は下へ行く」


 蓮司の顔が変わった。


「待て」


「待たない」


「そいつ今、お前を襲っただろ」


「だから連れていく」


「理屈が分からねえ」


「鍵なら必要だから」


 春樹が顔を上げた。


「俺は行けない」


「行く」


「また襲うぞ」


「その時はまた転がす」


「次は殺すかもしれない!」


「やってみなさい」


 春樹は言葉を失った。


 ホオズキは彼の拘束具を一部だけ外した。


「自分で歩いて」


「……狂ってる」


「よく言われる」


 蓮司が銃を担ぎ直す。


「俺も行く」


「駄目」


「代表命令?」


「そう」


「嫌だね」


 ホオズキが睨む。


 蓮司も睨み返す。


「俺はヤタガラスだ」


「だから命令を聞いて」


「代表一人を化け物だらけの穴に突っ込ませる契約はしてねえ」


「雇用契約書を読み直して」


「帰ったらな」


 紗夜がため息をついた。


「代表」


「何」


「私も同意です」


「紗夜まで?」


「仲間を置いていくのは、ヤタガラスのやり方じゃありません」


 レイナも端末を操作しながら片手を挙げる。


「同じく」


 ホオズキは三人を順番に見た。


 かつて。


 軍にいた頃。


 命令は上から来た。


 待機。


 許可待ち。


 状況確認。


 政治判断。


 そして助けられたはずの人間が死んだ。


 だからヤタガラスを作った。


 大きな組織では拾えない命を拾うために。


 だが。


 いつの間にか、自分も同じことをしようとしていた。


 必要だから誰かを置いていく。


 合理的だから仲間を切り離す。


 ホオズキは小さく息を吐いた。


「……分かった」


 蓮司が笑う。


「最初からそう言え」


「ただし」


 ホオズキが睨む。


「命令違反は帰ったら始末書」


「世界救って始末書かよ」


「規則は規則」


     *


 中央シャフトへ続く扉が開いた。


 熱気が吹き上がる。


 血の臭い。


 古い土。


 錆。


 そして、何百年も閉ざされていた地下室を開けた時のような、湿った空気。


 階段は下へ続いていた。


 赤い灯火。


 一段。


 一段。


 春樹の呼吸が荒くなる。


「近い」


「何が」


「ノア」


 ホオズキは銃を構えたまま降りる。


 やがて階段が終わった。


 巨大空間。


 誰も言葉を発さなかった。


 そこには、壁がなかった。


 正確には。


 壁すべてが棺だった。


 垂直に並べられた黒い石棺。


 数十。


 数百。


 上方にも。


 下方にも。


 赤い管が一本一本の棺へ接続されている。


 中央では巨大円環が上昇を続けていた。


 その下から、新たな石棺が運ばれてくる。


 ひとつ。


 またひとつ。


 機械式のアームが棺を掴み、円環内部へ並べる。


 現代の物流設備。


 古代の墓。


 二つの時代が、最悪の形で融合していた。


 レイナの端末が鳴った。


「代表」


「何」


「起動率……六十二パーセント」


「止められる?」


「ここからなら」


 レイナが中央を見る。


「たぶん、直接壊せます」


 蓮司が笑う。


「ようやく分かりやすい仕事になったな」


 その時。


 ひとつの棺から音がした。


 コツ。


 全員が止まる。


 コツ。


 内側から。


 誰かが。


 叩いている。


 春樹が後退した。


「駄目だ」


 別の棺。


 コツ。


 さらに別。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 音が増えていく。


 壁一面から。


 数十。


 数百。


 石棺の中から、一斉に。


 何かが目を覚まそうとしている。


「レイナ」


「六十三パーセント!」


「早く」


「やってます!」


 ホオズキは中央装置へ走った。


 蓮司と紗夜が左右を固める。


 春樹は立ち尽くしていた。


 その耳に。


 声が届いた。


『――春樹』


「やめろ」


『――おいで』


「黙れ」


『――帰っておいで』


「黙れ!」


 春樹が頭を抱える。


 ホオズキが振り返る。


「春樹!」


「俺は――」


 彼の赤い瞳が大きく開いた。


「俺は、お前たちの子じゃない!」


 春樹は自分の腕に牙を突き立てた。


 痛みで意識を保つために。


 血が床へ落ちる。


 すると。


 棺を叩く音が、止まった。


 一瞬だけ。


 完全な静寂。


 次の瞬間。


 最も中央に近い石棺へ伸びていた赤い管が脈打った。


 ドクン。


 心臓のように。


 ドクン。


 石棺の蓋に亀裂が走る。


 紗夜が銃を上げた。


「来ます!」


 蓮司も構える。


「代表!」


 レイナが叫ぶ。


「六十四!」


 ホオズキは走った。


 石棺の蓋が。


 ゆっくりと。


 内側から押し開かれる。


 隙間から白い指が現れた。


 異様に細い。


 人間のものに見える。


 その指が棺の縁を掴む。


 何百年。


 あるいは何千年。


 眠っていた存在が。


 初めて東京の空気に触れた。


 春樹が呟いた。


「……ノア」


 棺の中から。


 声がした。


「違う」


 日本語だった。


 古びてもいない。


 外国訛りもない。


 現代の東京で生まれ育った人間と変わらない発音。


「我々には」


 蓋が落ちた。


 石が砕ける。


「名前などない」


 暗闇の中。


 ゆっくりと二つの瞳が開いた。


 赤ではなかった。


 黒かった。


 完全な黒。


 白目すら存在しない。


「ノアとは」


 その存在が立ち上がる。


「お前たちが恐怖に名を与えただけだ」


 ホオズキは迷わなかった。


 引き金を引く。


 地下最深部に銃声が響いた。


 弾丸は、確かに額へ命中した。


 頭部が後方へ跳ねる。


 蓮司が叫ぶ。


「効いたか!?」


 男の顔が。


 ゆっくりと正面へ戻った。


 額から弾丸が押し出される。


 金属音。


 床へ落ちた。


 傷が閉じる。


 男は初めてホオズキを見た。


 そして。


 微笑んだ。


「九条」


 ホオズキの指が止まった。


 自分は名乗っていない。


「ようやく」


 男の背後で。


 二つ目の棺に亀裂が入った。


 三つ目。


 四つ目。


 五つ目。


「朝が来た」


 レイナの端末が警告音を上げる。


 六十五パーセント。


 赤い灯火が一斉に点灯した。


 何百もの棺。


 そのすべてから。


 内側を叩く音が始まった。


 東京の地上では。


 まだ太陽が昇り始めたばかりだった。


 だが、その遥か地下。


 人類が一度も朝を届けたことのない場所で。


 夜そのものが。


 ゆっくりと目を覚まそうとしていた。


                 ――第17章「門の底」了

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