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第18章 最初の血

第18章 最初の血


 それは、人間の形をしていた。


 だからこそ、九条ホオズキは一瞬だけ判断を遅らせた。


 巨大な地下空間。


 東京の地下深く、地図にも行政資料にも存在しない巨大施設の中央で、数百基の黒い石棺が整然と並んでいる。


 そのうちの一つ。


 蓋が、床に落ちていた。


 重量数百キロはあるはずの石板が割れ、破片が周囲へ散乱している。


 その向こうに、一人の男が立っていた。


 裸だった。


 白い皮膚は蝋のように滑らかで、筋肉の輪郭は細い。二十代にも見えれば、四十代にも見える。


 髪は腰まで伸び、濡れた墨のように黒かった。


 しかし、その顔には年齢というものが存在していなかった。


 そして何より。


 瞳が、黒かった。


 白目さえない。


 眼窩の中に、ただ二つの深い穴が開いているように見えた。


「九条」


 男が言った。


 その声には、感情がなかった。


 ホオズキの自動小銃が、わずかに上がる。


 左右では御影紗夜と神代蓮司がすでに射線を確保していた。


 篠宮レイナは一歩下がり、石棺群へ銃口を向ける。


 春樹だけが、わずかに息を呑んだ。


「……どうして私の名前を知ってる」


 ホオズキが問いかけた。


 男は首を傾けた。


 赤子が初めて人間の言葉を聞いたような、不自然な動きだった。


「知っている」


「答えになってない」


「敵だからだ」


 数秒。


 誰も動かなかった。


 その間にも。


 ゴン。


 ゴン。


 ゴン。


 周囲の石棺の内側から、重い音が続いていた。


 久世冬馬の声が通信機に割り込む。


『代表、起動率六十六パーセント。上がり続けてます。中央系統だけじゃありません。地下三層、四層、五層に独立した補助系統があります』


「止められる?」


『止めます。ただし時間をください』


「何分」


『十分』


 ホオズキは即答した。


「五分」


『代表、それは時間という概念に対する挑戦です』


「挑んで」


『……了解』


 その瞬間だった。


 男が消えた。


「散れ!」


 ホオズキが叫ぶ。


 空気が破裂した。


 次の瞬間、春樹の身体が宙を舞った。


「ぐっ……!」


 十メートル近く吹き飛ばされ、石棺へ背中から叩きつけられる。


「春樹!」


 レイナが振り向く。


「見るな!」


 紗夜が怒鳴った。


 男はすでに紗夜の目の前にいた。


 振り下ろされた腕を、紗夜は自動小銃で受ける。


 銃が中央から折れた。


 そのまま身体ごと持っていかれる。


 だが、紗夜は離さなかった。


 男の腕を抱え込み、腰を落とす。


「蓮司!」


「わかってる!」


 神代蓮司が至近距離から撃った。


 三点射。


 銀を含有した特殊弾頭が男の脇腹へ突き刺さった。


 肉が弾けた。


 黒い血が飛び散る。


 男が初めて、表情を変えた。


「……」


 驚いていた。


 自分の身体から流れる液体を、不思議そうに見下ろしている。


「効いてるぞ!」


 蓮司が叫ぶ。


「撃て!」


 ホオズキが引き金を引いた。


 紗夜が横へ飛ぶ。


 四人の銃口が同時に火を噴いた。


 狭い地下空間に爆発的な銃声が反響する。


 男の胸、肩、腹部、脚へ次々と弾丸が突き刺さった。


 普通の人間なら原形を留めないほどの射撃だった。


 男は後退する。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 そこで止まった。


「停止!」


 ホオズキの命令で射撃が止まる。


 硝煙が漂う。


 男の身体には数十の弾痕が開いていた。


 黒い血が足元へ流れ落ちている。


 蓮司が荒い息を吐いた。


「……やったか?」


「その台詞、こういう時は絶対言わないほうがいい」


 レイナが答えた。


「そうだったな」


 男が顔を上げた。


 傷口が動いていた。


 筋肉が蠢き、裂けた皮膚が寄り合わされていく。


 数発の弾丸が肉の中から押し出され、床へ落ちた。


 カラン。


 カラン。


 乾いた音だった。


 蓮司の口元から笑みが消える。


「……冗談だろ」


 通信から別の声が聞こえた。


 アウレリアだった。


『頭を破壊しなさい』


 ホオズキは眉をひそめた。


「それで死ぬ?」


『いいえ』


「じゃあ意味ないじゃない」


『動きが止まる』


「何秒」


『運がよければ十秒』


「十分」


 ホオズキが銃口を上げた。


「頭を狙え!」


 再び射撃が始まった。


 男が動く。


 今度は見えた。


 完全には見えない。


 だが、予測できた。


 ホオズキは男の視線ではなく、床を見ていた。


 足の位置。


 重心。


 踏み込み。


 人間とは桁違いの速度であっても、質量が存在する以上、動き始めには必ず予兆がある。


「右!」


 叫ぶ。


 紗夜が右へ向けて撃った。


 まだ何もいない場所へ。


 直後。


 そこへ男が飛び込んできた。


 弾丸が頬を抉る。


 レイナが続けて撃つ。


 膝を破壊された男の姿勢が崩れる。


 蓮司がそこへ突っ込んだ。


「人間舐めんな!」


 銃床を男の顔面へ叩きつける。


 普通なら無謀な行動だった。


 だが、狙いは攻撃ではない。


 男の顔を上げさせることだった。


 ホオズキの照準器の中央へ。


「そのまま!」


 引き金を絞る。


 一発。


 男の額が弾けた。


 二発。


 頭蓋が砕ける。


 三発目が脳を貫通した。


 男の身体が糸を切られたように崩れ落ちた。


「十秒!」


 ホオズキが走り出した。


「久世!」


『聞いてます! 西側通路、二百メートル先! 補助循環ポンプがあります!』


「全員移動!」


「春樹は!?」


「生きてる!」


 石棺にもたれかかっていた春樹が、苦しそうに右手を上げた。


「肋骨……何本かいきましたけど……走れます」


 紗夜が腕を掴んで立たせる。


「走れるかどうかは私が決める。来い」


「はい……」


 五人は走った。


 その背後で。


 床に倒れた男の指が動いた。


     *


 地下施設は墓ではなかった。


 走りながら、ホオズキはそれを確信していた。


 通路には一定間隔で配管が走っている。


 電力設備。


 循環設備。


 圧力調整弁。


 監視用端末。


 信号線。


 あまりにも人工的だった。


 古代の遺跡を後世の人間が改修したのではない。


 古い構造物の上へ、何世代にもわたって設備が追加され続けている。


「これ誰が維持してたの」


 レイナが走りながら言った。


『何百年分もの改修痕があります』


 久世が答える。


『少なくとも戦後だけで三回。九十年代にも大規模改修されています』


「九十年代?」


「現代じゃない」


 ホオズキの表情が険しくなる。


「今まで誰かがこいつらを眠らせ続けてた」


『その可能性が高いです』


 アウレリアが低い声で答えた。


『人間だけではないでしょう』


「あなたたちも?」


 沈黙。


 それが答えだった。


 蓮司が吐き捨てる。


「だったら最初から言え」


『私も、この施設の存在を知らなかった』


「信用できると思うか?」


『信用など求めていない』


 アウレリアの声が初めて強くなった。


『生き残りたいだけよ』


 ホオズキは口を挟まなかった。


 今はそれで十分だった。


 友情も信頼も必要ない。


 同じ方向から津波が押し寄せているなら、嫌いな相手と同じ堤防に立つこともある。


「久世、あと何メートル」


『八十』


 前方に分岐が見えた。


『左!』


 五人が飛び込む。


 そこに大きな鋼鉄製の扉があった。


 紗夜がハンドルを回す。


「固定されてる!」


 レイナが周囲を見る。


「電子錠」


「久世」


『待ってください。侵入します』


「三秒」


『代表、さっきから私にだけ物理法則を適用してませんよね?』


「二秒」


 ランプが赤から緑に変わった。


『どうぞ!』


 蓮司が扉を蹴り開けた。


 内部には巨大なポンプが並んでいた。


 そして。


 透明な配管の中を。


 赤黒い液体が流れていた。


 全員が足を止めた。


「……血?」


 レイナが呟く。


 透明な管は何十本にも枝分かれし、地下深部へ向かっている。


 ホオズキが近づく。


「久世」


『成分分析はできません。ただ……』


 久世の声が止まる。


『流量から逆算すると、数十リットルどころじゃない。少なくとも数百……いや、もっとです』


 春樹の顔が青ざめた。


「これ全部、人間の……?」


 アウレリアが答えた。


『違う』


 一同が黙る。


『人間だけではない』


「どういう意味」


『私たちの血も混じっている』


 レイナが通信機を見る。


「吸血鬼の?」


『ええ』


 ホオズキは配管の向こうを見た。


「だからあなたたちも怖がってたのね」


 返事はなかった。


 始祖級。


 ノア。


 その呼称は、特定の一人を意味しない。


 遥か昔から存在し、現代の吸血鬼たちでさえ起源を把握できないほど古い個体群。


 人間にとっての怪物が吸血鬼なら。


 吸血鬼にとっての怪物が、彼らだった。


「止める」


 ホオズキが言った。


「蓮司、主配管。紗夜、ポンプ。レイナ、制御盤。春樹は入り口を監視」


「了解」


 レイナが端末へ向かう。


「久世、接続する」


『受けます』


 紗夜がポンプに爆薬を設置する。


 蓮司は主配管の接続部を確認した。


「代表」


「なに」


「嫌な予感するんだけど」


「奇遇ね。私も」


 入り口に立つ春樹が振り返った。


「来ます」


 足音はしなかった。


 代わりに。


 金属が軋んだ。


 廊下の壁がへこんだ。


 次の瞬間、鋼鉄製の扉が内側へ吹き飛んだ。


「伏せろ!」


 扉がポンプへ衝突する。


 火花が散った。


 そこに、男が立っていた。


 顔はほぼ元に戻っていた。


 ただし。


 額の中央だけがまだ裂けている。


 黒い血が一本の線となって鼻筋を伝っていた。


 男はそれを指で拭った。


 指先についた血を見る。


「血」


 初めて。


 その声に感情が宿った。


「私の血」


 ホオズキは銃を構える。


「そうよ」


 男が彼女を見る。


「人間が」


「人間が何」


「私を傷つけた」


「記念日にでもする?」


 蓮司が笑った。


「代表、煽りますねえ」


「時間稼ぎ」


「なら先に言ってください」


 男の口元が動いた。


 笑ったのだと気づくまで、数秒かかった。


「九条」


「なに」


「おまえを知っている」


「さっき聞いた」


「血が知っている」


 ホオズキの眉が動いた。


 だが、その言葉に特別な意味を見出す前に、アウレリアが通信越しに言った。


『惑わされないで』


 声が震えていた。


『彼らは血を通じて情報を得る。私たちが知ったものを、彼らも知る。名前も、顔も、恐怖も』


 ホオズキは男を見つめた。


「つまり私が特別だからじゃない」


『ええ』


「あなたたちが私を敵として覚えたから」


『そうよ』


 ホオズキは小さく息を吐いた。


「なら話が早い」


 銃口を男へ向ける。


「九条家の因縁だの、選ばれた血だの言われたら面倒だった」


 蓮司が吹き出した。


「そこですか?」


「私はただの人間で十分よ」


 男が首を傾げる。


「ただの?」


「ええ」


 ホオズキは照準器越しに黒い瞳を見る。


「あなたを止めに来た、ただの人間」


 男が踏み込んだ。


 同時に。


「レイナ!」


「落とした!」


 制御盤の照明が消えた。


 ポンプが停止する。


 地下を満たしていた低い振動音が、一斉に消えた。


 赤黒い液体の流れが止まる。


 男の動きが、一瞬だけ鈍った。


「紗夜!」


「設置完了!」


「全員退避!」


 ホオズキたちが扉から飛び出す。


 男が追う。


 その瞬間。


 紗夜が起爆スイッチを押した。


 爆発。


 地下施設全体が揺れた。


 巨大な循環ポンプが吹き飛び、主配管が破裂する。


 大量の赤黒い液体が室内へ噴き出した。


 男の身体も爆風に飲み込まれる。


「走れ!」


 五人は廊下を駆けた。


『起動率低下!』


 久世が叫ぶ。


『六十七……六十四……六十一!』


「まだ高い!」


『別系統が生きてます!』


「場所!」


『いま出します!』


 背後で何かが吠えた。


 それは人間の声ではなかった。


 蓮司が振り返る。


 爆炎の向こうから。


 男が出てきた。


 身体の右半分が焼け落ちている。


 腕もない。


 肋骨が露出している。


 それでも歩いている。


「うそだろ……」


 春樹が呟いた。


 男の失われた腕の断面から、黒い筋肉が伸び始めていた。


「止まらないのかよ」


「止まるまで止める」


 ホオズキは立ち止まった。


「代表!」


「先に行って!」


 紗夜も止まった。


「残ります」


「命令」


「護衛対象を置いていく命令は拒否します」


「紗夜」


「減俸で結構です」


 蓮司まで止まる。


「俺も減俸で」


 レイナがため息をついた。


「じゃあ私も」


「お前ら……」


 ホオズキが睨む。


 春樹が苦笑した。


「代表の会社、労務管理大丈夫ですか?」


「帰ったら全員始末書」


「帰れたら書きます」


 男が走り出した。


「来る!」


 五人が構える。


 今度は正面からだった。


 銃声。


 男は止まらない。


 弾丸を受けながら突進してくる。


 紗夜が横から脚を撃つ。


 蓮司が肩を撃つ。


 レイナが頭部へ撃ち込む。


 それでも来る。


 そしてホオズキへ腕を伸ばした。


 速い。


 避けられない。


 ホオズキは後ろへ退くのではなく、前へ出た。


 男の腕の内側へ潜り込む。


 身体を回す。


 腰のホルスターから拳銃を抜いた。


 顎の下へ銃口を押し当てる。


「人間の戦い方を教えてあげる」


 引き金を引く。


 轟音。


 男の頭部が跳ね上がった。


「今!」


 蓮司が男へ体当たりする。


 紗夜が脚を払う。


 三人がかりで床へ倒した。


 レイナが腰から小型の照射装置を抜いた。


 試験配備されていた高出力紫外線照射器。


 それを男の顔面へ押しつける。


「点灯!」


 白紫色の光が爆発した。


 男が叫んだ。


 初めて聞く。


 明確な苦痛の声だった。


 皮膚が焼ける。


 黒い煙が上がる。


「効いてる!」


「出力最大!」


「もう最大!」


 男が暴れる。


 床にひびが入った。


 蓮司が吹き飛ばされる。


 紗夜も壁へ叩きつけられた。


「くっ!」


 ホオズキは照射器を離さなかった。


 男の手が彼女の首を掴んだ。


「代表!」


 身体が持ち上げられる。


 足が床から離れた。


 指が喉へ食い込む。


 視界が狭まる。


 男の顔は半分以上焼け落ちていた。


 それでも黒い瞳だけがホオズキを見ている。


「九条」


 男が囁いた。


「おまえたちは、短い」


 ホオズキは苦しげに笑った。


「知ってる」


「弱い」


「それも知ってる」


「死ぬ」


「全員ね」


 ホオズキの右手が下がる。


 腰に残っていた最後の焼夷弾。


 安全装置を外す。


「だから急ぐのよ」


 ピンを抜いた。


 男の瞳が動く。


「さよなら」


 焼夷弾を男の胸元へ押し込んだ。


「代表!」


 紗夜が飛びつき、ホオズキごと男から引き剥がした。


 床を転がる。


 直後。


 炎が上がった。


 男の身体が燃え上がる。


 普通の炎ではなかった。


 高温の化学反応による白い火が肉へまとわりつき、床へ倒れても消えない。


 男が暴れる。


 壁へ身体を打ちつける。


 床を転がる。


 叫び声が地下空間を揺らす。


 それでも。


 しばらく動いていた。


 やがて。


 腕が止まった。


 脚が止まった。


 声が消えた。


 五人は銃を構えたまま見ていた。


 一分。


 二分。


 動かない。


 黒い炭のようになった身体から、煙だけが立ち上っていた。


 久世の声が聞こえる。


『……生命反応、確認できません』


 誰も返事をしなかった。


『代表?』


「聞こえてる」


『倒したんですか』


 ホオズキは焼けた男を見る。


「たぶん」


『たぶん?』


「首を落として、燃やして、灰にして、容器に入れて、三日くらい監視するまでは信用しない」


 蓮司が床に座り込んだ。


「賛成」


 紗夜はホオズキの首を確認した。


 指の跡が赤く残っている。


「痛みは」


「ある」


「呼吸」


「できる」


「眩暈」


「少し」


「帰還後、診察」


「はいはい」


「返事は一回」


「はい」


 レイナが焼けた死体へ近づいた。


 床には黒い血が残っていた。


 その中に。


 わずかに赤いものが混じっていた。


「代表」


「なに」


「これ」


 ホオズキが近づく。


 黒い血液の中心に、人間とほとんど変わらない赤い血が見えた。


 アウレリアが息を呑む。


『……そんな』


「何」


『赤い血』


「見ればわかる」


『違う』


 アウレリアの声が低くなる。


『私たちの古い記録にある』


「説明して」


『始祖級の身体は、長い休眠によって血液の大部分が変質する。覚醒直後は黒い。けれど活動を続け、十分な血を取り込めば……赤くなる』


 ホオズキは黙った。


「つまり」


『完全覚醒に近づいていた』


 蓮司が死体を見る。


「こいつ一体でこれかよ」


『ええ』


「じゃあ……」


 春樹が通路の向こうを見る。


 その先には。


 数百基の石棺がある。


 誰も続きを言わなかった。


 久世が沈黙を破る。


『代表』


「なに」


『もっと悪い話があります』


「今日は豊作ね」


『停止させた補助系統を解析してわかりました。血液供給と電力供給は、覚醒そのものに必要なわけじゃありません』


 ホオズキの顔から表情が消えた。


「どういうこと」


『促進装置です』


 沈黙。


『供給を止めても、すでに一定段階を超えた個体は自力で覚醒します』


「何体」


『いま計算しています』


「概算でいい」


『少なくとも……』


 久世が息を吸う。


『十二』


 レイナが目を閉じた。


 蓮司が笑う。


 乾いた笑いだった。


「一体倒すのにこれだけかかったんだぞ」


『さらに問題があります』


「まだあるの?」


『中央制御系統が再起動しました』


 ホオズキが天井を見る。


 地下全体に。


 低い振動音が戻り始めた。


 ゴウン。


 ゴウン。


 ゴウン。


 遠くで機械が動く。


『誰かが地上側から再起動させています』


「敵の協力者」


『おそらく』


「場所は」


『特定中』


 その時。


 施設全体の照明が赤く変わった。


 警報音。


 古いスピーカーから機械音声が流れ始める。


 日本語ではない。


 英語でもない。


 久世が即座に解析する。


『古い言語です。完全には訳せませんが……』


「要点」


『搬送工程開始』


 ホオズキの目が細くなる。


「搬送?」


『門です』


 久世が言った。


『第十七章で確認した巨大構造物……あれは扉じゃない』


 巨大な振動が地下を走った。


 石棺群の奥で。


 鋼鉄と石材で組み上げられた巨大な円筒構造物が、ゆっくりと上昇を始める。


『昇降設備です』


「どこへ運ぶの」


『地上』


 一同の顔が変わった。


『この施設は墓じゃない。保管庫です』


 久世の声が震えていた。


『覚醒した個体を、都市の各所へ搬送するための設備です』


「止められる?」


『中央制御を落とせば』


「場所」


『最深部』


 ホオズキは迷わなかった。


「行く」


「代表」


 紗夜が言った。


「春樹は負傷しています」


「わかってる」


「戦力も消耗しています」


「わかってる」


「弾薬残量も四割以下です」


「それもわかってる」


「それでも?」


 ホオズキは石棺群を見る。


 数百。


 そのうち十二以上が、すでに自力覚醒可能。


 もし地上へ出れば。


 東京は消えない。


 建物も残る。


 道路も残る。


 電車も残る。


 だが。


 警察が機能しなくなる。


 救急が止まる。


 病院が溢れる。


 交通が麻痺する。


 通信が混乱する。


 恐怖が群衆を動かし、人間同士の事故と暴力が始まる。


 都市は、都市であることをやめる。


「だから行く」


 ホオズキは言った。


「ここまで来て、帰る理由がない」


 蓮司が立ち上がる。


「そう言うと思った」


 レイナが新しい弾倉を差し込む。


「残弾三十七」


 紗夜も銃を確認する。


「私は四十二」


 春樹が壁から身体を離した。


「二十八」


 蓮司が自分の弾倉を見る。


「俺二十五」


 四人の視線がホオズキへ向く。


「代表は?」


 ホオズキが弾倉を抜いた。


 確認する。


「十九」


「少なっ」


「撃ちすぎた」


 蓮司が予備弾倉を一つ放った。


 ホオズキが受け取る。


「貸しです」


「会社の弾薬よ」


「夢がないなあ」


 その時。


 通信回線に別の声が入った。


『九条』


 黒崎だった。


 一瞬だけ。


 ホオズキの表情が変わる。


「黒崎」


『生きてるか』


「今のところ」


『怪我は』


「少し」


『少しってのは信用ならん』


「あなたに言われたくない」


 地上では銃声とサイレンが鳴っていた。


 黒崎たちも戦っている。


『地下の状況は久世から聞いた』


「なら話は早い」


『ああ』


 一瞬、沈黙する。


『地上は俺たちが持たせる』


「何分」


『必要なだけ』


 ホオズキは小さく笑った。


「久世と同じこと言うのね」


『誰だってそう言う』


 黒崎の声が低くなる。


『だから、お前は地下を止めろ』


「了解」


『ホオズキ』


「なに」


『帰ってこい』


 短い言葉だった。


 代表でもない。


 PMCの指揮官でもない。


 九条家の長女でもない。


 一人の女へ向けた言葉だった。


 ホオズキは数秒だけ黙った。


「努力する」


『努力じゃない』


「善処する」


『もっと悪くなったぞ』


「じゃあ」


 ホオズキは笑った。


「帰る」


『ああ』


「だからそっちも死なないで」


『命令か?』


「お願い」


 黒崎が少しだけ笑った。


『それなら聞く』


 通信が切れる。


 ホオズキは銃を肩へ当てた。


「行くよ」


 五人が再び歩き始める。


 その背後では。


 最初に覚醒した始祖級吸血鬼が、黒く焼け焦げて倒れていた。


 人間が流させた。


 始祖級の。


 最初の血。


 それは勝利ではなかった。


 一体倒せることがわかっただけだった。


 そして同時に。


 一体を倒すために、どれほどのものが必要なのかもわかってしまった。


     *


 地上。


 黒崎剛士は通信機を下ろした。


「隊長!」


 機動隊員が駆け寄る。


「地下から熱源増加!」


「数は」


「十一……十二……十三!」


 黒崎が顔を上げる。


 夜の東京。


 遠くでは避難車両の赤色灯が列を作っている。


 規制線の向こうでは、何も知らない市民たちが誘導されていた。


 彼らは知らない。


 自分たちの足元で何が眠っているのか。


「第二線を下げろ」


「ですが!」


「民間人との距離を取る。正面から止めようとするな」


「了解!」


「自衛隊との連絡は」


「接続済みです!」


「消防は」


「退避完了!」


「よし」


 黒崎は防護盾を握った。


 そして地下入口を見る。


「来るぞ」


     *


 地下最深部。


 誰もいない中央制御室で。


 一つの画面が点灯していた。


 表示された文字は単純だった。


 AWAKE 13


 数字が変わる。


 AWAKE 14


 そして。


 黒い石棺の中で。


 一つ。


 また一つ。


 瞳が開いた。


 赤ではない。


 黒い瞳だった。


 彼らは名前を持っていなかった。


 王でもなかった。


 神でもなかった。


 ただ。


 あまりにも古く。


 あまりにも長く生き。


 後の時代に生まれた吸血鬼たちが、恐怖とともに一つの分類名を与えた存在。


 ――ノア。


 その夜。


 人間は初めて、その血を流させた。


 だが同時に。


 眠っていた夜の側もまた。


 人間の時代が、自分たちを殺し得る時代へ変わっていたことを知った。


 地上へ続く巨大搬送機が動き始める。


 警報音が地下に響く。


 ホオズキたちは中央制御室へ向かって走った。


 残された時間は。


 もう。


 ほとんどなかった。


---


第19章 「夜を閉じる作戦」へ続く

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