第5章 全力撤退
第五章 全力撤退
撤退という言葉には、どこか敗北の響きがある。
前へ進むことをやめる。
奪った土地を捨てる。
敵に背を向ける。
だから経験の浅い者ほど、撤退を嫌う。
もう少し戦えば勝てるのではないか。
あと一歩だけ前へ出れば状況が変わるのではないか。
そう考える。
だが、九条ホオズキは知っていた。
本当に難しいのは、攻撃を命じることではない。
まだ戦える人間たちに、
――ここまでだ。
そう命じることだった。
*
午前一時十三分。
Vesperから約三百メートル離れた路上には、すでに複数の警察車両が集まっていた。
派手な回転灯は使っていない。
周囲は住宅と古い雑居ビルが混在する地域であり、必要以上の騒ぎを起こせば野次馬を呼び寄せる。
制服警察官が交差点を封鎖し、一般車両を別方向へ誘導している。
表向きの理由は、建物内部で発生した重大事件への対応だった。
誰も、
吸血鬼。
などという言葉は使っていない。
使えるはずもなかった。
黒崎剛士は車両脇に立ち、ホオズキから状況を聞いていた。
「確認する」
黒崎は低い声で言った。
「地下に監禁されていると思われる女性が複数」
「ええ」
「少なくとも失踪者二名を写真で確認」
「長谷川美月と森川奈緒。奈緒は救出済み」
「さらにその奥にも人員がいる可能性」
「高い」
「敵の人数」
「不明」
「武器」
「少なくとも私たちが見た範囲では、ほぼ素手」
黒崎の眉間に皺が寄った。
「素手でお前たち四人を追い出したのか」
「そういうことになる」
「相手が何かの薬物で興奮状態にある可能性は」
「ゼロとは言わない。でも、それだけじゃ説明できない」
ホオズキは右手首を冷却材で固定されている。
サヤは肩の裂傷を応急処置され、レンジにも打撲が複数あった。
レイナだけが比較的軽傷だったが、その顔から普段の余裕は消えている。
黒崎は四人を順番に見た。
「もう一度、俺に言ってみろ」
「何を?」
「頭を撃っても動いた」
「動いた」
「胸を何発撃っても」
「止まらなかった」
「骨を壊しても」
サヤが答える。
「数秒から数十秒で動ける状態へ戻りました」
黒崎は黙った。
信じがたい。
だが、目の前にいる四人が示し合わせて同じ嘘をつく理由もない。
それに、警察側が収容した森川奈緒も同じような供述をしている。
人ではない。
血を飲む。
赤い目。
白い髪の女。
錯乱状態の被害者の言葉として片付けることは簡単だった。
問題は、ヤタガラスの四人まで同じものを見ていることだった。
「黒崎」
ホオズキが言った。
「今夜は入らないで」
「中に人質がいる」
「分かってる」
「なら警察官として、はいそうですかとは言えん」
「警察官だからこそ言ってる」
黒崎の目が鋭くなる。
「どういう意味だ」
「あなたの部下を入れたら死ぬ」
周囲の空気が固まった。
黒崎の部下も何人かその言葉を聞いている。
「断言するのか」
「する」
「根拠は」
「私たちが負けたから」
ホオズキは淡々と言った。
「拳銃だけだったとはいえ、四人とも近接戦闘の訓練を受けている。相互支援もできていた。しかも相手はほとんど武器を持っていなかった」
「……」
「それでこの結果」
自分の手首。
サヤの肩。
レンジの頬。
「制服警察官を十人、二十人入れたところで同じ。むしろ狭い地下で混乱するだけ」
「機動隊なら」
「盾を持ってても、人間を片手で投げる相手よ」
黒崎が黙る。
「それでも人質を置いて帰れと?」
「今夜は」
「九条」
「私だって戻りたい!」
ホオズキの声が初めて強くなった。
周囲の警察官が僅かに視線を向ける。
ホオズキは一度目を閉じた。
声を戻す。
「……長谷川美月が中にいる」
依頼人の娘。
探すと約束した少女。
「生きている可能性が高い」
「なら」
「だからこそ、失敗できない」
黒崎をまっすぐ見る。
「今から入って、全滅したら誰が次に助けるの」
黒崎は答えなかった。
「これは勇気の問題じゃない」
ホオズキは続ける。
「今の私たちは、相手を知らなさすぎる」
敵の数。
構造。
能力。
弱点。
すべてが分からない。
「今夜やるべきなのは、もう一人助けようと賭けに出ることじゃない」
「何だ」
「今日助けた一人を確実に守って、持ち帰った情報を解析すること」
黒崎は長い間何も言わなかった。
やがて、地下ライブハウスのある方角を見る。
「……気に入らんな」
「私も」
「お前に正論を言われるのも気に入らん」
「そこ?」
「そこもだ」
黒崎は部下へ向き直った。
「現時刻をもって建物への立ち入りを禁止する」
「警視」
若い警察官が驚く。
「しかし要救助者が――」
「分かっている」
「でしたら」
「俺が責任を取る」
一言だった。
「周辺封鎖。出入口監視。建物から出てくる者は確保を試みる。ただし単独では接触するな」
「単独では?」
「必ず複数名」
黒崎は少し考えた。
「不用意に身体接触するな。相手が逃走した場合も深追いは禁止」
部下が困惑する。
「武装犯の可能性ですか?」
黒崎は答えに迷った。
ホオズキを見る。
そして言った。
「正体不明だ」
今はそれが最も正しい。
*
午前一時二十七分。
森川奈緒は救急車内で毛布に包まれていた。
女性警察官が隣に座り、救急隊員が血圧を測定している。
奈緒の顔色は悪い。
「家族には連絡したからね」
女性警察官が言った。
「もう大丈夫」
「……はい」
「病院で検査してもらおう」
奈緒は小さく頷いた。
だが突然。
「待って」
顔を上げる。
「どうした?」
「美優」
「美優?」
「友達」
奈緒の呼吸が早くなる。
「一緒だったの?」
「先に……」
手が震え始める。
「先に下へ連れていかれて……」
「分かった。警察が探すから」
「違う!」
奈緒が叫んだ。
救急隊員が振り返る。
「警察じゃ無理!」
「森川さん、落ち着いて」
「無理なの!」
奈緒は毛布を握り締めた。
「あの人たち、人じゃない!」
その言葉は、少し離れた場所にいたホオズキにも聞こえた。
奈緒がこちらを見つける。
「お姉さん!」
救急車から降りようとする。
「森川さん!」
ホオズキが近づく。
「ここにいる」
奈緒の手を取った。
冷たい。
恐怖で震えている。
「美優がまだ中にいる」
「分かってる」
「助けて」
その一言。
ホオズキの胸の奥が痛んだ。
「お願い……」
今すぐ戻ると言えれば、どれほど楽か。
だが。
それは約束ではない。
ただの慰めだ。
だからホオズキは言わなかった。
「助ける」
代わりに。
「必ず方法を考えて戻る」
「今じゃ駄目なの?」
ホオズキは一瞬だけ目を伏せる。
「今行ったら、多分助けられない」
奈緒の目に涙が溜まる。
「ごめんなさい」
「謝らないで」
「私だけ……」
「あなたが悪いんじゃない」
奈緒は泣いた。
「私だけ出てきちゃった……」
ホオズキは彼女の手を強く握った。
「あなたが出てきたから、私たちは中で何が起きているのか確認できた」
「……」
「あなたが生きて帰ったことには意味がある」
奈緒は泣きながら頷いた。
救急車の扉が閉まる。
発車。
ホオズキはそれを見送った。
その横。
榊原宗一郎がいつの間にか立っていた。
「代表」
「説教なら後」
「するつもりでしたが」
「やっぱりするんじゃない」
「少し予定を変更します」
榊原は救急車を見る。
「一人連れて帰った」
「……うん」
「それは成果です」
ホオズキが彼を見る。
「慰め?」
「事実です」
榊原は静かに言った。
「戦争では、救えなかった者の数だけ見ていると判断を誤ります」
「まだ戦争じゃない」
「そう願いたいものですな」
*
午前一時三十六分。
「動きあり!」
警察官の声。
全員が地下入口を見る。
黒崎が無線を取る。
「何が出た」
『人物一名。地下階段を上がっています』
「性別」
『女性』
「武器」
『確認できません』
「単独で近づくな」
『了解』
ホオズキの表情が変わる。
「銀髪?」
「まだ分からん」
路地。
地下階段。
そこから一人の女が上がってきた。
黒いワンピース。
黒髪。
二十代に見える。
裸足。
まるで近所へ散歩にでも出てきたような穏やかな歩調だった。
警察官が距離を取って声をかける。
「止まってください!」
女は止まる。
「警察です。お話を聞かせてください」
「警察?」
女は首を傾げた。
「身分証を確認します」
「嫌」
「こちらへ来てください」
「嫌よ」
警察官二名が慎重に近づく。
ホオズキ。
「黒崎」
「分かってる」
無線。
「接触するな。距離を取れ」
しかし。
命令が届くより早かった。
女が笑った。
「遅い」
姿が消える。
警察官の一人が突然宙を舞った。
「っ!」
数メートル。
道路へ転がる。
もう一人が反応して警棒を抜く。
女の手が胸元へ。
押した。
それだけに見えた。
男性警察官の身体が車両へ叩き付けられる。
「全員下がれ!」
黒崎が怒鳴った。
周囲の警察官が拳銃へ手をかける。
「撃つな!」
ホオズキ。
「何だと!」
「効かない!」
女が走る。
速い。
人間の走りではない。
四つん這いでもない。
普通に二本脚で走っている。
それなのに距離の詰まり方がおかしい。
「盾!」
機動隊経験のある警察官が防護盾を前へ出す。
女が正面からぶつかった。
金属音。
盾ごと警察官が後退する。
一メートル。
二メートル。
「何だ、この力……!」
女は笑っている。
黒崎が前へ出ようとする。
ホオズキが腕を掴む。
「行かないで!」
「部下がいる!」
「だから!」
その時。
路地の角。
一台の警察車両。
搭載された作業灯が点灯した。
現場照明用の高出力LED。
白い光が女を直撃する。
「――!」
女が初めて悲鳴を上げた。
両腕で顔を隠す。
後退。
「何?」
黒崎。
ホオズキの目が変わる。
「ライト!」
「何だ」
「もっと当てて!」
作業灯。
向きを変える。
さらに強い光。
女の皮膚から。
煙。
ほんの僅か。
白い。
「……嘘だろ」
レンジが呟く。
女が叫ぶ。
「消して!」
先ほどまでの余裕はない。
「光を嫌がってる!」
レイナ。
「全車、前照灯!」
黒崎が命じた。
「ハイビーム!」
複数の車両が一斉に向きを変える。
白い光。
一台。
二台。
三台。
路地が昼のように明るくなる。
女が後退する。
皮膚。
赤く変色。
煙。
しかし燃えるほどではない。
「射撃する?」
レンジ。
「駄目!」
ホオズキ。
「今はデータ取る!」
女がこちらを見る。
赤い目。
怒り。
初めて明確な敵意。
そして。
恐怖。
ホオズキは見逃さなかった。
初めて。
敵がこちらを恐れた。
「温度?」
サヤ。
「分からない」
「可視光?」
レイナ。
「分からない」
「LEDだから紫外線ほとんど出てねえぞ」
レンジ。
「じゃあ何?」
「後で調べる!」
女は一歩。
地下へ。
もう一歩。
光から逃げる。
ホオズキは叫ぶ。
「追わない!」
警察官が動こうとするのを止める。
「行かせて!」
「でも」
「今は逃がす!」
女は地下階段まで戻る。
最後に振り返った。
ホオズキを見る。
怒り。
憎悪。
そして。
覚えた。
そんな目。
地下へ消える。
誰も追わなかった。
*
「全員無事か!」
黒崎が負傷した部下へ駆け寄る。
一人は肩を強打。
もう一人は肋骨の負傷が疑われる。
命に別状はない。
「救急!」
「呼んでます!」
黒崎の顔には怒りが浮かんでいた。
「……何なんだ、あれは」
ホオズキは地下を見る。
「分からない」
「またそれか」
「でも一つ分かった」
「何が」
「光を嫌う」
黒崎は作業灯を見る。
「ただ眩しいだけじゃないのか」
「煙が出た」
「熱で?」
「LED」
レンジが近づく。
「熱量だけなら、あの距離じゃ皮膚が焼けるほどじゃない」
サヤも頷く。
「私たちが逃げた時も車のライトを避けました」
「再現した」
ホオズキ。
「偶然じゃない可能性が高くなった」
「何の光が効いた?」
黒崎。
「まだ分からない」
「波長?」
レイナ。
「照度?」
レンジ。
「複数条件かもしれない」
ホオズキは続ける。
「でも調べられる」
黒崎は地下を見る。
そして初めて。
無言で一歩下がった。
警察官として。
現場指揮官として。
未知のものに遭遇した人間として。
「全員撤収」
周囲の警察官が驚いた。
「警視?」
「建物直近の封鎖線を後退させる」
「ですが」
「命令だ」
黒崎は強く言った。
「監視は遠距離から行う。地下入口へ近づくな」
「被害者は」
「必ず助ける」
「なら――」
「今夜じゃない」
その言葉を口にした瞬間。
黒崎は、少しだけホオズキの気持ちが分かった。
あきらめたのではない。
むしろ逆だ。
確実に戻るために。
今は退く。
「今夜は勝つ夜じゃない」
黒崎は言った。
「生きて帰る夜だ」
ホオズキは彼を見た。
小さく頷く。
*
午前二時十四分。
Vesper周辺から警察の封鎖線が後退した。
逃げたわけではない。
地下入口から一定距離を確保し、監視カメラと望遠機材による監視へ切り替える。
周辺住民にはガス設備の異常が確認されたとして、一部地域への立ち入り制限が実施された。
消防にも連絡が入る。
ただし地下施設への進入は禁じられた。
当然。
消防側から質問が出る。
ガス漏れなのに消防が入らないのか。
警察が何を警戒しているのか。
黒崎は答えられなかった。
まだ。
答える言葉を持っていない。
*
午前三時〇六分。
ヤタガラス本部。
負傷者の処置が終わり。
全員が再び会議室へ集まった。
誰も帰らない。
眠ろうとする者もいない。
大型モニターには二つの映像。
一つは、地下から逃げた時。
配送車のLEDヘッドライトを浴び、追跡者が動きを止める場面。
もう一つ。
警察車両の作業灯を浴び、女が後退する場面。
久世冬馬は何度も映像を確認していた。
「照明器具の仕様、警察からもらえる?」
黒崎。
「出させる」
「配送車も特定したい」
「ナンバーは?」
サヤ。
「周辺カメラから追えます」
「お願い」
久世はホワイトボードへ書く。
光。
「まず“光が弱点”と決めつけない」
榊原が言った。
「はい」
「光源の共通要素を調べる」
「照度、色温度、スペクトル、照射時間」
久世。
「それと熱」
サヤ。
「赤外線」
レイナ。
「紫外線は?」
レンジ。
「LEDなら通常は少ない」
「じゃあ日光弱点説はまだ早い?」
「早い」
久世は答える。
「ただ、古典的な伝承との一致が一個増えた」
誰も笑わない。
「犬歯」
久世は指を一本。
「血液が極端に少ない遺体」
二本。
「若い健康な人間を選ぶ」
三本。
「異常な再生能力」
四本。
「人間離れした身体能力」
五本。
「光への異常反応」
六本。
「それから」
レイナが言う。
「赤い目」
「それは照明条件もあるから保留」
久世が返す。
「じゃあ映像に突然現れるのは?」
サヤ。
「それも保留」
「保留だらけ」
レンジ。
「科学ってそういうもんだよ」
久世は椅子に座る。
「分からないものを“吸血鬼だから”で済ませた瞬間、調査じゃなくて信仰になる」
榊原が小さく頷いた。
「良い」
「ただし」
久世は続ける。
「逆も危険です」
「逆?」
ホオズキ。
「吸血鬼なんて存在するわけない、って結論ありきで証拠を曲げること」
会議室が静かになる。
「存在しないと証明されてるわけじゃない」
「存在すると証明されたわけでもない」
榊原。
「はい」
「だから」
「検証する」
久世が答えた。
「片っ端から」
*
ホオズキは椅子に深く座った。
右手首が痛む。
湿布と固定具。
それを見るたび、地下の女の手を思い出す。
細い腕。
華奢な身体。
それなのに、自分の身体を片手で床へ叩き付けた。
技術ではない。
純粋な力。
訓練ではどうにもならない差だった。
「代表」
榊原。
「何?」
「悔しいですか」
ホオズキは少し考える。
「悔しい」
「敵を倒せなかったことが?」
「違う」
「では」
「置いてきた」
部屋が静かになる。
「美月も」
最初の依頼。
十九歳の女子大学生。
父親の誕生日に財布を買おうとしていた少女。
「奈緒の友達も」
「……」
「他にもいた」
ベッド。
点滴。
閉じ込められた女性。
「助けてって言われたのに」
ホオズキは左手を握った。
「帰ってきた」
榊原は黙って聞く。
「頭では分かってる。あそこで戻ったら全滅したかもしれない」
「ええ」
「正しかった」
「ええ」
「でも」
ホオズキは目を伏せる。
「正しい判断って、気持ちいいものじゃないのね」
榊原は少し笑った。
「気持ちいい判断は大抵、正しいかどうか疑った方がいい」
「慰め下手ね」
「昔からです」
「知ってる」
黒崎が壁際から言う。
「だが、帰ってきたから次がある」
ホオズキが顔を上げる。
「あなたまで慰めるの?」
「違う。事実だ」
「榊原さんと同じこと言ってる」
「気に入らんな」
榊原。
「こちらの台詞です」
レンジが小さく笑った。
レイナも。
張り詰めていた空気が、ほんの僅かに緩んだ。
久世がホワイトボードを叩く。
「で、次です」
全員が見る。
「ここからは殴り合いじゃない」
「何をする」
ホオズキ。
「敵の取扱説明書を作る」
久世は白板へ大きく書いた。
《検証項目》
「何をすれば傷つくのか」
一行。
「何なら再生できないのか」
二行。
「どうやって人間を識別しているのか」
三行。
「どれくらい速いのか」
四行。
「どれくらい強いのか」
五行。
「何を食べるのか」
六行。
「睡眠は必要か」
七行。
「呼吸は」
八行。
「心拍は」
九行。
「体温は」
十行。
「感染するのか」
そこで。
全員の表情が変わった。
ホオズキ。
「待って」
「俺もそこが一番嫌」
久世の声が低くなる。
「噛まれたらどうなる?」
沈黙。
今まで誰も口にしなかった。
「サヤ」
ホオズキが振り返る。
「噛まれてない?」
「ありません」
「レンジ」
「ない」
「レイナ」
「ない」
「私もない」
それでも。
「血液検査」
ホオズキ。
「全員」
「もう手配します」
久世。
「隔離は?」
黒崎。
「必要かもしれない」
レンジの笑顔が消える。
「マジ?」
「未知の生物との接触だぞ」
久世。
「感染症として考えるなら当然」
榊原が即断する。
「四名は検査結果が出るまで接触制限」
「了解」
ホオズキは反論しなかった。
「それから森川奈緒も」
黒崎。
「警察病院側へ伝える」
「採血」
「する」
「血液型や血球だけじゃ足りない」
「専門家を呼ぶ」
話が変わり始めていた。
PMCだけでは足りない。
警察だけでも足りない。
医学。
生物学。
化学。
光学。
工学。
必要になる。
*
午前四時十九分。
本部の廊下。
ホオズキは一人で自動販売機の前に立っていた。
右手が使いづらいので、左手でコーヒーを取る。
「ブラック?」
後ろから声。
黒崎。
「いつも」
「寝ろ」
「あなたも」
「俺は戻る」
「警察?」
「ああ」
「怒られる?」
「誰に」
「偉い人」
「俺もそれなりに偉い」
「もっと偉い人いるでしょ」
「いる」
「怒られるね」
「誰のせいだ」
「Vesper」
「お前のせいでもある」
「理不尽」
黒崎は隣の自販機で水を買った。
しばらく二人とも喋らない。
「黒崎」
「何だ」
「ありがとう」
「何が」
「来てくれたこと」
「仕事だ」
「それだけ?」
「それだけだ」
ホオズキが少し笑う。
「可愛くない」
「四十四のおっさんに可愛さを求めるな」
少しだけ。
普通の会話。
数時間前まで人ではない何かに追われていたことが嘘のようだった。
「ホオズキ」
「ん?」
「次は勝手に入るな」
「……」
「返事」
「内容による」
「九条」
「分かった、分かった」
「二回言う奴は分かってない」
黒崎が歩き出す。
数歩。
「それと」
止まる。
「次に行く時は」
振り返らない。
「俺にも話を通せ」
ホオズキが目を細める。
「警察官として?」
「それ以外に何がある」
「彼氏として」
「寝ろ」
黒崎は去った。
ホオズキは少し笑った。
だが。
すぐに表情が戻る。
窓。
外。
空の色がわずかに変わり始めていた。
*
午前五時〇二分。
東京。
夜明け。
東の空から朝日が昇り始める。
Vesperのある雑居ビル。
警察の遠距離監視班が建物を見ている。
「異常なし」
双眼鏡。
「人の出入りなし」
「継続」
建物は静かだった。
一階のシャッター。
二階の暗い窓。
三階。
誰もいない。
地下入口。
黒い。
太陽が少しずつ高くなる。
光が路地へ入ってくる。
地下へ続く階段の最上段。
そこまで日光が差し込む。
監視カメラ。
録画。
午前五時十一分。
地下の暗闇。
何かがいた。
人影。
階段の途中。
こちらを見ている。
白い顔。
赤い目。
若い男。
一歩。
上がる。
朝日が、足先に触れた。
男が飛び退いた。
異常な反応だった。
火に触れた人間のように。
監視担当の警察官が身を乗り出す。
「……何だ?」
男は暗闇へ戻る。
出てこない。
朝日。
階段。
境界線。
光と闇。
その線を越えようとしない。
映像は。
すべて記録されていた。
*
午前五時二十四分。
久世の端末が鳴った。
「はい」
『監視班から映像が来ました』
「何」
『見た方が早いです』
ファイル。
開く。
再生。
階段。
人影。
日光。
後退。
久世は無言で三回見た。
それから。
「榊原さん」
隣室から返事。
「何です」
「起きてます?」
「寝ていません」
「代表」
「仮眠中」
「起こした方がいいかな」
「内容は」
久世は映像をもう一度見る。
「多分」
声が変わる。
「一個、当たりです」
*
十分後。
会議室。
眠っていたホオズキも呼ばれた。
髪は少し乱れている。
顔には疲労。
それでも映像を見た瞬間。
目が覚めた。
「もう一回」
久世が再生する。
男。
階段。
足先へ太陽光。
後退。
「作業灯じゃない」
サヤ。
「今回は日光」
久世。
「しかもかなり明確に避けてる」
レイナが画面へ近づく。
「焼けてる?」
「解像度が足りない」
「でも嫌がってる」
「それは間違いないと思う」
レンジが椅子に座る。
「吸血鬼っぽさが、どんどん増えてくな」
誰も否定しなかった。
ホオズキは腕を組む。
「日光そのもの?」
「まだ分からない」
久世が答える。
「太陽光は波長域が広い。可視光だけじゃない。紫外線も赤外線も含む」
「だから切り分ける?」
「そう」
久世は少しだけ笑った。
徹夜明けの顔。
しかし。
初めて。
こちら側が一つ情報を得た。
「紫外線A波」
「うん」
「B波」
「うん」
「可視光の各波長」
「うん」
「赤外線」
「うん」
「照度を変えて」
「全部」
「人工光と自然光」
「全部」
ホオズキが言う。
「銀も」
久世が止まる。
「銀?」
「吸血鬼なんでしょ」
「まだ仮称」
「じゃあ仮称吸血鬼」
ホオズキは指を折る。
「銀。ニンニク。十字架。聖水。木の杭。鏡。流れる水」
レンジが吹き出す。
「代表、本気?」
「本気」
「十字架も?」
「全部って言ったでしょ」
「寺の数珠とかは?」
レイナ。
「それも」
「神社のお札」
「それも」
「塩」
「それも」
「豆まきは?」
「レンジ」
「はい」
「ふざけるなら実験台にする」
「真面目です」
榊原が腕を組む。
「合理的ですな」
レンジが驚く。
「榊原さんまで?」
「効かないと分かることも情報です」
久世が頷く。
「そういうこと」
ホオズキは画面を見る。
地下の闇へ逃げた人影。
昨日までなら。
こんなものを見ても笑っていただろう。
吸血鬼。
迷信。
怪談。
映画。
小説。
子供向けの話。
だが。
ホオズキの右手首には。
確かな痛みが残っている。
「久世」
「はい」
「研究計画作って」
「了解」
「使える研究機関も探して」
「どこまで話す?」
「最初は正体不明の生体試料」
「了解」
「黒崎にも共有」
「はい」
「榊原さん」
「何でしょう」
「私たちだけじゃ足りない」
榊原は答えなかった。
「医学も必要。警察も。行政も」
「ええ」
「もし本当に吸血鬼なら」
自分で口にして。
まだ少し現実感がなかった。
それでも。
「ヤタガラス一社でどうにかする話じゃない」
榊原がゆっくり頷く。
「その認識でよろしいかと」
ホオズキは窓を見る。
東京の朝。
太陽は完全に昇っていた。
昨日と同じ朝に見える。
通勤する人々。
走る車。
電車。
ニュース。
コンビニ。
学校。
会社。
誰も知らない。
その足元。
光の届かない地下に。
人間ではないものが住んでいる。
それも。
一体ではない。
ホオズキは呟いた。
「昼は私たちの時間ってことね」
久世が言う。
「今のところは」
「なら」
ホオズキは画面の中の暗闇を見る。
「夜になる前に、できるだけ調べる」
昨夜。
彼女たちは逃げた。
撃っても止まらない敵から。
仲間を守るため。
一人の少女を連れて帰るため。
それは敗北だった。
認めるしかない。
だが。
敗北したからこそ。
敵について知った。
速い。
強い。
再生する。
血に関係している。
そして。
光を嫌う。
人間は怪物より弱い。
少なくとも。
一対一なら。
しかし。
人間には一つ。
怪物がまだ理解していない武器があった。
学ぶこと。
昨日通じなかったものが。
明日も通じないとは限らない。
九条ホオズキは静かに言った。
「次は、こっちが相手を調べる番よ」
その日の朝。
ヤタガラスは初めて。
怪物を倒すためではなく。
怪物を理解するための作戦を開始した。




