第4章 遭遇
第四章 遭遇
最初の銃声が地下通路に響いた瞬間、九条ホオズキはそれが戦闘開始の合図ではなく、戦闘そのものの意味が変わった瞬間だと理解した。
それまで彼女たちが相手にしてきたのは、人間だった。
武器を持った犯罪者も、戦場で訓練を受けた兵士も、暴力に慣れた傭兵もいた。銃弾が飛び交い、爆発が起き、人が死ぬ現場も一度や二度ではない。
しかし、どれほど手強い相手であっても、人間である以上は共通する前提があった。
銃弾は痛い。
骨が折れれば動きは鈍る。
大量に出血すれば死ぬ。
恐怖を感じる。
そして、死を避ける。
その前提が、今、目の前で消え去った。
暗闇の中から飛び出してきた男に、神代蓮司が二発撃ち込んだ。
一発目は胸部。
二発目は腹部。
至近距離だった。
外しようがない。
男の身体は確かに衝撃で後ろへ揺れた。弾丸が肉体へ叩き込まれたことも、黒い服に穴が開いたことも、ホオズキは自分の目で確認している。
それなのに、男は止まらなかった。
まるで誰かに肩を押された程度の反応しか見せず、そのままレンジへ突っ込んでくる。
「下がれ!」
ホオズキが叫んだ。
レンジは横へ身体を逃がしながら拳銃をさらに二度撃った。
顔面。
首。
命中。
それでも男は動いた。
「冗談だろ……!」
レンジが息を呑む。
男は腕を伸ばし、レンジの胸元を掴んだ。
その瞬間、レンジの身体が宙に浮いた。
成人男性を片腕で持ち上げた。
それも、ほとんど力んだ様子すらない。
「レンジ!」
サヤが横から踏み込む。
男の肘関節へ腕を絡ませ、体重を乗せて捻り上げる。
通常ならば、そのまま関節が壊れる角度だった。
乾いた音が鳴った。
骨が外れた。
男の腕が不自然な方向へ曲がる。
それでも男は顔色ひとつ変えなかった。
「……っ」
サヤの表情が初めて崩れた。
次の瞬間、男は壊れたはずの腕を振り回した。
サヤはまともに受け、壁へ叩き付けられた。
コンクリートが鈍く鳴る。
「サヤ!」
レイナが男へ向かって発砲する。
一発。
二発。
三発。
胸部へ集中。
男の身体が今度こそ後退した。
ホオズキも拳銃を構え、頭部へ一発撃つ。
男の額が跳ねた。
ようやく床に倒れる。
一瞬だけ、静寂が戻った。
「サヤ、動ける?」
「……はい」
壁にもたれながら、サヤが答える。
「肩をやりました。でも動けます」
「奈緒を守って」
「了解」
ホオズキは倒れた男から目を離さなかった。
頭部に命中している。
少なくとも、人間なら終わっている。
だが、その判断を信じることができなかった。
実際、その予感はすぐに的中した。
倒れていた男の指が動いた。
「来る!」
ホオズキが叫ぶ。
男はゆっくりと身体を起こした。
額に空いた穴から血が流れている。
それなのに、その傷口は見る間に縮んでいった。
皮膚が寄り、肉が埋まり、最後には薄い赤みだけが残る。
レンジが言葉を失う。
「……これ、マジで人間じゃねえぞ」
男は首を鳴らした。
「痛かった」
その声音には怒りよりも、むしろ少し驚いたような響きがあった。
自分が撃たれたことを、珍しい経験として楽しんでいる。
ホオズキはそれを見て、背筋に冷たいものを感じた。
銃を恐れていない。
傷を恐れていない。
死を恐れていない。
いや。
そもそも、死ぬということを現実的なものとして捉えていない。
男の背後にある暗闇から、さらに複数の人影が現れた。
一人ではない。
三人。
五人。
さらに奥にもいる。
男女が混ざっている。
服装だけを見れば、先ほどまでライブハウスで酒を飲んでいた普通の客たちだ。
だが、その誰もが奇妙なほど静かだった。
銃口を向けられても慌てない。
逃げもしない。
むしろ、好奇心を持ってこちらを眺めている。
「囲まれた」
レイナが低く言う。
「後方は?」
「今のところ空いてる」
「奈緒を中央に」
ホオズキが指示する。
サヤが森川奈緒の肩を支え、通路の壁側へ寄せた。
奈緒は完全に怯えていた。
「嫌……来る……また来る……」
「大丈夫」
サヤが短く言う。
「絶対に連れて帰るから」
だが、その言葉とは裏腹に、状況は悪化している。
ホオズキは無線を確認した。
反応なし。
通信は依然として死んでいる。
久世と繋がらない。
榊原とも繋がらない。
地上とも繋がらない。
完全に孤立している。
「レンジ」
「はい」
「ライフルまで戻れる?」
「入口側のロッカーだ。ここからだと遠い」
「必要になるかもしれない」
「今でも十分必要だろ」
レンジは苦笑した。
「でも、取りに戻るにはこいつらの横抜けなきゃならない」
ホオズキは正面を見る。
敵はまだ襲ってこない。
見ている。
まるで、こちらがどう動くのか観察しているようだった。
「……遊ばれてる」
レイナが呟く。
ホオズキも同じことを感じていた。
人間の犯罪者なら、ここまで銃撃を受けた時点で怒鳴るか、逃げるか、撃ち返すかする。
だが彼らは違う。
余裕がある。
こちらの武器を脅威だと思っていないからだ。
通路の奥から、軽い靴音が聞こえた。
銀髪の女だった。
彼女はまるで劇場の客席へ入ってくるような穏やかな足取りで近づいてきた。
銃を向けられているにもかかわらず、表情は崩れない。
「やっぱり面白い」
女は笑った。
「人間って、分からないものを見ると、まず撃つのね」
「撃たれたくなかったら、人を監禁しないことね」
ホオズキは銃口を下げない。
「この子たちを解放して」
「嫌よ」
「なら警察を呼ぶ」
「呼べないでしょう?」
女が微笑む。
ホオズキは返さない。
女はそれを見て、さらに楽しそうにする。
「外と繋がらない。出口も分からない。仲間が何人いるかも分からない」
「それでも出る」
「どうやって?」
「あなたたちをどかして」
女は小さく笑った。
「できると思う?」
「やってみないと分からない」
「いいわね」
銀髪の女は心底嬉しそうだった。
「そういうところ、好き」
ホオズキは少し目を細めた。
「あなた、何者?」
「それを知りたいの?」
「仕事だから」
「名前?」
「種族」
女の笑みが止まった。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だったが、ホオズキには分かった。
初めて興味を引いた。
「変な聞き方するのね」
「人間には見えない」
「見た目は人間でしょう?」
「見た目だけ」
女は自分の手を見た。
「そうね」
そして顔を上げる。
「でも、人間って見た目をすごく気にするでしょう?」
「質問に答えて」
「今はまだ秘密」
「じゃあ別の質問。失踪した女の子たちはどこ?」
「この中にいる子もいる」
「生きてる?」
「何人かは」
奈緒が息を詰まらせた。
ホオズキの顔から完全に表情が消えた。
「何人か?」
「そう」
「残りは」
女は答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「……レンジ」
「分かってる」
彼も表情を変えている。
さっきまでの軽口は消えた。
「こいつら、全員ぶっ潰す?」
「今は違う」
ホオズキは即座に答えた。
「奈緒を連れて帰る」
レンジがホオズキを見る。
「他の子は」
「場所が分からない」
「でも」
「今ここで全員倒れたら、誰も助けられない」
声には苦さがあった。
それでも判断は揺らがない。
「帰って、情報を持ち帰る」
サヤが短く頷いた。
「了解」
レイナも。
「了解」
銀髪の女がそのやり取りを聞いていた。
「意外」
「何が?」
「もっと感情的な人かと思った」
「残念だった?」
「少し」
「ならもっと残念にしてあげる」
ホオズキは拳銃を構え直した。
「通して」
女は首を横に振った。
「嫌」
「なら撃つ」
「どうぞ」
ホオズキはためらわなかった。
引き金を引く。
一発。
弾丸は女の胸へ命中した。
身体が僅かに後ろへ揺れる。
それだけだった。
女は自分の胸元を見る。
服に穴が開いている。
その穴からわずかに血が滲んでいた。
「……本当に撃つのね」
「言ったでしょ」
「好き」
女は笑った。
直後、姿が消えた。
ホオズキの視界から。
完全に。
「っ!」
横。
気配。
ホオズキは反射的に身体を捻る。
次の瞬間、女の手がホオズキの首があった位置を通り抜けた。
速い。
目で追える速度ではない。
ホオズキは肘を打ち込む。
女の側頭部。
命中。
だが硬い。
人間の骨とは違う感触。
むしろ鋼材を殴ったような反発が手に返ってくる。
女は笑う。
「いい反応」
ホオズキの腹へ掌底。
まともに受ければ内臓をやられる。
ホオズキは後方へ跳んで衝撃を逃がす。
それでも身体が数メートル飛んだ。
床を転がる。
「代表!」
サヤが援護射撃。
銀髪の女が横へ動く。
人間なら不可能な速度で。
弾丸が当たらない。
いや。
一発は当たった。
腕。
しかし女は止まらない。
レイナも撃つ。
レンジも。
三方向からの射撃。
女の身体へ数発命中する。
それでも、ほとんど効果がない。
「何なんだよ!」
レンジが叫んだ。
女は笑いながら彼へ近づく。
レンジは至近距離で撃つ。
胸。
腹。
頭。
銀髪の女は頭部への弾丸を受け、その瞬間だけ身体を仰け反らせた。
今度こそ倒れる。
そう思った。
だが。
女はゆっくり顔を戻した。
額から流れた血を指で拭う。
「これは少し痛い」
傷口が閉じる。
レンジの顔から血の気が引く。
「……こんなの反則だろ」
女は一歩踏み出す。
その時。
ホオズキが背後から女の膝裏を蹴った。
体勢を崩す。
「走れ!」
全員が動いた。
サヤが奈緒を支え、レイナが前方を確認する。
レンジは最後尾。
ホオズキも続く。
目的は戦闘ではない。
撤退。
それだけ。
だが通路の両側から、人影が次々と出てくる。
「前、二!」
レイナ。
「撃て!」
銃声。
一人目の胸に三発。
二人目の脚。
倒れる。
しかし立つ。
「止まらない!」
「頭!」
レンジが叫ぶ。
「頭狙え!」
レイナが頭部へ撃つ。
敵が倒れる。
数秒。
再び動く。
「ダメ!」
人間なら致命傷。
それでも止まらない。
ホオズキは頭の中で高速に情報を整理した。
銃弾は無効ではない。
当たれば衝撃はある。
身体も壊れる。
だが回復する。
つまり、こちらの攻撃が敵の再生速度を上回っていない。
「関節狙って!」
「殺せないなら動けなくする?」
「そう!」
レンジが一人の膝へ数発撃ち込む。
膝が崩れる。
敵が倒れる。
立ち上がろうとするが、すぐには動けない。
「効いた!」
「数秒だけ!」
ホオズキは叫ぶ。
「十分!」
そこから戦い方を変えた。
胸や頭を撃って倒すのではない。
脚。
膝。
肩。
関節。
とにかく動きを止める。
倒したら逃げる。
殺そうとしない。
この相手にそれを考える余裕はない。
それでも、敵の数が多い。
そして速い。
一人が天井近くの壁へ手をかけた。
そのまま信じられない動きで壁を走る。
「上!」
サヤが叫ぶ。
レンジが見上げる。
敵が天井から飛びかかる。
「嘘だろ!」
レンジが肩から体当たりを受け、床へ転がる。
拳銃が手を離れた。
敵が馬乗りになる。
口が開く。
犬歯。
レンジの首へ。
「レンジ!」
ホオズキが駆け寄る。
敵の側頭部へ蹴り。
反応しない。
もう一度。
それでも動かない。
相手の力が強すぎる。
レンジが両腕で顎を押さえるが、徐々に押し負ける。
「代表!」
レンジが歯を食いしばる。
「こいつ力……やべえ!」
ホオズキは腰からナイフを抜いた。
刃を首へ突き立てる。
入る。
だが血は少ない。
敵がホオズキを見る。
その瞬間、レンジが膝を入れる。
わずかな隙。
二人で相手を蹴り飛ばす。
「立てる?」
「何とか」
「行く!」
再び走る。
通路が長い。
入ってきた時より、明らかに長く感じる。
サヤが奈緒を支えている。
奈緒の足がもつれる。
「もう無理……」
「無理じゃない」
サヤ。
「歩ける」
「でも」
「歩いて」
声は厳しい。
だがサヤの腕はしっかりと少女を支えていた。
「ここで止まったら連れて行かれる」
奈緒の目に涙が浮かぶ。
「嫌……」
「なら歩く」
「うん……!」
その時。
前方。
鉄扉。
「入口!」
レイナ。
ホオズキが見る。
扉の前に三人。
「突破!」
四人が同時に動く。
レイナが一人の膝へ射撃。
レンジが二人目へ体当たり。
ホオズキが三人目へ。
人間相手なら、ここで押し切れる。
だが。
三人目の女がホオズキの腕を掴んだ。
手首。
強い。
骨が軋む。
ホオズキは反対の拳で顔面を打つ。
反応なし。
膝。
腹。
それでも。
女は笑う。
「弱い」
そしてホオズキを床へ叩き付けた。
肺から空気が抜ける。
「代表!」
サヤが拳銃を向ける。
撃つ。
一発。
二発。
三発。
女が少しだけ身体を逸らす。
ホオズキはその隙に腕を抜き、転がって距離を取る。
「……っ」
右手首。
痛い。
完全には動かない。
折れてはいない。
だが捻挫か、靭帯を傷めた。
「大丈夫?」
レイナ。
「動く」
嘘ではない。
動く。
それで十分。
銀髪の女の声が後方から響く。
「逃げるの?」
ホオズキは振り返らない。
「悪い?」
「もう少し遊びたかった」
「私は全然」
銀髪の女は笑っていた。
「あなたなら面白いと思ったのに」
ホオズキは走りながら言う。
「次は準備して来る」
その言葉に。
女の笑い声が止まった。
一瞬だけ。
「……次?」
ホオズキは答えない。
鉄扉。
レイナが開ける。
開かない。
「鍵!」
「壊して!」
レンジが蹴る。
一度。
びくともしない。
二度。
金属音。
三度。
蝶番が歪む。
「もう一回!」
レンジが助走を取る。
その瞬間。
背後から一人が飛びかかる。
サヤが身を入れる。
奈緒を守る。
爪。
いや。
指先。
サヤの肩を掠める。
戦闘服が裂ける。
血。
「サヤ!」
「平気!」
「全然平気じゃない!」
「今は平気!」
サヤが叫び返す。
レンジが四度目の蹴り。
蝶番が外れた。
扉が倒れる。
階段。
「上!」
全員が階段へ。
その時。
照明が点いた。
赤い。
通路全体を染める。
階段の下。
銀髪の女。
数十人の影。
彼女は追ってこない。
ただ見ている。
ホオズキが初めて立ち止まった。
互いの視線。
「次は」
女が言う。
「もっと大勢で来るの?」
「そうね」
「銃も?」
「もっと持ってくる」
「無駄なのに」
「じゃあ」
ホオズキは息を整えた。
「無駄じゃない方法を考える」
女の口元がゆっくり上がる。
「それでこそ」
ホオズキは背を向けた。
「行く!」
四人と奈緒が階段を駆け上がる。
地下二階。
地下十一段。
さらに階段。
長い。
地上が遠い。
後方から足音。
追ってきた。
「来る!」
レンジ。
「先に!」
サヤが奈緒を押す。
「外まで走って!」
「でも」
「走れ!」
少女が泣きながら階段を上る。
その時。
前方の鉄扉の隙間。
光。
白い。
外灯。
地上。
「見えた!」
レイナ。
ホオズキたちは駆け上がる。
鉄扉。
押す。
開く。
外気。
冷たい夜風。
路地。
地上。
奈緒が外へ転がるように出た。
サヤ。
レイナ。
レンジ。
ホオズキ。
全員が外へ出る。
背後。
何かが階段を駆け上がってくる。
速い。
「来る!」
レンジが振り返る。
男。
先ほど何発も撃たれた男。
顔はもう完全に治っている。
階段。
残り数段。
その時。
路地の向こう。
強烈な白い光。
一台の配送車が曲がってきた。
LEDヘッドライト。
偶然。
ただの車。
その光が地下入口へ差し込む。
男が止まった。
「……?」
次の瞬間。
顔を背ける。
腕で光を遮る。
明らかに嫌がっている。
「今!」
ホオズキ。
全員が走る。
車両。
角。
さらに路地。
後方を確認。
追ってこない。
レイナが息を切らしながら言う。
「光……嫌がった?」
「分からない」
ホオズキ。
「でも覚えておく」
路地を抜ける。
そこで。
遠くからサイレン。
一台。
二台。
さらに複数。
青い回転灯。
警察車両。
「警察?」
レンジ。
先頭車両が急停止する。
ドアが開く。
黒崎剛士。
「九条!」
怒鳴り声。
ホオズキが少しだけ笑う。
「来た」
「来たじゃない!」
黒崎が走ってくる。
「連絡しろと言っただろ!」
「今しようと思ってた」
「嘘つけ!」
黒崎はホオズキの手首を見る。
腫れ。
サヤの肩。
血。
奈緒。
怯え。
そして全員の表情。
黒崎の怒りが一瞬で消えた。
「……何があった」
ホオズキは地下入口を見る。
誰も出てこない。
「説明しても信じないと思う」
「いいから言え」
ホオズキは数秒黙った。
「撃った」
「誰を」
「人間みたいなもの」
「どういう意味だ」
「胸も撃った。頭も撃った」
「死者は」
「いない」
黒崎が理解できずに眉を寄せる。
「何発」
「かなり」
「全員外したのか」
「全部当てた」
「……何を言ってる」
レンジが笑う。
疲れ切った笑いだった。
「俺らもそう思ってますよ」
サヤが静かに言う。
「骨折しても動きました」
レイナ。
「頭部に被弾しても再生しました」
黒崎は三人を順番に見る。
そしてホオズキへ。
「薬物か?」
「説明できない」
「防弾装備」
「顔面も」
「人数」
「不明」
「武器」
「ほぼ素手」
「それで?」
黒崎の視線がホオズキの腫れた手首へ。
「これ」
「掴まれた」
「誰に」
「女」
「一人で?」
「片手」
黒崎は黙った。
信じていない。
当然だった。
ホオズキ自身ですら、目の前で起きたことを完全には理解できていない。
「一人救出した」
ホオズキは奈緒を見る。
「他にもいる」
「何人」
「分からない」
「証拠」
「撮影した」
レイナがカメラを出す。
「監禁部屋。名簿。写真」
「中へ入る」
黒崎が部下へ向き直る。
「待って」
ホオズキが言った。
「何だ」
「今は入らない方がいい」
「人質がいるんだろ」
「いる」
「なら行く」
「黒崎」
ホオズキが彼の腕を掴む。
左手で。
右手はほとんど動かない。
「本当にやめた方がいい」
黒崎が彼女を見る。
ホオズキの顔。
恐怖ではない。
だが。
警戒。
極端なほどの警戒。
彼は長く彼女を知っていた。
九条ホオズキは、危険だからという理由だけで退く人間ではない。
むしろ危険な場所ほど前へ出る。
その女が。
「今は無理」
そう言った。
「何がいる」
黒崎が低く尋ねる。
ホオズキは地下入口を見る。
「分からない」
「人間じゃないのか」
長い沈黙。
「分からない」
それが今の彼女に言える、最も正確な答えだった。
*
一時間後。
ヤタガラス本部。
医務室。
サヤの肩は裂傷。
幸い深くない。
ホオズキの右手首は重度の捻挫。
レンジには打撲多数。
レイナは軽傷。
森川奈緒は警察の保護下へ移された。
簡易検査では生命に関わる異常はない。
全員。
生きて帰った。
それだけは成功だった。
作戦室。
誰も喋らない。
榊原。
久世。
ホオズキ。
サヤ。
レイナ。
レンジ。
黒崎。
机の上。
回収した映像。
弾倉。
衣服に付着した血液。
現場で落ちていた小さな組織片。
そして。
サヤのボディカメラ映像。
再生。
男が撃たれる。
倒れる。
起きる。
傷が閉じる。
映像を止める。
誰も何も言わない。
久世がもう一度再生する。
スロー。
頭部。
着弾。
倒れる。
再生。
巻き戻し。
また見る。
「……映像バグ?」
レンジ。
「違う」
久世。
「編集?」
「してない」
黒崎。
「その場で撮ったまま?」
サヤが頷く。
「はい」
榊原が腕を組んだ。
「防弾材が皮下にある可能性」
久世が首を振る。
「傷が閉じてる」
「薬物による異常興奮」
「頭撃たれてます」
「特殊な身体改造」
「こんな再生は医学的に」
「分かってる」
榊原が遮る。
「だから今、可能性を一つずつ潰している」
部屋が静かになる。
ホオズキは何も言わない。
「代表」
榊原。
「何を考えている」
「私たちは負けた」
レンジが顔を上げる。
「逃げ切っただろ」
「そういう意味じゃない」
ホオズキは映像を見る。
「こっちは訓練通りに動いた」
「……」
「射撃も当てた。連携もできてた。判断も大きく間違えてない」
誰も反論しない。
「なのに」
彼女は続けた。
「何もできなかった」
サヤが小さく息を吐く。
「確かに」
「相手が本気で殺しに来てたら」
ホオズキは少し間を置いた。
「多分、全員死んでた」
黒崎がホオズキを見る。
彼女がそんな言い方をするのを初めて聞いた。
「つまり」
榊原。
「再度の突入は?」
「今の装備ではしない」
即答だった。
「ライフルを増やせば」
「意味ない」
「重火器」
「地下。人質がいる」
「それでも選択肢として」
「そもそも、火力を増やせば勝てる相手なのか分からない」
久世が画面を見る。
「一つだけ変な反応があります」
「何」
「最後」
映像。
地下入口。
敵が追ってくる。
車両のヘッドライト。
敵が顔を背ける。
停止。
「光」
レイナ。
「うん」
「ただ眩しかっただけでは?」
黒崎。
「可能性はある」
久世。
「でも他の場面では赤色照明ばかり」
「ライブハウスの演出」
「それもある」
ホオズキは画面を見る。
「確定はしない」
榊原が頷く。
「それでいい」
「でも調べる」
「当然です」
久世が別の資料を開く。
「血液サンプルも回します」
「専門機関?」
「最初は民間でできる範囲」
「正体不明の生体試料として」
「そうします」
黒崎が腕を組む。
「警察側でも監察医に見せる」
「機密にできる?」
ホオズキ。
「俺を誰だと思ってる」
「堅物」
「帰るぞ俺」
レンジが小さく笑った。
ほんの少し。
室内の緊張が緩む。
だが。
問題は何一つ解決していない。
「で」
久世が言う。
「名前どうします?」
「名前?」
レイナ。
「あいつら」
「正体不明生物でいいだろ」
レンジ。
「長い」
「人型異常存在?」
「もっと長い」
サヤが言う。
「再生個体」
「研究資料みたい」
久世が椅子にもたれる。
「でもさ」
誰も答えない。
「血を抜いた遺体」
彼は指を一本立てる。
「若い健康な女性を狙う」
二本。
「異常な身体能力」
三本。
「犬歯が長い」
四本。
「ほぼ不死身」
五本。
「光を嫌がる」
そして。
画面の中。
銀髪の女。
赤い瞳。
「これ」
久世は少し困ったように笑った。
「吸血鬼って呼んだ方が、説明早くないですか」
誰も笑わなかった。
榊原が久世を見る。
「馬鹿馬鹿しい」
「ですよね」
「だが」
榊原は映像へ視線を戻した。
「名前はどうでもいい」
全員が彼を見る。
榊原宗一郎は、いつもの落ち着いた声で言った。
「問題は、どうやって止めるかだ」
ホオズキは画面を見る。
銀髪の女。
あの笑顔。
地下で言われた言葉が頭に残っている。
――無駄なのに。
ホオズキは静かに答えた。
「なら調べる」
「何を?」
黒崎。
「全部」
彼女は言った。
「伝説も、医学も、物理も、化学も。笑われるようなものまで全部」
そして。
右手首を押さえながら。
「次は、効くものを持っていく」
その夜。
PMCヤタガラスは。
創設以来初めて。
自分たちが理解できない敵との戦争準備を始めた。




