第21章 夜を喰らう者たち
第21章 夜を喰らう者たち
爆発の余韻が、地下深くで長く響いていた。
天井から細かなコンクリート片が降り、焼けた配線から青白い火花が散る。
巨大搬送設備は停止していた。
壁一面に並んでいた表示灯も、ほとんどが赤から青へ変わっている。
十三。
十三基の休眠槽。
そのすべてに表示されていた文字は同じだった。
《SLEEP》
東京の地下で眠っていた始祖級吸血鬼たちは、再び沈黙した。
だが。
最後の一体だけは、眠っていなかった。
煙の向こうに女が立っていた。
いや。
それを女と呼んでよいのか、ホオズキには分からなかった。
外見だけならば、人間と大きく変わらない。
長い髪。
白い肌。
細い手足。
爆発によって左半身は黒く焼け、肩から脇腹にかけて肉が裂けている。
それでも血はほとんど流れていなかった。
損傷した身体の奥で、赤黒い筋肉がゆっくりとうごめいている。
再生しているのだ。
骨が動く。
肉が盛り上がる。
皮膚が閉じていく。
その腕の中には、アウレリアがいた。
力なく垂れた銀髪。
血に濡れた腹部。
閉じた瞳。
母と呼ばれたものは、娘を抱くようにアウレリアを胸へ寄せていた。
「返してもらう」
静かな声だった。
怒鳴り声ではない。
威嚇でもない。
それなのに、地下空間そのものが震えたように感じた。
ホオズキは銃口を下げなかった。
その左右に、御影紗夜、篠宮レイナ、神代蓮司が展開している。
全員が満身創痍だった。
紗夜の戦闘服は裂け、血が乾いて黒く変色している。
レイナの頬には切り傷が走り、片方の通信機は破損していた。
蓮司も呼吸が荒い。
弾薬も少ない。
紫外線装備も、銀弾も、ここまでの戦闘でほとんど使い果たしていた。
春樹はさらに後方。
肋骨を痛め、壁に片手をつきながら、それでも銃を構えている。
誰ひとりとして、万全ではなかった。
対して。
目の前にいる存在は、爆発で身体の半分を吹き飛ばされてなお、立っている。
蓮司が小さく息を吐いた。
「……代表」
「何」
「これ、残業代出ます?」
ホオズキは一秒だけ黙った。
「生きて帰ったら申請して」
「了解」
レイナが苦笑した。
「却下されそう」
「経理に言って」
「こんな時まで通常営業ね」
紗夜が呟いた。
誰も笑わなかった。
だが。
恐怖で固まっていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
ホオズキは、それで十分だった。
通信機に声を入れる。
「久世」
『聞こえてる』
ノイズ混じりの声が返った。
『ただし、こっちもかなり酷い。中央制御の予備電源が落ちかけてる。三分持つか怪しい』
「十三基は?」
『休眠維持に入った。搬送系も完全停止。血液供給ラインも死んでる。これ以上起こすには、設備を一から再起動する必要がある』
「つまり」
『今立ってる奴を止めれば、今回の夜は終わりだ』
ホオズキは目の前を見る。
母はアウレリアの髪を撫でていた。
奇妙なほど優しい手つきだった。
「アウレリア」
母が囁く。
「帰りましょう」
返事はない。
「あなたは疲れたのです」
その声には、本当に娘を案じる母親の響きがあった。
「長く、外にいすぎた」
ホオズキは言った。
「その子は帰らない」
女の瞳が動いた。
ゆっくりと。
ホオズキを見る。
「人間」
「あの子は自分で選んだ」
「選ぶ?」
女は、不思議そうに首を傾げた。
「子は母に従うものです」
「そう思っているから嫌われたんじゃない?」
一瞬。
沈黙が落ちた。
蓮司が横目でホオズキを見る。
レイナの眉がわずかに動く。
紗夜だけは微動だにしなかった。
母の表情から、微笑みが消えた。
「人間が、私たちのことを語るのですか」
「聞いたから」
ホオズキは答えた。
「アウレリア本人から」
「……」
「あなたが怖かったって」
母の指が止まった。
「嫌いだって」
空気が重くなる。
「そして」
ホオズキは続けた。
「私はあなたの娘じゃないって」
次の瞬間。
女が消えた。
「散開!」
叫ぶより早く、衝撃が走った。
紗夜が吹き飛ばされる。
「紗夜!」
壁へ叩きつけられた紗夜が床へ転がる。
ホオズキは引き金を絞った。
乾いた銃声。
残っていた銀弾が女の肩へ突き刺さる。
女が初めて顔を歪めた。
「蓮司!」
「はいよ!」
神代蓮司が横から撃ち込む。
連続する発砲音。
だが通常弾では、ほとんど意味がない。
胸に穴が開く。
腹部が抉れる。
そのすべてが数秒で塞がっていく。
母の腕が振られた。
蓮司は身を沈める。
頭上を何かが通過した。
背後の金属柱が折れた。
「冗談だろ!」
蓮司が床を転がる。
レイナが側面へ回った。
腰の装備から小型紫外線照射器を引き抜く。
「こっち!」
白紫色の光が走る。
女の顔へ直撃した。
「あああああああッ!」
初めて。
叫び声が上がった。
皮膚が泡立つ。
白い顔が焼ける。
しかし。
女は腕を伸ばした。
「レイナ!」
ホオズキが叫ぶ。
間に合わない。
女の指がレイナの首へ届く。
その直前。
横から紗夜が体当たりした。
二人とも床へ転がる。
紫外線照射器が落ちた。
「班長!」
「動け!」
紗夜が叫んだ。
「止まるな!」
女が振り向く。
そこへホオズキが飛び込んだ。
銃床を顔面へ叩き込む。
手応えはあった。
人間なら倒れている。
しかし。
女はほとんど動かなかった。
逆にホオズキの首を掴んだ。
「代表!」
身体が宙に浮いた。
喉が締まる。
息ができない。
ホオズキは女の腕を両手で掴んだ。
まるで鉄骨だった。
「あなたは」
女が言った。
焼けた顔が再生しながら、ホオズキを見つめる。
「アウレリアを変えた」
「……違う」
声が出ない。
それでもホオズキは言った。
「変わったのは……あの子自身よ」
「同じことです」
女の指に力が入る。
視界が暗くなる。
その時。
銃声が一発だけ響いた。
女の手首が弾けた。
ホオズキが落ちる。
「げほっ……!」
床に膝をつき、咳き込む。
撃ったのは春樹だった。
壁にもたれたまま、震える腕で銃を構えている。
「離せ」
春樹が言った。
顔は青ざめていた。
明らかに怖がっている。
それでも銃口だけは下がらなかった。
「……その人たちは、俺を助けた」
母が春樹を見る。
春樹の身体が震える。
かつて。
吸血鬼たちの中で生きてきた男。
その恐怖を誰より知っている男。
「俺は」
春樹は唇を噛んだ。
「ずっと、怖かった」
女が歩き出す。
「春樹!」
「でも」
春樹は逃げなかった。
「怖いから従うのは、もうやめた」
母が腕を振り上げた。
その腕へ。
一本の手が伸びた。
アウレリアだった。
「……やめて」
母の動きが止まる。
「アウレリア」
意識を取り戻した彼女が、母の腕の中で目を開いていた。
「やめて」
「あなたは傷ついています」
「あなたが……傷つけたのよ」
「あなたが逆らうからです」
アウレリアは笑った。
弱々しい笑いだった。
「それ」
「?」
「何百年経っても……変わらないのね」
「アウレリア」
「私があなたを怒らせる」
血のついた唇が動く。
「だから殴る」
「……」
「私が逆らう」
「……」
「だから傷つける」
アウレリアは母を見上げた。
「そして最後には、私のためだって言う」
母の顔から、完全に表情が消えた。
「あなたは私の子です」
「違う」
「私の血から生まれた」
「それでも」
アウレリアは言った。
「私は、私よ」
母の腕が震えた。
「あなたが私を作ったとしても」
銀髪の女は、ゆっくりと母の胸へ手を置いた。
「私の人生まで、あなたのものじゃない」
「――アウレリア」
「さようなら」
その瞬間。
アウレリアが身体を捻った。
母の腕から落ちる。
「九条!」
ホオズキが飛び込んだ。
床へ落ちるアウレリアを受け止める。
同時にアウレリアが叫んだ。
「久世!」
『聞こえてる!』
「循環冷却を切って!」
ホオズキが顔を上げた。
「何?」
『待て、それやったら――』
「切って!」
アウレリアが叫ぶ。
「この区画を殺すの!」
久世が息を呑む音。
次に。
『……九条代表』
ホオズキは一秒だけ考えた。
「やって」
『了解』
警告音が鳴り始めた。
《COOLING SYSTEM OFFLINE》
《CORE TEMPERATURE RISING》
《EMERGENCY EVACUATION REQUIRED》
母が周囲を見る。
初めて。
その顔に焦りが浮かんだ。
「何をした」
アウレリアがホオズキの腕の中で笑った。
「あなたたちが作った棺よ」
「……」
「休眠槽も、血液供給も、搬送路も」
低い振動が始まる。
「全部、生きるために必要だった」
母がアウレリアを見る。
「だから」
アウレリアは目を閉じた。
「墓にするの」
警報が激しくなる。
『代表!』
久世の声。
『主循環炉の温度上昇! このままいけば施設全体が持たない! 退避しろ!』
「あと何分?」
『分じゃない! 三十秒!』
「全員撤退!」
ホオズキが叫んだ。
「紗夜、レイナ! 春樹を!」
「了解!」
蓮司がアウレリアへ手を伸ばす。
「俺が持ちます!」
「お願い!」
アウレリアを背負い、走り出す。
ホオズキも続こうとした。
しかし。
背後から声がした。
「逃がさない」
振り返る。
母が立っていた。
焼けた皮膚。
再生途中の身体。
そして。
初めて浮かべる、明確な怒り。
「あなたたちは」
彼女が言う。
「私から、すべてを奪った」
ホオズキは足を止めた。
銃を捨てた。
弾はもうほとんどない。
腰から最後の武器を抜く。
黒いナイフ。
女が笑った。
「それで私を殺す?」
「いいえ」
ホオズキは答えた。
「あなたを倒す必要はない」
「?」
「あなたより速く逃げればいい」
一瞬。
女が意味を理解できずにいる。
ホオズキは踵を返した。
「逃げるわよ!」
「代表!」
「全力疾走!」
蓮司が吹き出した。
「最後それ!?」
「作戦よ!」
「どこが!」
「生還するところ!」
走った。
全員で。
地下通路を。
後ろから凄まじい音が迫ってくる。
母だ。
壁を砕き。
床を蹴り。
人間ではありえない速度で追ってくる。
「速い速い速い!」
レイナが叫ぶ。
「知ってる!」
前方に隔壁。
『あと十五秒!』
久世の声。
「開けて!」
『今やってる!』
「久世!」
『古いんだよこのシステム!』
「ハッキングで何とかして!」
『ハッキングで物理油圧は速くならねえ!』
隔壁がゆっくり上がる。
「潜れ!」
紗夜が春樹を押し込む。
レイナ。
蓮司。
背負われたアウレリア。
次々と通過する。
ホオズキが最後。
背後を見る。
母が来る。
五十メートル。
三十。
二十。
『十秒!』
ホオズキは走る。
隔壁の隙間。
身体を滑り込ませる。
母の腕が伸びた。
指先がホオズキの足首へ触れる。
その瞬間。
「閉じろ!」
隔壁が落ちた。
轟音。
巨大な鋼鉄板が母の腕を挟み込む。
向こう側から凄まじい絶叫が響いた。
『五秒!』
ホオズキは立ち上がった。
「走れ!」
階段。
非常通路。
縦坑。
全員が死に物狂いで駆け上がる。
『三!』
「上だ!」
『二!』
遠くに光が見えた。
『一!』
世界が白くなった。
*
黒崎剛士は地下搬送口を見つめていた。
「全員下がれ!」
機動隊員たちが後退する。
地下から異常振動。
地面が揺れる。
道路上の車両が跳ねた。
「地下で爆発!」
「搬送口、崩落します!」
「二次線まで下げろ!」
黒崎が怒鳴った。
その時。
地下入口から人影が現れた。
「人です!」
黒崎が目を凝らす。
最初に出てきたのは紗夜。
肩を貸しているレイナ。
春樹。
アウレリアを背負った蓮司。
そして。
「九条!」
最後にホオズキが飛び出した。
「走れ!」
黒崎が叫ぶ。
ホオズキが顔を上げる。
二人の目が合った。
その直後。
地下が爆発した。
黒崎は走った。
ホオズキも走った。
衝撃波が地上へ噴き上がる。
黒崎はホオズキへ飛びつき、そのまま二人で道路へ倒れ込んだ。
背後で搬送口が崩落する。
巨大な粉塵。
コンクリート。
鉄骨。
すべてが地下へ飲み込まれていった。
数秒。
何も聞こえなかった。
やがて。
「……九条」
黒崎の声。
「生きてるか」
ホオズキは黒崎の下で目を開いた。
「重い」
「生きてるな」
「重い」
「よし」
「どいて」
黒崎が身体を起こす。
ホオズキも座り込んだ。
互いに。
全身、埃まみれだった。
黒崎がホオズキを見る。
ホオズキも黒崎を見る。
「帰った」
そう言った。
黒崎の顔が。
ほんの少しだけ歪んだ。
「ああ」
それだけだった。
それ以上は言わなかった。
言う必要もなかった。
*
六分後。
地下観測班から報告が入った。
「熱源、消失」
黒崎が振り向く。
「もう一度」
「地下最深部の活動熱源、消失しました」
「休眠槽は」
「反応なし」
「搬送設備」
「完全停止」
「地盤変動は」
「局所崩落のみ。地上への大規模影響はありません」
黒崎は長く息を吐いた。
「分かった」
救急隊が走り回っている。
春樹が担架へ乗せられる。
紗夜が治療を拒否して隊員に怒られている。
レイナは座り込みながら水を飲んでいる。
蓮司は道路に大の字になって寝転んでいた。
「神代」
ホオズキが声をかける。
「はい」
「邪魔」
「五分だけ死なせてください」
「死んだら給料止めるわよ」
「生きます」
蓮司が起き上がった。
その横。
別の担架にアウレリアがいた。
医療班が近づくことを躊躇している。
当然だった。
人間ではない。
敵だった。
多くの犠牲を出した存在でもある。
そして。
今日、人類を救った者でもあった。
ホオズキが近づく。
アウレリアがゆっくり目を開いた。
「……母は?」
「地下」
「死んだ?」
「分からない」
ホオズキは正直に答えた。
「反応は消えた。でも、あなたたちの生命力を考えれば断言はできない」
「そう」
「ただし」
ホオズキは崩落した搬送口を見る。
「少なくとも、今日出てくることはない」
アウレリアは笑った。
「人間らしい答えね」
「褒めてる?」
「たぶん」
少しだけ沈黙。
空が明るくなり始めていた。
長い夜だった。
本当に。
長い夜だった。
「九条」
「何」
「私をどうする?」
ホオズキはアウレリアを見る。
「どうするって?」
「私は人を殺した」
「そうね」
「人を支配した」
「そうね」
「多くの子を作った」
「知ってる」
「あなたたちにとって、私は怪物よ」
ホオズキは少し考えた。
「それを決めるのは私じゃない」
「……」
「あなたがやったことは消えない」
アウレリアの表情が消える。
「今日助けたからって、昨日殺した人間が帰ってくるわけじゃない」
「そうね」
「裁くべきことがあるなら、裁かれるべきだと思う」
ホオズキは言った。
「でも」
「?」
「だからって、今日やったことまで無かったことにはしない」
アウレリアがホオズキを見る。
「十三基を眠らせたのはあなた」
「……」
「私たちを助けたのもあなた」
「……」
「それも事実」
アウレリアは目を閉じた。
「人間は、面倒ね」
「よく言われる」
アウレリアが小さく笑った。
「だから嫌いだった」
「過去形?」
「さあ」
ホオズキも、それ以上聞かなかった。
*
午前五時十一分。
東京。
夜明け。
ニュースでは、地下インフラ施設で大規模事故が発生したとだけ報じられた。
警察。
消防。
政府。
自衛組織。
医療機関。
そして、名前を公表されることのない複数の組織。
多くの人間が動いた。
情報は封鎖された。
しかし。
すべてを隠すことはできなかった。
監視カメラ映像。
負傷者。
消えた人々。
採取された血液。
破損した地下構造物。
そして、人間のものではない組織標本。
科学者たちは困惑した。
医師たちは言葉を失った。
政府関係者は報告書を何度も読み返した。
警察官たちは、自分たちが撃ったものの正体を理解できなかった。
それでも。
世界は止まらなかった。
電車が動き始める。
コンビニが商品を並べる。
新聞が配られる。
子供が学校へ向かう。
会社員が駅へ急ぐ。
誰かが恋人へメッセージを送り。
誰かが朝食を作り。
誰かが寝坊して走り出す。
人類が初めて。
自分たちの知らない存在と、本格的に接触した翌朝。
世界は。
驚くほど普通に始まった。
*
ヤタガラス本部。
午前八時四十三分。
ホオズキは自分の席に座っていた。
シャワーも浴びていない。
戦闘服のまま。
首には包帯。
頬には傷。
机には報告書が積まれている。
榊原宗一郎が、その向かいに立っていた。
「代表」
「何」
「帰宅してください」
「報告書が」
「私が処理します」
「でも」
「帰宅してください」
「……」
ホオズキは報告書を見る。
榊原を見る。
もう一度報告書を見る。
「命令?」
「お願いです」
「なら断る」
「では命令です」
「横暴」
「代表よりは」
榊原は淡々としていた。
その横で久世冬馬がコーヒーを飲んでいる。
目の下に巨大な隈。
髪はぼさぼさ。
「俺も帰っていいですか」
「久世」
「はい」
「中央制御のログ」
「解析済み。バックアップ三重。外部ネットワークから切断。暗号化保管。あと政府提出用の“見てもよく分からない版”も作りました」
榊原が眉を寄せる。
「その表現はやめろ」
「専門用語を多めにした版です」
「なお悪い」
ドアが開く。
レイナが入ってきた。
「代表」
「何」
「医務室から紗夜班長が脱走しました」
「捕まえて」
「無理です」
「何で」
「普通に仕事してます」
廊下を見る。
御影紗夜が包帯姿で書類を運んでいた。
ホオズキは額を押さえた。
「御影紗夜」
「はい」
「寝なさい」
「代表も」
「……」
「……」
二人が見つめ合う。
蓮司が横から言った。
「じゃあ全員寝るってことで」
「あなたはさっきまで寝てたでしょう」
「道路で十分寝ました」
「十分なわけないでしょう」
「代表も人のこと言えませんよ」
「うるさい」
笑い声が起こった。
小さな。
疲れ切った笑い声。
ホオズキは椅子にもたれた。
そして。
ようやく。
自分たちが帰ってきたのだと実感した。
*
昼前。
本部屋上。
ホオズキは一人で東京を見ていた。
夜とはまるで違う街。
太陽の光。
遠くを走る車。
高層ビルの窓。
風。
「こんな所にいたか」
声がした。
振り返らなくても分かる。
「勤務中じゃないの?」
「お前に言われたくない」
黒崎が隣に立つ。
二人で街を見る。
しばらく。
何も話さなかった。
先に口を開いたのは黒崎だった。
「上は大騒ぎだ」
「でしょうね」
「国会どころか、官邸、警察庁、公安、研究機関、全部だ」
「吸血鬼がいましたって?」
「その単語を使うかどうかで二時間会議したらしい」
ホオズキが笑った。
「暇ね」
「人類史上初かもしれん会議だぞ」
「結論は?」
「未確認特殊生物」
「逃げたわね」
「逃げたな」
二人とも少し笑った。
やがて。
黒崎の顔が真面目になる。
「九条」
「何」
「これからどうなると思う」
ホオズキは街を見る。
「分からない」
「珍しいな」
「分からないものは分からない」
風が髪を揺らす。
「でも」
ホオズキは続けた。
「昨日までとは違う」
「ああ」
「人間は知った」
地下に。
夜の中に。
自分たちとは違うものがいる。
神話でも。
伝説でも。
古い物語でもない。
血を流し。
傷つき。
殺し。
そして。
時には誰かを助ける。
そんな存在が。
本当にいる。
「怖いか」
黒崎が聞いた。
ホオズキは考えた。
「怖い」
素直に答えた。
「かなり」
「そうか」
「あなたは?」
「怖い」
「警視でも?」
「警視だからだ」
黒崎は腕を組んだ。
「分からんものほど怖い」
「そうね」
「だが」
彼は街を見る。
「怖いからといって、撃てばいいわけでもない」
ホオズキが横を見る。
「警察官らしい」
「PMC代表に言われたくない」
「私は撃ったわよ」
「お前は撃ちすぎだ」
「必要だった」
「知ってる」
沈黙。
その一言で十分だった。
*
「代表!」
屋上のドアが勢いよく開いた。
レイナだった。
「何?」
「依頼です!」
「今?」
「今です」
ホオズキは顔をしかめる。
「断って」
「内容も聞かずに?」
「疲れてるの」
「珍しい」
「私だって疲れる」
レイナが端末を見る。
「猫です」
ホオズキの眉が動いた。
黒崎が横を見る。
「猫?」
「近所の小学生から」
レイナは読み上げる。
「飼い猫が倉庫の屋根から降りられなくなりました。消防に電話したら怒られそうなのでヤタガラスにお願いしたいです。報酬、五百円」
沈黙。
黒崎がホオズキを見る。
「どうする、PMC代表」
「……」
「昨日は東京を救った」
「……」
「今日は猫だぞ」
「うるさい」
ホオズキは屋上出口へ歩き始めた。
「車出して」
レイナが笑う。
「受けるんですか?」
「依頼でしょう」
「五百円ですよ」
「報酬の大小で依頼人を選ばない」
黒崎が吹き出す。
「立派な経営方針だな」
ホオズキが振り返る。
「何」
「いや」
黒崎は笑っていた。
「お前らしい」
「そう」
ホオズキは歩く。
屋上から階段へ。
一階へ。
受付を通る。
そこでは少佐がソファの上で丸くなって眠っていた。
ホオズキは立ち止まる。
「……猫」
少佐が片目だけ開ける。
「あなたの仲間らしいわよ」
「にゃあ」
「行ってくる」
少佐は再び目を閉じた。
*
本部玄関。
車両が待っていた。
運転席にレイナ。
助手席に蓮司。
後部座席へ紗夜が乗ろうとしている。
「あなたは寝なさい」
「現場確認です」
「猫よ」
「警護対象になり得ます」
「なりません」
「可能性はゼロではありません」
ホオズキは頭を抱えた。
「もういい」
「代表」
榊原が玄関から声をかける。
「何」
「本日は、その依頼を最後にしてください」
「努力する」
「約束してください」
「努力する」
「代表」
「行ってきます」
ドアを閉める。
車が動き出す。
東京の街へ出る。
信号。
人。
自転車。
トラック。
いつもの景色。
昨夜。
この街の地下では、人間ではないものが目覚めようとしていた。
数時間遅ければ。
この景色は失われていたかもしれない。
それを知っている人間は、ほとんどいない。
それでいい。
ホオズキは思った。
守ったことを知られなくてもいい。
名前を呼ばれなくてもいい。
勲章がなくてもいい。
英雄になる必要もない。
朝。
子供が学校へ行き。
店が開き。
誰かが仕事へ向かい。
猫が屋根から降りられなくなる。
そんな日常が続くなら。
それでいい。
レイナがバックミラーを見る。
「代表」
「何」
「昨日のあれ、何だったんでしょうね」
「どれ」
「全部」
ホオズキは窓の外を見る。
「吸血鬼?」
「それもですけど」
レイナは少し考える。
「私たち」
「……?」
「人間なのに、あんなものと戦って」
蓮司が言う。
「しかも勝っちまった」
「完全には勝ってない」
紗夜が訂正する。
「はいはい」
「十三体の始祖級は休眠状態。アウレリアの母については生死不明。世界各地の同種存在についても――」
「班長」
「何」
「猫助けに行く車の中ですよ」
「だから?」
「雰囲気が重い」
「事実確認は重要」
また小さな笑いが起きる。
ホオズキは窓を少し開けた。
朝の風が入ってくる。
昨夜までの湿った地下の空気とは違う。
陽の匂いがした。
世界には、まだ夜がある。
知らないものがいる。
恐ろしいものがいる。
人間より強いもの。
人間より長く生きるもの。
人間を食糧としか見ないもの。
きっと。
これからも現れる。
科学は調べるだろう。
政府は管理しようとするだろう。
警察は法を考えるだろう。
軍は対処法を作るだろう。
人間は争う。
恐れる。
利用しようとする。
共存しようとする者も現れる。
そして。
また誰かが間違える。
それでも。
人間は朝を迎える。
夜に怯えながら。
夜を調べ。
夜へ入り。
夜から誰かを連れ帰る。
そうして。
少しずつ。
自分たちの知らなかった闇を、自分たちの世界へ取り込んでいく。
ホオズキは思う。
吸血鬼だけが夜を喰らうのではない。
人間もまた。
夜を喰らう。
恐怖を。
未知を。
絶望を。
理解できないものを。
少しずつ噛み砕いて。
血まみれになりながら。
間違えながら。
それでも飲み込んで。
朝へ進む。
「代表」
蓮司が振り返った。
「猫、名前分かります?」
レイナが端末を見る。
「クロ」
「黒猫?」
「白猫」
「なんで?」
「知らない」
ホオズキは笑った。
「依頼人に聞きなさい」
「了解」
車が交差点を曲がる。
眩しい朝日が、フロントガラスを照らした。
昨夜。
世界は終わらなかった。
神が救ったわけではない。
奇跡が起きたわけでもない。
傷ついた者がいて。
怖がった者がいて。
逃げたかった者がいて。
それでも。
最後まで持ち場を離れなかった者たちがいた。
ただ、それだけだった。
黒い車両が東京の雑踏へ消えていく。
誰も振り返らない。
誰も知らない。
それでいい。
彼らは英雄ではない。
怪物でもない。
夜の中へ入り。
朝まで帰ってくる者たち。
名を。
ヤタガラス。
夜を喰らう者たち。
――第21章 了




