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第20章 母

第20章 母


「――あれは、私の母よ」


アウレリア・セレスティンの声だけが、中央制御室に残った。


誰もすぐには言葉を返さなかった。


制御盤を埋め尽くしていた赤い警告表示は、その大半が消えている。


十四基まで増えていた覚醒表示は、十三基が再び休眠状態へ移行した。


主送血管は止めた。


循環返送管も遮断した。


予備供給槽も空にした。


巨大搬送設備への電力も切った。


地上では黒崎剛士率いる警察部隊が搬送口を封鎖し、途中までせり上がっていた石棺も動きを止めている。


作戦は成功した。


少なくとも、数字の上では。


ただ一つ。


最下層。


施設の最深部にある休眠槽だけが違った。


《AWAKE 100%》


白い文字が、暗い画面の中央に浮かんでいる。


ホオズキはその表示から目を離さなかった。


「母、というのは」


低い声で尋ねる。


「血のつながった母親か?」


アウレリアはしばらく答えなかった。


いつもの彼女なら、こういうときには笑う。


人間を見下すような、相手の反応を楽しむような、薄い笑みを浮かべる。


だが今は違った。


その顔には、笑みがなかった。


「いいえ」


やがてアウレリアは答えた。


「私を産んだ女は、とうの昔に死んでいるわ」


ホオズキが振り返る。


アウレリアは最下層へ続く隔壁を見つめていた。


「あれは、私を今の私にした存在よ」


「吸血鬼にした?」


「そう」


アウレリアは短く答えた。


その声には、奇妙なほど感情がなかった。


だからこそホオズキは気づいた。


恐れている。


この女は、恐れている。


アウレリア・セレスティン。


人間を餌と呼び、何十年、何百年という時間を生き、地下社会に血族を築き、東京そのものを混乱に陥れた女が。


最下層にいる何かを、恐れている。


春樹が壁にもたれながら顔を上げた。


折れた肋骨をかばうように片手を脇腹へ当てている。


額には脂汗が浮かんでいた。


「……来る」


紗夜が春樹を見る。


「何が?」


「分からない」


春樹は首を振った。


「でも……近づいてる」


「搬送機は止まってるぞ」


蓮司が言った。


久世が端末を操作する。


「機械系統は完全停止してる。電力供給もゼロだ。最下層からこっちへ来るには、自分の足で来るしかない」


レイナが乾いた笑いを漏らした。


「じゃあ歩いて来てるってこと?」


誰も答えなかった。


そのとき。


ごん。


床の下から、鈍い音がした。


全員が黙る。


ごん。


二度目。


金属を叩く音ではない。


何か巨大なものが、施設そのものへ触れているような響きだった。


ごん。


三度目。


照明が一瞬だけ暗くなった。


春樹が歯を食いしばる。


「……違う」


「何がだ」


ホオズキが尋ねる。


「歩いてるんじゃない」


春樹は最下層の表示を見た。


「開けてる」


アウレリアが目を閉じた。


「そうでしょうね」


ホオズキは彼女を見る。


「説明しろ」


アウレリアは返事をしなかった。


ホオズキは一歩近づいた。


「ここまで来て、まだ隠すつもりなら――」


「隠したかったのよ」


珍しく、アウレリアが言葉を被せた。


その声は静かだった。


「私自身が」


ホオズキは黙った。


アウレリアは制御卓に手を置く。


白い指が微かに震えていた。


「ずっと、忘れたかった」


そして彼女は語り始めた。


---


アウレリアがまだ人間だったころ。


世界は今とは違っていた。


夜は本当に暗かった。


町を一歩離れれば灯りなどなく、森の中では月と星だけが道標だった。


疫病で村が一つ消えることも、戦で町が焼かれることも珍しくなかった。


人間の命は軽かった。


だから、数人が姿を消したところで誰も気に留めなかった。


最初に消えたのは旅人だった。


次に孤児。


その次は娼婦。


罪人。


戦場から逃げた兵士。


家族を失った者。


社会からこぼれ落ちた人間から、順番に消えていった。


「今と何も変わらないでしょう?」


アウレリアは笑わなかった。


「怪物というものはね、いつの時代も、誰にも探されない人間から食べるのよ」


ある冬。


アウレリアもまた、そうして消えた。


当時の彼女は、ただの若い女だった。


特別な血筋でもない。


特別な力もない。


神に選ばれたわけでもない。


ただ、生きたかった。


それだけだった。


山中の地下施設。


当時は施設ですらなかった。


古い石造りの地下空間。


そこでアウレリアは初めて「あれ」を見た。


女の姿をしていた。


白い肌。


長い髪。


何百年眠っていたのかも分からないほど古びた衣服。


だが肉体だけは若いままだった。


「最初に思ったのは、美しい、だった」


アウレリアが言う。


「次に思ったのは――逃げなければ、だった」


逃げられなかった。


噛まれた。


血を与えられた。


何日間も熱に浮かされ、何度も死にかけた。


そして目覚めたとき、世界が変わっていた。


暗闇が見えた。


遠くの心臓の音が聞こえた。


人間の匂いが分かった。


そして何より。


飢えていた。


「最初に殺した人間の顔を、私はまだ覚えている」


アウレリアは言った。


「忘れたくてもね」


誰も口を挟まない。


「母は私に教えたわ。人間は食料だと。家畜だと。恐怖を与え、互いに疑わせ、孤立した者から食べればいい。社会そのものを壊す必要はない。社会は餌を育てる牧場なのだから、と」


ホオズキの眉がわずかに動いた。


「だからお前たちは隠れていた」


「ええ」


アウレリアは頷く。


「国家を滅ぼす必要なんてない。人間を皆殺しにする必要もない。むしろ文明が発達するほど便利だったわ。人口が増える。交通網が広がる。記録に残らない人間も増える。戦争が起きれば死体はいくらでも紛れる」


蓮司が吐き捨てる。


「胸糞悪い話だ」


「そうね」


アウレリアは否定しなかった。


「私も、そういう存在になった」


ホオズキは彼女の横顔を見つめる。


アウレリアは続けた。


「母は絶対だった。命令に逆らうという発想そのものがなかった。恐怖だけではないわ。私たちの身体そのものが、あの声に従おうとする」


春樹が顔を上げた。


「……声」


アウレリアが彼を見る。


「あなたにも聞こえるでしょう?」


春樹は答えなかった。


その沈黙が答えだった。


アウレリアは再び最下層の表示へ視線を戻した。


「やがて私は逃げた」


「逆らったのか?」


ホオズキが尋ねる。


「違うわ」


アウレリアは静かに首を振った。


「怖くなって逃げたの」


その答えは、妙に人間らしかった。


「母は眠りについた。何十年、何百年という眠りに。私はその隙に遠くへ逃げた。名を変え、国を変え、自分の血族を作った」


レイナが口を開く。


「それが、あなたの一派?」


「ええ」


「じゃあ自分も同じことをしたじゃない」


レイナの声には明確な嫌悪があった。


「人間を吸血鬼にして、自分の下につけて」


「その通りよ」


アウレリアは即答した。


レイナが言葉を失う。


アウレリアは初めて、自嘲するように笑った。


「随分と長い時間をかけて気づいたわ」


そして言った。


「私は母から逃げたのに、母と同じものになっていた」


制御室に沈黙が落ちた。


「娘を作った。息子を作った。従わせた。逆らう者を罰した。人間を玩具にした。自分より弱い者が怯える姿を見て、自分は母とは違うと思い込んだ」


アウレリアの口元から笑みが消える。


「馬鹿な話ね」


ホオズキは何も言わない。


「母が怖かったから、母になることで安心しようとした」


そのとき。


ごん。


また床下から音が響いた。


さっきより近い。


久世が画面を確認する。


「最下層隔壁、一枚目が開いた」


「電源は?」


「入ってない」


蓮司が顔をしかめる。


「手で開けたってか」


「隔壁一枚、推定重量六トン」


「聞かなきゃよかった」


紗夜がホオズキの前へ半歩出る。


負傷した身体で、それでも代表を守る位置につく。


ホオズキが言った。


「サヤ」


「はい」


「無理するな」


「代表こそ」


短いやり取りだった。


それで十分だった。


アウレリアが二人を見る。


その目には、どこか理解できないものを見るような色が浮かんでいた。


「不思議ね」


ホオズキが視線だけを向ける。


「何が」


「あなたは支配していない」


「何の話だ」


「この人たちよ」


アウレリアは紗夜、蓮司、レイナ、久世、春樹を順に見る。


「あなたが命令すれば動く。でも、あなたを恐れているわけではない」


蓮司が肩をすくめた。


「そりゃ、まあ。怒らせると怖いけどな」


レイナが小声で続ける。


「経費申請遅れたときとか」


「今その話をするな」


ホオズキが即座に返す。


久世が端末を見たまま言った。


「代表、経費申請は期限内提出が原則です」


「久世まで乗るな」


ほんの一瞬。


笑いが漏れた。


緊張で固まっていた空気がわずかに緩む。


アウレリアはその光景を見ていた。


奇妙なものを見る目で。


そして、ぽつりと言った。


「……そういうやり方も、あったのね」


誰も何も言わなかった。


ホオズキだけが答えた。


「今さらだ」


「ええ」


アウレリアは頷いた。


「本当に」


ごん。


二枚目の隔壁が開いた。


今度は施設全体が揺れた。


天井から細かな埃が落ちる。


久世が叫ぶ。


「最下層から熱源移動!」


「速度は?」


「遅い。人間の歩行速度とほぼ同じ」


「一体か?」


「一体」


久世は数秒沈黙した。


「……一体だけです」


それが逆に恐ろしかった。


十三基の始祖級休眠槽。


大量覚醒。


東京の都市機能を崩壊させ得る規模の危機。


それらをすべて封じても。


一体だけで、なおこの場にいる全員が警戒している。


ホオズキは銃の弾倉を確認する。


残弾は少ない。


銀弾も紫外線装備も消耗している。


「アウレリア」


「なに?」


「あれを殺せるか」


アウレリアは答えなかった。


ホオズキが再び尋ねる。


「殺せるのか」


長い沈黙のあと。


アウレリアは言った。


「分からない」


蓮司が眉を上げる。


「お前でも?」


「私だからこそ、分からないのよ」


その言葉の意味を、ホオズキは理解した。


強さの問題だけではない。


アウレリアにとって、最下層から近づいてくる存在は敵ではなかった。


何百年経っても。


どれほど自分が強くなっても。


どれだけ多くの者を従えるようになっても。


心のどこかでは。


まだ「母」なのだ。


ホオズキは銃を下ろした。


そしてアウレリアの前に立った。


「顔を上げろ」


アウレリアが眉を寄せる。


「命令?」


「そうだ」


ゆっくりと、アウレリアがホオズキを見る。


「お前は何歳だ」


「女性に年齢を聞くものではないわ」


「そういう冗談を言えるなら問題ない」


「……嫌な女」


「よく言われる」


ホオズキは真っ直ぐにアウレリアを見る。


「お前の母親だろうが何だろうが、私には関係ない」


アウレリアの目が細くなる。


「……九条」


「何百年前に噛まれたかも、何人殺したかも、何人従わせたかも、今は置いておく」


「随分都合がいいわね」


「後で全部清算する」


ホオズキは言い切った。


「生きていたらな」


アウレリアが黙る。


「だが、今ここで必要なのは、お前が何をするかだ」


ごん。


三枚目。


最終隔壁。


開放。


久世の端末に警告が走った。


《LOWER ACCESS OPEN》


春樹が両手で頭を押さえた。


「来る……!」


紗夜が春樹を支える。


「しっかり!」


「声が……」


春樹の呼吸が荒くなる。


「何て言ってる?」


ホオズキが訊く。


春樹は震えながら答えた。


「帰れって」


アウレリアの顔が変わった。


春樹が続ける。


「みんな……帰ってこいって」


直後だった。


制御室の奥。


最下層へ続く通路から。


声がした。


大きくはない。


女の声だった。


『――アウレリア』


全員が動きを止めた。


スピーカーではない。


通信機でもない。


確かに通路の奥から聞こえた。


距離はまだある。


それなのに、耳元で囁かれたように鮮明だった。


アウレリアの肩が震える。


ホオズキはそれを見逃さなかった。


『アウレリア』


二度目。


『こちらへ』


アウレリアの右足が動いた。


無意識だった。


一歩。


最下層へ。


さらに一歩。


「アウレリア」


ホオズキが呼ぶ。


反応がない。


『帰っておいで』


アウレリアの瞳が虚ろになる。


その唇が微かに動いた。


「……はい」


次の瞬間。


乾いた音が響いた。


ホオズキがアウレリアの頬を平手で打っていた。


レイナが目を丸くする。


蓮司が「うわ」と小さく漏らす。


アウレリアは数秒、何が起きたのか分からない顔をしていた。


やがて頬を押さえる。


「……あなた」


「目が覚めたか」


「私を叩いた?」


「必要だった」


「この私を?」


「もう一発いるか」


アウレリアがホオズキを睨む。


その瞳に光が戻っていた。


「本当に嫌な女」


「それも聞いた」


アウレリアはしばらくホオズキを睨んでいた。


そして。


笑った。


ほんの僅かに。


これまで人間を弄ぶときに見せてきた笑みとは違った。


「そうね」


彼女は通路へ向き直る。


「今さら、帰る家でもないわ」


『アウレリア』


声が変わった。


温かさが消えた。


命令する声になった。


『来なさい』


アウレリアの身体が硬直した。


だが今度は動かなかった。


両手を握り締める。


爪が掌へ食い込む。


「嫌よ」


小さな声だった。


しかし確かに届いた。


通路の奥から返事はない。


アウレリアはもう一度言った。


「嫌」


少し強く。


「私は行かない」


空気が震えた。


春樹が膝をつく。


警報が一斉に鳴った。


十三基の休眠槽の表示が変化する。


《SLEEP》


《SLEEP》


《SLEEP》


その文字の横に、新たな数値が現れた。


三パーセント。


五パーセント。


七パーセント。


久世の顔色が変わる。


「再覚醒が始まった!」


「血液供給は止まってるぞ!」


蓮司が叫ぶ。


「供給なし! 電力なし! なのに覚醒率が上がってる!」


ホオズキがアウレリアを見る。


「母親がやってるのか」


「おそらく」


「止め方は」


アウレリアは数秒考えた。


そして制御盤の奥を指した。


「最深部に主制御核がある」


久世が首を振る。


「中央制御室が主系統じゃないのか?」


「ここは現代側の制御室よ」


アウレリアは言った。


「人間が後付けした設備を管理する場所」


「じゃあ最深部には何がある」


「この施設が最初から持っていた仕組み」


「機械か?」


「分からない」


「またそれか」


「何百年前に作られたものだと思っているの」


アウレリアが吐き捨てる。


「私だって設計図を読んだわけじゃない」


久世が表示を睨む。


「覚醒率九パーセント」


ホオズキが即座に決断した。


「最深部へ行く」


紗夜が振り向く。


「代表」


「ここにいても十三体が起きるだけだ」


「ですが――」


「サヤ」


ホオズキは紗夜の負傷箇所を見る。


「お前は春樹と久世を守れ」


「嫌です」


即答だった。


ホオズキが少し眉を上げる。


「命令だ」


「代表の近接警護が私の任務です」


「負傷している」


「代表もです」


「私は動ける」


「私も動けます」


「サヤ」


「嫌です」


二度目。


ホオズキは数秒、紗夜を見つめた。


この状況で言い争っている時間はない。


「……五分遅れたら置いていく」


「承知しました」


「置いていくと言ったんだぞ」


「五分以内なら同行可能という意味ですね」


蓮司が小声で笑った。


「強いなあ、サヤ」


レイナも頷く。


「代表相手にあれ言えるのサヤさんくらいだよね」


「お前たちも聞こえているぞ」


「はいはい」


久世が声を上げた。


「十二パーセント!」


空気が変わる。


冗談は終わった。


ホオズキは全員を見る。


「聞け」


その一言で、視線が集まる。


「ここから先は目的を一つにする」


十三基の休眠槽を再封鎖する。


最深部の一体を止める。


それだけ。


「無理に殺す必要はない。動きを止めればいい。再封鎖できるなら封鎖。設備を壊して止まるなら破壊。何でもいい」


「了解」


蓮司が銃を構える。


「久世」


「はい」


「中央制御室から支援。覚醒率を逐次報告」


「了解」


「春樹」


ホオズキが彼を見る。


「残れるか」


春樹は荒い呼吸を整えながら頷いた。


「行けます」


「訊いてない。残れるかと訊いた」


春樹が一瞬黙る。


やがて苦笑した。


「……残ります」


「それでいい」


「代表」


「何だ」


春樹は少し迷ってから言った。


「あの声」


「うん」


「あれ、怒ってます」


ホオズキは最下層の通路を見る。


「ちょうどいい」


春樹が目を瞬く。


「こちらも腹が立っている」


蓮司が笑う。


レイナも口元を緩める。


紗夜だけはいつもの無表情だったが、その目には同意があった。


アウレリアが呆れたように言った。


「あなた、本当に怖くないの?」


ホオズキは答えた。


「怖いに決まってるだろう」


アウレリアが意外そうな顔をする。


「怖くない人間なんていない」


ホオズキは装備を整える。


「怖いから、準備する」


弾倉。


通信。


ライト。


ナイフ。


負傷者。


退路。


残り時間。


全て確認する。


「怖いから仲間を連れていく」


紗夜が静かに銃を構えた。


「怖いから逃げ道も考える」


レイナが最下層の構造図を端末へ呼び出す。


「それでも行かなきゃならないなら」


蓮司が先頭へ出る。


「行く」


ホオズキはアウレリアを見た。


「それだけだ」


アウレリアは何も言わなかった。


しばらく。


本当に長い間。


彼女はホオズキを見ていた。


やがて、小さく息を吐く。


「……人間は」


「?」


「弱いから嫌いだった」


ホオズキは黙って聞く。


「すぐ死ぬ。怯える。泣く。裏切る。寿命なんて一瞬。何百年生きても、同じ愚かなことを繰り返す」


「否定はしない」


「でも」


アウレリアはホオズキの横を通り過ぎた。


そして最下層へ続く通路の先頭に立つ。


「弱いからこそ、こういう生き方ができるのね」


ホオズキが眉を上げる。


「急にどうした」


「独り言よ」


アウレリアは振り返らない。


「行きましょう」


「待て」


アウレリアの足が止まる。


ホオズキが彼女の横へ並んだ。


「先頭は私だ」


「なぜ?」


「依頼を受けたのはヤタガラスだ」


「相手は私の母よ」


「だから何だ」


「家族の問題でしょう?」


ホオズキは鼻で笑った。


「東京の地下で十三体の化け物を起こしかけてる時点で、家庭内の問題じゃない」


蓮司が吹き出した。


レイナが顔を背けて笑う。


アウレリアは一瞬呆気に取られたあと。


「……本当に」


頭を振った。


「嫌な女」


「三回目だ」


二人は並んで歩き始めた。


---


最深部への通路は、現代の東京とは思えない場所だった。


途中まではコンクリートと鋼鉄。


配線。


配管。


警告灯。


だが降りるにつれて、それらが少なくなっていく。


最後には石だけになった。


機械が古代遺跡を包み込んでいる。


いや。


正確には。


人間が、はるか以前から存在していた何かへ機械を継ぎ足したのだ。


レイナが壁へライトを向ける。


彫刻。


文字。


記録。


だが意味は分からない。


「読める?」


レイナが尋ねる。


アウレリアは首を振った。


「私が生まれるより古い」


「あなたより?」


「ええ」


レイナはそれ以上訊かなかった。


久世の声が通信に入る。


『覚醒率十八パーセント』


ホオズキが歩調を上げる。


通路の先。


開いた隔壁。


その向こうに巨大な空間があった。


最下層。


円形の部屋。


中央に一基の石棺。


いや。


石棺だったもの。


蓋は床へ落ちていた。


真っ二つに割れている。


その向こう。


一人の女が立っていた。


裸足だった。


白い足が冷たい石床に触れている。


身体には古びた布が巻き付いているだけ。


長い髪。


痩せてもいない。


筋肉質でもない。


外見だけなら、どこにでもいる細身の女に見えた。


若い。


三十にも見えない。


だが。


全員が本能的に銃口を向けた。


女がゆっくり顔を上げる。


瞳は赤くない。


黒かった。


光を吸い込むような、深い黒。


その視線が。


ホオズキを通り。


紗夜を通り。


蓮司を通り。


レイナを通り。


最後にアウレリアで止まった。


女の口元が微かに持ち上がる。


「……大きくなった」


アウレリアの呼吸が止まる。


「アウレリア」


声は穏やかだった。


母親が、久しぶりに帰ってきた娘を見るような。


「おいで」


アウレリアは動かなかった。


女の笑みが少し薄くなる。


「聞こえなかった?」


アウレリアが震える息を吐く。


そして。


「聞こえたわ」


「なら」


「行かない」


沈黙。


施設全体が静まり返った。


女の顔から笑みが消えた。


「……なぜ?」


アウレリアは答えようとした。


だが言葉が出ない。


何百年も。


この瞬間を恐れていた。


逃げ続けた。


母が眠っている場所から離れ。


海を渡り。


国を変え。


名前を変え。


自分の城を作った。


それでも。


心の奥では。


ずっと少女のままだった。


命令されれば従う。


怒らせれば殺される。


捨てられれば生きられない。


あの日のまま。


女が一歩進む。


アウレリアの身体が後退しようとする。


その肩を。


誰かが押さえた。


ホオズキだった。


強くはない。


ただ、そこに手を置いただけ。


「言え」


アウレリアが横目で見る。


「何を」


「自分で考えろ」


「……最低」


「知ってる」


アウレリアは目を閉じた。


そして。


母を見る。


「あなたが嫌い」


初めて。


言った。


黒い瞳がわずかに細くなる。


「あなたが怖かった」


声が震える。


「ずっと怖かった」


一歩。


アウレリアが前へ出た。


「だから逃げた」


もう一歩。


「あなたみたいになれば、あなたを怖がらなくて済むと思った」


女の顔に、理解できないという表情が浮かぶ。


アウレリアは笑った。


涙は流さなかった。


ただ。


何百年も言えなかった言葉を。


ようやく口にした。


「でも、もうやめるわ」


「アウレリア」


「私はあなたの娘じゃない」


その瞬間。


空気が爆発した。


見えない衝撃が円形室を走った。


ホオズキたちが吹き飛ばされる。


「っ!」


紗夜が壁へ叩きつけられる。


蓮司が床を転がる。


レイナの端末が飛ぶ。


アウレリアだけが立っていた。


母と向き合ったまま。


女の顔から、人間らしい表情が完全に消えていた。


「なら」


低い声。


「死になさい」


女が消えた。


ホオズキには、そう見えた。


次の瞬間。


アウレリアの身体が宙へ浮いた。


母の右手が、その首を掴んでいる。


速い。


これまで戦ってきた吸血鬼とは違う。


アウレリアですら反応できていない。


「アウレリア!」


ホオズキが銃を撃つ。


銃声。


銀弾が女の肩へ命中した。


肉が裂ける。


だが女はアウレリアを離さない。


ホオズキはさらに二発。


三発。


女が初めてホオズキを見る。


「九条」


ホオズキの目が細くなる。


「私の名前を知ってるのか」


「お前が」


女はアウレリアを放り投げた。


「私の娘を壊した」


ホオズキは銃口を下げない。


「勘違いするな」


女が首を傾げる。


「私は何もしてない」


ホオズキは言った。


「そいつが勝手に決めた」


床に倒れていたアウレリアが、咳き込みながら笑った。


「……そういうところよ」


「黙ってろ」


「ふふ……」


久世の声が通信へ飛び込む。


『覚醒率二十五! 二十六! 上昇速度が増えてる!』


ホオズキが叫ぶ。


「制御核は!」


アウレリアが咳き込みながら指を伸ばす。


「石棺の……後ろ……!」


レイナが見る。


壁面。


石棺の裏側。


巨大な円形構造物。


中央には赤黒い脈のようなものが走っている。


機械なのか。


生体組織なのか。


判別できない。


その周囲へ、現代のケーブルが無数に接続されていた。


「久世! 見えるか!」


『映像来てる!』


レイナのボディカメラ映像を通じて、久世が解析する。


『現代側の電力線は全部そこへ集約されてる! おそらく休眠槽の根幹制御だ!』


「壊せる?」


レイナが尋ねる。


『壊して何が起きるかは保証できない!』


蓮司が銃を構え直す。


「他に案あるか?」


『ない!』


「なら十分!」


蓮司が走る。


母が振り向く。


その前へホオズキが入る。


銀弾を撃つ。


母が腕で受ける。


肉が裂ける。


血が飛ぶ。


だが傷はすぐに閉じ始める。


速すぎる。


「代表!」


紗夜が横から援護射撃。


母の足が止まる。


その隙にレイナと蓮司が制御核へ近づく。


「爆薬!」


蓮司が叫ぶ。


レイナが残った装備を確認する。


「これだけ!」


「充分!」


母が動こうとする。


だが。


その腕を。


アウレリアが掴んだ。


母が振り返る。


「アウレリア」


「行かせない」


「離しなさい」


「嫌」


母の表情が歪む。


アウレリアの腹部へ拳がめり込む。


骨の砕ける音。


アウレリアが血を吐く。


それでも離さない。


「嫌よ」


もう一撃。


アウレリアの身体が揺れる。


「私は」


それでも。


手を離さない。


「もう」


母の爪がアウレリアの脇腹へ食い込む。


「あなたの言うことを」


血が床へ落ちる。


「聞かない!」


アウレリアが叫んだ。


蓮司が爆薬を設置する。


レイナが起爆線を繋ぐ。


「設置完了!」


「全員離れろ!」


ホオズキが叫ぶ。


アウレリアは母を掴んだまま。


ホオズキが見る。


「アウレリア!」


「やりなさい!」


「離れろ!」


「時間がない!」


久世の声。


『覚醒率三十四パーセント!』


ホオズキは一瞬だけ迷った。


ほんの一瞬。


軍人だったころ。


あの国外任務。


救出命令を待ち続けた時間が脳裏をよぎる。


上層部の決定が遅れ。


目の前にいた民間人を救えなかった。


判断を待った。


責任を恐れた。


そして。


間に合わなかった。


二度と。


同じことはしない。


ホオズキは起爆装置を見る。


アウレリアが笑う。


「九条」


「何だ」


「あなたのこと」


血を流しながら。


アウレリアは、いつもの薄い笑みを浮かべた。


「やっぱり嫌いよ」


ホオズキの親指が起爆スイッチへかかる。


「奇遇だな」


そして。


「私もだ」


押した。


閃光。


爆発。


最深部が白く染まった。


爆風が通路を駆け抜ける。


ホオズキは紗夜とレイナを庇うように伏せた。


蓮司が床へ転がる。


石壁が砕ける。


巨大な円形制御核が割れた。


赤黒い内部構造が裂ける。


施設全体を走っていた低い振動が。


止まった。


久世の声。


『覚醒率低下!』


三十四。


三十一。


二十六。


十九。


十二。


九。


四。


そして。


《SLEEP》


一基。


二基。


三基。


十三基すべて。


《SLEEP》


中央制御室で久世が叫んだ。


『止まった!』


だがホオズキは答えない。


爆煙を見つめていた。


「アウレリア」


返事はない。


「アウレリア!」


煙の向こう。


何かが動いた。


ホオズキが銃を構える。


最初に見えたのは。


白い手。


次に。


黒い髪。


母だった。


身体の左半分が焼けている。


皮膚は裂け。


骨が露出している。


それでも。


立っていた。


その腕の中に。


アウレリアがいた。


意識はない。


血まみれだった。


母は娘を抱いていた。


まるで。


幼い子供を抱くように。


「……返してもらう」


母が呟いた。


ホオズキが立ち上がる。


「置いていけ」


「私の娘だ」


「違う」


母の黒い瞳がホオズキを見る。


ホオズキは銃口を向けた。


「そいつはさっき自分で言った」


母の顔が歪む。


「お前の娘じゃない」


沈黙。


母はゆっくりアウレリアを床へ置いた。


そして。


ホオズキへ向き直った。


その身体が再生し始める。


遅い。


爆発の損傷が大きすぎる。


それでも確実に。


肉が戻っている。


紗夜がホオズキの横へ立つ。


蓮司も立ち上がる。


レイナが残った弾倉を装填する。


通信から久世の声。


『代表』


「聞こえてる」


『地上の黒崎さんからです』


一瞬のノイズ。


そして。


黒崎剛士の声が入った。


『ホオズキ』


「黒崎」


『地下の再覚醒反応が全部消えた』


「そうか」


『だが一つだけ熱源が残ってる』


ホオズキは目の前の女を見る。


「こっちにいる」


数秒の沈黙。


黒崎はそれ以上訊かなかった。


『帰って来られるか』


ホオズキは少しだけ笑った。


「努力する」


『努力じゃない』


黒崎の声が低くなる。


『帰ってこい』


ホオズキは目を閉じる。


ほんの一瞬。


そして。


「了解」


通信を切った。


母がそのやり取りを見ていた。


「理解できない」


ホオズキが目を開く。


「何が」


「なぜ弱い者同士で寄り集まる」


「さあな」


「なぜ他者のために傷つく」


「知らん」


「なぜ死ぬと分かっていて前へ出る」


ホオズキは少し考えた。


そして肩をすくめた。


「人間だからじゃないか」


母の目が細くなる。


ホオズキは銃を構えた。


「それより」


紗夜。


蓮司。


レイナ。


それぞれが並ぶ。


背後では。


アウレリアが微かに息をしている。


通信の向こうには久世と春樹。


地上には黒崎。


そして東京には。


何も知らず眠っている何百万という人間がいる。


十三基の始祖級は眠りに戻った。


搬送設備は止まった。


地下施設の根幹制御も破壊した。


残ったのは。


一体。


ただ一体。


長い夜の最後。


ホオズキは母を見据える。


「お前を片づければ終わりだ」


母は初めて。


明確な敵意を見せた。


「九条」


「何だ」


「お前たちは、何者だ」


ホオズキは答えなかった。


代わりに。


蓮司が笑った。


「今さらそれ聞く?」


レイナが息を整える。


「自己紹介、まだだったっけ」


紗夜は静かに銃口を上げた。


ホオズキの口元に。


ほんの僅かな笑みが浮かぶ。


長い夜だった。


人間が。


初めて本格的に怪物の存在を知った夜。


科学が説明できないものと出会い。


警察も。


軍も。


政府も。


一企業に過ぎないヤタガラスも。


誰も正解など知らないまま。


それでも。


目の前の命を守るために戦った。


怪物は夜を食う。


人の血を吸い。


恐怖を糧にし。


暗闇の中で生きてきた。


なら。


その怪物ごと。


夜を喰らってしまえばいい。


ホオズキは一歩前へ出た。


「PMCヤタガラス」


そして。


最後の戦いが始まる。


---


第20章 了


次章――最終章

第21章「夜を喰らう者たち」

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