第2章 情報の海
第二章 情報の海
情報というものは、集めれば集めるほど真実に近づくとは限らない。
むしろ逆だ。
数が増えれば、ノイズも増える。
事実。
噂。
勘違い。
嘘。
悪意。
偶然。
そして、人間は自分が見たいものだけを見つける。
だから情報を扱う人間に必要なのは、集める能力ではない。
捨てる能力だ。
*
午前六時四十二分。
PMC本部。
情報システム部。
室内の照明は落とされている。
壁面いっぱいに並ぶモニターだけが青白い光を放っていた。
中央の椅子で、久世冬馬が紙コップのコーヒーを飲んでいる。
「まずい」
冷めていた。
いつ淹れたものか覚えていない。
机の脇には、同じ紙コップが三個。
そのうちどれが今日のものなのかも分からなかった。
モニターには、十三人の失踪者。
いや。
十四人。
昨夜、新たに二十歳の女子大学生の家族がSNS上で情報提供を求め始めていた。
久世はまだ正式な関連事案には加えていない。
名前は森川奈緒。
大学二年生。
昨夜二十三時過ぎ、自宅を出た。
友人に会うと言っていた。
午前三時を過ぎても戻らず。
電話に出ない。
午前四時十二分。
父親が警察へ相談。
失踪と断定するには早すぎる。
ただ。
久世の画面には、彼女のSNSが表示されていた。
前日の午後九時三十一分。
『今日は秘密の場所』
その投稿に添付された写真。
鏡の前で撮った自撮り。
背景の机。
そこに別のスマートフォンが置かれている。
通知画面。
拡大。
画像補正。
読める文字はわずかだった。
《VES……》
「……またかよ」
久世は椅子に深く座り直した。
十四人目。
偶然と呼ぶには、少しずつ数が多くなっている。
彼は新しいタブを開いた。
検索。
投稿。
削除済みキャッシュ。
イベント告知。
古い掲示板。
音楽系SNS。
アーカイブ。
Vesper。
単語そのものは珍しくない。
英語圏では夕べ。
宵。
夕星。
カクテル。
ブランド名。
バンド名。
楽曲名。
世界中に無数に存在する。
必要なのは、東京のライブハウス《Vesper》。
久世は関連しそうな投稿だけを抽出した。
三百二十一件。
そこから画像の重複。
宣伝アカウント。
明らかな別店舗。
海外投稿。
自動投稿。
それらを切る。
百十二件。
位置情報のあるものだけ抽出。
二十七件。
「……ばらばら」
新宿。
中野。
池袋。
渋谷。
高円寺。
阿佐ヶ谷。
下北沢。
錦糸町。
六本木。
いくらなんでも店が移転しすぎている。
あるいは、投稿者が場所を偽っている。
久世は地図上に点を置いた。
その時。
「泊まったんですか」
背後から声がした。
「うおっ」
椅子が跳ねる。
振り向く。
御影紗夜が立っていた。
手にはコンビニ袋。
「驚かせんなよ」
「普通に入りました」
「音しなかったぞ」
「しました」
「したか?」
「三回」
「……集中してた」
「でしょうね」
紗夜は机の紙コップを見た。
「それ、全部今日のですか」
「一部昨日」
「捨ててください」
「後で」
「今」
「お母さんかよ」
紗夜は無言で紙コップを回収した。
「で」
彼女はモニターを見る。
「何か出ました?」
「増えた」
「失踪者?」
「多分」
森川奈緒の情報を表示する。
紗夜の表情が変わった。
「Vesper?」
「まだ断定できない。でも可能性は高い」
「昨夜?」
「ああ」
「なら防犯映像がまだ残ってる可能性がある」
「俺もそう思った」
紗夜は袋からおにぎりを一つ出して久世の前に置いた。
「食べて」
「優しい」
「倒れられると面倒なので」
「それ優しさじゃない?」
「結果が同じなら問題ありません」
久世は包装を開けた。
「映像、頼める?」
「もうやります」
「まだ何も言ってないぞ」
「森川奈緒さんがどの駅から移動したかでしょう」
「その通り」
「代表には?」
「七時になったら」
「もう六時四十七分です」
「あと十三分ぐらい寝かせてやれ」
紗夜は一瞬考える。
「代表、五時半から走ってますよ」
「……化け物か?」
「本人の前で言ってください」
「嫌だよ」
*
午前七時十九分。
本部屋上。
九条ホオズキはランニングウェアの上から薄いジャケットを羽織り、朝の東京を見ていた。
黒髪のポニーテールがまだ汗で少し湿っている。
背後の扉が開く。
「代表」
久世。
「何?」
「十四人目かもしれません」
ホオズキが振り返る。
久世は端末を差し出した。
「昨夜から連絡が取れなくなってる二十歳の女子大学生。Vesperと関係している可能性があります」
「確率は?」
「数字にするほど材料ないです」
「なら可能性だけでいい」
「高いと思います」
ホオズキは画面を見る。
「警察には?」
「家族が連絡済み」
「サヤは?」
「映像追ってます」
「レイナ」
「今日、三件聞き込み」
「レンジ」
「真壁さんと合流予定」
ホオズキが空を見る。
まだ朝。
青い空。
東京はいつも通り動き始めている。
「一晩に一人ずつ消えてるわけじゃない」
彼女が呟いた。
「はい」
「でも増えてる」
「はい」
「時間がないかもしれない」
久世は答えなかった。
「Vesperの場所」
「それが一番変です」
「どう変?」
「住所がない」
「店なのに?」
「店なのに」
「営業実態は?」
「ある」
「客は?」
「いる」
「口コミ」
「ある」
「写真」
「ある」
「イベント」
「ある」
「なのに住所がない」
「正確には、住所が多すぎます」
ホオズキが眉を寄せた。
「移転?」
「最初はそう思いました。でも同じ時期に違う場所から投稿されてる例があります」
「系列店」
「それなら名前かロゴが微妙に違うはずですが、全部同じ」
「偽装投稿」
「それも考えてます」
「他には」
「店側がわざと所在地を公開してない」
「会員制?」
「紹介制に近いようです」
ホオズキは端末を返した。
「見つけて」
「はい」
「今日は全員戻ったら会議」
「了解」
久世が屋上を出ようとする。
「久世」
「はい?」
「寝た?」
「二時間」
「足りない」
「問題ありません」
「それ私が言う台詞」
「じゃあ代表は何時間寝ました?」
「四時間」
「倍じゃないですか」
「勝った」
「低レベルな勝負やめましょう」
*
午前九時二十三分。
都内某所。
古い喫茶店。
篠宮レイナは窓際の席で、二十一歳の女性と向かい合っていた。
相手の名前は杉浦沙穂。
失踪した三人目、立花結衣の高校時代からの友人。
「警察にも話しました」
沙穂は言った。
「承知してます」
レイナは柔らかく笑う。
普段の戦闘装備ではない。
薄手のジャケット。
デニム。
肩に小さなバッグ。
どこにでもいる二十代女性にしか見えない。
「同じこと聞かれると思うんですけど」
「構いません」
「結衣が最後に会った男とか?」
「それも聞きます。でも今日は別の話」
「何ですか?」
「Vesper」
沙穂の表情が変わった。
ほんの一瞬。
だがレイナは見逃さない。
「知ってますね」
「……はい」
「行ったことは?」
「一回だけ」
「結衣さんと?」
「はい」
「いつ?」
「春です」
「何月?」
「四月……たぶん十九日」
レイナはメモを取る。
「どんな店?」
「普通のライブハウスですよ」
「普通?」
沙穂は少し考えた。
「……普通じゃないかも」
「どういう意味?」
「説明しづらいです」
「ゆっくりでいいですよ」
沙穂はコーヒーカップを両手で包んだ。
「場所を教えてくれないんです」
「誰が?」
「紹介してくれた子」
「名前は?」
「ミサキ。苗字は知らないです」
「友人?」
「結衣がSNSで知り合った子」
「会ったことは?」
「その日初めて」
「そのミサキさんが店へ?」
「はい」
「住所は?」
「教えてくれませんでした」
「ではどうやって」
「駅で待ち合わせ」
「駅名は?」
沙穂が答える。
レイナは記録した。
「そこから?」
「歩きました」
「何分」
「十五分か二十分ぐらい」
「道は覚えてます?」
「夜だったし、話しながらだったから……」
「建物」
「古いビル」
「何階」
「地下二階」
「看板」
「なかった」
「店名表示」
「扉に小さくVesperって」
「店内」
「赤い照明。黒い壁。ステージ」
「客は何人ぐらい」
「百人?」
「男女比」
「半々くらい」
「年齢」
「若い人が多かったです」
「スタッフ」
「黒っぽい服の人」
「印象に残った人物」
沙穂の手が止まった。
レイナが顔を見る。
「いますね」
「……いました」
「誰?」
「女の人」
「どんな」
沙穂は少し困ったように笑った。
「すごく綺麗な人」
「髪は」
「白……」
彼女が首を振る。
「銀色かな」
レイナのペンが止まる。
「若い?」
「私たちと同じくらいに見えました」
「店員?」
「分かりません」
「話しました?」
「少し」
「何を?」
「結衣に」
沙穂は視線を落とす。
「綺麗ね、って」
「それだけ?」
「あと……」
彼女は眉を寄せた。
「変なこと言ってました」
「何て?」
「若い血はいい、みたいな」
レイナは何も言わない。
「冗談だと思いました。あの店、ちょっとゴシックっていうか、吸血鬼っぽい演出もあったから」
「吸血鬼?」
「はい。そういう雰囲気」
「具体的には?」
「赤い照明とか、棺みたいな装飾とか。バンドもそういう感じ」
「その銀髪の女性は?」
「普通でした」
「普通」
「仮装じゃないです。服も……パンクっぽかったかな」
「名前は?」
「分かりません」
「結衣さんはその女性とその後連絡を?」
「分からないです」
「ミサキさんとは?」
「してたみたい」
「アカウント残ってます?」
「消えてます」
「いつ消えたか分かります?」
「結衣がいなくなった後に見たら、もうなかったです」
レイナは少し間を置いた。
「杉浦さん」
「はい」
「一つ思い出してほしいんですけど」
「はい」
「その日、帰りは?」
沙穂が瞬きをする。
「帰り?」
「店を出た時間」
「十二時前くらい」
「駅までどうやって」
「……」
沈黙。
「杉浦さん?」
「覚えてない」
「何を?」
「駅までの道」
レイナの表情は変わらない。
「行きは覚えてます?」
「少し」
「帰りは?」
「気付いたら駅前でした」
沙穂自身が不安そうに笑う。
「お酒飲んだからかな」
「どれくらい」
「二杯」
「普段は?」
「もっと飲んでも平気です」
「店で出されたもの」
「カクテル」
「味は?」
「甘かった」
「色」
「赤」
レイナはメモする。
「帰宅後、体調は?」
「すごく眠かった」
「翌日」
「頭痛」
「病院」
「行ってません」
「結衣さんは?」
「元気でした」
「その後、店へまた行った?」
「私は行ってない」
「結衣さんは」
「……行ったと思います」
「理由は?」
「店の話をよくしてたから」
「何て?」
「また行きたいって」
沙穂はコーヒーを見つめた。
「それと」
「はい」
「最近、新しい友達ができたって」
「名前」
「聞いてない」
「男? 女?」
「女」
「特徴」
「……白い髪だったと思います」
*
午後零時十一分。
東京・某繁華街。
神代蓮司は焼肉屋の裏口で煙草を吸っている男と話していた。
「知らねえな」
男は言った。
「Vesper」
「ほんとか?」
「ほんとだよ」
「じゃあ地下の紹介制ライブハウス」
「そういうのは何軒もある」
「若い女がよく集まる」
「もっとある」
「住所出してねえ」
「それもある」
「最近、若い女が消えてる」
男の表情が少し変わった。
「刑事かよ」
「こんなチャラい刑事いる?」
「いるかもしれねえだろ」
「じゃあもっと真面目な服着てくる」
男は煙草を捨てた。
「神代」
「ん?」
「あんまり首突っ込まねえ方がいいぞ」
神代の笑顔が消える。
「知ってるじゃん」
「知らねえ」
「今の言い方でそれは無理だろ」
「俺は何も知らねえ」
「じゃあ何に首突っ込むなって?」
男は答えなかった。
神代は壁にもたれる。
「ヤクか?」
「……」
「女?」
「……」
「半グレ?」
「……」
「外国人?」
「神代」
「何だよ」
「俺にも家族がいる」
神代の目が細くなる。
冗談ではない。
男は本気で怯えていた。
「そんなにヤバい連中?」
「知らねえ」
「会ったことは」
「ない」
「じゃあ何が怖い」
男は周囲を確認した。
そして声を落とした。
「……人が消える」
「それを調べてんだよ」
「違う」
「何が」
「連中のこと嗅ぎ回った奴が消える」
神代が黙る。
「誰?」
「俺の知り合い」
「名前」
「言えねえ」
「生きてる?」
「分からねえ」
「警察は?」
「届けなんか出せるかよ」
「何で」
「そいつ自身がまともじゃねえからだ」
神代は少し考えた。
「裏の人間か」
「そういうことだ」
「いつ」
「半年ぐらい前」
「Vesperを調べてた?」
「女の流れだ」
「売買?」
男は首を横に振る。
「そう思った」
「違った?」
「金が動いてねえ」
「ただの誘拐?」
「分からん」
「女はどこから」
「クラブ。地下アイドル。コンカフェ。大学生。風俗。家出娘」
「共通点」
「若い」
「それだけ?」
「あと……」
男は言葉を探した。
「見た目がいい」
「顔?」
「顔も」
「他には?」
「健康そうな女」
神代の眉が動いた。
「健康?」
「病気持ちとか薬中は避けてるって話だ」
「何だそれ」
「だから知らねえよ」
「臓器?」
「最初は俺もそう思った。でも臓器ならもっと金が動く」
神代は煙草を一本取り出した。
火はつけない。
「Vesperの場所、分かる?」
「知らねえ」
「誰なら」
男はしばらく黙った。
「……真壁さんなら何か掴めるかもな」
「これから会う」
「じゃあ俺からは何も聞くな」
「分かった」
「マジで気をつけろよ」
「心配してくれるの?」
「お前が死ぬと貸した五万返ってこねえ」
「まだ覚えてた?」
「忘れるか」
*
午後一時三十七分。
古びた蕎麦屋。
真壁仁はざる蕎麦を食べていた。
神代は向かいの席。
「で」
真壁が言う。
「若い女が消えてる」
「ああ」
「ライブハウス」
「ああ」
「Vesper」
真壁の箸が止まった。
神代はそれを見る。
「知ってんの?」
「名前だけな」
「どこ」
「知らん」
「またそれか」
「本当に知らん」
真壁は蕎麦を啜る。
「昔から噂だけはある」
「どれくらい昔」
「俺が若い頃にも似た話があった」
神代が顔を上げる。
「何年前だよ」
「殺すぞ」
「四十年ぐらい?」
「二十数年前だ」
「十分古い」
真壁は睨んだ。
「店そのものが?」
「名前は違ったかもしれん」
「じゃあ何が同じ」
「若い女が消える」
神代は黙る。
「当時は外国へ売られてると言われてた」
「人身売買」
「そうだ」
「実際は?」
「証拠なし」
「ヤクザ絡み?」
「当時の連中も調べた」
「結果」
「分からん」
真壁は蕎麦猪口を置いた。
「それがおかしいんだ」
「何が」
「女が消えりゃ金になる」
「まあ」
「人身売買なら買う奴がいる。運ぶ奴もいる。場所を用意する奴もいる。偽造書類を作る奴もいる」
「金の流れが残る」
「そうだ」
「でも」
「なかった」
真壁は神代を見る。
「少なくとも俺たちの世界にはな」
「警察に捕まってないだけでは?」
「可能性はある」
「他には」
「何人か調べに行った奴がいた」
「戻った?」
「一人は死んだ」
神代の表情が変わる。
「どうやって」
「事故扱い」
「何の事故」
「高速道路で単独事故」
「他は?」
「行方不明」
「何人」
「二人」
「全員同じ組?」
「違う」
「じゃあ」
「余計に妙だろ」
神代は腕を組む。
「真壁さん」
「何だ」
「怖い?」
真壁は鼻で笑った。
「俺が?」
「だって珍しく慎重」
「慎重なのは長生きするコツだ」
「違いない」
真壁が声を落とす。
「蓮司」
「ん」
「この件は、ヤクザや半グレを相手にするつもりで行くな」
「理由」
「勘だ」
「意外。そういうの信じる?」
「信じる」
即答だった。
「四十年以上、裏で生きてりゃな。理屈より先に臭うことがある」
「何が臭う」
「触っちゃいけねえものだ」
*
午後二時五十八分。
ヤタガラス本部。
御影紗夜は映像解析室でモニターを見続けていた。
森川奈緒。
昨夜。
二十二時四十六分。
自宅マンションを出る。
二十三時〇四分。
最寄り駅。
二十三時二十七分。
電車を降りる。
二十三時三十分。
改札。
そこまでは明確。
そこから先。
駅前のコンビニ防犯カメラ。
映っている。
二十三時三十四分。
交差点。
映っている。
二十三時四十分。
商店街。
映っている。
紗夜は地図に線を引く。
徒歩。
目的地へ向かっている。
二十三時四十七分。
雑居ビル前。
姿なし。
「……」
紗夜は巻き戻す。
二十三時四十五分。
少女が画面に入る。
スマートフォンを見ながら歩く。
二十三時四十六分。
交差点を曲がる。
次に確認できるカメラ。
なし。
建物の死角。
防犯カメラの少ない区画。
意図的に選べば、人目を避けられる。
紗夜は周辺店舗へ連絡を入れ、提供可能な映像を集めていた。
四軒目。
駐車場。
二十三時五十分。
画面端に人影。
紗夜が停止する。
拡大。
森川奈緒。
「いた」
彼女は古いビルの脇へ入っていく。
さらに拡大。
そこにもう一人。
女性。
暗い服。
長い髪。
顔は見えない。
奈緒を待っていたように見える。
紗夜は前後の映像を確認した。
二十三時三十八分。
女はいない。
二十三時四十二分。
いない。
二十三時四十八分。
突然、画面端に立っている。
「どこから来た……?」
駐車場カメラは広角。
侵入経路は二方向。
両方とも画角内。
なのに女が入ってくる瞬間がない。
紗夜は映像の欠落を疑う。
タイムコード。
正常。
フレーム。
連続。
「サヤ」
背後から久世。
「これ」
「ちょうど呼ぼうと思ってた」
紗夜は再生する。
二十三時四十七分五十八秒。
誰もいない。
二十三時四十七分五十九秒。
誰もいない。
二十三時四十八分〇〇秒。
女がいる。
久世が目を細める。
「フレーム飛んでる?」
「確認した。飛んでない」
「圧縮エラー」
「なし」
「映像改竄」
「元データを現地で確認した」
「じゃあ」
「分からない」
久世がさらに映像を見る。
「立ってる位置、壁際か」
「そう」
「上から降りた?」
「三階建て」
「人間なら骨折する」
「しかも音もない」
「カメラに音声ない」
「そういう意味じゃない」
紗夜は映像を進める。
森川奈緒が女へ近づく。
二人が会話。
女が先に歩く。
ビル脇。
消える。
「地下入口?」
「おそらく」
「住所」
紗夜が表示する。
久世の顔が変わった。
「ここ……」
「知ってる?」
「十二年前のVesper写真が投稿された位置情報から、一番近い場所」
二人が顔を見合わせる。
「特定?」
「まだ」
久世は即座に端末を開く。
「建物登記調べる」
「私、現地確認する」
「一人で?」
「外だけ」
「代表に言って」
「当然」
*
午後三時十二分。
警視庁。
黒崎剛士は会議室で一冊のファイルを開いていた。
若年女性の行方不明事案。
合法的に閲覧可能な範囲。
彼は七件を抜き出している。
そのうち四件。
失踪前に繁華街。
二件。
ライブイベント関連。
一件。
不明。
そこへ部下が入ってくる。
「警視」
「何だ」
「監察医からです」
「何が」
「先週の身元不明遺体」
黒崎が顔を上げる。
「河川敷のか」
「はい」
「死因は」
「出血性ショック」
「外傷は?」
部下が少し困った顔をする。
「それが」
「何だ」
「出血量に対して、血痕が少なすぎると」
「どういう意味だ」
「体内の血液量が異常に少ないそうです」
黒崎の目が細くなる。
「失血死なら現場に血があるだろう」
「それがありません」
「別の場所で殺された」
「その可能性を見てます」
「傷」
「頸部に二箇所」
部下は資料を渡した。
黒崎が写真を見る。
首。
左右ではない。
近接した二つの創。
「刃物?」
「監察医は否定しています」
「動物」
「それも可能性低いと」
「じゃあ何だ」
「分からないそうです」
黒崎は写真を見続ける。
「身元」
「まだ」
「年齢」
「推定十八から二十五」
「女性」
「はい」
黒崎の手が止まる。
「DNA」
「照合中」
「急がせろ」
「了解です」
部下が退出する。
黒崎はスマートフォンを見る。
九条ホオズキ。
連絡するか迷う。
その時。
着信。
相手はホオズキ本人だった。
「……何だ」
『今話せる?』
「お前は見てるのか」
『何を』
「いや、何でもない」
『場所が出たかもしれない』
黒崎の表情が変わる。
「Vesperか」
『そう』
「どこだ」
『まだ確定じゃない』
「踏み込む気か」
『偵察』
「九条」
『何よ』
「警察に通せ」
『証拠がない』
「なら証拠を集めるのが警察だ」
『その間にまた一人消えた』
「分かってる」
『本当に?』
黒崎が黙る。
『黒崎』
「昨夜の失踪者か」
『森川奈緒。二十歳』
「こちらでも届出は確認している」
『Vesperへ入った可能性が高い』
「証拠」
『映像』
「見せろ」
『送れない』
「何故」
『提供元との約束』
「なら直接持ってこい」
『あなたが来て』
「職場だぞ」
『じゃあ夜』
「……」
『黒崎』
「何だ」
『何かあるでしょ』
沈黙。
彼女の声が低くなる。
『あなた、何か隠してる』
「隠してはいない」
『言ってないことがある』
黒崎はファイルの写真を見る。
首に残された二つの傷。
「身元不明の女性遺体が一体ある」
電話の向こうが静かになる。
『死因』
「失血」
『現場に血は』
「ほとんどない」
『傷』
黒崎は答えかけて止まる。
『黒崎』
「……首に二箇所」
『二箇所?』
「近接した創傷だ」
『刺し傷?』
「分からん」
『関連性は』
「分からん」
『分からないばかりね』
「捜査ってのはそういうもんだ」
『だから嫌い』
「お前は答えを急ぎすぎる」
『あなたは慎重すぎる』
「それで人を逮捕する仕事だからな」
『私は人を連れて帰る仕事』
二人とも黙った。
立場が違う。
目的は同じでも。
「ホオズキ」
『何』
「絶対に突入するな」
『偵察だって言った』
「お前の“偵察”は信用できん」
『失礼ね』
「前科が多い」
『仕事熱心と言って』
「言わん」
*
午後五時四十分。
都内某所。
篠宮レイナは二件目の聞き込みを終えた。
今度の相手はライブハウス関係者。
「Vesper?」
男は機材ケースを運びながら首を傾げる。
「昔聞いたことあるな」
「どんな店です?」
「知らん」
「行ったことは」
「ない」
「バンド仲間で?」
「出たって奴はいない」
「なのに有名?」
「一部じゃな」
「どういう一部?」
「地下系」
「地下アイドル?」
「違う違う。もっとアングラ」
「ゴスとか?」
「そういうの」
男はケースを置いた。
「でも妙な店だよ」
「何が」
「出演したってバンドが見つからない」
「どういう意味です?」
「Vesperで見たって客の投稿はある。でも演者側が“Vesperに出ました”って言ってる投稿がほとんどねえ」
「店側が口止め?」
「知らん」
「イベント告知」
「ない」
「チケット」
「紹介」
「料金」
「現地払いらしい」
「消防法とか営業許可とか」
男が笑う。
「俺に聞くなよ」
「すみません」
「ただ」
「はい」
「友達が一回誘われた」
「いつ」
「去年」
「行った?」
「途中でやめた」
「どうして」
「場所がおかしかったって」
「おかしい?」
「送られてきた住所行ったら、そこただの駐車場だった」
レイナの目が鋭くなる。
「その後」
「メッセージ来て、もう一本裏の道へ来いって」
「行った?」
「怖くなって帰った」
「紹介者」
「女」
「名前」
「知らん」
「特徴」
「白い髪だったって言ってたかな」
*
午後七時〇二分。
ヤタガラス本部。
作戦室。
全員が揃っていた。
ホオズキ。
榊原。
久世。
サヤ。
レイナ。
レンジ。
そして真壁仁。
大型モニターには一棟の雑居ビル。
「ここ」
サヤが指す。
「昨夜、森川奈緒が最後に確認された地点」
「建物は?」
榊原。
久世が答える。
「築三十七年。地上三階、地下二階」
「所有者」
「八年前に法人へ売却」
「法人名」
「東都アセットマネジメント合同会社」
「実態」
「ほぼペーパーカンパニー」
「代表者」
「三年前に死亡」
レンジが顔をしかめる。
「死んだ人間が会社やってんの?」
「登記変更されてない」
「税金」
「払われてる」
「誰が」
「そこが分からない」
久世が画面を切り替える。
「建物一階は元飲食店。現在空き。二階は事務所登録ですが使用痕跡ほぼなし。三階も空き」
「地下」
「地下一階は倉庫扱い」
「地下二階」
久世が止まる。
「図面上、存在しない」
部屋が静かになる。
「何?」
ホオズキ。
「建築確認上は地下は一階まで」
「でも現地は?」
サヤが答える。
「階段がさらに下へ続いているように見える」
「ように?」
「入口から内部は確認できない」
「なぜ」
「鉄扉」
「看板」
「なし」
「Vesper表記」
「なし」
榊原が腕を組む。
「違法増築?」
「可能性はあります」
「電力使用量」
久世が別資料を出す。
「これも変です」
グラフ。
「深夜帯に使用量が跳ねる」
「ライブハウスなら普通じゃない?」
レイナ。
「規模が合わない」
「どのくらい」
「地上部分全部と地下倉庫だけなら、最大でもこの程度」
久世が線を示す。
「実際はその二倍近い」
「冷蔵設備?」
サヤ。
「大型冷凍庫なら説明できる」
「店舗?」
「営業許可なし」
「サーバールーム」
「回線契約がおかしい」
「どう」
「固定回線の登録なし」
レンジが笑う。
「電気だけめちゃくちゃ使って、ネットもないライブハウス」
「携帯は?」
「周辺からは普通に入る。ただ地下内部の投稿を見る限り、圏外か極端に弱い」
ホオズキは画面を見る。
「人の出入り」
サヤが映像を切り替える。
「昨夜二十三時から三時までに確認できた範囲で二十七人が地下入口方向へ」
「出てきたのは?」
沈黙。
「何人」
「九人」
レイナの顔から軽い表情が消える。
「残り十八人は?」
「朝六時まで確認したけど出ていない」
「別出口」
榊原。
「可能性が高いです」
「建築図面に?」
「ありません」
「隣接建物」
「地下接続なし」
「公式には」
「はい」
真壁が煙草を取り出しかけ、ホオズキに見られて戻す。
「つまりよ」
真壁が言う。
「住所なし。看板なし。登記は死人。夜になると若い奴が地下へ入る。入った人数と出た人数が合わねえ」
「ええ」
「十分怪しいだろ」
「怪しいだけでは踏み込めない」
榊原が言う。
「ヤタガラスは警察ではありません」
真壁が鼻で笑う。
「昔ならもっと簡単だったんだがな」
「昔のやり方はしない」
ホオズキ。
「知ってるよ」
久世が口を開く。
「もう一つあります」
「何?」
「これ」
画面。
十二年前のVesper写真。
若者たち。
ステージ。
「投稿者が残していた写真を高解像度化しました」
「それが?」
「この女」
一人の女性。
写真の端。
白に近い銀髪。
若い。
美しい。
「今日レイナが聞き込みした証言」
別の画面。
似顔絵。
銀髪。
「同一人物?」
レンジ。
「断定できない」
「十二年前だぞ」
「そう」
久世はさらに画面を切り替える。
八年前。
別の投稿写真。
そこにも銀髪の女。
五年前。
いる。
三年前。
いる。
去年。
いる。
そして。
一か月前。
同じ顔。
「……」
作戦室が静まり返る。
レイナが最初に口を開いた。
「母娘?」
「それも考えた」
久世が言う。
「でも服装の傾向、右耳のピアス位置、左目の下の小さなほくろ」
拡大。
「全部一致」
「加工?」
「古い写真まで?」
「そっくりさん」
「十二年間ずっと?」
レンジが笑う。
「若作りすげえな」
誰も笑わなかった。
久世が言う。
「年齢が変わってないように見える」
榊原が即座に返す。
「印象で判断するな」
「はい」
「画像は証拠にならん。光、解像度、加工、偶然。可能性はいくらでもある」
「分かってます」
「他に」
レイナが話す。
「失踪者の友人二人から、銀髪女性の証言」
「名前は」
「不明」
「店員?」
「不明」
「若い女性を誘ってる?」
「可能性は高い」
「それなら人間だ」
榊原はあえて言った。
「そう考えて捜査する」
ホオズキが頷く。
「現時点では犯罪集団」
「内容は」
サヤ。
「誘拐、人身売買、違法薬物、監禁。可能性があるもの全部」
ホオズキは全員を見る。
「怪談を作るのは簡単。でも私たちの仕事は怪談じゃない」
「事実」
サヤ。
「そう」
ホオズキはモニターを指す。
「この地下に何があるのか確認する」
榊原が眉を動かす。
「入りますか」
「偵察」
「人数」
「四名」
神代が笑った。
「やっと俺らしい仕事だ」
「浮かれない」
「はいはい」
「私、サヤ、レイナ、レンジ」
「私も?」
レイナが尋ねる。
「店の雰囲気を知ってる証言を一番持ってる」
「久世は」
「後方支援」
「榊原さん」
「本部」
榊原は考える。
「武装は?」
「最低限」
「民間施設ですぞ」
「分かってる」
「表向きはライブハウス」
「分かってる」
「相手が犯罪集団だった場合」
「証拠確保優先。戦闘は回避」
「失踪者を発見した場合」
ホオズキは少し黙る。
「状況による」
「代表」
「分かってる」
榊原はホオズキを見る。
「救出したくなるでしょう」
「当然」
「その瞬間、偵察ではなくなります」
「……」
「そこを忘れないでください」
ホオズキは小さく息を吐いた。
「了解」
神代が手を挙げる。
「質問」
「何」
「客として入る?」
「最初は」
「俺ライブハウス向きの服持ってねえぞ」
レイナが神代を見る。
「いつもの格好で十分胡散臭いから平気」
「褒めてる?」
「全然」
久世が画面を見たまま言った。
「入口方法は紹介制です」
「どうする」
「アカウント見つけました」
全員が彼を見る。
「Vesperの招待仲介してるSNSアカウント」
「接触できる?」
「もうした」
「久世」
ホオズキの目が細くなる。
「違法なことしてません」
「ならいい」
「今日二十三時」
「早いな」
「相手から指定された」
「場所」
「駅前」
「その後」
「現地まで案内」
榊原が言った。
「罠の可能性」
「あります」
「こちらが嗅ぎ回っていることを知られている可能性」
「あります」
「それでも?」
ホオズキが答える。
「行く」
部屋が静かになる。
「ただし」
彼女は続けた。
「少しでもおかしいと思ったら撤退する」
神代が笑った。
「代表がそれ言う?」
「私が言うから意味がある」
「確かに」
榊原はまだ不満そうだった。
「目的は」
ホオズキ。
「Vesperの実態確認」
「優先事項」
「失踪者の所在」
「交戦」
「避ける」
「追跡」
「深追いしない」
「撤退判断」
「私」
「それで」
榊原が頷いた。
「結構」
*
午後九時五十七分。
警視庁近く。
黒崎剛士はホオズキから送られてきた短いメッセージを見ていた。
『今夜、確認に入る』
黒崎は額を押さえた。
「……あの馬鹿」
すぐ電話をかける。
出ない。
もう一度。
出ない。
三度目。
『何』
「何じゃない」
『今準備中』
「入るなと言っただろう」
『踏み込むとは言ってない』
「同じだ」
『違う』
「どこだ」
『言わない』
「九条ホオズキ」
『フルネームやめて』
「場所を言え」
『警察連れてきたら店が飛ぶ』
「犯罪組織なら警察に任せろ」
『犯罪組織か確認するために行くの』
「屁理屈だ」
『心配してる?』
「してない」
『即答ね』
「職業上だ」
『はいはい』
「ホオズキ」
黒崎の声が変わる。
『何』
「今、身元不明遺体のDNA照合が出た」
沈黙。
『誰』
「失踪者リストの十一人目」
ホオズキが息を止める。
『……間違いない?』
「間違いない」
『死因』
「失血性ショック」
『首の傷』
「ああ」
『他の外傷』
「ほぼない」
『暴行は』
「目立つものはない」
『血はどこへ行ったの』
「分からん」
『……』
「だから行くな」
『逆』
「何が」
『だから行く』
「九条」
『一人死んでる』
「警察に任せろ!」
黒崎の声が廊下に響いた。
数人が振り返る。
彼は声を落とす。
「……お前は警察官じゃない」
『知ってる』
「逮捕権もない」
『知ってる』
「令状もない」
『知ってる』
「なら」
『でも私たちには、依頼がある』
黒崎は黙る。
『娘を探してくださいって、頭を下げられた』
「……」
『私は受けた』
「死んだら探せんぞ」
電話の向こう。
少しだけ間。
『死なない』
「そういう奴から死ぬ」
『帰ってくる』
「絶対か」
『絶対』
黒崎は目を閉じた。
「位置だけ送れ」
『嫌』
「ホオズキ」
『本当に危なくなったら送る』
「危なくなってからじゃ遅い」
『大丈夫』
「その言葉が一番信用できん」
ホオズキが少し笑う。
『帰ったら連絡する』
「……必ずしろ」
『うん』
通話が切れる。
黒崎はしばらくスマートフォンを見ていた。
そして。
嫌な感覚が残った。
理由は分からない。
長く警察官をやっていれば、時々そういうことがある。
理屈ではない。
胸の奥がざわつく。
現場へ出る直前。
大きな事件になる前。
誰かが死ぬ前。
黒崎は部下を呼んだ。
「今夜、機動できる人員を確認しておけ」
「何かあるんですか」
「まだ何もない」
「ではなぜ」
黒崎はホオズキとの通話履歴を見る。
「何か起きそうだからだ」
*
午後十時四十五分。
ヤタガラス本部地下駐車場。
黒い車両の後部。
ホオズキは装備を確認していた。
拳銃。
予備弾倉。
小型ライト。
無線。
拘束具。
医療キット。
防刃ベスト。
あくまで秘匿可能な装備。
ライフルは車内待機。
神代が隣でジャケットを羽織る。
「代表」
「何」
「今日、戦闘なしだよな」
「その予定」
「その予定って言い方怖いんだよ」
サヤが無線を確認している。
「相手が違法薬物組織なら武装している可能性があります」
「人身売買ならもっと」
レイナが髪を整えながら言う。
「客に見える?」
神代が彼女を見る。
「潜入工作員がそれ聞く?」
「あなたよりは」
「俺だって夜遊び得意だぞ」
「知ってる」
「褒められた」
「褒めてない」
後部扉の前。
榊原が立っていた。
「最後に確認します」
全員が見る。
「これは戦闘任務ではない」
「了解」
「相手の能力、人数、武装、構造、すべて不明」
「了解」
「失踪者を見つけても、状況によっては即時救出を断念する」
一瞬。
沈黙。
ホオズキが答えた。
「了解」
「帰ってくることを最優先に」
「分かってる」
榊原はホオズキを見る。
昔、彼女が小隊を率いていた頃から。
この女は、誰かを置いて帰ることが苦手だ。
それが長所であり。
最も危険な欠点でもある。
「代表」
「何」
「嫌な予感がします」
ホオズキが少し笑う。
「真壁さんと同じこと言うのね」
「年寄りは臆病なんです」
「あなたも?」
「私は特に」
ホオズキは車へ乗る。
「じゃあ、その臆病者のところにちゃんと帰ってくる」
「お願いします」
扉が閉まった。
*
午後十一時二十八分。
東京某所。
繁華街から少し外れた駅。
四人は別々に到着した。
待ち合わせ地点。
コンビニ脇。
指定された時間。
十一時三十分。
十一時三十一分。
誰も来ない。
十一時三十三分。
ホオズキのスマートフォンが震える。
メッセージ。
《赤い自販機の前》
少し離れた路地。
赤い自販機。
四人で向かう。
誰もいない。
次のメッセージ。
《右へ》
「試されてるな」
神代。
「位置確認かも」
サヤ。
久世の声がイヤホンから聞こえる。
『こっちで追えてる。通信良好』
ホオズキは小さく返す。
「了解」
路地を進む。
再び通知。
《階段を降りて》
地下道。
古い連絡通路。
そこを抜ける。
出口。
さらに徒歩。
次々に指示が来る。
曲がる。
戻る。
横断歩道。
裏道。
狭い路地。
神代が小声で言った。
「尾行確認してる」
「ええ」
「こいつら慣れてる」
レイナも頷く。
「普通のライブハウスじゃない」
最後のメッセージ。
《そこで待って》
古い公園。
時計。
午後十一時五十二分。
ベンチ。
誰もいない。
五分。
十分。
その時。
「こんばんは」
背後。
全員がわずかに反応した。
女が立っていた。
二十代前半ほど。
黒髪。
白い肌。
黒いコート。
いつからそこにいたのか分からない。
「四人?」
女が尋ねる。
レイナが笑顔で答える。
「はい」
「紹介は?」
ホオズキが、久世の用意した名前を言う。
女は四人を見る。
一人ずつ。
妙に長く。
最後にホオズキ。
「あなた」
「何?」
「面白い目をしてる」
ホオズキは笑う。
「よく言われる」
「そう」
女も笑った。
唇が薄く開く。
その瞬間。
レイナは見た。
犬歯が少し長い。
ただ。
それだけなら珍しくない。
「ついてきて」
女が歩き出す。
四人は後を追う。
久世の声。
『代表』
「聞こえてる」
『そいつ、どこから来た?』
ホオズキは視線だけ動かす。
「何?」
『公園のカメラ確認してた。女が入ってくる映像がない』
「死角は」
『ほぼない』
ホオズキは女の背を見る。
「了解」
『気をつけて』
「うん」
十分ほど歩く。
見覚えのある建物。
サヤが確認する。
昨夜、森川奈緒が入ったと思われる雑居ビル。
女が脇道へ入る。
地下へ続く階段。
壁。
赤いマーク。
蝙蝠のような。
翼のような。
Vesper。
鉄扉。
女が三回ノックする。
一度。
二度。
三度。
小窓が開いた。
「四人」
扉の向こう。
「誰の紹介」
女が名前を言う。
鍵が外れる。
重い扉。
開く。
冷たい空気。
音楽。
赤い光。
ホオズキは階段の下を見る。
胸の奥。
何かが警告している。
理由はない。
ただ。
嫌な場所だ。
女が振り返った。
「ようこそ」
微笑む。
「Vesperへ」
ホオズキは一歩踏み出す。
その後ろから。
サヤ。
レイナ。
神代。
四人が地下へ入る。
鉄扉が閉まった。
音。
鍵。
ガチャン。
久世のモニターから。
四人の位置情報が。
同時に消えた。
「……は?」
本部。
久世は画面を叩く。
「代表?」
返答なし。
「サヤ?」
雑音。
「レイナ」
無音。
「レンジ!」
通信断。
GPS。
断。
携帯。
断。
バックアップ回線。
断。
一秒前まで正常だった。
全て。
同時に。
久世は椅子から立ち上がった。
「榊原さん!」
統合作戦室の扉が開く。
榊原が入ってくる。
「どうした」
「四人とも消えました」
「何?」
「通信が全部落ちた」
「故障?」
「四人同時に?」
久世は画面を見る。
建物。
地下。
Vesper。
その赤い点が消えている。
背中に冷たいものが走った。
これは単なる圏外ではない。
偶然でもない。
誰かが。
意図的に。
外との繋がりを切った。
榊原の表情が変わる。
「予備班を待機」
「はい」
「車両を回せ」
「はい」
「黒崎警視へも連絡」
久世が振り返る。
「警察に?」
「代表が嫌がろうと知ったことか」
榊原はジャケットを掴んだ。
「嫌な予感が当たった」
*
地下二階。
ホオズキは赤い照明の下に立っていた。
目の前には。
音楽。
酒。
若者たち。
笑い声。
ステージ。
どこから見ても。
ただのライブハウス。
「……普通ね」
レイナが呟いた。
「だから怖い」
サヤが答える。
神代は周囲を見る。
「通信死んでる」
「こっちも」
ホオズキ。
四人とも同じ。
完全な圏外。
店内には百人近い人間。
いや。
人間だと思われる者。
その中をスタッフらしき女が歩く。
赤い照明。
黒い服。
白い肌。
レイナが小さく言った。
「代表」
「何」
「奥」
ステージ横。
壁にもたれている一人の女。
銀白色の髪。
若い。
異様なほど美しい。
写真。
十二年前。
八年前。
五年前。
三年前。
去年。
そして現在。
全てに写っていた。
同じ女。
彼女がゆっくり顔を上げる。
赤い照明の中。
ホオズキと目が合う。
一瞬。
世界の音が遠くなる。
女が笑った。
まるで。
ずっと待っていた相手がようやく来た。
そんな笑顔だった。
ホオズキは無意識に右手をジャケットの内側へ近づける。
女の唇が動く。
声は聞こえない。
それでも。
何を言ったのか。
なぜか分かった。
――見つけた。
次の瞬間。
照明が落ちた。
真っ暗になった。
悲鳴が上がる。
いや。
違う。
悲鳴ではない。
歓声だった。
数十人の客が。
一斉に笑っていた。
暗闇の中で。
ホオズキは初めて。
本能だけで理解した。
ここは。
人間が入っていい場所ではない。




