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第1章 消える少女たち

挿絵(By みてみん)

第一章 消える少女たち


 東京では、人が消える。


 それ自体は、珍しいことではなかった。


 人口一千万を超える巨大都市では、毎日のように誰かが誰かを見失う。


 家出。


 失踪。


 事件。


 事故。


 借金。


 家庭内の問題。


 恋人との駆け落ち。


 あるいは、ただ昨日までの人生を捨てたくなっただけの人間。


 理由はいくらでもある。


 警察に届けられる行方不明者だけでも相当な数に上り、そのすべてが犯罪に巻き込まれているわけではない。


 だから最初の一人は、誰の目にも留まらなかった。


     *


 六月十二日。


 午後十一時四十三分。


 東京都内。


 十九歳の女子大学生が、アルバイト先から自宅へ帰る途中で姿を消した。


 名前は長谷川美月。


 都内の私立大学一年生。


 目立った素行不良はない。


 交友関係も普通。


 借金なし。


 薬物使用歴なし。


 家族関係も良好。


 その夜、美月は飲食店のアルバイトを終え、母親にメッセージを送っている。


『今終わった。十二時半くらいには帰る』


 それが、家族が確認した最後の連絡だった。


 駅の防犯カメラには、美月が一人で改札を出る姿が映っていた。


 スマートフォンの位置情報は、駅から約八百メートル離れた繁華街の外れで途絶えている。


 財布も使われていない。


 銀行口座にも動きはない。


 SNSの更新もそこで止まった。


 警察は捜索を開始した。


 だが手掛かりはなかった。


 二週間後。


 二人目が消えた。


 今度は二十一歳の専門学校生。


 さらに十一日後。


 三人目。


 十八歳。


 高校卒業後、アパレル店で働いていた女性。


 四人目は二十歳。


 五人目は二十二歳。


 六人目は十九歳。


 発生区域は一致しない。


 生活圏も違う。


 学校も職場も違う。


 互いに面識もない。


 捜査上、複数の事件に共通性を見いだすには情報が足りなかった。


 新聞の社会面にも、小さな記事が載った程度だった。


 若い女性の失踪。


 それだけならば、この都市では大きなニュースにはならない。


 だが。


 七人目が消えた頃から、家族たちは互いの存在に気付き始めていた。


     *


 PMC《ヤタガラス》本部。


 受付の奥にある応接室に、五十代半ばの女性が座っていた。


 両手でハンドバッグを抱えている。


 指先が白くなるほど強く。


 その向かい側に九条ホオズキが座っていた。


 黒髪を後ろで一つにまとめた二十六歳の女性。


 黒のシャツに細身のパンツ。


 今日は戦闘装備ではない。


 机の上に置かれているのは、一枚の写真だった。


 笑顔の少女。


 茶色のセミロング。


 少し幼さの残る顔。


「娘です」


 女性――長谷川由美子は言った。


「美月といいます」


 ホオズキは写真を見る。


「十九歳」


「はい」


「六月十二日の夜から連絡が取れない」


「はい」


「警察には?」


「もちろん届けました」


 女性はすぐに答えた。


「警察の方も、本当に一生懸命探してくれています。でも……」


 声が止まった。


 ホオズキは急かさない。


 由美子は一度唇を噛んだ。


「何も、分からないんです」


 それから小さく頭を下げた。


「お願いします」


 深く。


「娘を探してください」


 ホオズキはしばらく何も言わなかった。


 机上の依頼書を見る。


 提示された報酬額も。


 通常、ヤタガラスが受ける警護や危険地域での任務と比べれば、桁が二つほど違う。


 人員を数名動かした時点で赤字になる。


「長谷川さん」


「はい」


「一つ確認します」


「はい」


「娘さんが、自分の意思で姿を消した可能性は?」


 由美子は顔を上げた。


「ありません」


 即答だった。


「そう言い切れる理由は?」


「美月は……」


 母親は写真を見た。


「父親の誕生日に財布を贈るって、ずっと選んでいたんです」


 ホオズキは黙って聞く。


「六月十五日が主人の誕生日でした。十二日にアルバイトが終わったら、十三日に買いに行くって」


 由美子はバッグからスマートフォンを出した。


 一枚の画像。


 娘とのメッセージ。


『これとこれどっちがいいと思う?』


 二種類の財布の写真。


 母親の返事。


『お父さんなら黒かな』


『だよねー』


 それが失踪前日の会話だった。


「家出する人間が、三日後の父親の誕生日プレゼントを選ぶ可能性は低い」


 ホオズキが言った。


 由美子の目に涙が溜まった。


「そうなんです」


「分かりました」


 ホオズキは依頼書を閉じた。


「受けます」


 女性が顔を上げた。


「……え?」


「ヤタガラスで娘さんを探します」


「でも、報酬が……」


「問題ありません」


 ホオズキは写真を手に取った。


「消えた人間には、消えた理由があります」


 写真の中の少女は笑っていた。


「その理由を探します」


     *


「採算度外視にもほどがありますな」


 応接室を出た直後。


 榊原宗一郎が言った。


 五十八歳。


 ヤタガラス副代表兼、統合作戦本部長。


 腕を組みながら壁にもたれている。


「聞いてたの?」


「扉の前を通っただけです」


「盗み聞きね」


「代表が依頼料を無視して仕事を増やす瞬間には、不思議と居合わせるもので」


 ホオズキは彼を見る。


「反対?」


「いいえ」


 即答だった。


「そういう会社でしょう、ここは」


 榊原は応接室の扉を見る。


「で?」


「で、とは?」


「一件の失踪事件に代表自ら食いついた理由です」


 ホオズキは歩き始めた。


「一件じゃない」


 榊原の眉がわずかに動く。


「何人です?」


「最低でも七人」


 足が止まった。


「情報源は?」


「依頼人」


「母親が?」


「長谷川さんがSNSで娘を探している途中、似た状況の家族と連絡を取るようになったそうよ」


 ホオズキはタブレットを榊原へ渡した。


「十九、二十一、十八、二十、二十二、十九。それと未成年一名」


「全員女性」


「ええ」


「地域は」


「ばらばら」


「共通点は?」


「まだ分からない」


 榊原は画面を見ながら言った。


「警察は連続事件と見ていない?」


「少なくとも公には」


「まあ当然でしょうな」


 榊原はタブレットを返した。


「七人の若い女性が失踪したというだけでは、事件性を結びつける根拠にはならん」


「だから調べる」


 ホオズキは作戦室の扉を開けた。


「全員呼んで」


「全員?」


「暇そうな連中全部」


「その言い方をすると神代が怒りますぞ」


「じゃあ神代から呼んで」


     *


 十五分後。


 作戦室。


 大型ディスプレイに七人の女性の顔写真が並んでいた。


 神代蓮司は椅子を後ろ向きにして座っている。


「つまり家出少女探し?」


「少女とは限らない。最年長二十二歳」


 久世冬馬がノートPCを操作しながら訂正した。


「そこじゃねえよ」


 神代は頭を掻いた。


「俺らPMCだぜ」


「知ってる」


 レイナが紙コップのコーヒーを飲みながら言った。


「看板に書いてあるから」


「武装警護とか危険地域の救出とか、そういう会社だろ」


「猫を屋根から降ろしたこともあるわよ」


「それ言われると弱いな」


 御影紗夜は黙ったまま画面を見ていた。


 ホオズキが入室する。


 会話が止まる。


「続けて」


「いや別に」


 神代は椅子を戻した。


「代表が人助け大好きだって話」


「給料から寄付してくれる?」


「黙ります」


「よろしい」


 ホオズキはディスプレイの前に立った。


「現在確認している失踪者は七名。ただし、これは依頼人同士が独自に把握している範囲」


 久世が言う。


「警視庁の行方不明者統計と照合すれば、もっと出る可能性はあります」


「できる?」


「公開情報だけなら」


「違法アクセスは禁止」


「代表、毎回言わなくていいです」


「毎回言わないとやりそうだから」


「偏見です」


 レイナがぼそりと言った。


「実績でしょう」


「篠宮さん?」


「何も」


 ホオズキは話を戻した。


「現時点では連続事件とは断定しない。家出、犯罪、事故、それぞれ別件の可能性もある」


「事件性ありと判断した理由は?」


 サヤが尋ねた。


「失踪直前の生活」


 ホオズキが画面を切り替える。


 予定表。


 アルバイトのシフト。


 学校の課題。


 友人とのメッセージ。


「少なくとも三名は、失踪後数日以内の予定を具体的に立てている」


 レイナが画面を見る。


「家出する人間には見えない」


「そうね」


「自殺?」


「否定はしない。ただし遺書なし。金融口座の整理なし。検索履歴にも今のところ兆候なし」


 神代が腕を組む。


「男?」


「恋人関係は調査中」


「宗教?」


「同じく」


「薬?」


「可能性はある」


「闇バイト?」


「それも」


 榊原が口を開いた。


「最初から答えを決めるな」


 全員が彼を見る。


「七名が同じ理由で消えたという前提すら、まだ仮説だ」


 ホオズキが頷いた。


「そういうこと」


 榊原は続ける。


「我々がやるのは、怪しいものを探すことじゃない。事実を積み上げることだ」


 久世がキーを叩く。


「じゃ、地味な仕事から始めますか」


「お願い」


「公開SNS、位置情報が残ってる投稿、画像背景、相互フォロー、イベント参加歴、店舗レビュー……可能な限り共通項を掘ります」


「レイナ」


「はい」


「友人、勤務先、学校。本人たちが普段どこへ行っていたのか聞いて」


「了解」


「サヤ」


「防犯カメラ?」


「行政、店舗、マンション管理組合。取れる範囲全部」


「分かりました」


「レンジ」


「はいはい」


「夜の街」


 神代が笑う。


「俺向きだ」


「遊んできていいとは言ってない」


「分かってるって」


「本当に?」


「信用ないなあ」


「ない」


 即答したのは三人だった。


 ホオズキが最後に榊原を見る。


「真壁にも声をかける」


「裏社会方面ですか」


「若い女性が複数消えてる。人身売買なら、どこかで金が動く」


「では私は全体の整理を」


「お願い」


 会議が終わりかけた時。


 久世が言った。


「代表」


「何?」


「警察側は?」


 ホオズキは一瞬考えた。


「私から黒崎に聞く」


 神代がにやりと笑う。


「恋人パワー」


「仕事」


「はい」


     *


 同日。


 午後八時十六分。


 警視庁。


 黒崎剛士は机上の書類から顔を上げた。


 電話が鳴ったからではない。


 スマートフォンが短く振動したからだった。


 画面。


『今、話せる?』


 送信者。


 九条ホオズキ。


 黒崎は周囲を見る。


 部下数名が書類整理をしている。


 彼は立ち上がり、廊下へ出た。


「どうした」


『声が固い』


「職場だ」


『私も職場』


「お前の職場と一緒にするな」


『失礼ね』


「用件は」


 数秒の沈黙。


 そしてホオズキの声が変わった。


『若い女性の失踪が増えてない?』


 黒崎の顔からわずかに表情が消えた。


「何の話だ」


『十九歳から二十二歳前後。ここ一、二か月』


「どこで知った」


『依頼が来た』


「一件か」


『七件』


 黒崎は答えなかった。


『黒崎?』


「待て」


 彼はさらに廊下の奥へ歩いた。


 人のいない場所。


「七人の氏名を送れ」


『出せるの?』


「照合するだけだ」


『それ、私に結果返せる?』


「返せる範囲ならな」


『さすが警察官』


「そうやって持ち上げても駄目だ」


『じゃあ彼氏』


「もっと駄目だ」


 電話の向こうで小さく笑う声。


 だが黒崎は笑わなかった。


「ホオズキ」


『何?』


「妙な真似はするな」


『まだ何もしてない』


「その“まだ”が怖いんだ」


『失踪者を探してるだけ』


「それならいい」


『何か知ってる?』


 黒崎は答えなかった。


『黒崎』


「……今朝、一件上がってきた」


『何が?』


「若い女性の行方不明」


『何歳』


「二十」


 ホオズキが黙った。


「八人目かもしれん」


     *


 三日後。


 ヤタガラス本部。


 壁一面の大型モニターに、東京の地図が表示されていた。


 赤い点が十三個。


 ホオズキは腕を組んでいる。


「増えたわね」


 久世が椅子を回した。


「公開情報と家族側の投稿、黒崎さん経由で確認できた範囲。条件を広げればもっといますが、今のところ類似性が高いのは十三」


「共通点」


「年齢。十七から二十三」


「性別」


「全員女性」


「職業」


「ばらばら」


「居住地」


「ばらばら」


「学校」


「ばらばら」


「交友関係」


「直接の接点なし」


「SNS」


「相互フォローなし」


 榊原が腕を組んで立っている。


「それではまだ共通性とは言えんな」


「はい」


 久世は画面を切り替えた。


「ただし」


 十三人分の写真が表示される。


「全員、失踪直前に夜間外出しています」


 神代が言った。


「若い女なら普通じゃねえの?」


「そう」


 久世が答えた。


「だからそれだけじゃ弱い」


 次の画面。


 SNS投稿。


 写真。


 動画。


 短文。


「そこで過去三か月分の投稿を全部洗いました」


「全部?」


 レイナが呆れた顔をする。


「俺じゃない。機械」


「それでも暇人ね」


「褒め言葉として受け取る」


 久世は一枚の写真を拡大した。


 薄暗い店内。


 赤い照明。


 若者たち。


 ステージ。


「長谷川美月。失踪十三日前」


 次。


「二人目。失踪六日前」


 次。


「五人目。失踪三週間前」


 次。


「九人目。失踪前日」


 写真の場所はすべて違うように見えた。


 レイナが首を傾げる。


「何?」


「背景」


 久世が拡大する。


 写真の端。


 黒い壁。


 その上に赤いステッカー。


 鳥のようにも、蝙蝠のようにも見える奇妙なマーク。


「同じもの?」


 サヤが言った。


「画像検索じゃヒットしません」


「店のロゴ?」


「たぶん」


「どこ?」


「それが分からない」


 久世はさらに画面を切り替える。


「投稿の本文には店名なし。位置情報なし。タグなし」


「他の写真から特定できない?」


「やってる」


「じゃ、これは?」


 神代が別の写真を指差した。


 ステージ横。


 柱に紙が貼られている。


 文字の一部。


 ――VER.


 久世が頷く。


「現在解析中」


 その時。


「私、知ってるかも」


 レイナだった。


 全員の視線が集まる。


「この内装」


「行ったことあるの?」


「ない」


「じゃあ」


「聞き込みで見た」


 彼女は自分の端末を操作した。


「三人目の失踪者の友人」


 写真が表示される。


 若い女性二人。


 背後の壁。


 同じ赤いマーク。


「この子が言ってた。最近、友達に連れられて変なライブハウスへ行ったって」


 久世が身を乗り出した。


「店名は?」


「覚えてないって」


「場所」


「新宿でも渋谷でもない。もっと外れ」


「曖昧だな」


「ただ」


 レイナは写真を拡大した。


 奥の壁。


 非常口の上。


 小さなプレート。


 そこにアルファベットがあった。


 V E S P E R。


 久世の指が止まった。


「……Vesper」


 ホオズキが読み上げる。


「ヴェスパー?」


「ラテン語由来なら、夕暮れとか宵」


 久世は即座に検索を始める。


「店か?」


「待って」


 数秒。


 彼の眉が寄る。


「変だ」


「何が」


「店らしき情報はある」


 画面に検索結果が表示された。


 SNS。


 匿名掲示板。


 個人ブログ。


『Vesper最高だった』


『地下の箱』


『知る人ぞ知る』


『紹介ないと入れない』


 だが。


「公式サイトなし」


 久世が言う。


「法人登記からもそれらしい会社が出ない」


「ライブハウスなら営業許可があるでしょ」


 サヤ。


「普通は」


 久世がキーを叩く。


「消防関係の届出……該当なし」


「住所は?」


「複数ある」


「複数?」


「書き込みごとに違う」


 榊原が眉をひそめた。


「移転した可能性は」


「あります。ただ……」


 久世が一件の投稿を開く。


 投稿日は三年前。


『Vesper、また行きたい』


 次。


 五年前。


 次。


 八年前。


 次。


「これ」


 久世の声が少し低くなった。


 十二年前の個人ブログ。


 粗い写真。


 赤い照明。


 黒い壁。


 同じマーク。


 同じ内装。


 同じステージ。


 ほとんど変わっていない。


「十二年前からある」


 神代が言う。


「老舗じゃん」


「なのに所在地が確認できない」


 サヤが画面を見る。


「名前を変えてる?」


「Vesperって名前だけはずっと同じ」


「経営者」


「不明」


「客」


「口コミだけなら山ほど」


「警察」


「目立った摘発記録なし」


 部屋に沈黙が落ちた。


 ホオズキが地図を見る。


 十三個の赤い点。


「失踪者全員が行った証拠は?」


「今あるのは四人」


「残り九人」


「調べます」


 ホオズキは腕時計を見る。


「レイナ」


「はい」


「その店を知ってそうな人間を洗って」


「了解」


「レンジ」


「夜の街?」


「今度こそ仕事して」


「ずっと仕事してるって」


「真壁さんにも?」


 サヤが聞いた。


「お願いする」


 榊原が静かに尋ねた。


「代表」


「何?」


「ただの無許可営業の店なら?」


「警察に渡して終わり」


「人身売買なら?」


「潰す」


「失踪と無関係なら?」


「謝って帰る」


 榊原はわずかに笑った。


「結構」


 ホオズキはもう一度、画面の赤いマークを見る。


 蝙蝠の翼にも見える。


 あるいは、翼を広げた鳥。


 その中心に一本の縦線。


 理由は分からない。


 ただ。


 妙に目が離せなかった。


     *


 その夜。


 午前一時二十七分。


 都内某所。


 人通りの少なくなった裏路地。


 一人の少女が歩いていた。


 二十歳。


 大学生。


 スマートフォンを片手に地図を見ている。


「絶対こっちじゃないって……」


 友人から送られてきた場所。


 Vesper。


 最近、一部の若者の間で噂になっている地下ライブハウス。


 検索しても正確な住所が出ない。


 SNSで紹介された人間だけが場所を教えてもらえる。


 そんな秘密めいた仕組みも、人気の理由だった。


 少女は古い雑居ビルの前で立ち止まった。


 一階はシャッターが閉じている。


 二階以上も暗い。


「ここ?」


 ビル脇。


 地下へ降りる階段。


 看板はない。


 ただ壁に、小さな赤いマークが描かれている。


 少女はスマートフォンを見る。


『地下。扉ノックして』


「怖……」


 笑いながら、階段を降りる。


 地下二階。


 黒い鉄扉。


 音楽が聞こえる。


 低いベース。


 腹の奥まで響くような音。


 少女は扉をノックした。


 一度。


 二度。


 三度。


 数秒後。


 小窓が開いた。


 暗闇の向こうから男の目が覗く。


「誰の紹介?」


 少女は友人の名前を言う。


 小窓が閉まった。


 鍵が外れる音。


 扉が開く。


 中から冷たい空気が流れてきた。


 赤い光。


 音楽。


 笑い声。


 多くの若者。


 少女は安心したように笑う。


「なんだ、普通じゃん」


 そう言って中へ入った。


 扉が閉まる。


 鉄の鍵が掛かる。


 誰もいなくなった階段。


 壁に描かれた赤いマークだけが残る。


     *


 午前二時十三分。


 地下。


 音楽はさらに激しくなっていた。


 少女はカウンターで受け取ったグラスを片手に、人混みを歩いていた。


 友人はまだ来ていない。


 電波が悪い。


 メッセージも送れない。


 それでも不安はなかった。


 周囲には同年代の男女が大勢いる。


 普通のライブハウス。


 少し暗くて。


 少し怪しくて。


 それだけ。


「初めて?」


 声をかけられた。


 振り向く。


 女。


 二十代前半くらい。


 白い肌。


 黒い髪。


 赤い照明のせいだろうか。


 妙に顔色が青白く見える。


「はい」


 少女は答えた。


「友達に紹介されて」


「そう」


 女は微笑んだ。


 整った顔。


 恐ろしいほど整っている。


「ここ、気に入った?」


「まだ分かんないです」


「そのうち好きになるわ」


 女は少女の手首を見る。


「あなた、いい匂いね」


「え?」


「香水」


「ああ」


 少女は笑った。


「安いやつですよ」


「そう」


 女も笑った。


「とても美味しそう」


 音楽が大きくなる。


「え?」


 聞き取れない。


 少女が少し顔を近づける。


「今、なんて――」


 女の瞳が見えた。


 ほんの一瞬。


 赤い。


 そう見えた。


 少女は瞬きをする。


 普通の黒い瞳。


「何でもない」


 女が言った。


 そして自然に、少女の肩を抱いた。


「もっと面白いところ、見せてあげる」


 ステージとは反対方向。


 関係者以外立入禁止と書かれた扉。


 二人はその奥へ消えていった。


 誰も見ていない。


 誰も気にしない。


 音楽は鳴り続けている。


 その夜。


 十四人目の少女が東京から消えた。

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