第五章 契約と担当者
顧客のヴァルカン社は、社員千人以上を抱える大企業だ。
浅見は、ヴァルカン社の大きな会議室の中で、数十人の社員の前でプレゼンテーションを行った。
スクリーンには量子コンピュータの図が映し出されている。
彼は落ち着いた声で説明した。
「……従来方式の限界を超えるために、この仕組みが必要です」
聴講者たちはうなずいた。
発表後、重役のひとりが歩み寄り、浅見と握手を交わした。
契約成立だった。
◇ ◇ ◇
二日後。浅見のアパート。
彼はベッドの上でスマートフォンを手にしていた。
画面には先ほど測った38度台を示す体温計の拡大写真が映る。
優奈がネット通話で言った。
「ついてなかったわね。コロナなんて」
浅見は肩をすくめた。
「ええ……でも、プレゼンが終わってからでよかったです」
「そうね。そういえばヴァルカン社でも昨日からコロナが流行ってるそうよ」
「大変ですよね、みなさん」
優奈はうなずき、別の話題を切り出した。
「そのヴァルカン社から連絡があったの。担当が決定したって」
画面に名刺の画像と、三十代後半と思われる女性の写真が表示された。
城山綾乃。開発管理室長と肩書が記されている。
「この人よ。あまりいい噂は聞かないけど。実際、結構大変よ」
優奈はため息をついた。
「ため息つくぐらい大変なんですか?」
「うん……少しね。最近、私も体の具合が悪いのよ」
優奈の声は、いつもよりわずかに弱々しかった。
浅見は、名刺と優奈を交互に見た。
◇ ◇ ◇
一週間後。快復した浅見は出社した。
浅見が駅に向かう途中、茂みから黒いものが飛び出してきた。
浅見は驚いて黒いものをみた。黒い猫だった。
「なんだ、お前か」
黒い猫は、浅見を見ると立ち止まった。
浅見はしゃがんで黒い猫を見ながら話しかけた。
「前、いきなりいなくなったからびっくりしたぞ」
黒い猫はニャアとだけ一声鳴いた。
しゃがんで黒い猫に話しかけている浅見を、通行人が訝し気に見ながら歩く。
やがて、黒い猫は人語を発しないまま、スタスタと走り去った。
「おい……」
浅見は猫の歩き方をみて独り言を言った。
「歩き方が違う……。あの猫じゃなかったのか……」
浅見は立ち上がり、駅に向かって歩きだした。




