第四章 ものをいう猫、ふたたび
翌朝、浅見のアパート。
「万全じゃなかった……」
浅見はベッドに横たわり、体温計を覗き込んだ。
表示は37度5分。
彼は棚から抗原検査キットの入った袋を取り出した。
「陽性だったら、プレゼンは中止。またクビの危機が……」
◇ ◇ ◇
浅見は検体を含んだ液を、検査キットの上に垂らした。
数分の沈黙。
赤いラインが一本だけ浮かび上がる。陰性。
浅見は息をつき、立ち上がった。
「……助かった」
息を吐いた瞬間、ベッドの下から鈴の音がした。
「よかったね」
あの黒猫がベッドの下から出てきた。
「お、お前……なんでそんなところから……」
驚く浅見の前で、黒猫はのんびりと口を開いた。
「それはこの際、大した問題ではない」
黒猫がのんびりした口調で続ける。
「問題は、君が『陰性』を観測しようとした結果、検査結果も『陰性』として観測されたということだ。その影響は他にも及ぶ」
浅見はまだ驚きで口が開いたままだった。
使い古された方法だが、頬をつねる。痛い。夢ではない。
少しの沈黙の後、浅見は目の前で起こったことを頭の中で整理し始めた。
……そもそも人語を解し、発する猫というだけで異常なのだ……
浅見は、そう思いながらクロを見た。
……今更、予想外のところから現れたぐらいで不思議がるのがおかしい……
浅見は、目の前で起こった不思議な出来事を、徐々にそんな風に合理付ようとしていた。
しばらくの沈黙の後、浅見はクロに訊ねた。
「お前が言ったことの意味は、『望みを強く持てば、未来も変わる』ということか?」
「いや……まあ、そういう見方もできるか」
クロは尻尾を揺らし、わずかに笑った。
「君が観測によって『陰性』を確定した結果、別の誰かが『陽性』として観測されてしまうかもしれないってことだ」
「よくわからないことを言うんだな」
「観測は世界に影響する。でも、その影響がどこまで届くかは誰にもわからない。 量子の世界では、因果はいつも揺らいでいるからね」
「ミクロ、ナノの世界ではそうだけどな。ここはマクロの世界だぞ」
雄弁に禅問答のようなことを語る黒猫の隣で、浅見はスーツに着替え始めた。
◇ ◇ ◇
浅見はアパートを出ると、駅に向かった。
熱があるので走るのは無理だが、早足ならなんとかなる。
浅見の横を黒猫がまるでスキップをするように並んで走る。首の鈴が軽やかに鳴った。
黒猫の独特の走り方を見て、浅見は小声でつぶやいた。
「本当にクロみたいだ……」
「そう思って観測すれば、存在する」
黒猫は浅見を見上げて言った。
◇ ◇ ◇
小学5年生から中学2年まで浅見が飼っていた黒猫の「クロ」。
学校に行くときにはいつもスキップをするように走り、首の鈴を鳴らしながらついてきてしまっていた。
結局、校門どころか昇降口までついてきてしまった。小学校では友人の協力で一階の倉庫に隠し、中学校では先輩の協力でテニス部の部室に隠したことも一度や二度ではなかった。
そして中学2年の秋、校外学習に出かけた日を最後に、クロはいなくなってしまった。
◇ ◇ ◇
浅見は10年以上前のことを思い出しながら、前を見てつぶやいた。
「いや……でも、あれから10年だ。いくらなんでも、生きてないだろ」
「そう思って観測すれば、存在しない」
謎めいた言葉を発する黒猫の方を、浅見は訝し気に見下ろした。
黒猫がいなくなっていた。
「おい……猫?」
浅見は一瞬立ち止まり、周囲を見回した。
「……どこ行ったんだ?」
浅見はしばらく周囲を見回したが、今日の任務を思い出した。
浅見は首を傾げながら、駅に向かってまた早足で歩き出した。




