第十章 さよなら、クロ
久しぶりの休暇を取った浅見は、自家用車で優奈の病院に向かった。
徐々にだが回復してきている優奈に、浅見は将来に関する重要なことを打ち明けた。
浅見は、久しぶりに優奈の驚く顔と笑顔を見た。
浅見は優奈に、クロのことを少しだけ話した。
◇ ◇ ◇
その後、浅見は二時間ほど車を走らせた。
自分の実家に行くためだった。
クロのために。
◇ ◇ ◇
浅見家の廊下。
浅見は、母の彩子と歩いていた。
「覚えてるよ。クロが轢かれた日のこと。あんたが遠足に行った日だったかね……」
彩子が浅見を振り返りながら言う。彩子は昔から校外学習を遠足と呼ぶのだ。
「クロは、朝、いつもあんたについて学校まで行ってたよね」
彩子は、ガラス戸から庭を見た。
「あの日、いつもと違う行き先に戸惑ったんだろうね……クロは、大通りで車に轢かれて……」
彩子は浅見を見た。
「ごめんね。母さん嘘をついたの。あんたを悲しませたくなくて、クロはいなくなったって」
彩子は窓から庭の一角を指した。
「あの月桂樹の根元よ」
◇ ◇ ◇
浅見家の庭。
浅見はスコップを手に月桂樹の根元を掘りはじめた。
「クロ、今、楽にしてやる」
チリン、チリン……
しばらくして、鈴の音が現実と非現実の境界を揺らすように響いた。
月桂樹の陰からクロが現れて言った。
「本当に悠人は勘がいい」
浅見は手を止め、クロを見つめながら言った。
「俺がクロのこと、いつまでも生きてるかもしれないって思い続けてたからだ」
浅見が続けた。
「観測できないものは、重ね合わせ状態に留まってしまうんだな」
浅見がスコップをまた使い始めた。
「ごめんな。苦しかっただろ」
クロは口許をわずかにほころばせ、浅見の顔を覗き込んだ。
「……いいよ。最後に悠人の役に立てたし」
浅見はふと気がかりだったことを訊ねた。
「そうだ……なんで今まで出てきてくれなかったんだ? 10年もあったのに」
クロはまた前足で顔を掻きながら応えた。
「前にも言っただろ。吾輩のような存在は、心を病みかけたり、深い悩みを抱えたりしていないと、人間には見えないのさ」
「安定した人間には見えないってことか?」
「そういうこと。悠人の人生、中学から最近までは順風満帆だったってことだよ」
浅見は苦笑した。
「……つまり、10年間変わり映えしない人生だったってことだろ。皮肉なもんだな」
やがて、スコップが固いものに当たった。
浅見は屈み、手で丁寧に土を掘る。
首に鈴をつけた猫の骨が現れた。
「ありがとう、悠人。これで『霊《0》』に収束できる」
クロの輪郭が、確率の霧のように薄れていくのが見えた。
浅見は優しく声をかけた。
「いい墓、建て直してやるよ」
微笑むクロの姿が、外側から少しずつ存在確率を減少させていくように薄くなっていく。そして、すべてが『0』に収束するように、姿が消えていった。
「さよなら、クロ」
チリン。
クロの姿が消え、首につけていた鈴が地面に落ちた。
チリン、チリン……
落ちた鈴が浅見の掘った穴に転がる。
底まで転った鈴が、猫の骨についていた鈴と重なり、一つの鈴になった。
チリン。
最後に一度だけ、鈴の音が響いた。




