第九章 クロの正体
浅見は戸惑った。
「……どういうことだ? あまりに抽象的すぎて、理解がおいつかない」
「じゃあ、具体的に話そうかな」
クロが顔を前足で掻き、もう一度浅見を見上げた。
クロが淡々と話しはじめた。
「一回目の悠人の願いを思い出してみてくれ。納期に間に合わない状態を『1』、間に合う状態を『0』とすれば、悠人が困っていた状況は、いわば『1』と『0』が重なり合った量子状態だ。つまり揺らぎの状態さ」
「でも、バグに気づいて間に合った」
「そう、吾輩は揺らいだ状態に現れて……『0』に確定したのさ」
クロは鈴を揺らした。
「そんな馬鹿な……量子コンピュータじゃないんだぞ。じゃあ二回目も?」
浅見は半信半疑だった。
「検査結果の陽性を『1』、陰性を『0』とすれば?」
クロが、問いに問いで返す。
「……検査前の『1』と『0』の重ね合わせを『0』に確定したのか?」
浅見がさらに問いで返す。
「まあ、いい線いってるね」
クロが微笑みを浮かべながら言った。
「正しくは『0に確定するための検査キットを悠人自身に選ばせた』のさ。キットの選択はいわば揺らぎだから」
浅見はあのプレゼンの朝のことを思い出した。
……そうか、検査キットがつねに陰性と表示されれば、それはコロナと判定されない……
浅見がそう合点すると、疑問が浮かんだ。
「ちょっと待ってくれ……じゃあ俺はあの日、本当はコロナになってた……ということか?」
……実は陽性だったのか? なら、ヴァルカン社で流行したのも俺が原因……
愕然とする浅見に、クロは悠然と応えた。
「さあ? わかるのは観測できたことだけだ」
「で、三つ目の願いだが……」
クロが畳みかける。
「いい、わかった。やめてくれ……」
浅見は頭を抱えた。
……三回目のあの後、しばらく携帯電話がつながりにくくなった……
浅見が自問自答した。
……それは、城山綾乃から見れば俺はいないもの同然と観測されることになる……
やがて浅見は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
……じゃあ、宮本さんの入院を確定させたのは、俺か? 俺なのか?……
浅見は再びクロを見た。
「そんな揺らぎの中に現れて、観測によって状態を確定させるなんて、クロ、お前はまるで……」
浅見はクロの丸い瞳をじっと見つめた。
「『シュレーディンガーの猫』そのものじゃないか」
「正解」
クロは少し寂しげに笑い、ウィンクしながら言った。
「やっぱり勘がいいね、悠人」
浅見は言葉を詰まらせた。
「クロ……お前、そんなものに……」
「ああ、なると苦しいものさ。『生《1》』と『霊《0》』が重なりあった存在は」
呆然とする浅見の前で、クロは後ろを向いた。
「そして、人間に見える状態を長く続けるのはもっと苦しい……だから失礼するよ」
チリン。
クロは暗い部屋の隅に向かって歩いて行き、やがて浅見の目に見えなくなった。




