第五話 黒猫と修道女は路地裏で交わる
私は王都へと帰還した。
マザーとベルナルド司教は、私を何も言わずに迎え入れてくれた。
問い詰めることも慰めの言葉を掛けることもせず、ただ静かに私の頭を優しく撫でてくれた。
その温もりだけで、十分だった。
きっと、もう私のことは耳にしていたのだろう。
……いいえ。
あの二人なら、最初からこうなることを見越していたのかもしれない。
だから何も聞かない。
何も責めない。
勇者でもなく。
司祭でもなく。
ただ一人の修道女となった私を、そのまま受け入れてくれたんだろう
その優しさが、かえって胸に痛かったけれど、
それよりもどれだけ時間が過ぎても、頭の片隅から離れない光景。
虚ろな瞳で立ち尽くす誠一郎さん。
そして。
彼に喰われた、あの罪人と呼ばれていた男の最後の表情。
恐怖。
絶望。
そして、助けを求めるような瞳。
何度目を閉じても、忘れることができない。
でも私には、どうすることもできない。
私には、何もない。
彼を救い出せるほどの力も。
運命に抗う勇気も。
真実へ辿り着く知恵も。
宝剣でさえ……。
ーーだからと言って立ち止まり続ける訳にもいかない。
ただがむしゃらに目の前で苦しむ人を、一人ずつ救うんだ。
英雄様の様に。
「はい。これで額の傷は塞がりました。」
「ありがとう!!」
「ありがとうございますぅっ……あぁ、なんとお礼したらよいか……」
たった今まで治癒魔法を施していた少女は、傷が塞がった額を何度も触りながら嬉しそうに笑う。
その隣では、母親が何度も頭を下げていた。
その光景につられるように、私の頬も自然と緩む。
「ふふっ、お力になれて私も嬉しいです。
でも、次からはお馬さんの近くで遊んではいけませんよ?」
「はーい!」
「ありがとうございます……!
お布施です……少ないですがどうか受け取ってください。」
そう言って母親は震える手で小さな皮袋を差し出したーーが、私はそっと皮袋を押し返す。
「全ては。暦の導きによるーー」
そこまで言いかけて、私は口を閉じた。
少女の頭を優しく撫でながら言い直す。
「いつも、娘さんにはリリルやミシャ達と仲良くしてくださってますから。」
そう言って微笑むと、母親は驚いたように目を丸くした。
「で、ですが……」
なおも革袋を差し出そうとする母親へ、私はゆっくりと首を横に振る。
「傷は塞がっていますが、マナを過剰に消費しています。」
少女は不思議そうに私を見上げた。
「ですから、そのお金で滋養のあるものを食べさせてあげてください。
その方が、私も安心できます。」
母親は革袋を胸に抱きしめると、目尻に涙を浮かべた。
「……本当に、お優しい方ですね。
ありがとうございます。」
何度も何度も頭を下げ、少女も母親に負けじと元気いっぱいに頭を下げた。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
その笑顔に、自然と私も笑みを返す。
「お大事にしてくださいね。」
親子は何度も振り返りながら、小さく手を振って去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私はそっと胸に手を当てる。
勇者ではなくても。
せめて、目の前の誰かを笑顔にできるのなら。
今の私には、それで十分だと思っていた。
「じゃあ――勇者になるのは諦めるかい?」
突然、背後から声。
「……え?」
慌てて振り返ったけれど、誰もいない。
(聞き間違い……?)
そう思った、その時。
「寧ろその選択は大いにアリだ。何者でもない人間が、目の前の誰かを救う。
それは案外、一番難しい。」
再び声が響く。
「誰も選びたがらない道だ。その心意気は好きだよ。」
どこから聞こえてくるのかわからず、私は辺りを見回す。
「でも……。
今の君の言葉は、どこか諦めたように聞こえた。」
「誰ですか……?」
返事はない。
その代わり、ぞくり、と誰かの視線を感じ、反射的に顔を上げる。
屋根の上で一匹の黒猫が、静かに私を見下ろしていた。
黄金色の瞳。
その目と、私の目が合う。
次の瞬間、黒猫はくるりと背を向けると、軽やかに屋根から路地へと飛び移った。
「あっ……待って下さい!」
黒猫は振り返ることなく、細い路地へと駆けていく。
私は咄嗟に後を追った。
「ちょ、ちょっと……!」
石畳を軽やかに蹴る黒猫とは対照的に、法衣姿の私は裾を押さえながら必死に走る。
角を一つ。
また一つ。
人気のある通りを抜け、人通りの少ない裏路地へ。
いつの間にか市場の喧騒は遠ざかり、聞こえるのは自分の息遣いだけになっていた。
「はぁ……はぁ……どうして……私を……」
答えはない。
黒猫は時折こちらを振り返り、私が追いつける絶妙な距離を保ったまま走り続ける。
——導かれている。
そんな確信だけが胸に芽生えていた。
やがて路地を抜けた先で、視界がふっと開ける。
「ここは……南区画?」
王都でも比較的人通りの少ない一角。
並ぶ建物は質素な煉瓦造りばかりだった。
その中で、一棟だけ。
まるで別世界から切り取ってきたような建物が静かに佇んでいた。
白亜の石で築かれた、二階建ての建物。
陽光を受けた白い壁は柔らかな輝きを帯び、窓辺には色とりどりの花が咲いている。
屋根の上には小さな鐘楼があり、一つだけ吊るされた銀の鐘が風に揺れた。
――カラン。
澄み切った音色が辺りへ静かに響く。
その音を待っていたかのように、黒猫は塀を飛び越え、軽やかに二階の窓枠へ飛び移った。
一度だけ私を見下ろす。
黄金色の瞳が、まるで「来い」と告げるように細められた。
そして、そのまま開いた窓の中へ姿を消す。
「あっ……!」
慌てて建物へ駆け寄る。
そこで私は、入口の脇に立て掛けられた木製の看板へ目を留めた。
丁寧な文字で、こう記されている。
――癒しの鐘楼。
「……癒しの鐘楼?」
私は一度だけ深呼吸をする。
……怪しい場所、というわけではない。
けれど、どうしてあの黒猫が私をここへ導いたのかは分からない。
入口の扉へ歩み寄り、小さく拳を握る。
コン、コン。
「……ごめんください。」
しばらくして、室内から足音が聞こえた。
かちゃり、と扉が開く。
「はい、どちら様――」
姿を現したのは、二十代半ばほどの女性だった。
白い外套を羽織り、肩まで伸びた栗色の髪を後ろで一つに束ねている。
治癒師だろうか。
どこか柔らかな雰囲気を纏った人だった。
けれど。
その人の視線が私の法衣へ落ちた瞬間、空気が変わる。
柔らかな笑みが消え、瞳だけが鋭く細められた。
「……暦信教。」
低く呟く声。
思わず肩が震える。
どうして……?
何か、失礼なことをしてしまったのだろうか。
女性は扉を半歩ほど閉めるように身体をずらし、私との距離を取った。
「暦信教の方が……何のご用ですか。」
その声音には、はっきりと警戒が滲んでいた。
「え……?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
どうして、そんな目で見られているのか分からない。
「わ、私は……」
何と言えばいいのだろう。
黒猫を追い掛けてきました。
そんな理由で訪ねて来たなんて、自分でも信じられない。
「その……黒猫を追い掛けていたら、ここへ……。」
女性は黙ったまま私を見つめている。
信じてもらえていない。
……当然だ。
私でも逆の立場なら信じない。
女性は一度だけ息を吐くと、表情を硬くしたまま言った。
「申し訳ありませんが、お引き取りください。」
「え……?」
突然のことに、思わず聞き返してしまう。
「その……私は何か失礼を――」
「お引き取りください。」
今度は先ほどよりも、はっきりとした口調だった。
扉を閉めようとする手に、思わず私は一歩だけ前へ出る。
「あ、あのっ! 私はただ黒猫を追い掛けて――」
「聞こえませんでしたか。」
女性の声が更に低くなる。
その目には、もう先ほどの柔らかさはどこにもなかった。
「帰れ、と言っているんです。」
びくり、と身体が震える。
そこまで言われる理由が、私には分からない。
「でも、私は――」
「帰ってください。」
ぴしゃりと言い放たれ、胸の奥が締め付けられる。
何か誤解されている。
そう思うのに、その誤解が何なのかさえ分からない。
言葉を探して口を開きかけた、その時だった。
「あらあら、どうしたの?」
奥から穏やかな男性の声が聞こえた。
「そんな大きな声を出して……お客様に失礼でしょう?」
その声と共に奥から一人の男性が姿を現した。
「あら珍しいわね? 勇者ちゃんじゃないの」
私の姿を見た瞬間、彼はどこか楽しげな笑みを浮かべる。
「あなたはたしか……ヴェルミチェッリ家のーー」
「クロエって呼んで」
男――いや、美しい女性のような立ち居振る舞いのその人は、人差し指を唇へ添えてくすりと笑った。
「ヴェルミチェッリの顔はもう持ち合わせていないのよ」
そう言って肩をすくめる。
その柔らかな物腰に、先ほどまで張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「それより。」
クロエさんは私をじっと見つめる。
「黒猫を追い掛けて来たんですって?」
「あ……はい。」
「黒猫なら見たわよ。」
「えっ!」
思わず身を乗り出す。
「本当ですか!?」
「ええ。」
にっこりと微笑む。
「捕まえてあげるから、中で待ってなさい。」
「……ですが」
横にいた白衣の女性が思わず口を開く。
「クロエ様、この方は暦信教の――」
「大丈夫よ。」
クロエさんは軽く手を振るだけだった。
「この子は敵じゃないわ。」
その一言で、女性は何か言いたそうな表情を浮かべながらも口を閉ざす。
「さ、どうぞ。」
私は戸惑いながらも、小さく頭を下げた。
「……失礼します。」
扉をくぐる。
建物の中は外観と同じく白を基調としていて、どこか教会にも似た静かな空気が流れていた。
けれど。
数歩進んだところで、私は思わず足を止める。
「……っ。」
廊下の両脇には、いくつもの病室が並んでいた。
開いた扉の向こうには白い寝台に横たわる人達。
誰もが生きてはいる。
胸は上下している。
けれど、その瞳には光がない。
天井だけをぼんやりと見つめる者。
誰かの手を握られたまま、何の反応も示さない者。
時折、小さく何かを呟いている者もいたが、言葉にはなっていなかった。
その光景は、どこか――。
誠一郎さんを見た時の、あの虚ろな姿を思い出させた。
胸がざわつく。
「こちらよ。」
クロエさんは何事もないように歩き続ける。
私は言葉を飲み込み、その後を追った。
案内された部屋は、病室とはまるで違っていた。
壁一面に並ぶ棚。
そこには薬草や乾燥させた植物、色とりどりの薬瓶がぎっしりと並べられている。
机の上には見たこともない器具や蒸留器。
本棚には分厚い医学書や魔導書が山積みになっており、まるで錬金術師の工房のような部屋だった。
「どうぞ。」
促されるまま椅子へ腰を下ろした。
けれど私は、辺りを見回しながら落ち着かないまま口を開く。
「あの……黒猫は……?」
その瞬間、クロエさんは吹き出した。
「あははっ。」
肩を震わせながら笑う。
「ごめんなさい。」
涙を拭いながら笑顔を向ける。
「黒猫は嘘なの。あの子達を納得させる為の口実。」
「……え?」
「だって。」
いたずらっぽく片目を閉じる。
「あまりにも可愛い理由で訪ねてきたんだもの。
つい、乗っちゃった。」
「…………。」
クロエさんは悪戯っぽく笑うだけだった。
そして、少しだけ真面目な表情になる。
「でも、あなたはーー」
私の目を真っ直ぐ見つめる。
「中に入ってみて……聞きたい事。
増えたんじゃない?」
その言葉に、私は思わず廊下で見た人達の姿を思い出した。
あの、虚ろな瞳を。
……確かに。
ここへ来た理由なんて、もうどうでもよくなっていた。
私が知りたかったのは。
あの人達に、一体何があったのか――そのことだけだった。
そして、その答えは私の想像を遥かに超えていた




