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第六話 黄金色の瞳は光を映す

「あの方達と同じ症状を……見たことがあるんです。」


私は恐る恐る口を開いた。


「ここは、一体……あの方達はどうしてあの様な?……」


クロエさんは答える前に、小さな薬缶を火へ掛け、ことり、と茶葉の入った缶を開ける音だけが静かな部屋へ響く。


穏やかな口調なのに、その横顔にはどこか諦めにも似た色が滲んでいた。


「ここはね。」


湯気が立ち始めた薬缶を見つめたまま、静かに言う。


「行き場を失った人達の治療所よ。」


「行き場を……?」


「ええ。」


茶葉へ湯を注ぎ、ふわりと薬草の優しい香りが部屋いっぱいに広がる。


「身体の病気でも、心でもない。

もっと厄介なものに壊された人達。」


私は思わず病室で見た人達を思い出す。


あの、虚ろな瞳とまるで魂だけがどこかへ置き去りにされたような姿。


「……あの方達は。」


喉が乾く。


「治るんですか?」


クロエさんは答えなかった。


静かに二つのカップへお茶を注ぎ、そのうち一つを私の前へ置く。


「治したいからここがあるのだけど、一年経った今でも進展なしね。」


その言葉だけで、十分だった。


簡単には治らない。


そういう意味なのだと理解してしまう。


私は温かな湯気を見つめながら、小さく息を呑んだ。


胸の奥で、一つの名前が浮かぶ。


「……マクスウェル。」


思わず零れたその名に、クロエさんの手がぴたりと止まった。


部屋の空気が、一瞬だけ張り詰める。


「どうして、その名前が出たのかしら?」


先ほどまでの柔らかな笑みは消えていた。


試すような視線に私は慌てて首を振る。


「い、いえ……詳しく知っているわけじゃないんです。

 ただ……。」


言葉を探す。


箱庭での狂気とあの男の笑み。


「先日…私の成人の儀と司祭になる為の試練として箱庭に呼ばれ、そこで彼らと……。」


クロエさんはしばらく私を見つめていた。


やがて、小さく息を吐く。


「そういうこと」


そう呟くと、自分のカップを手に取り、静かに一口飲む。


「彼ら……ね」


その声音からは、冗談好きな先ほどの雰囲気がすっかり消えていた。


クロエさんは真っ直ぐ私を見据える。


「彼らは、エクレ村の人達よ。」


静かな一言だった。


「エクレ村……。」


聞いたことのない村の名前だった。


「魔王軍の王都侵攻の際に被害を受けた山間の村でね。

 村の復興を援助するといって彼は村に近づいた」


私は息を呑む。


「勿論願ってもない話よね。けど、村人達は知らなかった。」


クロエさんは感情を押し殺したような声で続ける。


「自分達が、実験台にされることを。」


「……え?」


思わず聞き返す。


「マクスウェル司教は、村の生活用水に少しずつ試薬を混ぜていた。」


「せ、生活用水に……?」


頭が真っ白になる。


そんなことが、本当に。


毎日飲む水に。


料理にも使う水に。


子供も、大人も、老人も。


誰一人疑うことなく口にする水へ。


「最初は何も起きない。」


クロエさんは静かにカップを置いた。


「だから誰も気付かない。

 少しずつ、少しずつ体内へ蓄積され、ある日突然、命令を待つ人形へと変わる。」


病室で見た、あの虚ろな人達の姿が脳裏に浮かび、声が震えた。

「そんな……その試薬って、一体……。」


クロエさんは私を見つめる。


「血誓薬って、ご存じ?」


その名前に覚えがあった。


「確か……昔、奴隷を従わせるために使われていた……。」


「ええ。」


クロエさんは静かに頷く。


「効果も、成分も、とてもよく似ている。

 けれど、一つだけ決定的な違いがあるの。」


机の引き出しから、小さなガラス瓶を取り出すと、中には淡く赤みを帯びた液体が揺れていた。


「私達も何度も分析した。

 最高位の錬金術師にも依頼した。

 それでも、この一つだけは分からなかった。」


私は思わず身を乗り出す。


「分からないってどう言う事ですか?」


クロエさんは静かに頷く。


「この世界の、どの薬草とも。

 どの鉱石とも。

 どの魔物の素材とも一致しない。」


一拍置いて、ゆっくりと言う。


「この世界には存在していない成分が、一つだけ混ざっているの。」


クロエさんは静かにティーカップを置いた。


「そしてこんな話は…エクレ村に限った話じゃない。」


私は顔を上げる。


「我々、燈守はこれまで何度も似たような事件を追ってきた。

 人気のない村や貧しい集落、誰にも注目されない場所……そんな場所で人知れず壊されたり、消える人々がいる」


クロエさんは苦々しく笑う。


「そこへ行くと、不思議なくらい暦信教の影が見つかるのよ。

 もちろん、全部がそうだと断言はできない。

 でも、見えないところで何かを繰り返しているのは確か。

 何のためなのか。何を完成させようとしているのか……私達にも、まだ分からない。」



一度言葉を切り、私を真っ直ぐ見つめる。


「……信じられないでしょうね。」


私は何も答えられなかった。


信じたい。


でも、信じてしまえば。


私が今まで信じてきたものまで揺らいでしまう。


そんな私の様子を見て、クロエさんは小さく微笑む。


「いいのよ。それが普通。」


責めるような口調ではなかった。


「だから、自分の目で確かめてきなさい。」


「……え?」


「エクレ村。」


その名を静かに告げる。


「ここから馬で一日半走れば着くわ。」


私は思わず顔を上げた。


「実際に行って、自分の目で見てごらんなさい。

 私達の話が嘘なのか。」


一拍置いて。


「それとも、本当なのか。」


部屋に沈黙が落ちる。


クロエさんは立ち上がると、棚から一枚の簡単な地図を取り出し、机の上へ広げた。


「場所はここよ。」


指先が小さな村を示す。


「今は燈守の者が立ち入りを制限しているけれど、あなたは通すよう伝えておくわ。」


私は地図を見つめながら、小さく息を呑んだ。


「……私が本当に、行ってもいいんでしょうか?」


「もちろん。」


クロエさんは穏やかに頷く。


「むしろ、貴方だから見てほしいの」


そう言って地図を畳み、私へ手渡し、私は地図を胸の前でぎゅっと握り締めた。


エクレ村。


そこへ行けば、本当に真実が分かるのだろうか。


もし、クロエさんの話が本当だったなら。


私が信じてきたものは、一体何だったのだろう。


いや、単に私が……。


「……ありがとうございます。」


絞り出すようにそう言うと、クロエさんは穏やかに微笑んだ。


「お礼を言われるようなことじゃないわ。」


そう言ってティーカップを手に取り、小さく肩を竦める。


「私はただ、あなたに選んでほしいだけ。」


「選ぶ……?」


「誰かの言葉を信じるんじゃなくて、自分の目で見て、自分で考えて。」


静かな声だった。


押し付けるような響きは、少しもない。


「それが出来る子だと思ったから、中へ招いたのよ。」


その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。


暦信教の法衣を見ただけで警戒された。


それでも、この人は話を聞いてくれた。


それが何よりも嬉しかった。


クロエさんは空になったティーカップを机へ戻すと、ゆっくりと立ち上がった。


「さ、今日はこのくらいにしておきましょうか。」


「……はい。」


私も椅子から腰を上げる。


部屋を出る直前、クロエさんがふと思い出したように声を掛けた。


「エクレ村へ向かうなら、出発は早い方がいいわ。」


「どうしてですか?」


「日が沈むと、あの辺りは濃い霧が出るの。」


どこか含みのある笑みを浮かべる。


「道に迷いたくなければ、朝一番がおすすめよ。」


「……分かりました。」


私はもう一度頭を下げると、部屋を後にした。


廊下へ出ると、先ほど私を追い返そうとしていた女性治療師が腕を組んで待っていた。


相変わらず、不機嫌そうな顔で私を見るなり、じろりと睨みつける。


「それで。」


ぶっきらぼうな口調。


「黒猫は見つかったの?」


思わず口元が緩む。


「……いいえ。」


小さく首を横へ振る。


「でも。」


私は胸に抱えた地図へ、そっと視線を落とした。


「黒猫より、もっと大事なものを見つけました。」


女性治療師は一瞬だけ目を丸くした。


けれど何も言わず、小さく鼻を鳴らすだけだった。


「……そう。」


素っ気ない返事だけど、それでも先ほどのような刺々しさは、ほんの少しだけ薄れていた。


私は深く頭を下げる。


「ありがとうございました。」


返事はないが、背中を向ける私を止める声もなかった。


私は静かに癒しの鐘楼を後にする。


外へ出ると、昼下がりの柔らかな陽射しが頬を照らした。


さっきまで胸を覆っていた重苦しさが、ほんの少しだけ軽くなっている。


まだ何も分からない。


けれど、進むべき場所だけは見つかった。


エクレ村。


その名を胸の中で静かに繰り返しながら歩き出そうとした、その時。


「……あ。」


視線の先。


路地裏に積まれた古い木箱の上。


一匹の黒猫が、尻尾をゆったりと揺らしながら座っていた。


黄金色の瞳が、まっすぐ私を見つめている。


逃げようともしない。


まるで、ずっと待っていたかのように。


「……あなた。」


思わず足を止める。


すると黒猫は小さく首を傾げ、どこか人間臭い調子で口を開いた。


「──次に進む道は、見つかった?」


思わず息を呑む。


今度は聞き間違いじゃない。


確かに、この黒猫が喋っている。


「あなたは……何者なんですか?

喋る猫なんて……まさか、魔物……?」


黒猫は「失礼だなぁ」とでも言いたげに目を細め、小さく肩を竦めるように尻尾を揺らした。


「魔物じゃないさ。」


一拍置いて、どこか得意げに笑う。


「僕は堕天使。クロちゃんとでも呼んでくれ。」


そして黄金色の瞳で真っ直ぐセレナを見つめる。


「──君の信仰する神の使いだよ。」

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