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第四話 勇者はその名を失う

近くまで駆け寄って、ようやく気づいた。


「……っ」


誠一郎さんだという事実に気を取られ、そこまで目が向かなかったのだ。


けれど、よく見ると――明らかに、おかしい。


右の瞳だけが深紅に染まり、右半身の肌は色素を失ったように白い。


黒髪も右側だけが雪を被ったように色を失い、まるで身体の半分だけが、別の何かへと変貌してしまったかのようだった。


一体、この人に何があったの……?


胸の奥がざわつく。


それでも私は、その名を呼ぶしかなかった。


「誠一郎さん!! 私です!! 王都のセレナですッ!!」


けれど、誠一郎さんは私に一切反応を示さなかった。


虚ろな瞳。


焦点の合わない目で宙を見つめ、聞き取れないほど小さな声で何かをぶつぶつと呟いている。


その隣で、マクスウェル司教が愉快そうに口元を歪めた。


「おや、お知り合いでしたかぁ。これは失礼。悪い事をしましたかね」


「……どういう意味ですか?」


「見ていただくのが早いでしょう」


そう言って司教は拘束された罪人へゆっくりと視線を移す。


そして、まるで食事の時間を告げるかのような軽い口調で命じた。


「獣よ――浄化なさい」


その言葉が響いた瞬間。


ゴォッ――!


何の前触れもなく暴風が広間を吹き荒れる。


思わず腕で顔を庇う。


長い髪が激しく乱れ、法衣がばたばたと音を立てた。


「きゃっ……!」


周囲の聖騎士達も突然の異変にざわめき始める。


それでも。


教皇エレノア様だけは、まるで全てを知っていたかのように静かにその様子を見つめていた。


誠一郎さんの足元から黒い影が溢れ出し、それは生き物のように蠢きながら急速に広がり、やがて彼の全身を飲み込んでいく。


「なっ……」


影は膨れ上がる。


膨張し、うねり、形を変え――。


次の瞬間。


そこに立っていたのは、一匹の巨大な獣だった。


「ぁ……あぁ……なんなんですか……これは……こんなのッ」


先程まで静かに死を受け入れていた罪人が、初めて恐怖に顔を歪めた。


拘束されたまま必死に身を引いて後ずさろうとし、その姿を巨大な獣はただ静かに見下ろしていた。


まるで獲物を観察するように。


「動いてはいけません!!」


思わず叫ぶ。


けれど、その声は届かなかった。


獣の姿が――消えた。


「――え?」


そう思った次の瞬間。


グシャッ。


鈍い音が広間に響く。


続いて。


バリ……バリバリッ――。


骨を砕くような、おぞましい咀嚼音。


恐る恐る視線を向ける。


そこにはもう、罪人の姿はなかった。


巨大な獣がゆっくりと顔を上げる。


その口元からは、黒く粘ついた液体が糸を引くように滴り落ちて黒い液体がぽたり、と床へ落ちる。


広間は静まり返った。


誰一人として息をすることさえ忘れたように、その異形を見つめている。


巨大な獣はゆっくりと口を閉じると、その赤黒い瞳を静かに動かした。


視線の先。


そこにいたのは――マクスウェル司教。


「……ほう」


司教は微かに口角を上げる。


「まだ、その程度の自我は残っていましたか」


その言葉に反応したかのように、獣の喉奥から低いうなり声が漏れた。


グルルルル……。


空気が震える。


次の瞬間。


ドンッ――!!。


「あっ――!」


あまりにも速い。


目で追えない。


巨大な顎が、そのままマクスウェル司教へ喰らいつこうとした――その時。


キィィィン――。


甲高い音と共に、黄金色の光が司教の前へ展開される。


透明な壁。


幾何学模様が幾重にも重なった巨大な防御結界。


ガァァァンッ!!


獣の牙が結界へ激突し、凄まじい衝撃が広間を揺らす。


床石が砕け、衝撃波で私達の髪や法衣が激しく翻る。


けれど。


その牙は、一歩たりとも先へ届かない。


「実に素晴らしい。」


マクスウェル司教は結界の向こうで微笑んだまま、一歩も動いていなかった。


「ですが、躾というものは根気が必要でしてね」


マクスウェル司教は慌てる様子もなく、懐から一本の小さな注射器を取り出した。


淡く紅い液体が満たされている。


「少々、お行儀が悪いですよ」


結界へそっと指先を触れる。


すると黄金の障壁が音もなく揺らぎ、針一本が通るほどの小さな隙間だけが開いた。


その一瞬を逃さない。


司教は迷いなく獣の頬へ針を突き立て


「おやすみなさい」


薬液が流し込まれる。


「ガァァァァァァッ!!」


獣は苦しげな咆哮を上げ、巨大な身体を激しく震わせて黒い影が全身から噴き出し、暴風が広間を吹き荒れる。


やがて、その巨体は少しずつ崩れるように縮み始めた。


牙が消え。


爪が消え。


黒い毛並みが影へと溶けていく。


そして最後には。


黒い外套を纏った、一人の青年だけがその場に残された。


「誠一郎さん……」


呼びかけても返事はない。


彼はただ虚ろな瞳のまま俯き、糸が切れた人形のように静かに立っていた。


広間を満たしていた緊張が、ようやく静かに解けていく。


その様子を見届けた教皇エレノア様が、ゆっくりと口を開いた。


「……狭間の獣を使役するとは」


その声音に恐れはない。


あるのは純粋な興味と、ほんの僅かな感嘆だけ。


「実に見事ですね、マクスウェル司教」


静かな称賛。


だが、その瞳は獣ではなく、マクスウェル司教自身を見据えていた。


「では、お聞かせください」


大聖堂に凛とした声が響く。


「貴方の望みは何ですか?」


その問いに、マクスウェル司教は一度だけ誠一郎さんを振り返る。


そして肩を竦め、小さく笑った。


「正直に申し上げますと、私は暦信教を辞めようかと考えておりまして」


その一言だけで、広間の空気が張り詰めた。


聖騎士達の間にどよめきが走る。


しかし、マクスウェル司教は意にも介さない。


「この者を神として祀り上げ、新たな宗派でも興そうかと。」


そう言って、誠一郎さんへ穏やかな視線を向ける。


「信仰対象というものは、はっきりしている方が信徒も迷いませんでしょう?」


あまりにも自然な口調。


まるで明日の天気でも話すような軽さだった。


だが、教皇エレノア様の表情は変わらない。


「私は、貴方の望みを聞いています」


短い沈黙。


やがてマクスウェル司教は、くすりと笑って胸に手を当てた。


「でしたら話は簡単です」


恭しく一礼する。


「私に、枢機卿の席を一つお与えください。」


ゆっくりと顔を上げる。


その笑みは穏やかなまま。


「この私を暦信教へ引き留めたいのであれば、ですが。」


その言葉に、広間は再びざわめきに包まれた。


「何を……!」


「教皇猊下を愚弄する気か!」


「不敬にも程がある!」


殲聖隊の聖騎士達が一斉に色めき立つ。


中には今にも剣へ手を掛けようとする者までいた。


だが。


「静まりなさい」


エレノア様が一言そう告げるだけで、その場の喧騒は嘘のように消え去る。


誰一人、逆らおうとはしない。


静寂が戻る。


エレノア様はゆっくりとマクスウェル司教を見据えた。


「……その話は、この場で交わすものではありません。」


穏やかな声音。


しかし、その一言には有無を言わせぬ重みがあった。


「後ほど、場所を改めましょう。」


「承知致しました。」


マクスウェル司教は深々と一礼する。


まるで最初からそうなると分かっていたかのようだった。


けれど。


私には、まだどうしても聞かなければならないことがあった。


「……まだ。」


気付けば一歩、前へ出ていた。


「まだ、私の質問には答えて頂いていません。」


マクスウェル司教がゆっくりとこちらを向く。


「この人に……」


震える声を押し殺す。


「誠一郎さんに、一体何をしたんですか。」


しばしの沈黙。


やがて司教は、きょとんとしたように首を傾げた。


「おや。」


そして困ったように笑う。


「まだ、いらっしゃったのですね。」


その言葉に胸が締め付けられる。


「もう、お答えしたつもりでしたが?」


「……ッ」


「貴女自身が、ご覧になったではありませんか。」


司教は静かに誠一郎さんへ視線を向ける。


「今の彼こそが、答えですよ。」


「ふざけないでください!!」


気付けば叫んでいた。


「そんなの答えになってません! 誠一郎さんは――」


「セレナ。」


私の言葉は、その一声で遮られた。


決して大きな声ではないなのに、それ以上言葉を続けることができない。


ゆっくりと振り返る。


教皇エレノア様は、静かな瞳で私を見つめていた。


怒っているわけでも失望しているわけでもない。


まるで、事実を告げる者の目。


「貴女は情に流されました。」


静かな声が、大聖堂へ響く。


「目の前の罪人を裁けず、教義を受け入れることもできず、そして今もなお、個人の情を優先している。」


一歩。


エレノア様が私へ歩み寄る。


「勇者とは、人を救う者ではありません。

 司祭とは、人に赦しを与える者でもありません。

 世界を正しく導くためならば、自らの感情すら切り捨てる者です。」


胸が苦しくなる。


何も言い返せない。


「セレナ。」


私の名が静かに呼ばれる。


「貴女には、その素質がありません。」


その一言で胸の奥が音を立てて崩れ落ちた。


「司祭としても。」


一拍置く。


「勇者としても。」


世界が静まり返る。


聖騎士達も、マクスウェル司教でさえ何も口を挟まない。


「宝剣を返還なさい。」


淡々とした宣告。


「それは、元より勇者へ与えられるべき物です。

 形見ではありません。」


喉が震える。


何か言わなければ。


違うと。


私は――


「……」


けれど、声にならない。


「貴女には修道女として生きる道があります。」


エレノア様は穏やかなまま告げる。


「それが、貴女に最も相応しい在り方です。」


私は俯いた。


奥歯を、ぎりっと噛み締める。


悔しい。


悔しくてたまらない。


それなのに何一つ、言い返すことができなかった。


握り締めた拳だけが、小刻みに震えていた。


——その日。


私は勇者であることを、否定された。

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