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第二話 光は天上を夢見る

「……これでよしっと」


鏡の前で身だしなみを整え、最後にお気に入りの青いリボンで長い髪を結ぶ。


今日から私は十五歳。


暦信教では十五歳で成人と認められ、正式な司祭となるための学び舎――箱庭へ向かうことになる。


机の上に飾られた写真へ視線を向けた。


そこに写るのは、もうこの世にはいない父親。


「お父さん。私も十五歳になりました」


写真の前で静かに手を合わせる。


「やっと大人の仲間入りです。立派な司祭になりますから、見守っていてくださいね」


そう呟いて部屋を出ると、途端に騒がしい声が耳に飛び込んできた。


朝から孤児院の廊下を元気よく駆け回る子供たち。


「こら、タスク。ミシャ。ウェムン。廊下は走っちゃダメですよ」


「はーい!」


元気な返事だけを残して、子供たちは再び走り去っていく。


全然分かっていない。


思わず苦笑したその時、不意に服の裾が引っ張られた。


見下ろすと、小さな少女が不安そうな顔でこちらを見上げている。


「おはよう、リリル。どうしたの?」


リリルはぎゅっと裾を握ったまま離そうとしない。


「お姉ちゃん……今日、箱庭に行くんでしょ?」


「そうですよ」


セレナはしゃがみ込み、少女と目線を合わせた。


「帰ってきたら、ちゃんとした暦信教の司祭様なんですから」


そう言って微笑む。


けれど、リリルの表情は晴れなかった。


むしろ今にも泣き出しそうに顔を歪める。


「行かないで……」


「え?」


「コパンも……ジョバンニも帰ってこなかったもん」


小さな手がさらに強く服を握る。


「セレナ様までいなくなるなんて嫌……」


胸が少しだけ痛んだ。


コパンもジョバンニも三年前に箱庭へ向かった孤児たちだ。


便りこそ届かないが、きっと向こうで立派にやっているのだろう。


少なくとも私はそう信じていた。


「……大丈夫よ」


リリルの頭を優しく撫でる。


「コパンもジョバンニも、箱庭できっと幸せに暮らしているはずだから」


そう言うと、リリルは俯いたまま小さく首を振った。


「でも……」


消え入りそうな声。


その続きを聞き取る前に、遠くから私を呼ぶ声が響いた。


出発の時間だ。


「リリル」


私はもう一度しゃがみ込み、小さな頭を優しく撫でる。


「大丈夫。ちゃんと帰ってきますから」


「……ほんと?」


「ほんとです」


少しだけ考えてから、私は笑った。


「おみやげに甘いお菓子でも貰ってきます。だから良い子で待っていてくださいね」


リリルは不安そうな顔のまま、それでも小さく頷いた。


私は立ち上がり、教会へ向かって駆け出した。


見慣れた廊下。


見慣れた壁。


幼い頃から過ごしてきた場所。


その全てを横目に、一階の聖堂へ飛び込む。


朝日が差し込む祭壇の中央。


そこに立て掛けられていた聖剣へ手を伸ばした。


鞘ごと腰へ帯びる。


少しだけ重いその感触が、私の背筋を自然と伸ばした。


――勇者。


かつて父が背負った称号。


そして、私が憧れ続けたもの。


あの日。


アヴァンヘルム王家は私を正式に勇者として認めてくれた。


正直、半ば諦めていた。


私は父のような勇者にはなれない。


皆が見ているのは私自身ではなく、勇者の娘という肩書きだけ。


このまま一生、偽りの勇者として生きていくのだと思っていた。


けれど違った。


私は認められたのだ。


誰かの代わりではなく、私自身として。


その結果、成人の儀を正式に箱庭で執り行ってもらえることになった。


暦信教の司祭としての第一歩。


それは私が私として認められた証だった。


自然と胸が高鳴る。


ここまで来られたのは、決して私一人の力じゃない。


誠一郎さん。


イエナさん。


二人との出会いがなければ、私はきっと今も立ち止まったままだった。


だからこそ――。


「見ていてくださいね、お父さん」


腰の聖剣を軽く握る。


「私、立派な勇者になりますから」


そう呟いて、私は箱庭へ向かうため聖堂を後にした。


聖堂を後にすると、正面玄関の前には既に数人の職員たちが集まっていた。


見送りのためだろう。


皆どこか嬉しそうで、それでいて少しだけ寂しそうな顔をしている。


その中央に立つ二人の老人へ、私は軽く頭を下げた。


「マザークリス、ベルナルド司教、お待たせしました」


「いやいや。まだ時間はあるよ」


白髪混じりの髭を撫でながら、司教とマザーは穏やかに笑う。


私を拾い、この教会で育ててくれた二人。


父と母を失った私にとっては、二人は家族のような存在だった。


「準備はできたのかい?」


「はい!」


元気よく返事をすると、司教は満足そうに頷いたが次の瞬間、その笑顔が少しだけ曇った気がした。


「そうか」


短い沈黙。


そして――。


「本当に行くのかい?」


マザーの言葉に思わず目を瞬かせる。


「え?」


予想もしていなかった言葉だった。


「だって、箱庭ですよ?」


私は少しだけ首を傾げる。


「正式な司祭になるための場所ですし、皆そこへ行くじゃないですか」


二人は答えずに、ただ静かに私を見つめている。


「それに……やっと認められたんです」


腰の聖剣へ手を添える。


「勇者としても。司祭見習いとしても」


ようやく掴んだ未来だ。


手放す理由なんてない。


「そうか」


司教は小さく呟いてから困ったように笑う。


「君ならそう言うと思っていたよ」


風が吹く。


教会の鐘が静かに揺れた。


司教は空を見上げた。


まるで何かを確かめるように。


「向こうは、ここみたいな場所じゃない」


「?」


「厳しいこともあるだろう。理不尽なこともあるかもしれない」


「大丈夫です」


私は即答した。


「私、負けませんから」


しばらく沈黙が続いた。


そして支部長は小さく息を吐く。


諦めたような。


覚悟を決めたような。


そんな息だった。


「……そうだね」


その声はどこか寂しそうだった。


「最後に一つだけ覚えておきなさい」


マザーの瞳が真っ直ぐ私を見る。


「もしあなたが信じていたものと違う景色を見たとしても」


穏やかな声。


けれど不思議と胸に残る言葉だった。


「自分の心だけは見失わないようにね」


私は少し考えてから頷く。


正直、何を心配しているのかよく分からない。


けれど私を想ってくれていることだけは伝わった。


「はい」


その返事を聞いて、支部長はようやく微笑んだ。


「それじゃあ行こうか」


老人が杖を軽く地面へ突くと足元に巨大な魔法陣が広がった。


幾重にも重なった光の輪。


見送りに集まった子供たちから歓声が上がる。


転移魔法。


箱庭へ向かうための特別な術式。


箱庭は大陸のどこにも存在しない。


巨大な孤島そのものが空を漂い続けているため、正確な位置を知る者は教団の中でもごく僅かだと聞く。


だから行き来には高位の転移魔法が必要になる。


淡い光が身体を包み込む。


私は最後に振り返った。


リリルが泣きそうな顔で手を振っている。


タスクたちも大声で名前を呼んでいた。


「行ってきます!」


そう叫ぶと、子供たちが一斉に手を振り返してくれる。


光が強くなり、景色が白く染まっていく。


胸の中にあるのは不安よりも期待だった。


やっと始まる。


勇者として。


そして司祭として。


私自身の物語が。


――その時の私は、まだ知らなかった。


これから向かう箱庭が。


救済を掲げながら、多くの涙と絶望を呑み込んできた場所だということを。

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