第一話 勇者は炎を呪う
あぁ、また私は夢を見ている。
——いや。
これは夢であって、夢じゃない。
悪夢ではあって、悪夢でもない。
これは過去に実際に起きた出来事。
私の全てが壊れかけ、そして勇者としての人生が始まった日だ。
夢なのに焼けた匂いが鼻の奥を突き抜ける。
潮風に混じる焦げた木材の臭い、血の臭い、人が燃える臭い。
炎に染まった海と燃え盛る港は夜であるはずなのに、街を呑み込む業火が空を昼のように照らしていた。
そして、その空には三羽の鉄の鳥。
まるで死を告げる凶鳥のように、静かに夜空を旋回しており、やがて鉄の鳥の腹が開いて……中から現れたのは魔族と魔物たち。
数は決して多くない。
数だけ見れば、王国軍が十分に対処できる程度だったはずだ。
それなのに——
海の都と謳われた美しい城は滅びた。
誇り高き城下町も人々の笑顔も。
その全てが、たった一夜で灰へと変わった。
魔族たちは無差別に暴れ回ったわけではない。
あまりにも正確。
王族。
貴族。
軍の司令部。
通信施設。
そして暦心教の大支部。
国として機能するために必要な場所だけを、まるで地図でも見ているかのように焼き払っていった。
これは侵略ではなく、処刑だ。
国家そのものを殺すための、あまりにも冷徹な虐殺が行われたのだった。
そして、当時王国の護衛にあたっていた父も——
「勇者よ。我へ刃を向けたその勇気、称賛に値する」
「ッ……かはっ……そりゃ、どうも……」
血に濡れた石畳。
そこに立つのは、全身を重厚な甲冑で覆った巨大なオーク。
その前で膝をつく父――勇者クリフト・アルヴェールは、なお宝剣を手放していなかった。
だが、その背中からは巨大な木片が突き出ている。
槍のように。
絶え間なく血を流しながらも、父は笑う。
「……一つ……後学のために聞いておきたい」
苦しげに息を吐きながら、父は問いかけた。
「なぜ……アンタの攻撃は……聖剣の加護を貫通した?」
沈黙。
炎の爆ぜる音だけが響く。
やがてオークは静かに口を開いた。
「その傷で次はないと思えるが……武人への礼儀として答えよう」
ゆっくりと。
まるで事実を告げるだけのように。
「――攻撃ではないからだ」
その言葉と共に、オークは父の背から突き出た木片へ視線を向けた。
「我はお前を一度も殺そうとなどとしていない」
「……なに?」
「防御の一環でしかなかった。」
父の瞳が、わずかに見開かれ、オークは感情のない声で続けた。
「我は貴様を斬り飛ばしただけ。その先に偶然あった瓦礫へ、貴様が突っ込んだ」
そして、
「その聖剣の加護は敵意ある攻撃を防ぐ。だが、世界そのものは防げぬものなのだろう。」
炎に照らされた兜の奥で、オークの眼光が鈍く光った。
「勇者よ。貴様は我に敗れたのではない――世界に敗れたのだ」
父は口元から血を流しながら、力なく笑った。
「……ハッ……そりゃ敵わねぇ訳だ……」
肩を震わせながら、息を吐く。
「けどよ……まるで自分が正しいみてぇな顔をされるのは……気に食わねぇな……」
オークは否定も肯定もしなかった。
ただ、しばし沈黙し――静かに答える。
「そう聞こえたのなら謝罪しよう。」
感情の起伏はない。
勝者の驕りも、敗者への侮蔑もない。
だからこそ恐ろしかった。
「では――別れの時間だ。」
オークが懐へ手を伸ばし、取り出したのは、見たこともない黒い筒状の物体。
その先端を、父の額へと向ける。
見たことはないのに分かった。
あれは人を殺すためのものだと。
「――っ」
息が止まり、心臓が凍り付く。
やめろ。
やめて。
お願いだから。
頭の中で叫ぶのに、声が出ない。
父は気づいていた。
自分の死を。
それなのに――。
「……セレナ。」
振り返りもせず、父は私の名を呼ぶ。
その声は、驚くほど穏やかで。
「来るな。」
その一言で、足が止まる。
止まるはずだった。
なのに
嫌だった。
嫌だった。
嫌だった。
父が死ぬのが。
一人になるのが。
置いていかれるのが。
「やめてぇぇぇぇぇッ!!」
気づけば駆け出していた。
燃え盛る瓦礫の間、血と煙に塗れた石畳を。
ただ無我夢中で。
父のもとへ。
オークのもとへ。
死ぬかもしれない。
そんなことはどうでもよかった。
父と一緒なら。
父のそばにいられるなら。
それでよかった。
一人ぼっちになるくらいなら――。
私は迷わず、その前に飛び出した。
父を庇うように。
小さな身体を精一杯広げて。
オークと父の間へ立ちはだかる。
震える足、止まらない涙。
それでも睨みつける。
するとオークは、黒い物体を向けたまま微かに目を細めた。
まるで、予想もしていなかったものを見るように。
「……娘か」
オークは私を見下ろす。
私は震えていた。
足も、声も、身体も。
それでも退けなかった。
退いたらお父さんが死ぬ。
それだけは嫌だった。
「お、お父さんを……」
喉が震える。
言葉にならない。
それでも必死に声を絞り出す。
「お願い……だから……」
オークは何も答えず、ただ私を見つめ、その後ゆっくりと父へ視線を移す。
父の傷を確認するように。
そして再び私を見る。
その沈黙は数秒だったはずなのに、私には永遠にも感じられた。
やがてオークは黒い筒を下ろし、ゆっくりと膝をついた。
巨体が目線を合わせるために屈む。
その行動の意味が分からず、私は息を呑む。
オークはしばらく何かを言おうとしているようだった。
だが言葉が見つからないようだった。
そして絞り出すように
「……ごめんなさい」
今ならわかる。それは戦士の謝罪でもなければ、勝者の情けでもない。
ただ一人の子供に向けられた、不器用な謝罪。
私は呆然とその言葉を聞くことしかできなかった。
オークはそれ以上何も言わず立ち上がる。
その背中を見て、父が小さく笑った。
「……トドメはいいのか?」
「すでに勝負は付いた」
オークは足を止めることなく答えた。
「貴様を殺したのは我だ」
その声に感情はない。
ただ事実を告げているだけだった。
「故に、その娘から父を奪ったのも我だ」
燃え盛る街を背に、オークは静かに続ける。
「謝罪で済ませるものではないのも理解している」
父は少しだけ目を見開き、そして苦笑した。
「……まだ死んでねぇけどな」
返事はなく、巨大な背中はそのまま遠ざかり、やがて炎と煙の向こうへ消えていく。
追う者は誰もいない。
追えた者も、きっといなかった。
残されたのは私と父だけ。
「お父さん!」
慌てて駆け寄り、その身体を支える。
けれど触れた瞬間に理解してしまった。
オークの言葉通り助からない。
傷がどうこうという話ではない。
身体から流れ出る血の量も、弱々しくなった呼吸も、その全てが終わりを告げていた。
「大丈夫……大丈夫だから……」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
父は苦しそうに息を吐きながら、それでも笑った。
「セレナ」
「やだ……やだやだやだ」
「聞いてくれ」
その声に、私は何も言えなくなる。
父は震える手を持ち上げ、私の頭をそっと撫でた。
幼い頃から何度もしてくれたように。
「……修道院長クリスと……ベルナルド司教を頼りなさい。
あの人達になら……お前を」
「やだ……おとうさんと一緒がいい!!」
私の溢れる涙を優しく拭いながら父は迷いなく言った。
「父さんもだよ」
その言葉に私は何度も首を振った。
そんなことを聞きたかったんじゃない。
そんなことを言ってほしかったんじゃない。
「やだ……」
父の服を掴む。
血で濡れているのも構わず、必死にしがみつく。
「お父さんと一緒がいい……」
父は弱々しく笑って……頭を撫でようとした手は途中で止まり、そのまま力なく落ちる。
「お父さん……?」
返事はない。
呼吸はある。
けれど弱い。
さっきまで聞こえていた声が、もうほとんど聞こえない。
「お父さん!」
肩を揺すっても返事はない。
「お父さんッ!!」
何度呼んでも、何度揺すっても、返事は返ってこない。
私は泣いた。
ただ泣いた。
どうすればいいか分からず、誰かを呼ぼうにも、周囲にはもう誰もいない。
街は燃え、たくさん人が死んで、皆、自分のことで精一杯だった。
「あ……」
私の世界は終わったと思った。
——その時。
瓦礫を踏み越える音が聞こえた。
ゆっくりと迷いなくこちらへ向かってくる足音。
私は顔を上げると同時に息を呑む。
最初に見えたのは血。
全身を赤黒く染めた男。
返り血なのか、自分の血なのかも分からず、黒い外套は裂け、腕には無数の傷が走っている。
その姿は人間というより、修羅。
そして隣には長い銀髪に赤い瞳、透き通るような白い肌を持つ女。
けれど腰からは黒く大きな翼が生えていた。
「……魔族!!」
反射的に父を庇うように立ち上がると男は困った様に少しだけ眉を下げた。
「大丈夫。俺達は敵じゃない」
「ええ。そして味方でもないわ」
「余計な事言わないの」
男がそう言うと、隣の女は不満そうに目を細めたが、それ以上何も言わなかった。
「俺は衛生兵……ここらで言うところの治癒師でね。
ケガを治して回ってるんだ。」
「治癒師……」
「うん。だから、お父さんを助けるのを手伝ってほしい」
その言葉を聞いた瞬間、終わったはずの世界にほんの少しだけ光が差した気がした。
あの日の私は知らなかった。
血に濡れたその男が。
後に英雄と呼ばれる様になることも。
私の人生を変える存在になることも。
ただ――
私は必死だった。
父を助けたい。
その一心で。
そこで記憶は途切れる。
いや。
正確には違う。
その先も覚えている。
忘れるはずがない。
忘れられるはずがない。
けれど、その続きを思い出そうとする度に胸が苦しくなる。
だからいつも、夢はここで終わる。
――目を開く。
見慣れた天井。
静かな部屋。
もう子供ではない私の手が、無意識に胸元のシーツを握り締めていた。
「……また、この夢」
窓の外から差し込む朝日。
私はゆっくりと身体を起こした。
今日は――箱庭へ向かう日だった。




