置き去りの心
それから紗夜は、保護者のいない子どもとして施設へ預けられた
古くも新しくもない建物で、朝になれば子ども達の声が廊下へ響き、夕方になれば職員達が夕食の支度に追われる
どこにでもあるような場所だったが、紗夜にとってそこは自分の居場所とは思えない場所だった
初日、案内を担当した職員は優しく微笑みながら部屋の扉を開いて
職員「ここがあなたの部屋よ。困ったことがあったら、ちゃんと言っていいからね」
と声を掛けた。紗夜は小さく頷いただけで、返事をすることも質問をすることもない。
涙を流すことさえなく、まるで感情そのものをどこかへ置いてきてしまったかのように静かだった
施設での生活は規則正しく続いていった。朝は決められた時間に起きて食堂へ向かい、当番も洗濯も与えられた役割を淡々とこなす
食事を残すこともなく注意されることもない。勉強もよくできた
教科書を渡されれば黙々と読み込み、試験では常に高い点数を取る。
職員「本当に手がかからない子ね」
職員は感心したように言うこともあったが、その言葉に紗夜が反応を示すことはなかった
声を出そうとすると胸の奥が痛んだ
恋冬の笑顔が、虚の意思が頭に映される
紳漓の豪快な笑い声や紫暖との穏やかな対話耳に蘇る
昴琉の真面目な表情や朧偈の忍者口調が鮮明に思い出される
そして_「また会えるよ」という声だけが1度も頭から離れない
そのたびに呼吸が苦しくなり、胸を締め付ける痛みだけが残った。
だから話さない
…いや、話せなかった。それがいつしか当たり前となり、紗夜の日常になっていった
最初の頃こそ周囲の子ども達は積極的に声を掛けてきた
「ねえ、名前は?」「一緒に遊ぼうよ!」「何歳何歳?」
と無邪気に誘われることもあった。しかし紗夜は頷くか首を横に振るだけで、自分から言葉を返すことはなかった
やがて子ども達も距離を取るようになり、代わりに遠くから囁く声だけが耳に入るようになる
「変な子」「お人形さんみたい」「全然喋らないよね」
そんな言葉を聞いても、紗夜は何も感じなかった。誰かに嫌われることも誰かに忘れられることも、今の彼女にはどうでもよかった
夜になるとベッドへ横たわる。夢を見る日もあった。崩壊する世界。光の中へ消えていく背中。
そして「ありがとう」という2人の言葉。目を覚ますたび胸は強く締め付けられた
だからいつしか眠る前には何も考えないようになった。思い出せば苦しくなる。考えなければ少しだけ楽になれる
そうして感情を押し込めることだけが彼女なりの生き方になっていた
一年が過ぎ、二年が過ぎた
季節が巡るたびに紗夜の背は伸び、顔立ちも少しずつ大人びていく
しかし、どれだけ時間が流れても紗夜は喋らないし笑わないし怒らない。ただ静かに生きているだけだった
職員達も何度となく心配した
「一度診てもらった方がいいかもしれません」
「時間が必要なのでしょう」
そんな会話は何度も繰り返されたが、結局何も変わらなかった。紗夜は今日も静かに朝を迎え、静かに夜を迎える
誰かを呼ぶこともなく、誰かへ手を伸ばすこともない
そして何年の月日が流れても、彼女がその名前を口にすることは一度もなかった
紗夜は生きていた。食事をして眠り、勉強をして少しずつ成長していくけれど、心だけはあの日から一歩も前へ進めていなかった
紗夜の心だけは今もなお、あの崩壊する世界の中へ置き去りにされたままだった




